花嫁脱走計画
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「マスター、もう一杯、いただけるかしら……?」
城下町の外れにある酒場のカウンターに、1人ぽつりと腰掛けている年若い女性は、入店以降、かなりのペースで酒を煽り続けている。その様子を、カウンターを挟んで目の前で見ていた店主も、酔い潰れかけている彼女の姿に、さすがに心配そうな視線を向けた。
「……なあ、お嬢さん。そんなに飲んで大丈夫かい?さすがに、そろそろ酒はやめておいたらどうだ。
もう、顔も真っ赤だよ」
「いいえ、大丈夫よ。……ふふ、私、全然酔ってはいないもの」
かろうじて呂律は回っているものの、明らかに目が据わっている女性に、店主は眉を下げた。
店主がこの女性に気遣わしげな視線を向けていた理由は、もう1つあった。彼女は、普段このような場所には決して来るはずのなさそうな、上質な身なりをしており、その雰囲気には品があったのだ。ほっそりと華奢な肢体に、肌は抜けるように白く、整った顔立ちはかなりの美人の部類に入った。恐らく貴族の令嬢なのではないかと、そう思われた。
これだけ酒を飲んでいても、比較的丁寧な口調のまま、語尾がほとんど崩れていないことにも、女性の育ちのよさが窺われた。
平民の荒くれ男たちでごった返す、このような酒場に、若くて綺麗な令嬢が1人で酒を飲みに来るなど、ほとんど自殺行為だろう。現に、そこかしこから、舌舐めずりでも聞こえてきそうな、絡み付くような視線が彼女に飛んでいた。酔っ払って、手の届くところまで落ちて来た高嶺の花に、誰から先に手を伸ばすのかと、無言で牽制し合う様子が、彼女の背後に見て取れた。
その時、女性の隣のカウンターの席に、1人の男性が腰を下ろした。背は高く、身体つきは細身ではあるものの、その身のこなしには、剣の手練れのような、鋭い雰囲気があった。目深に帽子を被り、全身を包み込むようなマントを纏っている。
彼が威嚇するような視線で周囲を見回すと、ちらちらと物欲しそうな目で女性を窺っていた男たちが、残念そうにその視線を逸らした。
「マスター、僕にも彼女と同じものを」
「はいよ」
店主は結局、女性とその隣に来たばかりの男性に、冷えたカクテルのグラスを2つ並べて差し出した。
男性が、女性に向かってグラスを掲げる。
「乾杯しようか」
女性は、とろんとした目を男性に向けた。
「あなた、誰……?
声が低くてくぐもっていて、よく聞こえないわ。
ねぇ、あなたの服、まるで魔法使いのような、変わった服ね」
女性は、男性のマントの端を、ふわふわとした表情のまま、楽しげに指で弄んだ。
「あなたがもし魔法を使えるなら、お願いしたいことがあるのに」
「ほう?」
「……私ね、明日、結婚することになっているの。真っ白なウェディングドレスを着て、周りの人達から祝福を受けて」
「……その前夜に、こんなに酔っ払っていていいのかい?」
眉を顰めた様子の男性に、女性は、カウンターの上に肘をついて両手の指を組むと、そこに横向きに頭を乗せて、男性を見上げた。帽子の中は薄暗くて、女性からは、男性の顔はよく見えなかった。
「大丈夫よ、ふふ、私、まだ酔ってはいないもの。
いいじゃない、私が羽目を外したのは、今までの人生でこれが初めてなのよ。
……私、逃げ出したいの。明日の結婚式から」
「それはどうして?」
「望まない結婚をそのまま受け入れなくてはならないなんて、誰が決めたのかしら。
明日、私の隣に立つ予定の花婿以外となら、私、誰と結婚したっていいわ」
男性が、女性の言葉に軽く苦笑した。
「君の花婿は、随分と君に嫌われているんだな」
「違うわ。彼が、私を嫌っているのよ。
……彼ね、私の幼馴染みなんだけど。
顔を合わせれば憎まれ口ばかり、私のことをからかってばかり。そんな日々が何年も続いていたのに、互いの家の都合で幼い頃に婚約したまま、彼と結婚するなんて。
彼、私と結婚なんて、露ほどもしたくないに違いないのよ……」
溜息を吐いて、女性はカウンターに突っ伏した。
「本当に、彼は君と結婚したくないのかな?」
「だって、彼が私を褒めたり認めたりしてくれたことなんて、一度もないの。
これでも、私、いろいろと努力して来たのよ?まだお互いに子供だった昔に、彼との婚約が調ってから、ずっと。
彼の家は古くから続く名家だから、それに見合うように、たくさん勉強もしたし、彼の好みに合うように、化粧や服装も変えたわ。でも、彼は私よりも頭の回転が速かったから、私がいくら学業に勤しんでも、俺には敵わないだろうって、上から目線で言われるだけだったし、綺麗な服を着たって、馬子にも衣装だなって鼻で笑われただけよ。
……あんまりだとは思いません?」
「そうだな……」
「それにね、彼、好きな方がいるんですって。好きな方がいるのかって聞いたら、私という婚約者がありながら、あろうことか頷いたの。
いつも、私には喧嘩を売るようなことを言ってばかりなのに……その好きな方のことを話す時は、嬉しそうな顔をするのよ。それを聞いている私が、どんな思いをしていたのかも知らないで」
「……それでも、彼は君との婚約を破棄しようとはしなかったのだろう?」
女性は悲しげに呟いた。
「単に家の都合に逆らえなかっただけでしょう。
極め付けはね、さっき、彼とまた喧嘩をして私が飛び出して来た時、彼は私を追い掛けてすら来なかったのよ。
もう、私、このまま逃げ出してしまいたいわ……」
「じゃあ、僕と一緒に逃げようか」
「えっ?」
突然の男性の言葉に、女性は少し目を見開いてから、ぼんやりと視線を上げた。
「ただし、一つ条件がある。
君が、無事に明日の結婚式から逃げおおせたら、僕と結婚してくれるかい?
……君は、誰と結婚してもいいと、そう言っていたでしょう」
「あら、随分面白いことを仰るのね?ふふ。
……ええ、いいわ。そうしましょう。
では、このまま私のことを連れ去ってくださるのかしら?」
「ああ。僕はこの酒場の外に馬を繋いでいるから、君を、鞍に一緒に乗せていくとしよう」
「随分と場当たり的で杜撰な計画だけれど、それで本当に逃げ切れるのかしら?」
「それは大丈夫だ、僕が保証しよう。
……でも、君は後悔しないかい?」
「ええ、大丈夫よ」
頷いた女性に、男性も頷き返した。
「それなら話は早い。それじゃ、行こうか。
……マスター、会計を。彼女の分も一緒に」
「はいよ」
男性は女性に手を貸して立ち上がらせると、足元がおぼつかずにふらふらとする女性の腰に手を回し、支えながら酒場を出て行った。
饒舌に喋っていた女性だったけれど、やっぱり相当に酔っ払っていたようだと、店主は心配そうに、男性と共に店を出て行く若い女性の後ろ姿を見送っていた。
***
マントの男性と一緒に馬に乗った女性は、冷んやりとした夜風に頬を撫でられながら、後ろを振り返った。
このまま、男性は馬で隣国へと向かうのだという。女性は、遠ざかる街の灯を寂しく見つめていた。
(やっぱり、彼は追い掛けて来てはくれないのね)
馬を操る男性の、くぐもった低い声がすぐ側から聞こえた。
「酔いが冷め始めて、後悔してるんじゃないのかい?
前後不覚に酔っ払って、顔もはっきりとは見ていない、身分も知れない、誰ともわからない僕のような者について来てしまったことを」
「いえ、そんなことはありませんわ」
「でも……君、泣いているじゃないか」
女性は慌てて頬を伝う涙を拭うと、首を横に振った。
「いえ、私、後悔はしていません。
……明日に、もし私があのまま彼と結婚していたら、彼は、愛する方と結ばれなくなってしまいますもの」
「……彼のためを思って、結婚式から逃げ出すなんて。
君は、彼のことを本当は愛していたんじゃないのかい?」
女性は少し口を噤んでから、ふっと笑みを漏らした。
「……ええ、そうですね。
でも、私の今の言葉は、もう過去のこととして忘れてくださいね。
貴方様は、私をもらってくださるのでしょう?」
「いや、忘れる訳ないだろう」
「……は?」
戸惑いをその表情に浮かべた女性に対して、男性の口調ががらりと変わった。
「……珍しく君の本音を聞けたんだ、忘れられるはずがないって言っているんだよ、ステラ」
「……嘘っ、あなた、まさか……」
「ああ、そうさ」
男性が、ばさっと帽子を外した下からは、ステラのよく見知った顔が現れた。
「アラン!どうして……」
「君を捕まえるために、決まってるだろう。
俺は、君を逃しはしないからな。
……けれど、やっぱり君は放っておけないな。あんな男だらけの危険な場所で、あんなになるまで酔っ払って、俺の正体にも気付かずに、ほいほいとついて来て。
さすがに、もっと早くに俺が誰か気付くだろうと、そう思っていたのにな」
「だ、誰のせいだと……!」
「……悪かったよ。俺が、悪かった」
初めてステラに頭を下げたアランを、ステラは驚いて見つめた。
「君を前にすると、つい意地を張ってしまって、素直になれなくてな」
「でも、あなた、好きな方がいるって……」
「それは君のことだよ、ステラ。
君の前で、君が好きだと面と向かって言えなかっただけで、昔からずっと、俺が好きなのはステラだけだ」
ステラを馬に乗せたまま、手綱を握る腕を寄せて、アランはステラを抱き締めた。
ステラが見上げたアランの顔は、月明かりの中でも真っ赤になっているのがわかった。
ステラは、はっとしたように、あっと小さく声を上げた。
「た、大変……!
明日の結婚式、これから戻っても間に合わないわよね。どうしたら……」
「君を探しに行く時点で、もう延期を依頼してきたよ。どのみち、あれほど飲んでいたら、明日笑顔で結婚式を迎えるのは無理だろう?身内だけの式だし、まあ問題ないさ。
父さんも母さんも、ステラの努力を知っているし、君のことをすごく気に入っているから。
……俺の態度が悪かったことを詫びて、君に気分転換させてやってから、ちゃんと君を連れ帰って来いってさ。
さあ、順番は違うが、このまま先に新婚旅行に行くことにしようか?昔、君はいつか隣国を旅してみたいと言っていただろう。
それに、ようやく俺を好きだと認めてくれた君と、2人だけの時間を過ごしたいからね」
頬を染めてこくりと頷いたステラに、アランが、悪戯めいた顔でにっと笑った。
「明日の結婚式から逃れられたら、俺と結婚するという約束は、ちゃんと守ってもらうよ?」
「ええ、わかっているわ」
笑顔になった2人を乗せた馬は、月明かりに照らされた隣国への道を、軽快な足取りで進んで行った。
最後までお付き合いくださり、どうもありがとうございました!