chapter2
ーーどこだ、ここは。
何も見えない、何も聞こえない。
『お前は生きたいか。』
なんだろう。女性の声が聞こえる。言い方は雑だけど、口調は優しい。
ここは天国なのかな。
ーーいいえ、僕は死にたいです。死んで、天国に行ってお父さんと再会したいです。
頭の中で言葉を紡ぐ。この思いが伝わるか分からない。それでも、もし伝わるのなら天使でも神様でもなんでもいいから、死後の世界へ連れていって欲しい。この苦しみから解放して欲しい。
『生きることを放棄するのか。死を選ぶのか。』
ーーはい。生きていても、この先未来はありません。それに、僕は死ぬことで楽になりたいんです。天国に連れてってください。
『わかった。なら、死んでくれ。』
〈converting/optimizing/please wait〉
〈/optimization completed〉
〈/dive to sector 42〉
目を開けると、埋めようのない空白な世界が広がっていた。病室に戻ってきたのかと思ったが、僕の周りにあった医療機械は全てなくなっていた。それどころか、窓や扉、光、風、匂い、音など人間の五感を刺激するものが存在しなかった。
『ここは、どこだ。』
あれ。妙なことに気づいた。
『僕の声、おかしくなったのか』
独り言を呟く。声が普段よりより1オクターブ高くなっている。
いや、それよりも一番驚くことがある。
『…立っている。』
思い通りに動かなかった身体が自由に動かせる。人間として当たり前のことができなかった僕が自分の足で立っている。それだけじゃない。両腕が自由に動かせる。試しに、5本指を一つずつ曲げ伸ばししてみた。親指、人差し指、中指、薬指、小指。どれも全て自分の思い通りに動かせる。両腕を挙げてみる。何もかも思うがままに動かせた。
『…うっ…ううっ…』
急に虚しさと悔しさが同時に込み上げてきた。
本当に僕は死んだのだろう。微動だにしなかった身体が動かせるということは、死後の世界にいるからなのだろう。急に麻痺が治るわけがない。
あれだけピアノに人生を捧げて、家族と一緒のためにお父さんのために努力したのに結局無駄だったのか。僕は何のために生きてきたんだろう。
涙が溢れてくるはずだった。けど、何故か流れてこない。死後の世界にいるからか、あるいは悲しいことが多すぎて涙が乾いてしまったからか、もう分からない。
あれ?
『…僕の身体ってこんな感じだっけ。』
ピアノに人生を捧げた僕の身体は、運動不足のせいもあって他の19歳の男性と比較するとかなりガリガリで弱々しかったはずだ。でも、今見ている自分の腕や足は細いだけじゃない。健康的な肉付きで丸みを帯びていたし、それに何故か少しだけ胸元が膨らんでいるような気がーー。
〈detect dangerous software〉
奇妙な音声が脳内に響いた。
『ーーウイルスを検知。スキャニング実行。警告。システム破損リスクあり。ウイルス除去ソフト起動。』
真上から機械的な音声が響いてきた。見上げると無機質な白い天井から小型格納庫のような扉が開き、ミラーボールくらいの水色の球体が飛び出てきた。呆然と眺めていると、球体が徐々に僕の方へ近づいてくる。数秒後、球体の中心から赤いレーザーが飛び出し、僕の眉間を照らした。
『目標を補足。処理実行。』
ーー逃げろ。
直感がそう命じた。左側へ身体を逸らした瞬間、青白いスパークが僕の右腕へ直撃し、電撃のような痺れが身体中を駆け巡った。一瞬の出来事で訳が分からず、咄嗟に右側へ視線を向ける。右肩にあるべき腕が引き千切られ、腕があった場所からは青い火花が立っていた。真っ白な床には、吹っ飛んだ僕の右腕が歪な形になって横たわっていた。
『ーあっ、ああっ、ああああああ!』
〈right arm lost//body damage rate17%〉
『ウイルス検出。再処理試行。』
球体から再びレーダーが照射され、僕の身体に狙いを定めてくる。隠れる場所がないか探してみようと辺りを見回すが、まっさらな平らな空間が広がるだけで隠れようがない。まるで、実験動物を殺処分するための処理施設みたいだ。
とにかく走れ!
心の中で悲鳴を上げながら無理矢理脚を動かしてみるが、両脚の動きが覚束なくて何度も躓き転びそうになる。走るどころか歩くことすら半年ぶりで、自分の身体を上手くコントロールできない。再び青白い電撃が右足付近へ放たれる。間一髪で回避に成功するも、殺戮ロボットが僕との距離を詰めてくる。後ろを振り返ると、電撃が放たれたはずの真っ白な床には一切損傷箇所が見当たらなかった。動かない身体に鞭を打ってジグザグ走行する間に、閃光が僕の左右を通過していく。
『っな、はぁ、はぁっ、なんだってんだよおおおお!』
焦燥感に駆られ、眩暈を感じながらとにかく走った。
『はっ、ぁがっ!?』
突如、見えない壁に激突する。何が起こったか全く理解できなかったが、とにかく攻撃を躱すために見えない壁に沿って走行しようと立ち上がる。
『っあああああああ!』
〈left leg lost//body damage rate27%〉
左脚に衝撃が走り、身体が崩れ落ちた。足の方を見下ろすと、左膝から下が完全に欠落して身動きが取れなくなっていた。かろうじて動く左腕と右脚を使って必死に這いつくばるが、一歩先も移動することができない。
『っは、はは、あはははは!』
狂ってる。狂いすぎて笑いが込み上げてくる。ここは天国じゃなく地獄だ。生前の僕が潜在意識の中で描いていた恐怖が地獄という形で具現化した世界なんだ。
赤いレーザーが僕の眉間に向けて照射され、球体が振動し始め、中央から小さな稲妻が形成されくてる。稲妻は徐々に膨れ上がり、視界が眩い光で照らされる。
『ウイルス検知。除去かいーー』
突然機械音声が途切れた。目を開けると、黒い鉄杭のようなものが球体の中央を穿っていた。よく見ると、左側の見えない壁に四角い空洞ができており、さらにそこから2本の杭が飛び出て球体を貫いた。全ての杭が命中した直後、球体は跡形もなく霧散して消えてしまった。
『ーーああ。邪魔くせぇな。』
壁に出来た空洞から荒っぽい男の声が聞こえる。何が起こったのか把握できないまま、暗闇が広がる空洞へ目を凝らすと、そこから淡黄色のボディスーツを纏った青年が滑り込むように現れた。鋭い眼光から放たれる威圧感に、僕は怖気ついてしまった。
『ったく、なんでハズレばっかりなんだよ。わざわざこんな辺境まで来て、収穫ゼロなんてあり得ねーよ。クソッタレ。』
苛立った様子で青年は辺りを見渡した。その左腕には、球体を貫いたであろう黒い鉄杭のような武器が装備されていた。
『クソ、どうしたもんかなぁ…っと。いや、ちょい待ち。当たりかもしんねぇ。』
青年が不気味な笑みを浮かべてながらで僕の方を振り向き、近づいてきた。
『お嬢さん。あんた、人間かい。てか人間だとありがたいっていうか。』
ーーおじょうさん?
黒い鉄杭が放つ光沢が僕の姿を映し出す。そこには、右腕と左脚を失い横たわる青いボディースーツを着たブロンドヘアーの女性がいた。自分の左腕を少し挙げてみる。すると、目の前の女性も同じ動作をしていた。
『この人は、僕なのか。』
『ああアタリだ。この反応、やっぱ人間だったか。いやぁ、助かったわ。』
謎の男が右腕に装備されている機器を僕に向けながらニヤニヤ笑う。それと同時に、左腕の武器を僕の顔面に向けた。
『あんた、俺のためにぶっ壊れてくれ。』
咄嗟に左手を使って右側へ身体を横転させてみた。危機一髪で回避に成功することができ、放たれた鉄杭は虚空を穿ち、真っ直ぐ飛んでいった。
『チッ。逃げんじゃねーよ、メンドクセー。当てにくいだろうがっ!』
悪態をつきながら男は僕の鳩尾を蹴り上げる。その凄まじい蹴りの威力で、
僕は空中へ飛ばされ、見えない壁に背中から激突した。
『あーあ、逃げるから蹴っちまったじゃねーか。いいから動くな。さっさと壊れろ!』
鉄杭が放出される。回避は絶望的だ。
その時だった。見えない壁から爆発が起き、爆風とともに杭が吹き飛ばされた。
『…は?』
恐る恐る目を開けてみると3人の男女が僕の目の前に佇んでいた。