chapter1
『ーーようございます、浄法寺奏さん。2110年9月11日です。今日も素敵な1日を過ごしましょう。』
瞼の裏に白い光が広がっていく。眩しさのあまり目を開けると、そこはいつもの風景。無機質な優しさに包まれた病室という名の牢獄の日常があった。僅かに動く首で辺りを見回すと、様々な医療機器がボロボロな僕の身体を守るために働いていた。何の機械がどうやって体調管理や生命維持のために働いているかは全く分からない。確かなのは、この機械たちと血管から流れてくるナノマシンがなければとっくに僕は死んでいるということだけだ。
そう、ナノマシン。
細菌や細胞、ウイルスよりも小さい機械。死にかけの僕の健康維持のために体内で必要な場所に、必要な量の薬を運ぶことを目的に作られた忌々しいロボット。こいつが血流に乗って、体内を巡回して病気を検出し、治療まで行ってくれるというありがた迷惑なことをしてくれている。
そもそも、このナノマシンという病原体みたいな機械のせいで僕の人生は破綻したというのに、こいつらが無ければ死ぬなんて皮肉な話だ。
ーーまだ、死ねないのか。
噴き出た汗が鬱陶しい。汗を拭いたくて左手を動かそうとしたが、いつものように1ミリたりとも動かない。右手も動かそうとしてみたが、やっぱりダメだ。僕の身体なのに全然言うことなんて聞こうとしない。もう何年も時が過ぎたような感覚だ。
左上を見上げると無骨なアームに設置されたゴーグルみたいな機械がある。その横にある小さな赤い点に視線を5秒程度合わせると、そのアームが自動的に動いてゴーグルが目に優しく覆い被さった。レンズ越しにはニュース、ドラマ、アニメ、映画、バラエティなどのジャンルが表示されていた。そこからニュースの項目を10秒凝視する。
ニュースは良い。淡々と今起こっている出来事を話しているのを傍観するだけで、空虚な物語やフィクション、有名人の馬鹿騒ぎを見ないで済む。
『感覚新生促進因子。通称SGF。今話題のこのナノマシンが数多くの疾患の治療に役立つことが研究で明らかになりました。』
SGF。その言葉を聴いた瞬間、急激な吐き気と眩暈に襲われた。モニターの脈拍数値が徐々に高くなっていく。
ーー馬鹿を言うな。こいつのせいで、廃人の一歩手前まで行ったんだぞ。
『依然として癌化が懸念されるIPS細胞を用いた再生医療。目覚ましい進歩がないまま何十年もの歳月を費やしてきている中、IPS細胞を元に誕生したナノマシンが現代の医療技術の基盤を築き上げてきました。2048年に血管や骨の治癒を促進させることに成功したナノマシンが普及し始め、2102年にはナノマシンが赤血球や白血球などの血液成分そのものの役割を担うことが可能になり、現在は輸血の代わりにナノマシンを使用する医療機関が増加しました。』
ゴーグルレンズの先に映し出された若い男性のニュースキャスターは、ロボットのように表情を変えることなくニュースを読み続けていく。
『約半世紀に渡たり、急激な勢いで発展したナノテクノロジーですが、SGFは人間の潜在的能力向上をもたらすことを目指して生み出され、脳梗塞による全身麻痺や軽度認知症の治癒に効果を発揮するナノマシンとして期待され、今後SGFの技術開発に世間は目が離せなくーー』
『オフ!』
思わず大声が出た。ゴーグルが強制的に元の位置に戻る。すると、感染防護具を全身に着込んだ看護師が不安そうな顔で僕の方を見ていた。
『奏さん。大丈夫ですか。』
『あ、ああ。大丈夫です。すみません。』
なるべく平静を保ちつつ僕は答えた。実際は声を発していないが、僕の口角の動きをトレースしたナノマシンが自動的にその動きを読み取って発声してくれるこのことにも嫌気がさす。
「大丈夫ならいいですが。ええと、高藤さんという方がお見えになっていますが、本日面会に訪れる予定でしたか?」
『いえ、そんな予定はなかったですが。』
高藤は後見人として僕の代わりに様々な手続きをしている遠い親戚だ。こいつは基本的に僕の面会には訪れることはない。面会にくる時は十中八九嫌な話題を持ってくる時に限る。
「ここはクリーンルームなので、基本的には医療関係者以外の人は入室を控えてもらっていますが、その人が重大な話ということで主治医にも許可をとっているらしく。よろしいですか。」
『わかりました。すみません。ありがとうございます。』
重大な話ということは、またろくでもない話だろう。
一体いつになったらこの地獄から解放されるんだ。
ーーああ、早く死にたい。
数分後、防護具に身を包んだ高藤が病室へ入ってきた。
「奏君、体調はどうだ。ちゃんと休めているか。」
「まぁ、一応は。」
「そうか。」
安堵した表情を浮かべながら、高藤は病室の椅子にゆっくり座った。
「しばらく会えなくて済まない。謝罪するために言う訳ではないが、改めて君の後見人になれて良かったと思っている。君がピアニストでなくてもだ。君が快適な入院生活を送ることができるのがーー」
『高藤さん。なにしにきたんですか。とっとと用事を済ませましょう。忙しいでしょ。』
僕の心配をしているのは本心なのか嘘なのか、その貼りついた善人面から読み取ることができない。でも、僕は知っている。こいつが後見人という立場で僕の全財産から少しずつお金を奪い、自分の懐に納めていることを。このモニターで視覚操作すれば、入院費の電子領収書と僕のネットバンクにある貯金残高を見ることができる。それを照合して計算すれば一目瞭然だ。
僕が気づいていないと思っているのか、あるいは気づいていることを知ってて堂々と奪っているのかはわからないが、少なくとも信用できない奴であることは変わりない。頼むから気持ち悪い無駄口は叩かないでほしい。喋ること自体億劫なのにさらに気分が悪くなる。
「そ、そうだな。すまない。」
高藤の笑顔が強張り、腫れ物を扱うような視線を僕に向けていた。
「本当は、この話は私からではなく先生から話してもらうべき内容だけど…」
高藤は暗い表情を浮かべ、僕の方を真っ直ぐ見つめて重々しく言葉を放った。
「君の寿命は、もってあと2ヶ月程度だ。」
時が止まったような奇妙な静寂が訪れた。気にも留めなかった無音だったはずの換気扇の音が鼓膜に響く。
ーーああ、ようやく、死ねるのか。
「SGF。感覚新生促進因子というナノマシンは、人体の神経系を活性化させていくことで、人間の様々な能力を無理矢理引き出すように設計されているのは知っているね。」
『ふっ、今更なにを。分かってますよ。そんなこと。』
またSGFだ。その言葉を聴くだけで気分が一気に悪くなる。
「SGFは脳細胞を介して神経系を活性化できるナノマシンだ。これを元に、健常者にSGFを取り込んで神経系を活性化させる試みが始まった。仕事、スポーツ、芸術、音楽など様々な分野で活躍している人たちの中からより秀でた才能を発揮する人間を人工的に生み出すために。そして、その第一被験者候補として、君が選ばれた。」
『…結局これは人体実験だった。で、僕は失敗作だったわけだ。』
「そんなことは言ってないだろ。話を戻そう。SGFによる神経系への干渉を微調整するのは当初から難しかったそうだ。SGF被験者の多くが、ナノマシンによる神経系への過干渉が発端で、ショック症状とともに人体のあらゆる筋肉や臓器が使い物にならなくなり、植物人間となってしまった。」
『そして、僕みたいな出来損ないは存在そのものが社会から抹消され、病院に隔離されてご丁寧に延命治療させられていると。』
『…』
気まずい沈黙が病室内に広がっていく。耳に届くのは、無駄に僕を生かそうとする医療機器たちが奏でる規則的なリズム音。僕がまだ生きていることを示す心電図モニターの波形音。
数分経過した頃だろうか。一呼吸おいて高藤が沈黙を破った。
「一つ、君に訊きたかった事がある。どうして修二は、君のお父さんは被験者として君を選んだんだ?なんで君は抵抗しなかったんだ?どうしてーー」
『ははっ、余命2ヶ月の奴に対して説教ですか。それを伝えるために、わざわざお忙しい中きてくださったと。』
「すまない。悪かった。」
高藤は項垂れながら、苦虫を潰したような辛い表情を浮かべていた。
「植物人間となった被験者の多くが、ここ数ヶ月の間に次々と亡くなっている。死因は心停止。神経を介して筋肉は動いているから、完全に神経系が使い物にならなくなれば心筋が動かなくなり心停止が起こる。主治医の見立てだとあと1、2ヶ月くらいで、君の全ての神経系がダメになるらしい。SGFを応用した最先端治療も開発されているが、それを受けたとしても回復は絶望的だ。」
『そっか。そう、なんだ。でも良かった。もう死んでも構わないですよ。こんなの生きているだけで辛い。その苦しみがあと1、2ヶ月だけって分かっただけで嬉しいです。』
自分の死に直結する話なのに、何故か実感が湧かない。まるで他人事のような気さえする。いつも見ているはずの真っ白な天井がより空虚に見える。ここから自分は天国へ向かうのだろうか。そんな妄想が頭の中から湧き上がった。
「待ってくれ。まだ生きる希望は残っている。」
高藤はカバンからおもむろにファイルを取り出し、2つの資料を見せてきた。
「君の命が助かる方法だ。」
左の写真には、微動だにしない瀕死状態のネズミが苦痛で悶えている。右の写真には、さっきまでのネズミが何事もなかったかのように餌を食べている様子が映し出されていた。
「実は今、SGFより高性能なナノマシンの開発が進行していて、そのナノマシンを植物状態の実験用ネズミに導入した結果、運動障害が回復して元のようにネズミが動き始めるということが証明された。さらに、このナノマシンを体内に導入すれば人間の神経系も元に戻る可能性があるらしい。このナノマシンはまだ人体実験の段階に移行していないが、これを治験という名目で体内に取り組めば生きられるかもしれないんだ。」
ナノマシン、ナノマシンってなんだよ。
もういい。もうやめてくれ。
『高藤さん。僕は死にたいんだよ。それに、あんたは僕に生きて欲しいなんてこれっぽっちも思ってないはずだ。だって僕が死ねば、後見人であるあなたに僕の全財産が入ってくるからね。このナノマシンの実験台になって欲しいのは、僕が確実に死ぬからか、あるいはナノマシンの実験台となった見返りに多額の金銭を受け取ることができるからだ。』
「何を言っているんだ、奏君。私は、君に生きてほしくてーー」
『偽善者ぶるのはやめろ!知ってんだ!あんたが僕の金を掠め取っていることくらい!死にたいんだ!この身体じゃピアニストに復帰どころか、まともな人生なんて歩めるわけがない!ましてや、お父さんのいない今の僕には帰る場所も居場所も何にもないんだ!』
だったら簡単だ。この世からいなくなればいいんだ。
『僕を殺せ!殺してくれよ!死ねば自由になれる。もう何もかも失ったんだ。もうそんな馬鹿みたいなまやかしの希望なんていらない。もう、もうたくさんだ!』
医療機器からアラートが鳴る。心拍が高くなっていること、呼吸が荒くなっていることを示す危険信号だ。その時急に眩暈と吐き気が生じてきた。
「どうしました、浄法寺さん!」
防護具を着用して入室したのは、主治医である柳谷先生だった。
「高藤さん。あなた、なにをしたんですか!?」
『こっゴッホゴホ!殺せ!僕を殺してくれえぇぇ!』
病室に響き渡るアラームが遠のいていく。僕はそのまま無意識の世界に堕ちていった。