第87話 遭遇
燃える燃える……。
目の前には業火に燃える風景が広がっている。
頬を焼く灼熱の風、そして咽返るような鉄と肉が焦げる臭い。
僕の好きな街が……ライアが……母さんが……父さんが……メアリが……それだけじゃない大好きな人皆が……全てが燃えて消えていく……。
ズシャ、ズシャ、ズシャ、ズシャ、ズシャ……。
遠くから足音が聞こえて来た。
重い重い足音……それは全てを踏み躙り全てを壊す。
その音は一つじゃない、何十も何百も何千も、何万もの絶望の鐘を鳴らす悪魔の大群が押し寄せるそんな足音だ。
僕は失意の中その足音のする方に顔を向けた。
そこには……黒い、黒い地獄が僕を目指して……あぁ……あぁ……。
…………。
…………。
「……シャル! マーシャル! どうしたの?」
押し寄せる津波のように僕を目指して進軍する悪魔達に絶望していた僕の耳に母さんの声が響いた。
そこで僕の目の前に広がっていた光景は暗転する。
「え? え? 母さん? あれ? なんで……生きて?」
僕は慌てて振り向くと、そこには炎に焼かれて死んだ筈の母さんが心配そうな顔をして僕を見ている姿が有った。
なんで生きているの……いや、ちょっと待って?
周囲は炎に包まれていたのに、炎は何処に消えたの?
僕は辺りを見回すとそこは元の大森林。
身を焦がすような灼熱も燃え落ちる臭気も全てを滅ぼす悪魔達の姿もない。
「何言ってるの? 大丈夫? あいつ見た途端、急に震え出したから声を掛けたのよ」
「あいつ……? そ、そうだ。あいつを見た瞬間、目の前に炎が……皆が……魔物達が……」
やっと何が起こったのか理解出来た。
目の前の老人を見た瞬間、僕の脳裏に一つのビジョンが浮かんできたんだ。
人類全てを滅ぼし文明を無に帰す……そんなビジョンを。
あれは未来の光景だったのだろうか?
何故かそう感じた。
しかし、声を掛けられるまで全く気配を感じなかった。
気が付いたらソレは僕達の後ろに立っていたんだ。
いつから居たんだ?
ずっと隠れていたのか?
気を取り直した僕は再び目の前の老人に目を向ける。
今度は全てを燃やし尽くす絶望のビジョンは浮かんではこなかった。
だけど、安堵なんて出来ない。
何故かと言うと先程のビジョンと同等かと錯覚する恐怖が僕の心を支配していたからだ。
目の前の老人は、一見ただの黒いローブを着た好々爺な魔術師と言う風体なのだが、その印象を結びつかせるのを阻害する程の威圧感を放っていた。
笑顔を浮かべてはいるが、細められた瞼の奥に見える瞳は刃物のように鋭く僕達を見ている。
自らの存在を隠蔽魔法で遮断でもしているのか、姿は有るのに気配どころか魔力も殆ど感じ無い。
そんな相手の力量を推し量れる要素が皆無と言うのに関わらず、こいつに勝てると言う希望さえ浮かんでこない。
それ程までに奴は絶望を具現化した様な存在だったんだ。
これがブリュンヒルド達のマスターなのか。
なんで急にここに現れたんだ?
いや、その理由は簡単な事じゃないか。
自分の従魔を倒した者への報復だろう。
ダ、ダメだ、こんな恐ろしい奴に勝てる訳ないよ、どうすれば……?
そうだ逃げなきゃ、逃げなきゃ殺される……。
「落ち着けマーシャル」
老人を見ていると先程のビジョンの恐ろしさがまたも心を支配し震えて逃げ出そうとした僕の耳にサイスの声が届いた。
僕は慌てて振り返る。
「サイス……?」
「怖がるな。本人が襲撃しに来たわけじゃない。あいつの足元を見てみろ、影が無いだろう。あれは魔道具による幻影だ」
「え? 幻影?」
「あぁ。昔『パンゲア』の奴等にいいように使われていた頃、何度か似た物を使用した事が有る。あれは生体より発せられる魔力から相手の像を読み取り、それを各々の端末から投影すると言う代物だ。恐らくダークエルフ達に持たせていたのだろう。本体は別の場所にいるから安心しろ」
サイスの言葉を確かめるべく僕は改めてブリュンヒルドのマスターに目を向けた。
言われた通り確かにその足元には影が無い。
念の為、魔力関知を試してみると、奴が立っている場所に微かな魔力溜まりは有るものの、そこに生命反応の痕跡は全く感じられなかった。
もしかして僕が見たあの凄惨な未来のビジョンもその魔道具の効果なのか?
その可能性は即座に心が否定したものの、目の前の老人が幻影だと言う事実に僕は何とか折れ掛かった心を立て直した。
「本当だ。あいつには実体が無い。気配を感じなかったのもそう言う事だったのか。『パンゲア』にはそんな魔道具が有ったんだね。母さんは知ってた?」
「う~ん、さすが先史魔法文明ね。可能性は考えていたけど、実際に存在していたとはね。しかも携帯式なんてどんな仕組みなのかしら。え~と現物はあの子達の誰かが持ってるって事よね? 解析したいわ~。こっそり貰っちゃおうかしら?」
「ちょっと! そんな事は後にしてよ」
母さんは敵の事など忘れたかのように目をキラキラさせながら縛られてるダークエルフ達を見回している。
僕はそんな母さん姿に溜息を吐きながら敵に向き直った。
本当に母さんは自由人過ぎる。
けど、そんな能天気な母さんのお陰で僕の恐怖はどこかに消えてしまった。
……もしかして僕を正気に戻す為にわざとやったとか?
いや、ないな。
あの嬉しそうな顔は演技じゃないと思うし。
そんな事より奴の姿が僕に見えていると言う事は、あいつも僕の姿を見ていると言う事だろう。
姿を見られたのは最悪だけど、それはダークエルフと遭遇した時点でアウトなんだから今更嘆いても仕方が無いや。
問題は何の目的で姿を現したかと言う事。
最初は復讐する為かと思ったけど、それなら幻影なんてまどろっこしい事をせずに直接乗り込んで来ただろう。
直接ここに来なかったのはここに来る手段を持っていないか、そもそも今の状況が分かっていない可能性も有る。
なにしろ幾らテイマーは従魔と念話が出来ると言っても、距離が遠ければ遠い程言葉が届かなくなる……らしい。
らしいってのは、僕はまだまともに念話で話した経験が無いので教科書の受け売りだ。
母さんでさえ届く範囲はこの国の半分くらいと言うんだから、こいつがどれだけ恐るべき凄腕のテイマーだと言っても大陸全土を補える訳はないと思う。
少なくともブリュンヒルド達が戦闘中に念話で僕の情報を伝えていたとは思えない。
と言う事は、こいつは念話が届かない遠方に居ると言う事の証明だ。
案外魔道具を起動させた直後に話しかけて来た可能性だって十分考えられるだろう。
これは希望的観測じゃなくて、こいつの発するオーラと言うか雰囲気と言うか、支配者の風格とも言うべき圧がそう語っていた。
隠れて情報を探るなんて事はせずに、知りたければ直接問い質す方を選ぶ。
何故か分からないけど、目の前の老人はそう言う奴だと僕の直感が告げている。
何も知らないのであれば、ダークエルフ達が気絶している今なら何とかこの場を凌ぎ切れるんじゃないだろうか?
少なくとももし何らかの転移する手段を持っていたとしても、即それを使われる可能性は低くなると思う。
ブリュンヒルド達にした事は許せないけど、こいつの姿を見た瞬間どうあがいても今の僕では勝てないと言う事を本能が理解してしまった。
恐らく母さんやサイスの力を借りても厳しいんじゃないだろうか?
そう思うのは僕が臆病ってだけじゃなく、僕の左手の赤い紋章が理解しているからなんだと思う。
うん……そうなんだ。
目の前の老人を一目見たその瞬間脳裏に浮かんだビジョン。
あれは魔道具が見せた幻覚じゃなく契約紋が見せたものだ。
間違いなくこいつが新たなる魔王……僕の宿敵なんだろう。
探知機が僕に反応したのはそれが理由なのかもしれない。
僕が弱いままならあの未来は間違いなく訪れる。
僕はさっきからずっと熱く火照っている左手の甲を震える右手で握り締めた。
こいつの言葉を信じるのは癪だけど、さっきこいつはブリュンヒルド達を殺さないと言っていた。
今はその言葉に縋るしかないな。
さすがに人質には出来ないだろうけど、交渉の手段には成り得る筈だ。
なら僕に出来る事は一つ。
ブリュンヒルド達をこのまま引渡し、僕が彼女達を解放出来る力を身付けるまでの時間を稼ぐ……これしかない!
それもこれもまずは対話をする必要があるだろう。
願わくば宿敵自身が僕と言う存在に気付いていない事を祈るしかない。
最初から僕達に対して敵意を抱いているようなら作戦もクソも無いしね。
「あ、あの、何しにここへ来たんですか?」
「ふむ、今更それを聞くのか? わざわざ自己紹介したのだから分かるであろう?」
驚いた事に宿敵からの返答は何気無い会話の様だった。
その言葉には怒りも憎しみも感じない、まるで近所のお爺さんがバカな質問をした子供に呆れている……そんな何の変哲もない普通の会話だ。
一体何を考えているんだろう?
こいつの真意が分からない以上、一つ一つ言葉にして確かめるしかない。
だから僕はあえて、少し遠回りに聞こえるけど確実に相手の真意に近付ける質問をした。
「え~と、ブリュンヒルド達の様子を見に来たって事ですか?」
「まぁの。散々言っていたにも拘らずリミッターを外しおった馬鹿を止めようと魔道具の準備をしておった所に急速に弾けて消えた。死んだかと落胆したが、驚いた事に契約の繋がりは消えておらなんだ。すぐに確かめようとしたが暴走による魔力渦の余波が酷くてなかなか繋がらなくての。やっと繋がったらと思ったら儂の悪口が聞こえて来たと言う訳よ」
馬鹿を止める? 死んで落胆?
こいつはそう言ったのか? およそブリュンヒルドの言葉から想像出来ない。
その言葉からは、とても冷酷なテイマーの印象は感じ取れなかった。
「あ、あの……ブリュンヒルド達を道具として使い潰すつもりだったんじゃないの?」
「ほう、何故そう思った? いや……ふむ、そう言えば先程もそんな事を言っていたな。何をどう解釈したらそうなるのか? さっぱり状況が読めぬ。ブリュンヒルドがその名を呼ぶ事を許したと言う事はお前を認めたと言う事であろう? それなのにお主は魔道具が上手く像を結べぬほど魔力が弱い。その様な脆弱な小僧がなぜブリュンヒルドに認められこの場を仕切っておるのだ? さっぱり分からぬ」
「え? この子の魔力が弱い? ……あ~、はは~ん。なるほど。マーシャルちょっとあんたは下がりなさい」
てっきり魔道具捜索をしているのかと思っていた母さんが、いつの間にか僕の後ろに居たかと思うと、何かを思い付いた様な声を上げて僕の肩に手を置き下がるように言ってきた。
訳も分からず僕は母さんの方を振り返る。
「か、母さん? でも僕は」
「良いから。弱いアンタじゃ話し相手になってくれないみたいよ」
「な……」
母さんってばどうしたんだよ。
それにさっきは僕の事を強いと言ってたのに、今度は弱いだって?
一体どっちなんだ……ん?
母さんの言葉に少しイラっとして文句を言いそうになった時、ふと母さんの手元が奇妙な動きをしている事に気付いた。
指をクイックイと動かして僕の手元を指差している?
どうやらそこを見てみろって言う合図のようだ。
どう言う事だろうと思って自分の手元に視線を下ろすと『覇者の手套』が目に入った。
あっ! そう言う事か。
今まで弱いと言われた事は幾らでも有るけど、魔力が弱いと言われた事は記憶に無い。
幼い僕には上手くコントロール出来なかった豊富な魔力について、宝の持ち腐れと言われた事は有るけどね。
それなのに奴は僕の魔力が弱いと言った。
その理由は『覇者の手套』に有るに違いない。
通信の魔道具は生体から発せられる魔力を元に像を結ぶとサイスが言っていたし、恐らく『覇者の手套』はそれを妨害する効果を持っているのだろう。
案外探知機の反応も僕じゃなく『覇者』シリーズに反応していたのかもしれないな。
何しろ伝説のアーティファクトの一つだし、元々ダークエルフ達がこの森に来た理由も邪龍の卵ってのも探していると言っていた。
恐らくそれもアーティファクトなんだろう。
要するにこいつは僕が宿敵だと言う事を知らない可能性が高い。
それに気付いた母さんは僕の存在を隠す為に下がらせたって事か。
もしかしたら母さんもこいつが新たなる魔王だって事に気付いたのかもしれないな。
「こんにちはダークエルフのマスターさん。初めまして、私はこの子の母でこの森を管理している者よ。最近森を徘徊している怪しい集団が居るって情報が有ってね、調査しに来たらこいつらと出くわしたってわけ。そしたらいきなり襲ってくるんだもの。まぁ、見ての通り返り討ちにしてやったけどね」
母さんは腕を組みながらデタラメ混じりのその言葉をドヤ顔で言い切った。
なんでこんなにスラスラと自信満々で嘘を吐けるのだろう?
「ほう? その左手の紋章……おぬしも従魔術師のようだのう。なかなかの威風堂々な面構え。先程『起動』がどうとか言っておったが。ふむその魔法を知り、そこにおる死神の力を借りれば、今の言葉も可能じゃろうな」
え? 今あっさり死神って言ったけど、なんでこいつがサイスの事を知ってるの?
伝承では黒いローブを着た骸骨姿だからこの甲冑姿を見て本人だと気付く筈もないのに。
老人の浮かべる表情は、噂で聞いたとか絵画を見たって感じじゃなく、自身が目撃した過去の記憶を掬い上げようとしているかのように見える。
「なに? なぜあたしを知っている?」
「は? 『あたし』? 『あたし』じゃと? なんと! 死神の口からそんな言葉が聞けるとはな。わっはっはっ! この三百年の間に何があったと言うのじゃ。そもそも魔王軍崩壊と共に死んだと思っておったのに生きていた事にも驚いたが、今の言葉はそれ以上の驚きよ」
宿敵の口から語られた言葉は、まるで孫娘の成長を喜んでいるようにも取れる。
三百年前って人魔大戦の頃の話だよね?
なんで生きてるの?
「あ、あ、あた……わ、我はお前なぞ知らぬ。なぜ我を知っている?」
宿敵の指摘に言い直したサイスだけど、凄い動揺しているようだ。
相変わらず棒読みだけど。
「言い返さなくともいいぞ。だがそうか、覚えておらぬか。まぁよい。先程の話に戻るが、そこの女が言っていた言葉……嘘じゃな」
母さんの嘘があっさりバレた!
サイスと宿敵の関係は気になるけど、そんな事言っていられない。
なんたって宿敵の目は僕の事をジッと見てるんだもん。
もしかして最初から僕の存在に気付いていたって事なの?
「あら? どうしてそう思うのかしら?」
「はっはっは。簡単な事じゃよ。確かに倒すのは可能じゃろう。暴走の末、魔石が爆発する影響を無にするのもそこの死神の協力が有れば容易な事じゃ。過去に死神のお前が儂の核熱魔法を無効化したようにの。じゃが、それまでよ。儂の結魔術にて換わりし魔石を更に変質させ元のスノーウルフの姿に戻す事によって爆発を防ぐなんて芸当、お主の白い契約紋では到底出来まいよ」
宿敵はそう言ってローブに隠れていた左手を露わにしてその甲を僕に見せつけるように突き出して来た。
僕達はそれを見て絶句する。
「そ、そんな……それは……赤い……」
それはかつて始祖が左手に宿し、そして今は僕の左手で輝いている
そう、宿敵の左手に浮かんでいたのは燃えるように輝く赤い契約紋だった。
いつも読んで下さって有り難うございます。
書き上がり次第投稿します。




