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二月も三週目に入るとまた少し隙間の時間が出てきて、スマホと財布だけでまた夜の街に繰り出していた。
まだまだ普通に寒いな、なんて思いながら歩を進めていると、自然と爪先はあのバーに向かっているようで。
ちょっとした期待はないとは言えない。むしろ誤魔化し切れない好奇心やら物珍しさやらが、胸をざわつかせていた。
やはり分厚いベルの音はゴロン、と何とも言えない耳触りで迎えてくれた。
今日は大人しそうな若い女性が一人カウンターの前で座っているだけで、あとは誰もいないようだ。その女から少し離れて立っているマスターらしい男に目配せを受け、彼女とは四人分ほど離れた、出入り口寄りのスツールに腰をかけた。この間来たときに一番に話しかけてきた男だ。
「ジン・トニック、お願いします」
声も出さず小さく頷いた彼はさっと動きはじめた。手際は良く、消して焦ることもない、静かな動きで進めるのを肘を突いてぼんやりと眺める。つい癖でやってしまうのだが、アイドルとして肘を突くのはあまり良くないらしい。様になるのはなるが、顔の骨格が歪んでしまうと聞いた。
「ここでかかってる曲って、同じ人のなんですか、ピアノ」
初めて来たときもなんとなく感じたそれを訊いてみた。ゆったりした曲でも、弾むような曲でも、悲愴そうな曲でも、どこか遊びすぎていて、かつ、尖っているように聴こえるような気がしていた。
「尖ってる、ってより……個性を押し付けるみたいな雰囲気、ありますよね。面白い」
「っふ、確かに。おっしゃる通り、同じ方が演奏されてますよ。ピアノは。他の楽器はそれぞれ違う人です」
やっぱり、と僅かな嬉しさを隠せず片方の口角を上げマスターの顔を確認すると、その表情はどこか愛おしげだった。微笑をたたえているのはいつもだが、それでも、今の笑みの意味は何か違う。きっと知り合いなのだろう。
「はい、ジン・トニック」
「あ、っす……」
音もなくスッ、と静かにカウンターの上へ差し出されたグラスを引き寄せ、首で小さく会釈をした。
グラスの中の透き通ったそれを見つめた。ライムの皮を掴んでギュッ、と強く搾り、中に追いやっては口を付けた。
二杯目はモスコミュールを頼み、言葉や声の雰囲気で一人にしてほしいと伝えるとマスターは、すうっ、と離れていった。
酒には弱いが悪酔いをしたこともなく、若干距離感を失うくらいで顔色にも出にくいらしいからつい調子に乗ってしまう。迷惑をかけたのはきつい酒を知ってから二、三回ほど。それからはなんとか自分で歩けるようになった。どうやら俺は柑橘系の香りがするものが好きらしい。
カウンターの向こうのボトルをボーッと眺めていると、後ろからゴロン、と音がした。
最初はそちらに目をやるでもなく無関心でいたが、後ろを通り過ぎ左目の端に映った人間に目が行った。
白い男だ。この寒いのに彼は、襟ぐりが大きく開いた七分袖の黒いシャツを着ていた。肌が余計、白く映えて見えた。デコルテからも発光していた。
そこまで薄着ということは、近くまで車で来たのだろうか。
そして彼が笑みを向ける相手はこの間とは違う男だった。交友関係のことについて何を推測するでもない、たかが他人に干渉する必要もないと、少し後ろに向いた視線をカウンターの向こうへ戻した。
マスターがそちらの方へ向かうと同時に、キッチンの方からこの間の若い男が入れ替わるようにカウンターの向こうに立った。
「これ、いかがですか」
そっと置かれた白く四角い皿に目を落とすと、カナッペが乗っていた。レタスに乗せられたシュリンプやサーモン、あとはアボカドが座っていた。
「ありがとう。あと一杯、飲もうと思ってたとこ」
左肘を突いて右手でグラスを小さく掲げながら男に言うと、男も、どういたしまして、と小さく首を縦に動かした。