8話…兎人族の美姫
ブナの森を走る人影。
真っ白な肌と髪とそしてウサ耳。長身の身に纏うはビギニアーマー。背中にはアルテミスの弓が月明かりに反射し煌めいていた。
追っ手はとうに撒いていたが、僅かな月明かりだけが差し込む暗い森の中を立ち止まる気にはなれなかった。それにいくら走っても息が切れることはない。この世界に来て自分が人ならざるものになってしまったのだと改めて感じた。
結局一晩中走り続け、深い森を抜けてしまった。
空が白んで来た頃には、気が遠くなりそうなほど広大な平原に辿り着いた。
思わずその景色に息を飲む。
恐怖も絶望も吹き飛ばしてしまう絶景であった。
――――
召喚されて目が覚めた場所であるフェレーノ平原。
屋敷がある大森林とは高低差があるため、いたるところに滝がある。
『世界遺産並の景色だなぁ~』
僕が滝を見上げて感嘆の声を上げた。
今日は平原のモンスター相手にワーロック・ナイト以外の魔法で戦闘してみることにしたんだけど、この平原にモンスターは居なくなってしまっていた。
『結界の威力が大き過ぎるのよね』
リリィが辺りを見回して溜め息を吐いた。
『やっぱり転移魔法で思い切って旅に行こう!』
僕が拳を固めたその時――!
『旦那様―!パンチラがいますー!』
――パンチラ!?
ちなみにマリナもエーリン共通語で喋ると変な訛りがなくなる。
言語担当者は方向性を見失っていたんじゃないのかと思う。
マリナが指差す方へ視線を向けると滝壺の対岸にパンテラ・ティグリスという巨大な虎がいた。
『あれ、幻獣じゃないのかな』
幻獣だとしたらマスターは召喚された人かもしれない。
そう思ってじっと見つめていると、虎もこちらを警戒して一瞬たりとも視線を反らさず見つめてくる。すると虎の影から長身の女性が姿を現した。
スーパーモデルなみの九頭身。真っ白な肌と髪と長い耳。フード付きの白くて長いマントを羽織っている。
『兎人族?』
CGでも綺麗な種族ではあったけどリアルも変わらず綺麗だ。
でも男の兎人族は齧歯類特有の出っ歯でギャグキャラになっていた。
『旅の方ですか?』
向こうからエーリン共通語で声を掛けられて僕は慌てて現地人のフリをした。
『僕は北の森に住む賢者の弟子フィリップ…です』
僕は左胸に右手を当ててエーリンのお辞儀をした。
愛称がフィルになるからフィリップという偽名を使うことにしている。
『賢者様の!?』
相手が予想以上に食いついてきた。
『でもお師匠様は既に亡くなって…います』
僕はエーリン共通語の敬語がよく分からない。リリィに『庶民的な話し方ね』と言われて初めて自分がエーリン共通語の“タメ口”しか話せないことに気付いたんだ。
即席でマリナから言葉を教えて貰ったけどまだ不安は残る。
『そちらに行っても宜しいですか?』
ウサ耳女子にそう聞かれて僕が大きく頷いて見せると、彼女は少しの助走で滝壺を飛び越えて僕たちのいる対岸へふんわりと降り立った。
やっぱり召喚者の身体能力は皆、人間離れしているようだ。
背中の弓はアルテミスの弓。召喚者であればレベル100の装備。
虎は――泳いでくるんかい!
犬かきをしながら虎がこちらへ泳いでくる。幻獣なら飛んでくるとかしないのかな。
『私は森の民、兎人族の…ケ、ケリーと申します』
――あ、この人も偽名か。
なんとなく察したけど僕は気付かないフリをして微笑んだ。
それにして相当な美女だ。一人旅なのかな。レベル100のプレイヤーだったらこの世界での役割がある筈だけど放棄したか逃げ出したってとこだろうか。
『賢者様のお弟子さんということは色んな魔術を学んでいらっしゃると思いますが…』
魔法技術が目的かな。結界に入ってこれたということは悪意はないはずだし。
『人の性別を変える魔法は存在するのでしょうか』
――あ~…中の人は男か。
僕は非常にがっかりした。
項垂れた僕の横にいたリリィが目を煌めかせた。
『兎人族の男は出っ歯になるわよ。それでもいいの?』
リリィは薬の効果を試してみたくてしょうがないんだ。
この兎人族がリリィにそそのかされる前に重要なことを伝えなければならなかった。
『確かにお師匠様は性別を変える魔法や薬を研究して…いました。ですが、一度性別を変えた人間を再び元の性別に戻す方法は研究していません』
敬語がたどたどしい。向こうも僕が召喚者である可能性を考えていたらと思うとヒヤヒヤする。
でも中田さんからの注意事項を伝えてから薬を渡さないと後から文句を言われて困るのは僕だ。
『出っ歯…』
ケリーさんはウサ耳ごと頭を抱えてしゃがみ込んだ。
『だ、大丈夫ですか?』
絶世の美女か出っ歯の男。僕だったらどっちを選ぶだろうか。
ケリーさんははっと顔を上げて僕の両腕をガシっと掴んできた。
『人間の魂を入れ替える方法はありませんか!?』
『え…?』
話が長くなりそうなので屋敷に招待することにした。
ここで一つ問題が起こった。
ケリーさんに転送魔法陣が見えない、転送出来ない。
『ここに魔法陣があるんですが…』
『賢者様のお弟子さんですとやはり格が違うのですね』
――いやいやいや…あなたと同じ召喚者ですよ!!
僕が首を捻っているとリリィが僕の袖を引っ張った。
『一度屋敷の魔力結晶に触れなければならないのでは?』
『ああ、そっか』
納得してふとマリナを見る。
『マリナは魔法陣が見えてる?』
『マリナはアベーリア様にハグしてきましたから見えるのだと思います!』
マリナはエーリンの女神アベーリアの像となったウチの魔力結晶としっかり親睦を深めていたようだ。
僕たちは歩いて屋敷に帰ることにした。ケリーさんは耳を伏せて「すみません」と項垂れた。中の人などいなければ純粋に萌えるんだけど。
屋敷に辿り着くまでに僕は自分が召喚者であることをケリーさんに明かすかどうか考えることにした。
それにしてもケリーさんが連れている虎がデカすぎる件について。
ゾウの子供ほどの大きさはある。そして重量感と息遣いは幻ではなく、存在する獣そのものだ。
ケリーさんと虎をチラリと盗み見る。絵面的に捕食する側とされる側だ。次に振り返った時、ケリーさんが食べられてるんじゃないかと不安になる。
アルマギーア・レギオーは固定のNPCを呼び出せる。「相棒」と「従者」と「戦友」の三種類。どれも相当な忍耐が必要なクエストで得られる専属NPCで、くどいようだが忍耐があれば何体でも専属に出来る。
僕の相棒はリリィだ。そして従者が一人いたけどマリナを専属にしてから呼び出していない。だから現状マリナが従者となっている。戦友は…いるにはいるけどリリィより気まぐれだから、ここ数年呼び出していなかったせいで存在をすっかり忘れていた。
ふと呼んでみようかと思ったけど、結構有名なNPCだからケリーさんの素性が分からないうちは試さない方がいいだろう。
あれこれと考えを巡らせていると屋敷に通じる道に着いた。ここから北に向かうと森が見えてくる。地図を開くと現地人らしくないからなるべく記憶を頼りに歩いていたけど辿り着いて良かった。ほっとしたその時――
キーンと甲高い音が響いた。僕とリリィとマリナが反応をしたけどケリーさんは首を傾げていた。でもケリーさんが連れている虎が唸り声を上げている。
僕は杖を取り出し、マリナは短剣を構えた。
ケリーさんも瞬時に反応してマントを肩に掛けて腕を出し弓を構えて矢をつがえた。
『敵ですか?』
――ビ、ビギニアーマー!!!
僕の視線に気付いてケリーさんが自分を見下ろし、そして睨むように僕に視線を戻した。僕は慌てて視線を反らす。
『な、なんとなくですが、結界内によくないものが入り込んだような気がします』
あくまで感覚だけ。でも肌で分かる。僕たちに敵意があるものが結界内に入り込んだ。
『リリィ!最悪全力で戦うからお願い』
振り返るとリリィはどっかの女子高生みたいにやる気なさそうに枝毛を探している。悪魔に枝毛ってあるのかな。
『折角魔法掛けたのに面倒だわ』
相変わらず期待は薄い。でも本当にヤバくなったら強制労働だ!
マリナがパーティー全員に防御魔法をかける。巨乳で背は低いけどハイエルフの役割は完璧…だと思う。ケリーさんも異様な気配を感じ取れたのか闘気を纏っている。赤いオーラを発して白い髪と肌が赤く輝いている。かっこいい!!
残念ながらこのパーティーに盾役がいない。相手の攻撃によってはワーロック・ナイトの贄の壁を使うしかない。
僕はこっそりアイテムバッグに手を突っ込んで鎌を探った。
森とは反対の南側からゆっくりこちらに向かってくる…岩?
『岩?』
ケリーさんが呆然とした顔でこちらに近付く白い岩を見ている。
『いや、あれは…』
巨大な魔力結晶を肩に担いだ大男がこちらにゆったり歩いてくる。
無精髭にボサボサの髪。筋肉隆々で武器らしいものは持っていない。
僕たちから少し距離を置いたところで立ち止まって男が僕たちを見回した。
『お前らが“死神”か?』
意味が分からず答えられない僕たちに気にする風でもなく男は魔力結晶を脇に置いた。「ドオン!」と大きな音と共に砂埃と風圧が届いて僕は目を細めて手の甲で口を塞ぐ。
『オレの気を感じたんならそこそこデキルんだろ?』
僕は現地人の仮面をかなぐり捨てて草刈鎌を取り出した。
「贄の壁!!」
泣き女が9体とアサシン1体が現れる。
男が拳を振り上げ一瞬で間を詰めてきたが、間一髪で壁が阻む。
「あ――っ!!オレが居る!!」
ケリーさんが叫んだ。見ると贄のアサシンの姿が日本人の青年になっていた。
「げっ!」
焦る僕の目の前で日本人顔のアサシンが敵に攻撃をし始めた。
「なんで贄が攻撃を…!?」
『ゲームの常識は捨てろと中田が言ってたでしょ』
リリィの冷やかな声で僕は我に返る。
泣き女は敵の男にしがみ付き、噛み付いたり引っかいたり泣き喚いたり最悪な攻撃を始める。
しかし男に傷一つ付けることは出来ていない。かなり頑丈な肉体だ。しかしアサシンの攻撃を受けた箇所は僅かに傷が出来ている。でも傷は瞬時に塞がるのだ。
僕は男の横にある魔力結晶を見た。
「マリナ!結晶に攻撃!!」
僕が叫んで間髪入れずに激しい爆音が轟く。ロケランにも似た魔導砲を肩に担いだマリナの攻撃が結晶に衝突し再び爆音が轟き、衝撃波が僕たちを後方へ吹き飛ばした。
「旦那様~。岩に攻撃は効かないだ~」
何故かマリナも日本語で喋り始めた。ヤメテ!緊張感が台無し。
「おい!クソガキ!!後でしっかり説明して貰うぞ!」
ケリーさんは先ほどの上品な印象をぶち壊す口調で僕を怒鳴りつけて、闘気を込めた矢を敵に射る。
強烈な赤白い閃光が放たれて男に突き刺さり、魔力結晶が「キンキン」と甲高い音を響かせ細かく砕け始めた。
「効いてる!!」
「あたりめーだ!ゴルァア!!」
絶世の美女が台無しだ。言葉遣いって大切だよね。
ケリーさんの虎のパンテラ・ティグリスが敵の喉に食らいつく。
激しく結晶が欠けていく。でもまだ一割も削れていない。
百裂切りをするアサシンの攻撃もかなり有効だ。
その時、敵の男が咆哮を上げ虎の首根っこを掴んでアサシンに叩き付けた。
遥か彼方に飛んでいく虎とアサシン。
「あっ――!!オレがぁぁああ!!」
「ケロリンさん!影縫いをお願いします!!」
僕がそう叫ぶとケリーさんが般若のような顔で振り返った。
「ケロリン言うな!!」
しかし素早くケリーさんはアルマスキルを使って敵をその場に縫い付けた。縫い付けただけでダメージを与えているようで魔力結晶がキンキンと音を鳴らして削られていく。これは凄い!!
「行きます!地獄への導き!!」
僕が草刈鎌を構える。大きく息を吸って叫んだ!
『『ドゥーコー・イーンフェルヌス!!』』
僕の声に重なるようにリリィの声が聞こえた気がした。
僕は武器を握り締め激しい回転に備えた。しかしその回転は起こらなかったんだ。
「あれ…?」
――エーリン世界でこのアルマスキルは使えない!?