12
本を手に、俺は立ち上がる。
さっきまで何も感じなかったのに、本から邪気というか、強烈な圧迫感のようなものを感じる。
「あ、あの本……なんで、またお前の手許にあるんだよっ!」
本の放つプレッシャーに気圧されてか、その素性の知れなさに恐れてか、矢口が数歩下がる。
『カタリとやらよ! 好きなページを開くがよい!』
謎の声に急かされるがまま、俺は藁に縋る思いで真ん中辺りのページを開く。
左ページには何語かわからない文章が、そして右ページには複雑な魔法陣が描かれている。
『魔界植物……悪くない。その魔法陣の形を頭に刻み込み、宙に転写するイメージを持つのだ。呪文は左側に書かれている。適性があれば、貴様にも読めるはずだ。さあ、叫べ!』
慌てて左側の文字列に目を通す。
これのすべてが呪文なのか? それとも、この一部が呪文なのか?
「矢口! あの本を取り上げろ!」
赤木の声を聞き、固まっていた矢口が俺に飛びかかってきた。
早くなんとかしなくてはと、俺は手のひらを矢口に向け、あいつの上半身辺りの位置を睨みながら、本に書いてあった魔法陣の形を思い浮かべる。
「その蔦は地の果てから天にまで伸び、やがては神々を穿つ一本の槍となった。禁魔術、『魔界庭園の暴れ者』」
呪文は口から自然と出てきた。
唱えた瞬間妙な脱力感に襲われた。
イメージした通り、矢口の身体を中心に、一瞬だけ魔法陣が浮かび上がる。しかし、何も変化はない。
「何も起きねぇじゃねぇか……驚かせやがって……おい、矢口? 矢口!」
水野が声を掛けるが、矢口は動かない。
目を見開き、自分の喉を押さえ、その場に蹲る。
「お、おい……どうしたんだよ矢口?」
「うぐぁ……うぼぇぇぇぇぇえええええ」
矢口の首下辺りがぼこんと不気味に膨れ上がったかと思いきや、彼は急にピンと真っ直ぐに上を向いた。
深緑の巨大な蔦が、矢口の口を裂いて天へと向けて伸びて行く。
ゴキゴキゴキと、植物に圧迫された矢口の首の骨の折れる音がする。
「あ”、あ”、あ”……」
すでに死んでいるはずなのだが、矢口の口から人間とは思えないような声が漏れる。
押し出された体内の空気が漏れる音だったのかもしれない。
次の瞬間、矢口の目と鼻からも植物が伸び始めた。
蔦は血塗れで、抉り出した目の玉やら神経やらがこびりついている。
蔦の重さに耐えきれなくなった矢口の身体が倒れるのと、胸元が裂けて内臓が辺りに撒き散らされるのはほぼ同時だった。
グロテスクな光景のはずだが、俺の心を高揚感が支配しているせいか、それを見ても恐怖は感じなかった。
「あ、ああああああ、赤木……矢口、矢口が……」
水野は木槌を地面の上に落とし、口をぱくぱくさせながら赤木を見る。
赤木ならば最善の選択を教えてると、そう盲信しているようだった。
そして赤木は、理不尽極まりない状況にも関わらず、水野の期待通り、即座に答えを導き出した。
赤木は素早く水野に近づき、足払いを掛けて彼を転ばした。
震えていた水野はあっさりと転び、地面に顎を打ち付ける。
それから赤木は、迷いない動きで来た道を引き返し始める。
俺の矛先が先に水野に向くよう考えたらしい。
「ま、待って、待ってくれぇっ赤木ィッ! 俺を、俺を見殺しにする気かよぉっ! あんまりだろぉ、なぁ赤木ィッ! 俺達友達じゃねーか、なぁっ!」
水野の必死の呼びかけに対し、赤木は振り返りすらもしない。
転がって喚く水野よりも、赤木を先に殺そう。
このまま逃がすつもりなどないし、それになにより、赤木の思惑通りに動くのが癪だ。
逃げる赤木の背に、掌を向ける。
「逃がすかよっ! 『魔界庭園の暴れ者』」
唱え切ったとほぼ同時に、頭に金属製のものが当たり、手がぶれた。
こめかみが切れ、血が滲むのを感じる。
赤木が逃げながら、ポケットに入っていたライターを山なりに投げつけてきたのだ。
赤木からずれ、そのわずか後ろの地面から矢口を貫いたのと同じ蔦が伸び始める。
赤木は安堵したように口許を緩めたが、俺が赤木に向けていた手のひらの指を閉じると、蔦が赤木の身体に絡まって自由を奪った。
しかし矢口のときに比べると、いくらか蔦が細い。
赤木とはかなり距離が開いているので、そのせいかもしれない。
魔法を二度立て続けに使ったせいか、頭がくらくらしてくる。
「は……はは、ははは……」
水野は恐怖でガチガチと歯を打ち鳴らしながら笑い出す。
「……こっちに、運んでこい」
蔦に手を翳すと、赤木を絡めた蔦が俺の傍まで伸びてきた。
「こんな、こんなことがあってたまるか! 俺は、俺は……お前らとは違って、こんなところで、死んでいい人間じゃないんだよっ!」
「おい水野、赤木を殴り殺したら、お前だけ助けてやってもいいぞ」
「ほ、ほほほ……ほ、本当か? 本当なのか?」
水野はガクガクと震える膝を押さえながら、ゆっくり立ち上がる。
それから落とした木槌を拾い、赤木の方を向く。
「や、やめろ水野! 殺せ! それでカタリを殴り殺せ! お、俺の方を向くなぁっ! あいつがそんな約束を守るわけないだろうが、馬鹿っ! 殺せ、俺に木槌を向けるなっ!」
「うるさいっ! さっき、俺をこかして逃げようとした癖に! 逃げようとした癖によぉっ!」
木槌を振りかぶり、何度も何度も赤木を殴打する。
赤木の整った面が、内出血で赤紫に腫れ、折れた歯が地に落ちる。
頭に当たった一撃を最後に、赤木はがくんと首を垂らした。
「やや、やったぞ! な、なぁ……カタリ……カタリ、俺は、俺は……これで、いいんだよな? なぁ? 俺、俺実は……いつも、いつも、周りに合わせてやってただけなんだよ。なぁ、だから、見逃してくれるんだよな? さっき念押ししたら、本当だって言ってたもんな? なぁ? なぁっ!」
「ああ、嘘だよ」
水野はだらしなく口を開けながら、呆然とした目で俺を見る。
この言葉は、どうせなら矢口への意趣返しとして言いたかったものだ。
水野に手を向けると、赤木を縛っている蔦の枝分かれした一部が伸び、水野を襲う。
「うわぁばばばばぁあばあぁっ! 来るなぁっ! 来るなぁぁぁああっ! お、おお、俺は、いつも、嫌々……だから、だからぁぁぁっ!」
水野は後退しながら、がむしゃらに木槌を振り回す。
人差し指を向けると、蔦は俺の脳裏に描いた軌道通りに木槌を綺麗に避け、水野の口の中へと飛び込んだ。
「ほが、ほがほが、ほがぁっ!」
水野の口に入ってから、蔦がその太さを一気に増していく。
もがきながら、必死に蔦を木槌で叩く。
蔦は水野の体内を掻き回しているようで、水野はゴフっと咳き込むと同時にだらりと両の手を地に垂らし、鼻血をだらだらと勢いよく垂れ流しにした。
目が一気に真っ赤に充血し、身体が痙攣している。
「は、はははは、はははははははぁっ! すげぇ……この力が、この力があったら、あいつらを全員ぶっ殺せる!」
俺は笑った。
魔法の副作用のせいか頭がぼんやりすることもあって、力を手にした高揚感に溺れ、大声を上げて笑った。
落ち着いて来てから、笑い過ぎてガラガラになった自分の喉を撫でる。
「それで……いつまで死んだフリをしているつもりだよ」
俺が睨んでも、赤木はまったく反応を示さない。
大した奴だ。この期に及んでまだ、死んだフリで逃げ切ろうと思っているらしい。
「言っとくけど、お前が死んでても俺はお前をバラバラにするからな」
俺がそう言った瞬間、赤木は目を開き、自分の歯を噛み潰して俺に吐き掛けてきた。
頬に当たる。さして痛みはなかったが、不快感があった。
「……お前の妹、泣き喚きながら扉を叩いてたんだってな。カタリ、お前は死体を見たのか? なぁ? 純粋に疑問なんだが、ひょっとして、葬式のとき、火葬しなくてもすむのか? 手間が省けてよかったじゃないか。感謝してくれよ」
「死ね」
俺が蔦に手を向けると、赤木を地面に擦り付けながら成長を始める。
崖端を越えたところで、そこで蔦の拘束を解除する。
宙に投げ出された赤木は、蔦を掴もうと必死に手を伸ばすも、そのまま崖底へと落ちていった。
「……甚振るつもりだったのに、感情的になっちまったな」
崖端まで行き、底を覗き込む。
赤木は崖に身体を擦り付けながら落ちていっていた。皮膚が削られ、ほとんど原形を失ってから水面に叩き付けられ、濁流に呑み込まれていった。