静のこと
「……もう、朝か」
静は布団から起き上がり、気怠げに呟いた。
体の調子はとても良い。政景に力流の術を掛けてもらったかのような――いや、それよりも快調だった。力がみなぎっているのを感じる。今なら、鬼の数百体だって退治できるような気さえする程だ。
ただ、精神的には辛いものがあった。本当ならすぐにでも鬼ヶ島へ兄を探しに行きたかった。連れ戻したかった。しかしそんな無謀なことをして、自分に万が一のことがあっては残された者達はどうなるだろう。動が命を懸けて助けてくれた意味すらなくなってしまう。
「お嬢様、起きていらっしゃいますか」
少しまどろんでいたところに、襖越しから福子の声がした。
「うん、今目が覚めた」
「実は今、太堂様がいらっしゃっているのですが……如何致しますか?」
太堂とは、静の叔父だ。思わぬ来客に、静は布団から飛び出した。
「すぐに支度するから、上がって待っててもらって!」
「かしこまりました」
福子の返事を確認し、すぐに寝巻きを脱ぎ捨て、着物を身に付ける。ちなみに静はほぼ和服しか持っていない。着付けを学ばせる為、母親が用意したものしかないのだ。しかしほとんど寝たきりでいたし、寝巻きも浴衣であるから和服のほうが落ち着くので、不満は全くない。政景の学校の文化祭の時は「着物じゃ目立つ」と翔兵に注意され、やむなく福子に頼んでワンピースを買ってきてもらったのである。
静は一通りの支度を終えると、すぐに居間へと向かった。
「おお、静か!」
無精髭を生やした男性は豪快に立ち上がって、大声で名前を呼んだ。
静は叔父に「ご無沙汰してます」と告げ、一礼する。
「そうか、本当に……元気になったんだな」
何かに納得したように、太堂は急にしんみりとしたように言った。
叔父は手練れの鬼退治士でいつも忙しく、なかなか会う機会がないのだが、御三家にしては珍しい部類の義理人情に厚い性格で、静のこともよく心配してくれていた。
「太堂叔父様は、怪我は治ったの?」
「ああ、もう完治しているよ」
「……でも、まだ包帯してる」
袖口からはみ出た包帯をあざとく見つけてやると、 太堂は「情けないなあ」と困ったように笑い、座布団に座り直した。静も向かいに正座する。
「年のせいか、治りも遅くてな。これじゃあ、篠に顔向けできん」
叔父はそう言うが、恐らく相当深い傷であったのだろう。楼の情報によれば、仕事も数日休んでいたと聞く。
「叔父様、無理はしないで」
「わかっているよ。それよりも、動の代わりにお前があの悪鬼を退治しに行くと聞いた」
「……はい」
何となく後ろめたい気持ちになる。
「兄上、義姉上、そして動も、謝るだけでは済ませられない程お前を一人にした期間は長い。だが、お前のことを大切な家族だと思っているのは確かだ。ただ接し方がわからず、距離を置く内にこんなことになってしまった」
正直、家族に対してどういう感情を持っているのか、自分でもわからない。この屋敷に来た時は、とにかく寂しくて悲しくて、自分が悪いのだと自己嫌悪に陥っていた。
「今後の身の振り方はお前の好きなようにするといい。私も力になろう。ただ、兄上達のことは……恨まないでやってほしい」
太堂の切実な思いが伝わってくる。
恨んでないと言えば嘘になるだろう。動にだって素直になれなかったのだ。
「ありがとう、叔父様。でもね、寧ろわたしは嫌われているんだと思っていたの。だから、あの人達はわたしをこの屋敷に閉じ込めたのだと思っていたし、一族からも邪険にされていたのは事実だから。だから、今はそれがあの人達に対する全て」
悲痛な表情になる太堂を見て、思わず苦笑してしまう。
「太堂叔父様、そんな顔しないで。何も拒絶しているわけじゃないの。わたしがいかに手の掛かる娘だったのかもわかっているつもりだし、母様を深く傷付けたことも理解してる。だからね、一度ゆっくり話しをするべきなんだと思ってるの」
この屋敷に来て、もう十年以上の時が経っている。家族として過ごした時間はあまりにも短い。静は、彼らのことを知らなさすぎるのだ。
「本当は……兄さんとも、話したかったんだけど」
「……無様にも生き残っている私を、許してくれ」
太堂は目を伏せた。それは誰へ向けた言葉なのか、静は彼の手に、そっと自分の手を添えた。
「自分を、責めないで。太堂叔父様は、もう充分に役割を果たしてる。今度は……わたし達に任せて下さい」
彼は顔を上げ、大きく目を見開いた。
「静……大きくなったな」
「それ、最初に言うべきじゃないの?」
いたずらっぽく笑ってみせると、太堂も口元が緩んだ。
「動はお前のこと、いつも気に掛けていたよ」
叔父の思わぬ言葉に、一瞬固まってしまう。
「…………ふうん。……そう、なんだ」
まるで無関心を装っていた、あの兄が。
静は庭に視線を移す。
「そんなこと、全く気付かなかった……。本当に、どんだけ不器用なの、兄さんは……」
何だか、ひどく泣きたい気分になった――
「やあ、静。体調は最高?」
「あ、楼」
微妙に韻を踏んでいるのが気になりながら、「まあまあかな」と返す。
太堂を見送り、ちょうど朝御飯を済ませたところだった。
静の向かいに座った楼は、ちゃぶ台に両肘を置いて頬に手を添え、ほわっと微笑んで正面から見つめてきた。
「……何?」
少し居たたまれなくなる。
「静を殺さずに済んでよかったと思って」
「ああ……そんな話も……して、たね」
体力が限界だと思い始めた頃。自分の中にある力が、暴走するのではないかと不安を抱えていた。何より怖いのは、周りの皆を傷付けること。そうなる前に命を絶ちたい。だけど、自分で絶つ勇気も自信もなくて。
「忘れてたの? ボク、本気だったのに」
「……忘れてないよ。わたしだって、本気で頼んだもの」
翔兵であれば絶対に、ふざけるなと一喝されて終わる。しかし楼ならば、きっと聞いてくれると思ったのだ。
不意に視線が外れ、楼はどこか遠くを見つめる。
「でもね、好きな人を殺すのって――嫌なものだよ」
その言葉はとても重く、悲しい感情が込められていた。
彼は恐らく――人を殺したことがある。
気付いたのはいつだったか。はっきりと言葉に出したことはないけれど、彼と二人きりになった時、そうだと感じ取れる発言を耳にしたことがよくあった。
だからこそ頼んだ、といえばそれも酷いのだろうが、知りもしない人間に殺されるよりは、友人である楼に殺してほしいと思ったのだ。
静は「ごめん」と顔を伏せる。本当に最低な頼み事だろう。
「いいよ、ボクは静の為なら何でもしてあげたいと思ってるから」
いつも接している時は忘れてしまうのだが、こういう時は楼が年上なのだと感じさせられる。普段だって翔兵と喧嘩した時はいつも仲裁し愚痴を聞いてくれたり、外での出来事をたくさん話してくれたりと、とても頼もしい友人なのだ。
初めて会った時は正直、その笑顔に裏がありそうで怖いと思っていたのだが、彼もまたどこか孤独な人間であり、同じ匂いを感じていた。
「楼、ありがとう」
嬉しくて素直にお礼を言うと、彼は何故かククッと笑い始めた。
「本当に純粋だよね」
意味がよくわからず、首を傾げてみせると「可愛いってことだよ」と言われ、小馬鹿にされた気分になる。
「さて、ボクは政景くんを迎えに行ってこようかな」
「あ、だったらわたしも――」
「あ~、ダメダメ。昨日も言ったけど、静は翔兵の機嫌直してくれなくちゃ。政景くんが、とばっちり受けることになるよ」
そこまで翔兵は機嫌を悪くしていただろうか。いつもの口喧嘩だと思っていたのだが。
楼は立ち上がって廊下に出るが、何を思い立ったのかこちらを振り返った。
「あのさ、静。戦うこと……後悔してない?」
まさか楼からそんな言葉を聞くとは思わなかったので、きょとんとしてしまう。静を旗頭に選んだのは楼自身だ。彼は自分で決めたことは正しいことだと信じ、決して揺らぐことはない性格だと、静は認識している。
もしかすると、彼なりに実は悪いと思っていたのだろうか。静を旗頭にしようと提案したことについて。
しかしそれは誰もが思うことであって、決して楼だけの独断ではない。
「してないよ。楼、あの白鬼はわたし自身で決着をつけなければならないと思ってるの」
「……そっか」
どこかほっとしたような表情になったので静も少し安心する。
「この戦いが終わったら、ボクは正式に朝桐の跡取りになる予定だよ」
篠が亡くなった今、それは当然だろう。篠の両親は侯楼と敵対しており、どうにか自分の息子を跡取りにと考えていた。しかし、篠は才能に恵まれなかった。最終的に篠を追い詰める結果となり、現状に至るのだと静は思っている。
確かに、篠はかなり性格が悪いと一族の中で有名だった。弱いもの虐めはお手の物で、自分勝手で馬鹿な性分だったと。
だけど静は、彼が両親の期待に応えようと必死だったのを知っている。御三家の集会の時、陰口を叩かれている静に彼は言った。
『お互い苦労するな。だけど諦めるなよ。努力していれば、いつか報われる時はやってくる。そう信じて……やるしかないんだ』
すでにこの時、彼は相当追い詰められていたのだろうと思う。今でも忘れられない言葉だった。
「篠さんも、きっと納得してくれるよ」
「……どうかな。あいつ、ボクのこと嫌ってたし。まあ、ボクもだけど」
そう言って笑う楼は、どこか寂しそうで。
境遇が違えば、二人だってきっと――
「静、藤ノ宮を継ぎなよ。そうしたら、ボク達の手できっと御三家を変えられる。夕柳真幌のような鬼だって、二度と作らせない」
「楼……」
弱き者を切り捨てるやり方。それがきっかけとなり、悲劇へと繋がってゆく。楼ならば、きっと変えてくれるだろう。
だけどまだ、藤ノ宮の後継者については考えたくはない。
だって、まだ――
ポフッと頭に手を置かれる。いつの間に近付いたのか、楼は柔らかい微笑みを浮かべて頭を撫でてくれていた。
「ごめんね、少し焦り過ぎたかな。今は鬼退治のことだけ考えよう」
楼のこの笑顔は好きだ。いつもは愛想笑いがほとんどなのだが、静が弱っている時はいつも、心から微笑んでくれているような優しい笑顔をしてくれるのだ。
「……うん」
静も笑顔で頷いた。
「ま、静も政景くんと同じく戦闘訓練しないとね。術もほとんど使ったことないだろうから、ボクが徹底的に叩き込んであげるよ」
突如、天使のような微笑みが、悪魔のような微笑みへと変貌する。
「は、はい……」
静は笑顔をひきつらせながら頷いた。
しかし翔兵に会えと言われても、普段はあちらから会いに来るのでどうしたらいいかわからなかった。
とりあえず中林に運転を頼み、蛭間の本家に寄ってはみたのだが、なかなか敷居が高い気がして踏み込むことができない。やはりやめておこうかと、車へ戻ろうとしたその時、ギギギ、と重そうな音を立てて門が開く。
思わず身を隠したい衝動に駆られたが、残念ながらこんな道端ではそんな都合の良い場所もない。体を固くして門の向こう側の人物を見れば、健康的な肌色をした鉢巻きの青年が顔を出した。
『あ』
視線が合い、お互い声が重なった。
「せ、静お嬢さん……?」
「お、おはよう、葛馬さん」
昨日会ったばかりだが、言葉を交わすのは久し振りなので少し緊張する。そういえば今年、成人の儀を行ったと翔兵が話していたのを思い出す。
葛馬の返事を待っているのだが、何故だか穴があく程に見つめられ、さすがに恥ずかしくなってくる。
「兄貴、見惚れすぎ」
「どぅほう!?」
突如掛かった声に、葛馬は奇声を上げて腰を抜かした。
「ふ、双葉! お前どっから……!」
「普通に門から出てきたんだけど」
呆れた表情で肩を竦める少年は、葛馬の弟の双葉だ。彼はまだ集会に出席することが少なく、昨日もいなかったので久し振りに顔を見たのだが、大きくなったなあと驚いた。葛馬が二十歳なら、彼は十五歳くらいか。キツネのように細い目は相変わらずだが、黒髪は茶髪に変わり、背も追い越されている。
「静さん、元気になったんだってな。……確かに見違えたわ」
「そう、かな? それを言うなら、双葉も随分大きくなったよ」
感心される程変わったつもりはないが、いつも顔面蒼白状態だったので、周りから見れば変わったのかもしれない。だがしかし、双葉の成長振りには負けるだろう。
「静さんの俺のイメージってどこで止まってるわけ」
五年前ではなかろうか。呆れる双葉を押し退け、葛馬が前に出た。
「とにかく、中に入れ。翔兵に会いに来たのか?」
どうしたものかと思ったが、目的を果たせそうだと安堵し、静は頷いた。
すると葛馬は急に真剣な顔つきになる。
「自分は静お嬢さん達と一緒に、鬼ヶ島に行きたいと志願している。精一杯サポートもするつもりだ。その時はよろしく頼むぜ」
ニカッと白い歯を見せて笑い、葛馬は握手を求めてきた。
彼は自身の力を謙遜しているが、かなり心強い味方だ。確かに翔兵より力はないのかもしれない。しかし戦闘のセンスは悪くないようで、粘り強さと咄嗟の判断力も高い為、十分に力を補えていると評価されている。明るい人柄も功を成してか、一族からの信頼も厚く統率力が高い。動とはまた違ったタイプの一族の期待の星なのだ。
「嬉しい。ありがとう、葛馬さん」
心から感謝を述べ、握手に応えると、彼は照れ笑いを浮かべた。
「兄貴、鼻の下伸びてる」
「伸びてねえ!」
一喝するが、双葉は怯むことなくニヤリと笑う。
「静さん、兄貴は万年彼女なしなんだ。よければ男にしてやってよ」
「お、男に……?」
ナヨナヨしているという意味だろうか。ならば、葉蔵に頼んだほうが、よっぽど立派に男らしくなるよう指導してくれると思う。
残念ながら静には双葉の真意を汲み取ることができなかった。
「お前は何を言ってやがるんだ!?」
葛馬は慌てた様子で叫び出す。
「兄貴だって、見惚れてただろ」
「いや、それは確かにそうだが……」
瞬間、葛馬の背後に人影が現れ、首に腕を回された。
「ぐえ!?」
葛馬は思いきり後ろにのけぞる体勢になる。
「な、に、を、してるんだ? お前らは」
低いハスキーな声の持ち主は、金髪頭がいやに目立つ男――翔兵だった。
「し、絞まる絞まる!」
「絞めてんだよ」
バシバシと翔兵の腕を叩く葛馬はかなり苦しそうだ。
「翔兵、許してやってくれよ。万年彼女なしの兄貴だし」
「ふ、双葉、お、お前も、そのネタいい加減に……」
何やら苦しそうに訴える葛馬。翔兵は「チッ」と舌打ちすると、その腕を離した。
乱暴な性分の翔兵だが、それでも馴染みの友に出会え、静はほっとする。
「おい静、こいつらに変なこと吹き込まれてねえだろうな」
「ゲホゴホッ! 自分は無関係だ! 怒るなら双葉に怒れ!」
「兄貴、ひでえなあ。静さんに色目使ってただろーが」
「使ってねえ!」
なんと騒がしい一家だろう。端から見れば、不良同士の喧嘩に見えなくもない。
それにしても、この三人がこんなに素で言い合えるような仲だったことに驚いた。
「仲良いんだね」
自然と出た言葉だったのだが、三人に一斉に凝視される。
「そうだな、昨日の一件で少し家族会議したからかも――」
「兄貴、仲は良くなってないだろ。まあ、遠慮が無くなったかもだけど」
「オレは変わったつもりはねえ」
三者三様の意見である。
「どうでもいいから、お前はこっち来い」
そんなものかと感心していると、翔兵に腕を掴まれ引っ張られた。
「ふうん。翔兵が女と話すなんて、あんま想像できなかったけど、こりゃあ面白いもんが見れた」
双葉はキツネ目をより一層細めて笑う。
「自分は集会の度に目撃してたからな。翔兵にも本音を言える友がいると知った時は安心したもんだぜ」
しみじみと感慨にふける葛馬。
「……お前ら、後でブッ殺す」
翔兵は何故か不機嫌になりながら、門の中へと入っていく。腕を掴まれた静もやむなく引っ張られ、「それじゃあ、また」と葛馬と双葉に会釈して翔兵の背中を追う。
「ああ、よろしくな!」
「静さん、翔兵に気を付けろよー」
門がバタリと閉じる。
「あの二人はどこかに用事があるのかな?」
「葛馬の奴、オレ達についてくる気満々だからよ。双葉も調子乗って来るとか言い出すし。朝早くに藤ノ宮に行っちまった葉蔵伯父さんを説得しに行くんだ」
「そっか……翔兵は反対なの?」
翔兵を見上げるが、前を向いたまま返事はない。
ずんずんと屋敷の中へ進んでいくと、何人かの使用人達とすれ違う。皆驚いた様子で一礼してくるのを眺めながら、一つの部屋にたどり着く。
「翔兵の部屋?」
「ああ」
思えば蛭間本家に立ち寄ったのは、幼い頃に一度くらいしかなかったので、翔兵の部屋に入るのは初めてである。
さすがと言うべきか、部屋には色々な種類の刀が置かれていた。
「あれは……?」
乱雑に置かれた刀の中で、高価そうな漆塗りの飾り台に置かれた一振りの刀が目に止まる。
「親父の形見だ」
ああ、そうかと、白い鞘に収められた日本刀をぼうっと眺めた。
「お前、本当に大丈夫なんだろうな」
「何が?」
「ぼけっとしやがって。今日から話し合いも戦闘訓練も始まる。器を手に入れたっつっても、昨日の今日だ。力の制御はできてんのか?」
「……見ての通り、すごく落ち着いてるよ。力だって抑えられてるでしょ」
昨日は解放していたけれど、今は内側で抑えている為、一見すれば通常の力と変わらないように見えるはずだ。まだ術を使ったことがないので少し不安は残るが、暴走することはないだろう。
「ありがとう、翔兵。心配してくれて」
「…………別に」
ムスッと返事をされる。が、『はあ!? 違えよ! 馬鹿じゃねえの!』と怒られる可能性もあると踏んでいたので、いつもよりは素直な反応と言える。今なら色々と話してくれるかもしれない。
「翔兵、わたしと一緒にいるの辛くなかった?」
「はあ? いきなり何だよ」
前々からの疑問だった。翔兵と仲良くなった切っ掛けは単なる静の我が儘からだ。
正直、親も見捨てる程に性格が壊れていたし、基本的に静の怒りの矛先が楼に向くことはなく、翔兵に向くのが常であったから、翔兵の忍耐力には驚くべきものがある。
「普通だったら、とっくに見捨ててるんじゃないかなって」
「……お前みたいな世間知らずの悪態なんかどうってことねえよ。葛馬と双葉のほうが口の悪さは完全に勝ってる。まあ当然、お前に対してムカつきはしたけどな」
面倒そうに言って、奥の壁に立て掛けてある愛用の大刀の前に座った。砥石を取り出したので、刀を研ぐ気なのだろう。
「楼だって相当だろ。……いや違うか。あいつは口が悪いっつうより、頭の良い達者な切り返しと言うべきか……」
翔兵はちらりと視線をこちらに送ってくる。
「とにかく、お前との喧嘩なんかただの日常茶飯事としか思ってねえよ」
そう言い終えると、さっそく大刀を研ぎ始める。
日常茶飯事――確かにひどい時は毎日のように喧嘩していた。だけど大抵、翌日には二人共、何事もなかったかのように喧嘩していたことをけろっと忘れ、また喧嘩を始めるといった感じだったように思う。翔兵も十分に口が悪いので、どちらかと言えば静が押されてふて寝することが多かったかもしれない。長年一緒に付き合えたのは、二人の忘れっぽい性格と、翔兵の口の悪さ様々だったということか。
「そっか。でも、もう大丈夫だと思うから」
一瞬、翔兵の手が止まるが、すぐにまた刀を研ぎ始める。
「いつまでも翔兵と楼に甘えてるわけにもいかないもんね。元気になった今、わたしも外のことをこれから知っていかなくちゃ」
正直、不安は大きい。葛馬達と話していた時も、翔兵の顔を見た途端、安心してしまった自分がいる。藤ノ宮に戻れば、今までのように翔兵や楼に毎日会うことは難しくなるかもしれない。家族よりもずっと一緒の時を過ごしてきた仲なのだ。彼らなしで生活をするということがまったく想像できない。
「……まだ白鬼も倒せてないくせに、何言ってやがる」
確かにそれはそうだ。しかしそれよりも、声のトーンがかなり低くなっているのが気になる。何か変なことを言ってしまったのだろうか。
翔兵は研いでいた刀を床に置いた。
「オレはもう……必要ないってのかよ」
「え……?」
意味を理解する前に、翔兵は床を拳で叩き付け、睨み付けてくる。大きな音とその殺気に、静はビクリと身を縮こまらせた。
すると翔兵は立ち上がり、静の真正面に来て膝立ちになると、肩をがしりと力強く掴んできた。
「し、翔兵、痛い……!」
「オレは……! 絶対、お前の側を離れねえ!」
その表情は、今まで見たこともない程、思い詰めた表情だった。
「しょう、へい……」
「お前がいたから……! だからオレは……!」
――そうだ。翔兵も孤独だったのだ。葛馬達と仲良く見えても、やはりどこか遠慮は生まれるし、寂しさは埋まらなかったに違いない。そんな時に翔兵を求めたのは、自分だ。
あの時、静は外の世界へ飛び出したかった。だけど飛び出したら、前も後ろもわからない、余計に孤独を感じさせられる虚ろな世界だった。そしてそこに現れた少年もまた、その世界に取り込まれそうな程、荒涼とし空っぽだった。
手を伸ばせば、その透き間に入れるだろうか。孤独を感じなくなるだろうか。
――もう、一人は嫌だ。
お互いがお互いを求め合った結果、かけがえのない友となれたのだ。
翔兵の手に、そっと自分の手を重ねる。
「……翔兵。わたしも、あなたの側にずっといる。約束する」
翔兵の目が大きく開き、手の力が弱まる。
「静……」
微笑んで見せると、翔兵は泣きそうに表情を歪めた。
「悪い、オレ……」
「謝らないで。誤解させたのはこっちなんだから。外のことを知ることは必要だけど、わたしにはこれからも翔兵が必要なんだよ」
「……ああ」
翔兵は苦笑すると、静の肩にこつんと額を当てた。
「マジで情けねえ……」
「お互い、情けないとこはたくさん見せてきたんだから、今さらだよ」
笑ってやると、翔兵は「オレは見せたことねえよ」と肩に額を乗せたまま強気な発言が返ってくる。
翔兵の金髪が揺れて頬に当たり、少しくすぐったかった――




