3 明日晴れたら
彼を亡くしたと理解した後、もう一度恋をすることなんてありえないと思っていた。
私は私ではなくなっていたし、ただ生きていくので精いっぱいで。
でも人はいつだって恋に落ちる。
理由を探しているときにはもう、恋に落ちている。
そのことに気づいたのは、そのことを教えてくれたのは。
子供の姿をした、どうしようもなく愛らしい人で。
気持ちを受け入れるのに少し時間はかかったけれど、子供の姿であっても彼はとても大人だったから。
何より私を優先して、お姫様扱いをしてくれるような人に、魅かれないはずなかったんだ。
*
道行く人達の視線が痛い。
「ねぇ見て。いいよね、青い瞳。憧れるな~」
「ねー。欧米人って得だよね、化粧しなくっても絶対可愛いもん、羨ましい」
磨かれたショーウィンドウに映る自分の姿を横目で見て小さくため息をつく。街を歩くといつもこうだ。好奇な人々の視線に晒される。帽子を被って金髪を隠していても、顔立ちは隠せない。だからと言ってサングラスにマスクをつけてまで顔を隠そうとは思わないから結局こうなってしまう。
青い瞳にしたければカラコンを入れればいいと心の中でつぶやく。自分だって昔はこっそり憧れていたのを棚に上げているのは承知しているが、この視線の束には本当に辟易して暴言の一つも吐きたくなる。
欧米人だからって別に万人が可愛いわけではない、とアメリカで暮らした数ヶ月の経験から知っている事実を声を大にして言いたい。他でもない“ケリー”が可愛いのだ。……それで私はすごく迷惑しているのだけれど。
背は今のところ日本人の平均身長くらいだけど、まだ成長しているから165センチとかそれ以上にはきっとなるんだろう。そうなったらなったでまたモデル事務所のスカウトとかがうるさいんだろうなぁと想像だけでため息をつく。
「ケリー! ちょっと待ってください!」
大またで人の流れをかいくぐるようにして歩いていく私の後を、追いかけて来る小さな影。
今日のスーツは黒のズボンに黒のベスト。上着はダークブラウンとダークグリーンのチェックで、同じくダークグリーンのネクタイを締めている。なかなかおしゃれだ。完璧に磨かれた革靴で一生懸命走ってくるその姿を、仕方なく足を止めて待つ。
「……だから付いてこなくていいって言ったのに」
ようやく追いついてきたのは小学校高学年くらいの少年。黒のくりっとした目に茶色がかった髪。身長は私の胸くらいまでしかない。
上から下までの完璧なコーディネイトは執事の陣内さんの仕事だ、いつもながら素晴らしい。ちなみに私の今日の格好も陣内さん一押しのお嬢様スタイルだ。派手すぎず可愛すぎず、私の好みに合わせてくれている。……けれども今言いたいのはそういうことじゃない。
「ちょっと買い物に出るだけだから、智は家で待っててって言ったじゃない。……私達一緒にいると目立つんだから!」
腰に手を当てて見下ろしながらそういうと、智はきょとんとした顔で私を見上げてきた。
「……目立つ? ああ、ケリーが可愛いからですね! うーん、それは問題です。僕の可愛いケリーを他の男に見られていると思うと嫌ですから」
少しの間考え込んでいたが、彼なりの結論に至ったらしい。そういうが早いか、智は小さな手で私の右手を掴んだ。
「早く買い物をして帰りましょう! あまり外にいると可愛いケリーが攫われないか心配ですし」
大真面目な顔で智はそう言って、ずんずん歩き出した。手を取られてしまったので、されるがままについていく。目的地も知らないのに、と私は後ろで文句を言ってみるが、智は入るべき店を探して聞く耳を持たない。
金髪碧眼、愛くるしい顔という、日本人的欧米人の理想を見事に描き出した十六歳の私、ケリーと。
「やだー、超可愛い、コナン君みたい!」
「ううわ本当だぁ。ってかあの二人ってどういう関係? ……姉弟、はありえないよねぇ?」
フルセットのスーツ姿も相まって、眼鏡がないのが残念なくらいにコナン君を地で行く十一歳の彼、智の関係が。
「……ほら、聞いた? 智。私達目立つんだってば」
「……こなんくんとは何者ですか? 可愛いと言われました」
書類の上では結婚が成り立っている夫婦だとは、誰も思うまい。
*
崖から海に飛び込んで自殺を図ろうとした私を、少年の姿の智が助けてくれて、そして目覚めた後。
妙に落ち着き払っていて子供とは思えない言動と態度で振る舞う智が、実は私と同じように体と中身が一致していないことを知った。小学生の体に、かつて私が勤めていた会社の社長、浅川智志さんの意識。
彼は子供の姿になってしまっても秘かに社長職を続けていた。肋骨を折っていたので動けなかった私がベッドの中にいるうちは、同じ部屋に机を持ち出して仕事をし。起きて動けるようになってからは書斎にこもって仕事をする日々。「そんなに働いていたら疲れてしまうでしょう?」と声を掛けたら、「やらないと終わらないので」と苦笑いが返ってきて。可愛らしい子供の顔に似合わないその顔に少しドキッとした。
かと思えば智は私と歩くときはいつも手を繋ぎたがる。本物の子供のように。
「はぐれないようにね」ともっともらしく言うのだけれど、はぐれようもない公園を散歩するときには言い訳のようにしか聞こえない。それでも私も、小さくて柔らかい手を握るのは好きで。まるで弟と散歩をしているような気持ちでいた。
しばらくして私は、ケリーの実家のあるニューヨークに帰ろうと思った。藤井真央であった過去は封印しケリーとして生きていく以上、私があの両親と関わらないわけにはいかないし、最早私の家族と言えるのはあの二人だけだった。全く別人になってしまった娘を献身的に世話してくれたスミス夫妻に、せめてできることは恩返ししなければならない。
「帰る」と言ったら智はすぐに飛行機の手配をしてくれた。散々お世話になったのに、これ以上迷惑はかけられないと言ったのだが、想定外なことに、智も一緒にアメリカに行くのだと言い出した。曰く、「アメリカの大学に、飛び級制度で入ることになりまして。ケリーの実家からも近いところなんです。偶然ですね」、なんて。
本当は三十歳の大人だし、大学も出ているのだからもう一度入り直すことも飛び級も簡単か、なんて驚きつつも納得していたら、智が不意に一枚の書類を差し出してサインを求めてきた。飛行機の手配に必要な書類かと思い、よくよく読まずにサインをした。すると。
「ふふ、ありがとうございます。ちょっとズルかったですかね。でも便宜上のものですから」
満面の笑みを湛えた智の言葉に違和感を感じ、書類を奪い返して内容を確認した。英語で書かれたその書類は。
「うそ……!」
「あなたのご両親の了解は得ていますよ。ほら、サインがあるでしょう?」
それはいわゆる婚姻を届け出る書類だった。
「えっ、何、何で?」
突然の結婚、という文字にびっくりする私に、智はさらに追い打ちを掛けてきた。
「真央さん、いえケリー・スミスさん。この僕と結婚してくれませんか?」
騎士がお姫様に跪くように片膝をついた智が、いつの間にか私の右手を取ってこちらを見上げていた。椅子に座っていた私が驚いて立ち上がってしまったら、身長差の為に手はするりと抜けてしまった。触れられていた手が妙に熱くてドキドキした。だってこんな、お姫様みたいな扱いされたことはないんだもの!
「ちょ……ちょっと待って智! な、何で? 何が起こってるの?」
「ケリー……僕とでは嫌?」
智は大きな目を潤ませて、悲しそうな顔で私を見上げてくる。しょぼんとした顔に、垂れた犬の耳をくっつけてしまった私の目はおかしくなってしまったのか。
「嫌とかそういう話じゃ……だってこんな、唐突……!」
「嫌かどうか、いいか悪いかだけで答えてください! お願いします」
いつの間にかまた、私の手は智に掴まれていた。小さな子どもの手なのに、力は強くないはずなのに、振りほどけないのはその瞳の視線の強さだろうか。真剣な眼差しでじっと見詰められ、混乱したままで考える。
いいか、悪いか。……そりゃ悪いなんてことは、ないと思うけど……。
「……では了承していただけますね? ああ、よかった!」
「え、私いま、声に出してた?」
はっと口を押えたが、口に出していたつもりはなかった。でも智は子供のようにはしゃいで(体は子供そのものだから全く違和感はない)、万歳をしている。その姿がなんだかおかしくて。
「やだ、智。そんなに喜んで」
思わず笑ってしまった。普段クールに仕事をこなしている姿からは想像できない、無邪気な表情。万歳をしていたと思ったら、部屋の中を駆け出して、嬉しさを体全体から発散させるような。
たぶん、こんな風に智との結婚をうやむやに了承してしまったのは、あまりに現実味がなかったせいだと思う。だってこんなに可愛い男の子を、旦那さんとは思えないでしょう? それに書いてあった名前は浅川社長のものだった。もう体の存在しない、書類だけの関係。だからただの便宜上のものだという智の言葉を、何も考えずに呑み込んでしまったのだ。
*
「ほら、ケリー、これなんかどうです? ピンクが似合うから、ケリーには」
レースがふんだんにあしらわれたピンク色のワンピースを、智はしきりに勧めてきた。無理矢理立たされた鏡の前で自分とピンクのフリフリを見比べてため息をつく。……確かに、“ケリー”の顔にはピンクが合っているしなんだって着こなせる。妖精のように可愛いだろう。しかし着るのは“私”だ、心が持たない。ピンクのフリフリなど断固拒否する。
「……もうちょっとレースの少ないのがいいな。大人っぽいヤツにして」
ため息と共にそういうと、見えない耳をぴょこんと生やした智は、瞳を輝かせて大人っぽいアイテムを物色しに向かった。
……あの中身が三十歳の立派な成年男子で、計上利益数百億の商社の社長だとは誰も思うまい。
こっそりと大きなため息をついて、私は私で自分好みの洋服を探しにいく。
値札を見ないようにして滑らかな肌触りの緑のワンピースを手に取った。お金持ちのお坊ちゃまであり自らが会社社長の智と買い物に出ると、どうしても高級ショップに連れられてしまうから、本当は一緒に来たくない。そもそも私はお金を稼いでおらず、正直言って今は無一文に近い。ケリー名義のカードは持っているが、それだってケリーの両親のお金だと思うと使う気になれない。そんな状況で生活できているのは智の好意に甘えているからで、私としては使ったお金はきちんと帳簿に付けておいて追々返していこうと算段している。もっとも、智に言わせれば、「君は僕の奥さんなんだから、お金なんて気にしなくていい」と言うのだが。
うやむやの結婚発言から数日。形式上の結婚は実は私のビザのためだったと種明かしをされた。
意識していなかったが、ケリーはアメリカ人であり、日本に入国するためには当然ビザが必要だ。私は観光ビザを申請してきていたのだが、怪我をしていた間に、その観光ビザの期限は迫っていた。アメリカに戻れば気にする必要もないビザの期限であるが、動けなかった私がアメリカに戻れるはずもなく。結果思案した智が、日本人との結婚申請中という裏ワザでもって危険を回避してくれたのだ。
だからつまり、あの突然のプロポーズの時には既に結婚が成立していたらしく(私のサインはもちろん偽造ということになるが)、何もかもが事後承諾だったのにはちょっと頭が痛くなった。
「……早く教えてくれたら良かったのに」
「え、何です? 何か気に入るものがありましたか?」
ぼそっと呟いただけなのに、智は洋服のかかったハンガーの間から声を掛けてきた。必死で背伸びをしているのだろう、頭しか見えないところが微笑ましい。
「ううん、何でもない」
ケリー・スミスとして人生を生きようと決心が付いたのは、智のお陰だ。彼が献身的に看病してくれて、目覚めた後も親身になって話を聞いてくれたお陰で心の整理が付いた。
せっかくもらった命だ、もったいなく落としてしまっては、私の体と共に消えたケリーに申し訳ない。
同じ境遇の智もそういう風に思っているのだと、一緒に生活するうちにわかってきた。今の智の体の元の持ち主は使用人の孫だったのだ、ということしか智は教えてくれない。でも私は誰なのかがなんとなく分かってしまった。隠せるはずもない、目元も全体の雰囲気も良く似ているのだから。
孫は死んでしまったはずなのに、目の前にいる主人は孫の姿をしているなんて、その人にとっては非情に複雑な思いだろう。だから智は、智のせいでは決してないのだけれども、消えた少年に申し訳ないという気持ちで日々生きているんじゃないかと私は感じている。
そういう部分は、大人な考え方ができてスマートに振舞えるところは、とても素敵だと思っている。思っているが……。
「ケリー、こっちはどうでしょう?」
嬉しそうに持ち上げたサーモンピンクのワンピースと、ローズピンクのスカートを両手に、智はこれならどうだとにこにこ笑っている。
「……どこまでピンク押しなの?」
ため息をついた私の元へ、とことことやってくる彼。見上げて来るきらきらした瞳。ばら色に染まった頬。
……どう見たって小学生な可愛らしい男の子を、どう旦那と認識しろと? これが肉体年齢十六歳、精神年齢二十六歳の私の目下の悩みである。
*
僕の奥さんは可愛い。百人が百人可愛いというであろう可愛さ。何も色目を使っているわけでも僕の目が変になったわけでもなく。
今の彼女は生粋のアメリカ人の顔だから、彫りもそれなりに深いし鼻も高い。何より澄んだ湖の底のような青い瞳と輝く金の髪は存在するだけで人目を引く。僕もお世辞やひいき目やらを一切抜いて、もろ手を挙げて可愛いと叫べる。馬鹿と言われようともかまわない、そういうレベルだ。執事の陣内だってケリーが何を着せても似合うため、最近は僕のことよりもケリーのコーディネイトに気合が入っている。彼女は気づいていないだろうけれど。
だけどあの姿になってからいろいろな人に声をかけられ、「可愛い」と言われるたびに、彼女が内心で傷ついていることを僕は知っている。賞賛や羨望とは無縁だった以前の自分と、無意識に比べて複雑な気持ちになっているんだろう。
僕に言わせれば日本人であったときの切れ長の一重の瞳も、短く切りそろえて頬の辺りで揺れていた黒髪も、丸い鼻も、全てが可愛らしかった。彼女は平凡で何の変哲もない顔と言っていたけど僕には天使のように思えていた。
だけどたとえ君がどんな容姿であったとしても、僕には関係ない。
――ねぇ、知ってる? 僕が君を好きになったことに、君の容姿なんか関係ないってこと。
君がどんな姿でも、僕は君に恋をしただろう。
優しさをたくさん抱えて、それを誰かに分け与えることができる、君に。周りに気を配れて、進んで嫌な仕事を引き受けていた君に。
小学生の姿だってちゃんとひとりの人間として扱ってくれる、君に。
ケリーは結局自分で選んだダークグリーンのワンピースと、僕が選んだ控えめなローズピンクのスカートを購入した。ケリーは可愛いんだから何を着たって似合うといっているのに、彼女は派手すぎるものを好まない。だから選ぶのにも苦労するけど、いつも僕が勧めたものを一つは取り入れてくれる。
「ねぇ、智、私別に服を買いたかったわけじゃないんだけど」
店を出ると彼女は出し抜けにそう言った。買った後で言っても何の説得力もない発言なのだが、僕が勝手に入った店で買い物をしたのは彼女なりの気遣いだ。僕の方もそれを計算に入れた上で突っ走っているのだから確信犯なわけだし。
「じゃあ何が欲しいんです? どのお店?」
さりげなく手を繋いで僕はケリーを見上げた。ケリーは困ったように僕を見下ろして、顎に手を当てて考え込む。……これは僕を撒こうと考えているな。
「えと……、あの下着を買おうと思ってて……」
うまい言い訳を考え付いたと思っているだろうけど、僕には通用しないよ、ケリー。はっとひらめいた顔も見逃さなかったし、恥らっているのも演技だろう?
「そうですか、じゃあ行きましょう」
「え、ちょ、さと……」
そういうが早いか、僕はケリーの手を引いてランジェリーショップへと向かう。確かこの先に品の良さそうな店があったはずだ。
ケリーは僕の行動に驚いて口をぱくぱくさせているが声になってない。ケリーの頭の中では『三十の男の人が嬉々として下着買いに行くなんてちょっと!』とか思っているのだろう。まぁ確かに僕が以前の体だったなら、一緒に行かずに『ここで待ってる』とか言っただろう。しかし、今の僕は……。
大人の常識など気にも掛けない、子供の姿なのだから。
*
「……なんであいつらはああいう店ばっか巡ってんだ?」
広場に面したカフェのテラスで、コーヒーを飲みながら思わず呟いた。
視線の先では帽子を目深に被った少女とスーツ姿の少年が、手を繋いでぬいぐるみの店から出てきたところだ。帽子を被っていても分かる、日本人とは違った顔つきの美少女と、見るからに育ちの良さそうな少年という、組み合わせの珍しさでふたりはかなり周囲の視線を集めている。
このカフェは二階建てで、一階にもテラス席はあるが張り出したウッドデッキの上から海を眺望できる二階のテラス席が人気だ。もちろんオレ自身は海が見たくてここに座ったわけじゃない。目の前で優雅に紅茶を飲む白髪の紳士に無理矢理連れて来られたから、仕方なく付き合っているのだ。
「ふふ、ケリー様は智志様を撒こうとお考えなのですよ。普通男性が嫌がる可愛らしいお店を選んでおいでですから」
紅茶のカップを手に持って微笑んだ目の前の紳士に、どこからともなく「ああ~ん」という色っぽい嘆息が上がるのを、オレは半分気を遠くして聞いた。どんだけ他人に興味があるんだよ、日本人! と大声で喚き散らしたいほどに、オレたちはカフェ中の女性からの視線を一身に集めていて、正直言ってかなり居心地が悪い。
そりゃそうだ、黒のロングジャケットをかっちり着こなした、優しそうな眼鏡の白髪紳士。もうどこからどうみても“執事”っていう言葉しか浮かばない人物の前に座る、普通のスーツを着込んだ若いだけがとりえのような可も不可もない顔立ちのサラリーマン風の男。
「一体どういう関係なの?」というこそこそ声があちこちから上がるのが聞こえて本当に居た堪れない。関係があるとすれば、限りなく無関係に近い関係なのだけれど。
「おお。今度はファンシーグッズのショップですか。確かに三十台男性にはキツイでしょうなぁ、ねぇ、知巳様」
オレが女性達からの視線と闘っているときも、目の前の紳士の視線は敬愛する坊ちゃまとお嬢様から動いていなかったらしい。周囲の視線などなんのその、彼がオレを連れて無理矢理カフェの二階の、ショップの集まった広場を見渡せるこの席を陣取ったのは、眼下の二人を“監視”ではなく“見守る”ためなのだそうだ。
ちらりと下に目をやれば、店の手前でがっかりしたように肩を落とすケリーが見えた。その手を引いている少年の嬉しそうな顔と言ったら。もうすっかり冷めてしまったコーヒーを啜ってため息をつくと、紳士の視線がいつの間にか自分に向いていた。
「……ん? ああ、そうだな……」
タイミングのずれた返事をぼんやり返すと、白髪紳士は更ににっこり微笑んだ。……だからやめてくれ、無駄に微笑むのは。
「こちらでの生活は慣れましたかな? お仕事の方は順調と伺っておりますが」
全く関係のないところから繰り出されたジャブに、オレは一瞬言葉を詰まらせた。このジジイ(もう紳士とか呼んでいられない)もそうだし、あのガキ(雇い主だろうがかまうもんか)も悪趣味なほどオレをからかって楽しんでいる。
「……まぁ、おかげさまで、なんとか。日本語も、様になってるだろう?」
「ええ、まだ日本に来てから一年とは思えない上達ぶりですよ。良かったですね、お仕事に就けて」
「……ああ」
そう、オレはつい二年ほど前に初めて日本に来た。ハワイの病院まで迎えに来た“知巳”の両親に連れ帰られる形で、名前だけは知っていた小さな国へ、“日本で生まれ育った日本人”として“帰ってきた”のだ。
故郷のアメリカに帰れたとしても、両親には会えないという諦めがようやくついたのはほんの数ヶ月前。オレを溺愛していた両親が、派手にオレ、マイケルの葬式を出してくれたと教えてくれたのは他でもない、智だ。
両親の中でオレはもう死んだことになっていると分かったこと。そしてこちらの両親――この体の元の持ち主、斉藤知巳の両親が、日本語を話せなくなった“息子”を、事故のショックだろうと懸命に慰めてくれ、生きて帰ってくれただけいいと泣いてくれるのを見て、オレはここからの人生を斉藤知巳として生きていくことを決めた。
そう決意したものの、見てくれは完璧に日本人なのに日本語が話せないオレがどうやって仕事を探したらいいのかと途方にくれていたところ、子供の体ながら社長職を密かに続けている智が、自分の会社で働くことを提案してくれたのだ。ただしそれには条件があって、オレは三ヶ月以内に日本語をマスターしなければならなかった。
ゼロからのスタートで三ヶ月という期間は正直言って厳しかった。しかしそれさえクリアすれば働ける、知己の両親だって安心できると懸命に勉強した。たぶん知巳の体の記憶というものもあったのかもしれない。驚異的なスピードで日本語を覚え、一月ほど前に智の経営する商社の対外国営業職に就く事ができたのだ。
「……感謝している、本当に。智はもちろん、ケリーにも。……本当は、謝らなくてはならないのだろうけど」
コーヒーを飲むのを諦めて目線を海のほうへ投げると、広場ではまたあの二人が周囲を騒がしくさせていた。ファンシーグッズの店を飛び出したケリーを追いかけて、智が走っていく。喧嘩でもしたのだろうか。
「変わりましたね、あなたも」
同じく視線はケリーと智を追いかけながら、白髪の紳士、執事の陣内さんが笑った。智はちょこまかと走って無事にケリーを捕まえたようだ。今度はどこへ行くのかと頬杖を付いて見守る。
「……真央様がお亡くなりになったと知ったときの智志様は、沈んで沈んで、とても見てはいられなかった。あのお姿になってからも続けてこられたお仕事を全て投げ出し、悲しみにくれたのです」
オレも陣内さんも視線を下の広場に向けたまま、会話を続けた。オレは陣内さんの顔が見れなかった。陣内さんの低く渋い声が小さく耳に届く。
「長いこと智志様は元気をなくしておられた。しかしお強い方ですから、それではいけないとお仕事を再開され、頑張っておられた。そんな時期でしたよ、あの雨の日は」
ベンチに座ったケリーに、ソフトクリームを買って手渡す智が見える。どうやら智が何かやらかして、謝っているようだ。ケリーは頑としてソフトクリームを拒否していたが、しばらくするとしぶしぶ受け取った。結局いつもケリーが根負けしてくれるのだと、智がいつだったか自慢げに言っていたのを思い出す。
「ケリー様に続き智志様が海に飛び込んだのを見て、わたくしは肝をつぶしました。ケリー様の中に真央様がいるという仮定の話も、しかし智志様本人が体と中身が違っているのですから説得力がありました。結果的にやはりその通りで……。智志様は献身的にケリー様の看病をされ、わたくしも微力ながらお手伝いし、こうしてお二人とも回復されました。今ではあんな風に仲睦まじくされているのを見ることができ、わたくしは本当に安堵しております」
広場の海側に面しておかれたベンチは今やラブラブムード全開の二人の世界だった。ケリーが舐めるソフトクリームに智が横から顔を出し、一緒に食べている。自分で持って食べな、とケリーが差し出すと、智は首を振るのに、ケリーが食べていると自分も食べたがる。
……わざとだな、とオレだけじゃなく周囲の男共は皆思っているだろう、羨ましいな子供は、とも。しかし智のあの愛くるしい顔の下に、実は三十男の意識があることを知っているオレとしてはかなり複雑だ。
「……仲睦まじいとか、そういう言葉で片付けてしまっていいのかよ、あいつら」
いい加減目が痛くなってきたオレがため息まじりにそう言うと、陣内さんは事もなげにさらりと言い放った。
「かまわないでしょう、天下が認めるご夫婦ですから、お二人は」
「……はぁっ!?」
あまりの衝撃に思わず立ち上がると、陣内さんも広場の様子を見ながらおもむろに立ち上がった。
「おや、ご存知なかったですか? ……移動なさるようですね、わたくし達も行きましょうか」
口を開けたまま立ち尽くすオレには目もくれず、さっと伝票を手にした陣内さんは、周囲の女性のうっとりとした視線に笑顔を振りまきながら下へ下りる階段へと向かっていく。
実は仕事中だったオレはこれ以上付き合っている時間もないのだが、気になる言葉を言い捨てられてそのままにもしておけず、仕方なしに黒のロングジャケットの後を追う。
「海の方へおいでになるようです。わたくし達はあちらから、さぁ」
支払いを終えて涼しげな顔でオレを待っていた陣内さんは、ケリーと智が行った方向から少しずれた場所を指差した。どうやら“見守る”作戦は見つからないように続行するらしい。完全に振り回されているオレは、スプレーでセットしておいた髪を思いっきりぐしゃぐしゃに崩し盛大にため息をついた。
*
子供の顔をしていても、智は“大人”なのだから、ああいう可愛いお店には入れないだろうと思った私がバカだった。“大人”だからこそ、智は計算していたのだ、“子供”なら入れる、と。
ランジェリーショップも、ぬいぐるみやも、ファンシーグッズの店も、智は嬉々として入って行き、違和感なくその場に溶け込んだ。そしてここぞとばかりに様々なものを買おうとするので、それを止めるのに私は必死になってしまった。
無駄遣いはしたくないと思っている私にとって、レースの装飾過剰な下着も、でっかいクマのぬいぐるみも、カラフルな髪留めも、全て無用の長物だ。あってもいいけどなくても困らない、むしろ必要がない、だから要らない。そう繰り返しているのに、聞く耳を持たずに財布を取り出す智に、とうとうキレた私は智を置き去りにして店を飛び出したのだ。
ところが意外と足の早かった智にすぐに追いつかれてしまい、逃亡は失敗。結局ベンチに座らされ、ソフトクリームをおごられてしまう情けない構図。しかもただおごられているだけでなく、一つのソフトクリームを一緒に食べるというまさかの恥ずかしい展開。なんとかかんとか食べ切って、ため息をつく私とは対照的に智は満面の笑みを浮かべている。
「……何がそんなに楽しいの?」
げっそりと私が尋ねると、智はその瞳を輝かせる。
「ケリーと一緒にいられるだけで楽しいんです」
ぴょこんと生えた耳と、ふさふさ揺れる尻尾が見えるのは幻覚だろうか。やはり一度生死の狭間を彷徨うと……
「ケリーが僕の傍にいてくれることが、何よりの幸せなんですよ」
「……っ!」
満面の笑顔でまた爆弾を落とされて、私は続く言葉を失った。にこにこと私の様子を見守っている智からぷいっと顔を背ける。どうしてそう、恥ずかしい言葉を臆面もなく言えるのだろうか。
「恥ずかしい言葉じゃないでしょう? 僕の正直な気持ちなんですから」
心の内を見透かすように智は言う。もう本当に太刀打ちできない、この男には。
「……ねぇ、ケリーは……」
「ん? 何?」
先ほどまでの自信はどこへ行ったのかと思うほどに小さく、震えたその声と言葉に智を振り返ると、彼は私の服の裾をぎゅっと握って真剣な顔で私を見上げてきた。赤くなっている頬、少し潤んだ瞳。真剣そのものだけど不安を隠せていないのがありありと分かる表情。
口を開けたり閉めたりしながらもなかなか言葉を発しない智の、茶色がかったまっすぐな髪にそっと触れた。
硬いのかと思っていたのに意外なほど柔らかい感触に驚いて手が離せなくなる。智は赤かった顔を更に赤くして、じっと私を見上げている。いつも余裕綽々の智が珍しく口ごもっているのを見て、おかしくなってしまって笑う。黙って撫でられ続けていた智はぼぞぼそ、と口を動かした。でも。
「………せ?」
小さな口から零れ落ちた小さな小さな呟きを聞き逃し、私は首を傾げた。
「え、何?」
「……ケリーは、どう? ……僕と一緒にいて……幸せ?」
ぎゅっと搾り出すように呟かれた言葉。想定していなかった問いに、私はまばたきを一つして固まってしまった。
返事を求めてじっと見上げて来るその熱い視線に、ひしひしと伝わって来る願う様な思いに、私は何も言えずにただ見つめ返した。
――幸せか、なんて、言えるわけないじゃない。
心の中でそう呟いたら、何だか恥ずかしくなって思わず私は智から視線を逸らした。
私が何も言わず顔を背けたことで、彼はしゅんと項垂れて一気に元気をなくしてしまった。怒られて耳の垂れた犬を連想させるその姿さえ可愛いと思ってしまう私は、既に重症だと思うのだけれど。
――本当は、言うべき言葉を持っている。私の、気持ち。
「……ね、浜辺まで行かない?」
沈黙を破って私が小さくそう言うと、彼は俯いたままでこくんと頷いた。その様子を見て、私はまたこっそり笑ってしまった。黙って立ち上がった智の手を引いて、私は砂浜へ降りる階段へ向かった。
*
ケリーが何を考えているのか分からない。
男三十、それなりに過ごしてきていろいろ経験もある。会社を経営しているくらいだ、一人前と言ったっていいだろう。けれども今、僕の手を引いて砂浜をはだしで楽しそうに歩く女の子が、何を考えているのかが全く分からない。
ショップの立ち並ぶ広場から続く長い階段を下りれば、そこは波が打ち寄せる小さな浜辺になっている。夏だったら海水浴客でにぎわう場所なのだが、今は人気もなく静かだ。広場の喧騒からも離れ、ただ波の音が響く浜辺は、まるで別の世界に来たような不思議な感覚をもたらす。……まるで、この世界に君と僕、ふたりぼっちのような。
「……智って、かなりのロマンチストだよね」
不意に笑いを堪えた声が聞こえ、僕は首を傾げ目線を上げた。広場の建物に消える寸前の太陽の光が、苦笑するケリーの横顔を照らしている。
「声に出してたよ、今。……確かに浜辺には二人っきりだけど、世界は言い過ぎよ」
そう言ってケリーはそっと僕の手を離し、反対の手に持っていた靴を放り投げて波打ち際に駆け出した。波と戯れてきゃらきゃら笑うケリーの声が、波に吸い寄せられる砂と一緒には消えずにあたりに小さく響く。大きな波の音にかき消されない楽しそうな笑い声が、今の僕には少し痛い。
先ほどまで手の先で感じていた温もりを無意識に探してしまい、呆然と手のひらを見つめる。繋いでくれる手も、かけてくれる言葉も、向けられる笑顔も、嬉しくなるほどに温かいもので。
――幸せか? と尋ねたのは、時期尚早だったのかもしれない。
一緒にいるだけで嬉しくて調子に乗りすぎた。ケリーが毎日文句を言いつつも傍にいてくれるのをいいことに、僕は夢を見ていたのだ。彼女が、僕を受け入れてくれたと、そう思いたくて。
うやむやのうちの“結婚”という形でもって、彼女の傍にいる権利を手に入れた。ビザの関係で、なんて彼女には言い訳をしてみたけれど、実際のところビザと結婚の申請が同時にできるはずもなく、ビザの話は嘘だった。彼女のビザは普通に延長申請を出して通っている。だからあの書類は本当に浅川智志とケリー・スミスとの婚姻届だったのだ。
彼女に言えない疾しいことがたくさんある。そしてアメリカに戻ろうとする彼女に追いすがるように、僕もアメリカに留学する。彼女から選択肢を奪って、僕の傍にいるしかないように仕向けて、それでいつか振り向いてくれるだろうなんて。どう考えたってフェアじゃないのに気づかない振りをしていた。……目を、瞑っていた。
東に向かうこの海岸は、高い建物に太陽が遮られることもあって夕暮れのオレンジとは無縁だ。水平線は深い群青に染まって、空も夜の色へとカーテンを掛け変えだした。
暗くなってきているのもお構いなしに波と戯れ続ける彼女をぼんやりと眺めながら、僕は乾いた砂浜に腰を下ろした。
「さーとーるー! ねぇ、見て! カニ捕まえた!」
大声で僕を呼び、手の中の戦利品を嬉しそうに掲げる彼女。消えそうな光の中で揺れる金の髪は、それ自体が光を放つかのように美しい。
――ねぇ、こんな僕を君に好きになってもらおうなんて、そもそも無理な話だったのかな。
僕は僕の名を呼ぶ彼女の声に返事もできないまま、その場に座り込んでいた。
*
夕闇に染まっていく海岸で波と戯れるケリーの姿。
それは幼いころから一緒に遊んでいた、誰よりもよく知っている女の子の姿だというのに、あの頃の“彼女”は、もうこの世界にはいない。
「普通は逆じゃないか? 見た目的には智が遊んでてケリーが見てたほうが自然だよな」
目の前の光景を見た感想をそのまま口に出して、すぐにまた余計なことを言ったなと思った。陣内さんは隣で穏やかな微笑みを崩さずにオレの疑問に答える。
「まぁ、見た目年齢ではそうですが、実年齢としては智志様のほうが若干上ですから。それに女性よりも男性の方が、悩みだすと深く考え込んでしまう傾向にありますからね」
広場とは別の海岸を見下ろせる小さなスペースに身を隠し、見下ろすオレ達の視線の先で、智は座り込んで小さな体を丸め、ぼんやりとケリーを見つめている。思いつめている様子が背中からでも見て取れるほどだ。
「……智は、何に悩んでいるんだ?」
思わずまた口に出してしまった言葉を、再び陣内さんが受け止めてくれた。
「これはわたくしの推測に過ぎませんが……恐らく、智志様は気づかれたのでしょうな。ケリー様のお気持ちを未だ尋ねていないことに」
「は? だってさっき夫婦だって」
「確かにご夫婦なのですが、事情が特殊ですから。言うなればどさくさまぎれに結婚を成立させてしまわれたわけで、しかも今はあのお姿ですから、書類上の、としか言えませんし。ご存じないのでしょうね、ケリー様が智志様をどう思っていらっしゃるか」
オレは呆然と口を開いたまま陣内さんの話を聞いていた。なんだ、書類上での夫婦って。ってかちょっと待て。納得するところだったけどあいつら高校生と小学生だろ?
海風に乱れた白髪を優雅な所作で押さえつけた陣内さんは、オレの心を読んだ様に言う。
「ケリー様はご両親の同意があれば結婚できる十六歳ですね。智の肉体年齢は十一歳ですが、書類上では三十歳なので。……ああ語弊がありますね。智志様は、現在も戸籍の上では三十歳の浅川智志としての身分を持っている、ということでお分かりですか?」
にっこり笑ってこちらを見たはずの陣内さんの目が笑っていなくて怖かった。見えない圧力を感じたオレは慌ててない頭をフル回転させて答えを導き出す。
「えと、つまり、結婚したのは十六歳のケリーと三十歳の智志、ってことか? なんだそりゃ……滅茶苦茶だろ」
「死亡届けを出さなかったものですから。まぁ誤魔化せているならば問題ないのでは? 納税もしておりますし」
その陣内さんの微笑みに何だか黒い影を感じ、オレはぶるっと震えた。海風が冷たいんだ、ということで無理矢理自分を納得させて愛想笑いをする。ああ、こういう時に使えばいいのか、会社で覚えた日本人スキルは。
「智志様にとってケリー様、もとい真央様は実は初恋なのですよ。もちろん以前にもお付き合いしていたご令嬢などはいらっしゃいますが、それは感情の伴わない政略的なもの。智志様は順番を間違えてしまわれましたから、気持ちを確かめるという根本的な部分をすっかり忘れておいでなのでしょうね」
そう言って陣内さんは砂浜に佇むふたりを優しげな瞳で見下ろした。先ほどのブラックな感じは既に影もなく、オレはほっと息をついて同じように下を見た。
ケリーは未だに一人で波と戯れている。ここから見ているだけでも、智の背中が可哀想すぎて不憫だ。思いつめている感じがものすごくする。
「あのご様子では恐らく、ケリー様にご自分のことをどう思っているのかをお尋ねになったのでしょうな。しかしケリー様は明確なお返事を返さなかった」
「…………」
傍で一部始終を見聞きしていたのではないかと思えるほどに具体的な推測に、オレは曖昧な笑みを浮かべて黙っていた。余計なことを言う口は意志の力で閉じておく。
「わたくしが見たところ、ケリー様のお気持ちははっきりしているのではないかと思うのですが、やはりご当人である智志様には分かりづらいのでしょうな」
柔らかな微笑みの下で何を考えているのかオレにはちっとも分からないが、彼の観察力は尋常ではない。ましてや日々あの二人の様子を見ている陣内さんがそういうのならきっとほぼ間違いないのだろう。 オレは砂浜の上で未だ座り込んだままの智に視線を遣り、そして子供のようにはしゃぐかつての幼馴染の姿をした別人を見る。
「……なんだかんだで傍にいるならそれが答えだろうが」
オレの呟きに陣内さんは同意するように笑った。
「それがわからないから難しいのですよ、恋愛は」
陣内さんとオレがこっそりとかつ生暖かく見守る視線の先で、遊びつかれたのかケリーが智の隣に腰を下ろした。智は小さく縮こまったままだ。
「……早く気付いてやれよ、智。オレが言えた義理でもなんでもないけど」
カチカチに固まってしまっている小さな背中を見て、どんだけ鈍感なんだよと苦笑する。オレはすっかり、目の前で繰り広げられているもどかしい二人の恋愛を単純に応援している気持ちでいたけれども、不意に笑えなくなった。
それは、その気持ちは、ただオレが。他でもないこのオレが解放されたいというだけの、身勝手な思いなんじゃないか?
オレが不幸にしてしまった二人の女性、ケリーとマオ。
体と意識が入れ替わったことはオレの手に負えない神の領域の問題だと思う。それでもその原因は、ケリーと知己が死んだ原因は自分にあったと、今は認めることができる。
再会したときのケリーの顔。オレに対する憎しみが溢れたあの顔を忘れることはできない。あれはマオの感情、だけど、ケリーは。……いや、きっと、ケリーも。
――なぁ、ケリー。お前もオレのこと恨んでるよな。
目線を上げれば絶え間なく波が打ち寄せる薄暗い海。その海の遥か遥か彼方にある、オレ達のふるさと。
一緒に通ったハイスクールも、家の近くの浜辺も昔遊んだ公園も、映画館もハンバーガーショップも。“彼女”は二度と帰れない、あの場所へ。
海の方角から吹いてきた弱々しい風が頬に当たった。さっきまでは冷たい海風だったのに、何故か暖かい気がして息が詰まる。
――ケリー。……本当に、ごめん。いつか天国で会えたら、きっと直接謝るから。
見下ろせば手の届く距離にいる今の“ケリー”。でも彼女に会わせる顔などない。……謝りたい、謝れない。だから。
「……頼むから、幸せになってくれよ。……幸せに、してやってくれよ」
浜辺に座り込んだままの二つの背中に向かって、心の底からそう思う。せめて、生きている彼女には幸せになってほしい。オレが許されたいだけとか、そんな言い訳は関係なく、ただただ純粋に。
口に出すつもりもなくぽつりとそう零すと陣内さんがオレにハンカチを手渡してくれた。何故、と思って瞬きをして、初めて自分が泣いていたと気が付いた。慌てて借りたそのハンカチで目の下を拭うと、陣内さんは相変わらず微笑んで智のほうを見ていた。泣き顔を見ない振りをしてくれるのも紳士だと、少しやっかんだ。
「……智志様にとっては、体が入れ替わってしまったことも決して悪いことばかりではなかった」
独特の渋い声を響かせて急に陣内さんが話し出すのを、オレは鼻を啜って耳を傾けた。
「あのまま元の体であったなら、智志様はお見合いでそのまま結婚されていたでしょう。ところが小学生の体になってしまったため、全ての計画は白紙になりました。そして結果的に今、ご自身が真に思いを寄せる方と結婚することができた。これは嬉しいことでしょう?」
オレは何とも言うことができずに黙っていた。喉の奥で涙にならなかった何かが詰まっていて痛いのに、陣内さんの話はどこか別の方向へ向かっている。
「そして……真央様がもし真央様のままであったら、果たして小学生の体の智志様を受け入れてくださったか、結婚できたかどうか、という問題になりますと、わたくしは少々困ってしまいますね」
「……それは、望み薄、だろうな」
陣内さんの言わんとすることに思い至って、オレは正直に思ったことを口にした。ハワイの海であったときのマオは知巳に夢中で、とても他の男の入る隙などなかったからだ。
陣内さんもオレの言葉に小さく頷いて笑った。
「わたくしとしては智志様が幸せになってくださることが一番ですからね、今の状況は願ったり叶ったりなのです。亡くなられた本物のケリー様と知巳様には申し訳ありませんが。……ですからね」
なんとも明け透けな物言いに、オレは何と返したらいいか分からなかったが、見方によってはそう、智は今幸せだろう。
もし智の体が入れ替わらなかったら。もし真央とケリーが入れ替わらなかったら。そしてオレと知巳が入れ替わらなかったら。
誰かを失って、深い悲しみがあって、どうしようもないやるせなさと隣合わせであっても、そうでなければ存在しない、今。
聞いたこともない、ありえないような奇跡の上での幸せ。
陣内さんは優しい声音で言ってくれた。
「全てがあなたのせいではありませんよ」
その言葉は、オレの心の防波堤を決壊させるのに十分な威力を持って染みた。滲む視界の中で、傷む胸と喉を感じながら、ただ願う。
どうか、どうか幸せになってくれ。ケリーの分も、知巳の分も、幸せに、どうか。
オレはどうしようもない馬鹿で、こうして人の人生を奪って生きて、ようやく誰かの幸せを願える人間になれた。もっと早かったらなんて今更過ぎて笑えない。取り返しのつかないことが、どうにもならないことがこれほど苦しいなんて、あの頃のオレは何一つ知らなかった。
砂浜を見下ろす道路の手すりにもたれて崩れ落ちそうになったオレを、陣内さんの手が支えてくれた。泣き続けるオレの背中をゆっくり擦ってくれる。
「大丈夫です。あの二人ならきっと幸せになりますから。いいですか、結局一番大切なのは」
励ますように降ってくる言葉にオレは必死に嗚咽をこらえて耳を澄ます。
「今、生きている人間の幸せなんです。だから、あなたも幸せにならなければいけないんですよ」
なんでこの人は人を泣かせる言葉ばかりを言うのだろうと思う。言葉と行動に振り回されて、結局オレは何をしに陣内さんに付き合ったのかわからない。もしかしたら最初からこうなると予測していたのかもしれないけど、陣内さんの考えなどオレみたいな凡人には到底想像も及ばないだろう、いや分かりたくもない。
必死に呼吸を整え、体勢も取り戻したオレは、涙で潤んだ目を擦って、当初出歯ガメに来たはずの二人を見下ろす。
いつの間にかケリーが、智の肩にもたれかかるようにしている。いい雰囲気だ。きっと、想いが通じ合ったんだろう。ちぐはぐな二人だけど、二人が幸せなら、それで。体裁や世間体や常識なんてどうでもいい。この、この上ない貴重な、幸せの前には。
「……帰りましょうか」
またも絶妙なタイミングで陣内さんが言った。オレの顔を覗き込むような格好でそう言った陣内さんの顔を見て、オレはふと思った。
「……陣内さん、ひとつ聞いても?」
「なんでしょうか?」
オレの突然の言葉にも少しの動揺も見せず、彼はゆっくりと首を傾げた。その顔、目の色、目元。
「……智の今の体の元の持ち主って」
聞いてはいけなかったかもしれないが、オレはほとんどの確信を持って尋ねる。そしてきっと陣内さんなら答えてくれるだろう。『生きている人間が幸せになることが一番大切だ』、そう教えてくれた彼なら。
そして陣内さんはもうすっかり見慣れた柔らかな微笑でもって答えてくれた。
「……わたくしの、孫息子です」
その微笑が、誰かに似ているとずっと思っていたけれど、それは他でもない智で。
途方もないやるせなさがオレを包む前に、完璧な執事は二人の間の微妙な空気さえもコントロールした。
「……さあ、帰りましょう。帰って御夕食の支度をしなければなりません。今夜はお赤飯を炊かなければ」
軽妙な響きにオレは思わず笑顔になり、それ以上の言葉を飲み込んだ。……聞く必要なんてない、これ以上。
「ああ、オレも仕事に戻らなきゃな」
一歩二歩、その場から歩いたところで最後に振り返って、すっかり暗くなった浜辺に未だ佇む二つの影を見る。ぴったりと寄り添う背中が語るのは、万人が認める愛、そのものだと思う。
「……じゃーな」
オレは小声で呟いて、既に歩き去っている陣内さんの後を追った。
*
ひとりで波と遊びながら、私はちらちらと智を見た。いつまであの格好でいるつもりなのか、砂浜の上で所謂体育座りをして縮こまっている。へこんでるなぁ、と人事のように思って、私って意外と意地悪な面もあったのねと再発見する。だってあのしょぼくれた様子がなんだか可愛いんだもの。
あまりに智が何も言わず、動かないものだから、私も一人遊びに飽きてしまって、放り出していた靴を拾って智の隣へ腰を下ろした。夕日が落ちるのとは反対の方角にあるこの海岸は、薄暗くなってもうすっかり夜の雰囲気だ。海はただ月明かりに波がきらきらと反射するだけ。
冬だったらこんな場所にいられなかったかもしれないが、秋の盛りの今はぎりぎりまだ大丈夫だ。隣で呼吸する暖かい存在に身を寄せるように黙って距離を縮める。
私がごそごそと身じろぎしていると、不意に智が口を開いた。
「……ねぇ、正直に言ってくれますか? ケリーにとって、僕は、何?」
小さくなっているから、私からは頭頂部のつむじしか見えない。でも分かる、彼がどんな表情をしているのか。長時間悩んでいたからきっと、絶望に沈んだ思いつめた顔をしているだろう。だからそろそろ意地悪をやめてあげようと思う。何事も引き際が肝心だ、面白がって伸ばしすぎると取り返しのつかなくなることもある。
「智、ねぇ、こっち向いて?」
智の小さな背中にそっと手をやって、覗き込むようにして囁いた。妙に優しげな響きになって照れくさい。智は俯いていた顔をゆっくりとあげ、不安げな表情で私と視線を合わせようとはしない。
その表情に、男の人って勝手に追い詰められて勝手に情けなくなることあるのよね、と笑いそうになって不意に、“彼”を思い出した。
よくこんな表情で私を見つめてきた彼。妙に自分に自信のない人で、私がいつも背中を押してあげてたっけ。顔が悪いから、とか背も高くないしスタイルも良くないし頭だって……とよく落ち込んでは身動き取れなくなるような、情けない人だったけど。
――私が好きになる人ってやっぱり似たような人なんだな。
「……私にとって智はね、可愛くて、ちょろちょろしてて、スーツが似合って時々男らしくて」
私は指を折りながら思ったことを並べ始めた。智はきょとんとして私の言葉を聞いている。
「ちっちゃくてでも頼りがいがあって、仕事してるときはカッコいい。それからいつも私のことを気にしてくれて、気遣いがあって、優しい。でもよく一人で考え込んじゃってどこまでも沈んでいくのよね、その辺はどうにかして欲しいけど、あとは……」
私にとって、知巳は人生で最初で最後の愛だと思っていた。だから彼を失ったとき、私がケリーになってしまった以上の衝撃を受けて自暴自棄になってしまった。それほど、好きだった、愛した人だった。
けれども今、私の視線は目の前にいる可愛らしい男の子に向いている。私が思いつくままに挙げていく言葉を、大きな目を瞬かせて聞いている智。
始まりはハチャメチャで、どうしたらいいかと思っていたけど、隣にいるこの不思議な存在にすっかり慣れてしまった。子供の姿で、ちゃんと大人な人。一緒に過ごした時間は短いけれど、多分この先、ずっと一緒にいるだろうと自然と思えるのは、多分、書類の上で結婚しているからという理由だけじゃなくて。
体は小さくても大きな何かで私を包み込んで放さない、そんな人が。私と知己が過ごした時間を、知己という存在を、いつの間にか過去のものにしてしまった。
――だから、知巳。
ありがとう。……さよなら。
「……時々、いやしょっちゅうかな、情けないところもあってヘタレだけど、でもそんなところも可愛くて……好き」
顔から火花が出るんじゃないかと思うくらいに照れた。たったひと言、今の想いを言うだけなのに。智の方は見たいけれども見れない。告白って、いつだって勇気のいる大仕事だ。
「何か食べてるときに頬っぺたがもごもご膨らんでるところも可愛くて好き。小さな手で髪を撫でてくれるのも、手を繋いでくれるのも、好き」
小学生を前にして、こんな風に思うのはちょっとおかしいのかもしれないけど、中身が完全に子供じゃないんだものショタコンには当たらないわよね、と心の中で確認する。
「仕事中の真剣な顔も好き。論理的な物言いでおじさんをちょろまかしてるところを見るのも好き。大人なスマートさを普通に発揮してくれるところも、自然にフォローしてくれるところも、す……」
き、と言おうとして、智が真っ赤になって固まっているのを見て慌ててその顔に手をやった。呼吸も止まってしまったような固まりぶりで、私は鼻と口に右手をやり、左手で手首の脈を確かめてしまった。呼吸はしている。脈は過剰なほど早かったけど。
「……け、り」
「え、何?」
ようやく智の唇が動いて声を発したので、私は慌てて聞き返した。ぎぎぎ、と音を立てるようにゆっくりと、智が首をめぐらせてこちらを見た。視線が、完全に合う。
「ケリー、は、僕のこと、好き、だった、のですか?」
出来の悪いロボットのように途切れ途切れにそういった智に、思わず噴き出してしまった。全く気付いていなかったなんて、なんて鈍感なんだろう、この人は。あんなに仕事も早くて、大局を見渡してて、人の扱いだってうまい社長さんなのに、恋愛音痴だなんて。
笑い出した私を見て、からかわれたと勘違いしたのか、智はぷくっと頬を膨らませた。見上げて来る睨むような視線も、その外見じゃ逆効果だって気付いていないんだろうな。
「ふふ、ごめ、智。あのね、あんまり可愛くってつい笑っちゃっただけだから、勘違いしないで!」
それでも止まらない笑いを必死で抑えるように私は手で胸をドンドンと叩いた。ゼーハーと大きく息をして呼吸を整える。考えてみれば、こんなにたくさん笑うのは久しぶりかもしれない。
「……ね、智。好きじゃなかったら、一緒にいないでしょ? 一緒に住まないし、ご飯も食べないし、買い物だって行かないよ」
私は真面目な顔で至極当たり前のことを言う。智は私が、仕方なく智と一緒にいるんだと思っていたのかもしれない。どこにもいけないように選択肢を奪われた私が、好きでもない智の元で、仕方なく生活しているのだと。
でもそれは違う。好意がなければそんなこと私は出来ない。私は、今まで認めようとしなかっただけで、小さな好意の種が育っていくのを知っていた。どんどん好きになっていていくのを、認めようとしなかっただけで。
多分本当は、あの結婚の話が出たときにはもう、智に傾いていたんだ。
智は目を見開いて私を見ていた。それほど意外だったなんて、好意もなしに智にお世話になってお金だけ消費させる私って、どれだけ面の皮が厚い女を想像していたのだろうか。なんだか複雑な気持ちになって、私は半眼で智を見た。私はそんなあつかましいだけの女じゃない、という意思を込めて。
その視線の意味をきちんと読み取ったのだろう、勘は鈍くない智は慌てて両手を振って言った。
「いやっ、別に、疑ってるわけでもなくって、あ、あの、僕、全然気付かなかったのでっ、び、びっくりして」
そりゃそうだろう、素直で可愛いのが取り柄の智だ。おじさんたちとの腹の探りあいには慣れていても、恋愛には疎いのだろう。私が傍にいる理由を思いつかなかったに違いない。
「ふふ、智らしい」
そういってくすりと笑いを零すと、智もほっと息を吐いて同じように笑った。
しばらく笑いあった後、私はなんとなく智の肩に頭を寄り掛からせた。肩幅もまだ狭い、小さな肩。重みを掛け過ぎない様に調整しなければならないし、智は私よりも座高が低いから首が痛くなりそうだったけど、そうしたかったから。
智は一瞬びくっと体を震わせたけれども、黙って私の頭を支えてくれた。
*
ケリーが、僕の肩に頭を乗せている。
これ以上ないくらいにぴったりとくっついた体から、温かい体温が伝わって来る。緩やかな呼吸の音が、波の音よりも近く僕の耳に届く。
今、この瞬間。
幸せってこういうことかと、初めて思う。
君にとって僕は何なのか、などと聞いてしまって、僕はすぐに後悔した。
君の意志を確かめる前に勝手に結婚を成立させてしまった男だ、どこにも行けないように縛り付けて、付き纏っている迷惑な男。なんて言われたら立ち直れる自信なんてない。絶望的な最後が頭をよぎって僕は体を縮ませた。顔なんて見られない。君の顔に僕に対する侮蔑が表れていたら、僕はどうにかなってしまいそうだったから。
それでも君が優しく言うものだからなんとか顔を上げ、そしてまた後悔した。君の脳裏に“彼”がいることが分かったから。僕の顔を見ながら彼を思い出していることが、君の表情からわかってしまったから。
やっぱり彼のことが忘れられないのか、と冷や水を浴びせられたような衝撃が走る。別の男のことなど考えないでくれ、と叫びたかった。君にとってただひとりの男になりたいと、泣きそうになりながら強く願った。
そして。君は思ってもみないことを言い出した。
僕を好きだと言ってくれた。
僕を。他の誰でもない、この、僕を。
知らなかった、君から見たら僕はそんな風に見えていたなんて。……可愛くって時々カッコよくてしょっちゅう情けない、でもそこが可愛い。
可愛いなんて言われて喜んではいけないのだろうけど、本来なら素直に喜べないだろうけれど、今の僕は甘んじて受け入れよう。仕方がない、こんな小さな体では何をしても可愛くなってしまうのだろう。それより君に可愛いといってもらえる方が嬉しいから、別にいい。どんな言葉だって何だってかまわない、君の興味を引けるなら。君が僕を好きだと言ってくれるなら。
肩にかかる重さを感じながら、僕はこの上ない喜びを感じて体を震わせた。この重さは幸せの重さだと思う。君が、僕に寄り掛かってくれる幸せ。
「……頑張って早く大きくなります」
長い沈黙を破って僕がそういうと、君は海のほうを向いたままでくすくす笑った。
「なぁに、急に」
「だって今ケリーは僕に体重掛け過ぎない様に気を遣ってくれているでしょう? 僕の肩がもっと広くなれば、もっと大きくなれば遠慮しなくて済みますから。それに僕の背が足りないせいで、ケリーの体勢が苦しいんじゃないですか?」
ケリーの体が緊張していることくらい、僕にも分かった。体の小さな僕に負担をかけすぎないように、自分の体を強張らせていると。だから僕は早く大きくならなければ。ケリーに見合った、いい男にならなければならないんだ。体も、心も。
「ふふ、だけど急いだってすぐには大きくならないわよ。一つずつ年をとって、少しずつ大きくなっていくんだもの」
ケリーが笑うとその揺れが僕の肩に伝わって来る。僕はケリーの金の髪にそっと頬をすり寄せた。
「それは分かっていますが。でも頑張ってみます」
柔らかな感触と優しい匂いがした。ようやく、君に近づけた気がする。僕は幸せの余韻にくらくらしながら、瞼を閉じた。……が。
「あ!」
ケリーが思い出したように声を上げ、そのまま頭も上げてしまって、僕は一瞬にして暖かい夢から現実に戻ったような気持ちがした。
何があったのかとケリーを見たら、彼女は打ちひしがれるようにして呟いた。
「……結局何も買えなかった……」
「え、何? 何か買いたかったのですか?」
そういえば今日広場の店を回っている間中、彼女は一人でどこかへ行きたがっていた。それを誰かに会いに行くのかと、勝手に危機感を感じてことごとく阻止した僕。僕を撒こうとしてまで一体何を買おうとしていたのか。
僕が彼女にそう尋ねると、彼女は胡乱気な顔で僕を見て言った。
「明日、何の日か覚えてる?」
不機嫌そうな低い声でそう言われて、僕は頭の中のスケジュール帳をめくる。明日、明日……。はて、明日は日曜日だ、会社も休みだし仕事も休み。アメリカへ発つのは一週間後だし、強いて言うならケリーと何をして過ごそうかと遊びの計画を練っていただけだったな……。うーん、ケリー(真央)の誕生日は春だし、祝日でも記念日でもない。
僕がなかなか思い出さないのを見てケリーはわざとらしく大きなため息をついた。
「自分の誕生日ってそんな簡単に忘れるもの?」
呆れたようにそう言われて、僕はすっかり忘れていた自分の誕生日を思い出した。
「ああ、そういえば、そうだった」
なにしろ本来なら三十一歳の誕生日だ。男が三十過ぎて自分の誕生日をお祝いしようと覚えているはずもない。日々の忙しさに忙殺されて気付いたら過ぎてた、というのがほとんどじゃないだろうか。僕の場合は毎年陣内や屋敷のスタッフがケーキやプレゼントを用意してくれているが、それも当日渡されてから思い出していたのだ、自分から覚えてはいなかった。
そしてはた、と思い至って今だ呆れた顔でこちらを見るケリーを見つめ返した。僕の誕生日を知っているということ、そして何かを買いたかったというのは……。
「……サプライズにしようと思ってプレゼント探しに来たのに。何も買えなかったじゃない!」
僕の期待に満ちた視線を読み取り、ケリーはため息をついてそう零した。不満そうではあるが、なんだか照れくさそうにも見える。
散々僕を撒こうとしていたのは、僕へのプレゼントを買うためだった……のか。
「……ニヤニヤしすぎ」
ケリーは半眼でこちらを見て、針を刺すようにチクリと言う。そんな辛辣な言葉も全く気にならない。彼女の照れ隠しなのだ。僕は遠慮なくニヤニヤし続ける。誰がなんと言おうと、僕は嬉しくて仕方がないのだから。
僕がひとりでにやけていると、彼女は立ち上がって背伸びをした。いつの間にかすっかり夜になってしまった。もう帰らないと陣内や料理長が夕食を用意して待っているだろう。
僕も立ち上がってお尻に付いた砂を払う。彼女は黒い海を照らす月を眺めていたが、不意にこちらを振り返って言った。
「私たちってさ、一年に二回、誕生日が来るんだよね。真央のと、ケリーの。あなたは」
「……智志と、智の、か。そうだね」
彼女が何を言おうとしているのかわかって、言葉を繋げた。一年に二回の誕生日。自分のは忘れても、もう一日、忘れずに祝ってあげたい日がある。
「それって……結構素敵なことじゃない? 楽しい誕生日パーティーが二回できるの」
「はは、前向きですね。そうですね、そう考えるのもいいかもしれない」
「明日は智志さん、の誕生日でしょう。智くんのは一月だって陣内さんが言ってた。ひとつ、大きくなるね」
まるで子供にするように頭を撫でられ、僕はちょっとムッとした。確かに今は子供の姿だけれど、彼女が保護者のように振る舞うのは正直受け入れがたい。いつかこの無防備な距離感を打破したいな……、そう思って、いつかなんて今だっていい筈だと思い立つ。だって僕はもう、彼女の気持ちを知っている。
「……ケリー、ちょっと」
言いつつ手招きをする。彼女は首を傾げつつも何も言わず僕に顔を近づけてくる。――ああ、この無防備さ。少しは思い知ればいいのに。僕の君に対する想いの深さを。僕が本当は、大人の男だってことを。
届く距離になった彼女の首に腕を伸ばし、そのまま距離を縮めた。直前に見えた驚くような顔、そして……。
唇が重なる瞬間に目を閉じてくれたのは、僕に任せてくれたということだと都合よく解釈する。ふわりと香った彼女の髪の香りがきゅっと胸を締め付けた。
今、この瞬間。僕は世界一幸せだと胸を張って言える。
ケリーの腕が僕の背中に周り、そのまま彼女は砂に膝を着いた。薄目を開いてみた彼女の顔が、自分よりも下にあることがなんだか嬉しい。体勢が苦しくなくなったので、遠慮なくキスに没頭する。重ねた彼女の唇は想像していたより柔らかく、甘い。
「ん……あ、の……智っ!」
どのくらいそうしていたのか時間の感覚も分からなくなった頃、ケリーが身じろぎをして顔を放した。至近距離で見つめた彼女の瞳は潤み、薄闇の中でよくは見えなかったが多分赤くなっていると思われた。
「んもう、前置きくらいはして……!」
言いたいことはそれなの? と、思わぬ彼女の言葉に笑いが込み上げる。それって全然嫌がってはいないよね、とまた都合良く解釈させていただくことにする。多分、僕の考えは間違っていない。
「ねぇ、智? あの、明日、……晴れたら」
こほん、と咳払いをした彼女がもじもじと切り出した。その仕草がこの上なく可愛い。僕はまだ膝をついたままの彼女と視線を合わせた。
「明日、晴れたらさ、また買い物に来ようよ。もうサプライズじゃなくなっちゃたから、智の気に入ったもの、選んでよ」
そう言ってはにかむように笑った彼女の笑顔は何にも代え難い宝物だと思う。
正直、僕が欲しいものはお金で買えないもので、それも幸運なことに既に手に入ってしまったから、欲しいものなどないのだけれど。君と一緒にいられるなら、どこだって行きたい。明日が雨でも、嵐でも。
「ええ、そうしましょう」
僕は笑って、自然に彼女の手を取った。彼女も僕の手を握り返した。ちょっと冷えてしまったその柔らかい手で。
――ねぇ、僕の手はまだ小さいけれど、君を守れるようにすぐに大きくなるよ。だからずっと、傍にいてくれ。それが僕が君から貰いたい、一番のプレゼントなんだ。
「……帰りましょう」
明日、晴れたらまた海に来よう。今度は昼間の暖かい海辺を二人で散歩しよう。またソフトクリームを買って二人で食べよう。
取り留めのない会話、明日の計画。
僕たちは一緒に帰る。手を繋いで、一緒に。