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2 水色の傘




 不思議な夢をみていた。

 青空の中、白い雲をかき分けながら泳ぐように進む感覚。頬を撫でるのは優しい風。僕は空を飛んでいた。

 なんて不思議な夢だろう。ふと隣を見ると、自分を兄と慕ってくれる少年が並んで空を飛んでいた。

「ここはどこだろう。不思議な場所だな」

 僕が話しかけても少年は何も言わず、青い空を背景にただ静かに前を見つめていた。

 しばらくすると目の前に大きな白い門が見えた。なんだか天国の門みたいだな、なんて思って足をつけようとした、その瞬間。何も言わないまま隣を飛んでいた少年がくるりと体の向きを変え、泣きそうな顔で僕を突き飛ばした。子供の腕力で出せるとは思えないほどの力に、僕は背中から飛ばされる。映画のワンシーンのように、妙にスローに流れる視界。

 少年が叫んだ。

『ごめん! 智志(さとし)兄ちゃん! 生きて!』

 ……生きて? まだ死んでないのに?

 首を傾げたところで唐突に夢は終わった。引き上げられるような感覚と、誰かの必死な声に呼ばれているような気がしてふっと目を開けた。


   *


(さとる)! 目が覚めたのか!」

 ぼんやりとした視界に、見慣れた老執事の顔が映った。ゆっくりと瞬きをする。頭が重い。思考がはっきりしない。

「ああ……! 智、良かった……智志様……ああ……」

 うわ言のようにふたつの名を呼ぶ執事――陣内(じんない)の声を不審に思って体を起こそうとする。 ぐっと肘に力を入れて上体を起こすのだが、うまく起き上がれない。ズキン、と刺すような頭痛がして再び枕に沈む。

「智、無理をするんじゃない。お医者様はしばらく安静にしているようにおっしゃっていたから」

「智?」

 なぜ僕を智と呼ぶ? それはお前の孫の名だろう、陣内。

 素直な疑問を脳裏に描き、自分の口から出た声に驚く。……高い。まるで子供の声だ。

「あー……」

 もう一度声を出してみてもやはり、自分の声じゃない。なんだ、何かがおかしい。

ぼんやりとした思考のまま、ごそごそと手をシーツから抜き出す。目の前で見つめたその手の小ささと言ったら。

「子供の、手?」

「……智?」

 手を見つめたまま固まっている僕を陣内が覗き込んできた。真っ赤に泣きはらした目と腫れた瞼。

「なぜ……泣いている、陣内」

「……さ、とる?」

 声には違和感があったが、普通に出せた。怪訝そうにこちらを覗き込んでくる陣内と同じくらい僕も困惑していた。

「陣内、僕はもしかして縮んだのか? いつの間に人体の大きさを変えられるような薬が開発された」

 ツキン、と小さく痛んだ頭痛が、直前の夢を思い出させる。

『智志兄ちゃん、生きて』

 夢の中の智のその言葉の意味が、じわじわと僕に状況を理解させる。

 なぜベッドに寝ている? その前の行動は? 僕の手は、声は。

「まさか……その言葉遣いは」

 陣内が目を丸くして息を呑んだ。


「孫がわたくしの仕事場を見学したいと言いまして」と、はにかみながら許可を求めてきた陣内。

 祖父によく似た顔立ちの元気な少年は、秘密基地でも探検するように屋敷中をくまなく走り回り。息も整わぬまま三階のテラスから勢いよく身を乗り出して、庭にいた僕に手を振ってきた。

「智志兄ちゃん! お屋敷すっごいね!」

 僕は苦笑して手を降り返したが、興奮し過ぎに見えたので少し落ち着くように声を掛けようと思った。 その時、その小さな体はがくりとバランスを崩し、あっけなく――本当にあっけなくも――地面に向かって落ちた。

 動きはスローに見えた。驚愕、焦り。持っていた本を投げ捨て、落下地点に走り込んだのは覚えている。直後の衝撃。激しすぎる痛み。悲鳴――。


「……まさか、智志様ですか」

 一つ瞬きをして焦点を戻すと、なんとも形容しがたい顔の陣内と目が合った。陣内もまた、僕と同じ結論に至ったのかもしれない。

 ありえない、絶対にありえない結論。でもそれ以外に、自分に起こっている事象の説明がつかない。

「……この体はもしかして、智のものか?」

「……っ、はい……!」

 ――体と、精神が入れ替わっている――

 陣内は思わず、といった様子で口元を覆った。泣きたいのか、叫びたいのか、嘆きたいのか。目線はうろうろとベッドを彷徨い、そしてはっと気づいたように立ち上がった。

「智志様の体を見て参ります」

 一礼をして去っていく背中を見送りながら、僕はその行動が無意味に終わるだろうことを悟っていた。

僕と智の中身が入れ替わったのならば、当然、僕の体の中に智の精神が入っていると考えられる。が、目覚める直前のあの夢が、あまりに鮮明なあの夢が、もしも本当のことなのだとしたら。一緒に空へ上った僕たちはつまり一緒に死んで。

『生きて』と僕を突き飛ばした智はあの後どうなったのだろうか。飛ばされた僕が、体は別人のものであってもこうして目を覚ましたことを考えると、結論は……。

 ――なぜ、僕を突き飛ばしたんだ、智。

 胸の中のもやもやをどうにか吐き出したくて大きくため息をついた。でも何も変わらない。わけのわからない――空しさとか悔しさとか絶望とかそういうごちゃまぜの感情は依然として僕の心に居座っていた。

しばらくぼんやりしていたが陣内は帰って来ず、僕はゆっくりと体を起こしシーツをめくった。パジャマの裾から出た、小さな足。ベッドに腰掛け、床に届かない足をそっとぶらつかせてみる。寝かされていたのはゲストルームだった。そういえば眼鏡もかけずにこんなにクリアな視界で、何もかもがよく見えることだっておかしいのに。

「……はは、まさかこんなことが」

 自嘲の笑いを零しながら、バスルームに向かって歩く。足運びの感覚が違っていて、転びはしなかったけれども歩幅の調整がとりにくい。

 ようやく鏡の前にたどり着き、そこに今の自分の姿が映し出された。だが、もはや驚きもしなかった。

生まれたときから知っている、陣内の孫の顔。いつの間にか成長してこんなに大きくなったんだな、なんて数時間前には思っていたのだけれど。鏡の前に映る姿はあまりに小さく、細く。思わず腕を擦って筋肉の柔らかさに苦い笑いが込み上げた。

 少し茶色がかった柔らかい髪の毛。利発そうな顔立ち。今年十歳になった智。今はその頭に白い包帯を何重にも巻きつけて。

 ――なぜ自分が死ぬ方を選んだ。

 僕を突き飛ばした、あの時点で智は、自分が死んだことを分かっていたに違いない。なぜ僕の方が気づけなかった。こうして生き返ることができるのなら、生き返るべきだったのは智だったろう。

「くっ……」

 ――こんなに小さな、弱い体で。守られるのは当然だったんだよ、智。僕がお前を守るために死んだとしても、そんなことは気にするべきじゃなかった。僕がお前を守るために走ったのを見ていただろう?

 胸の詰まりが急にこみあげてきて、耐え切れずに蹲る。パジャマ越しに感じる床の冷たさがどんどん体温を奪っていくとわかっていても、小さく丸まって泣き声を堪えることしかできなかった。こんな風に泣いたことがあっただろうか。

「智志様……」

 いつの間にか戻ってきた陣内が、遠慮がちに声を掛けてきた。これはお前の孫の体だよ、『智』って呼んでやってくれよ。

「智志様のお体は……やはり戻りませんでした」

 聞きなれた陣内の低い声が、今まで聞いたことのないほどの動揺を隠しきれずに震えていた。

「後頭部を強打されていまして……頭蓋骨陥没、大量出血と脳挫傷……ほぼ即死でした」

 即死とわかっていて様子を見に行ったのか。その、小さな希望を。

「……もうしわけ、ありませんでした、智志様。わたくしの孫の、せいで……!」

 嗚咽を堪えながらそう言い、深く腰を折って謝罪する陣内を見て、僕の涙は止まった。違うんだ、陣内。謝るべきは。

「……陣内、違うんだよ。違うんだ。本当は智が生き返るべきだった。智の体で。そうだろう? 僕の体が即死で、智の体が助かったのなら、なぜ智の意識がここにない?」

 本当は、ここに、この体にあるべきだったのは、智の魂だ。

「僕が智を死なせた。……守りきれなかった。すまない。僕のせいだ」

 はた、と大粒の涙が目から零れて床に落ちた。

 ――なぜ僕を突き飛ばしたんだよ、智。 なぜ自分が生きる方を選ばなかった。僕はお前を守るために、助けに走ったのに。

 黙って僕の話を聞いていた陣内がそこで動いた。膝を着き、差し出された両手。不思議に思って顔を上げると、涙を拭うこともしなかった陣内がくしゃくしゃの顔のまま、言った。

「抱きしめても、よろしいでしょうか智志様」

 許可を求める言い方をしておきながら、僕の許可を待たないまま、陣内は両手を伸ばして僕を抱きしめた。

 子供のころは、よく陣内にも抱っこしてもらった。そんな記憶がふっと蘇ってまた泣けた。僕の脳ではないはずなのに、僕の記憶が。

「……智志様……、智……!」

 ぎゅっと抱きしめてくるその力が、その体温が。すっぽりと陣内の腕の中に納まってしまう小さな体にじんわりと沁みてくる。二つの名を呼びながら泣き続ける陣内の声を聴きながら、僕もしばらくの間泣いていた。


  *


 智の体で目覚めたのが僕であったことは、陣内こそすんなり受け入れたが、他の人間には受け入れがたい話であったようだ。実際僕の目の前に同じような境遇の誰かが現れたら僕だって疑い倒すだろうから、まぁ当たり前の反応ではあったのだが。

 息子が死んだ、と聞かされて仕事を放りだし飛んできた父親は、冷たくなった僕の体にしがみ付いてわんわん泣いたらしい。普段はクールぶって感情の動きを見せない父親が、僕の死に泣くなんてことは想像もしていなかったので、少し意外だった。

 ようやく泣き止んで憔悴しきった父の前に、智の姿を見せるのはどうかと思ったが、陣内は「早めにはっきりとさせるべきです」と譲らなかった。

 陣内の見立てで昔の自分の服に身を包み(まだとってあったのかと驚いた)、非常に複雑な気持ちでリビングへ行った。ソファーにぐったりと背を預けた父は、僕を見て一度目を逸らし、それでも笑って手招きしてくれた。

「智くん……君が無事でよかったよ。智志が守った命だ、な……?」

 頭を撫でられながら掛けられたそのセリフに、ぐっと涙を堪えた。客観的に見れば智は息子の死の原因を作った子供だ。恨みの言葉の一つや二つ、大人げなくも出るかと思っていたから、父の寛大さに目を見張る思いだった。

 黙って撫でられていた僕の後ろから、陣内が申し訳なさそうに声を掛けた。

「旦那様……実は、お話しておかなければならない大切なことがわかりまして」

「うん? なんだ?」

 疲れを隠さない顔で、父は首を傾げた。そして何気なくひょいっと僕の脇を掬い、自分の隣に腰掛けさせる。その一連の動作を見守って、陣内は少し目を泳がせながら話し出す。気持ちはわかる。何をどう話せばいいのか。

「実は……この智は……体は智なんですが、中身、と申しますか、意識は智志様のものでして……」

 言葉を選びながら慎重に言った陣内に対し、父は傾げた首を今度は反対に傾げて眉を寄せた。

「ふむ。……陣内がそんなトンデモ話をするようになったとは。数十年来の付き合いだが、ちょっと会っていないと人も変わるもんだなぁ」

 父は包帯ぐるぐるの僕の頭をそっと撫でながら冗談っぽく流した。当然の反応だ。僕は陣内と顔を見合わせ、どう言ったものかと思案する。

「あ……の、父さん」

 そっと呼びかけてみると、父は顔を曇らせてこちらを見た。まるで僕にそう呼ばれたくないかのような、悲しげな顔。

「すみません。でも本当のことなんです。僕は智志なんです。信じられないのは分かります、でも」

 必死に話せば話すほど空回っていくような焦燥感。僕は父の顔を見上げ、何をどうすれば自分であることを証明できるのかと考える。

「僕は智志なんです。この家で生まれ育って、兄さんが二人いて……何でも話せます。僕に関することなら何でも。どうか確認してもらえませんか? お願いします」

 僕にしかわからない、智には知りえない情報を語ることができれば。それが僕の証明になる。正直智の脳でどこまでできるのか不安がなかったわけではないが、どうもここまで話をしていて思い出す記憶は智のものではなく、自分自身のものだった。だからきっと大丈夫だろうと唾を飲み込み、父を見上げた。

 父は僕の顔をじっと見つめ、そしておもむろに口を開いた。

「……では、智志の母親の名前は? いつ死んだ?」

 母は病気で早くに亡くなっていた。美しくて優しかった記憶しか残っていない。智は知るはずもないことだ、生まれる前の話なのだから。

百合(ゆり)、です。もう二十年になるんですね。僕が十の時でしたから」

 よどみなく答える。父が僕の提案に乗ってくれたことが嬉しかった。

「……ならば兄二人の名は? 今はどこで何をしている?」

「上の兄さんが篤志(あつし)。今はドイツ支社にいます。その前はアメリカの雄二郎(ゆうじろう)おじさんのところにいましたね。下の兄さんは武志(たけし)。武志兄さんは大阪に。確か来週の会議には来ると言っていましたが……」

 父は僕をじっと見つめ、かすかな唸り声をあげた。間違いのない言葉に戸惑っているのだろう、僕が見つめ返すと視線が宙に浮いて陣内に向けられた。

「……真実でございます。旦那様。智のしたことは、本当に申し訳なく……どう、償えばいいか……」

 陣内が上体を折り、謝罪の体勢に入るのを父が手で制した。

「それはもういい。過ぎたことだ。そして誰にも覆すことはできないし、償いができることでもない」

 父はそういってソファーの背にぐっと身を沈め、深く嘆息した。いつだって疲れを見せずにエネルギーにあふれていた父のこんな姿を見るのはいつ振りだろう。……ああ、母さんが死んだとき、だったかもしれない。

「……本当に、智志のようだな。だが、信じがたい。……こんな、人の体が入れ替わってしまうことなど……」

 唸るように吐き出した父の混乱ぶりは手に取るようにわかった。当たり前だ。こんなありえないことをすぐに呑み込めるようなまともな大人はいない。少なくとも企業経営者は現実的だ。

「……もっと別の分野でテストしていただいても構いません。例えば……そうですね。企業経営の関係でもいいし、情報関係でもいいでしょう」

「ううむ、小学生には知りようのない知識か。やってみるのも面白そうだ」

 父は疲れた顔を見せつつも、間を置かずに話に乗ってきた。何でも面白がって挑戦するのが父の仕事のスタイルだ。その好奇心と判断力でグループ会社は世界を股にかけるようになった。僕もその一端を担っていたと自負していたのだが。……それも、もう。

「だが……智志よ、本当にお前が智志だとして。この先どうする?」

 父は戸惑いつつも僕が僕であることを認めかかっているようだった。そしてその問いは、僕自身がまさに問いかけていた問題で。

 この体である以上、僕が浅川智志として世間に出ていくことはまず不可能だ。だが背負ってきた社長業は? 会社以外にもたくさん進めていたプロジェクトや研究は? 死んだことにして一切を放棄するべきか、それとも裏で動くべきか。マスコミに知られたらとんでもない騒ぎになるだろうことは明白で、そのリスクを背負ってまで僕は僕として存在すべきなのか。

 僕は隣に座った父の横顔を見上げた。正直自分でもどうしたらいいか分からなかった。迷いの中で決断はできない。だから判断材料の一つとして、父の意見を聞きたかった。

「ああ……だがそれは智志だと完全に証明できた時に考えよう。とりあえず智志は……智志の体は、死んでしまったんだ。葬式を出してやらないと……!」

 冷静に話をしているのだと思っていた父が、口元を押さえて嗚咽を堪えた。

 ――ごめん、父さん。僕の死体を、見てしまったんだったね。

 あの人形のような青白い肌をした息をしていない僕を。永久に目を開かない、冷たい体を。

 自分が当事者だというのに、妙に他人行儀なのは僕自身、僕が死んだとは思えないからだ。こうして呼吸をして、僕の思考でものを考えているからだ。なんて自分勝手な、と思う半面、それ以外に自分ができることもなく。

「父さん、申し訳ありませんが葬式を出すのはあと一日、待ってくれますか。浅川智志の存在を消してしまうことのメリットとデメリットのシュミレーションがまだ十分じゃないんです。死亡届を出すか出さないか、ということですが」

 父は呆気にとられた表情で僕を見返してきた。おおよそ子供の言うセリフではないし、僕の、つまり智の口から言うべき言葉でもないことはわかっていたけれども、言っておかなければならないと思った。

「まだ僕であることが証明はできていませんが、僕だって一端の社会人のつもりでいたんです。本当に死んでしまったならばハイごめんね、ってところかもしれないけれども、そうもいかない状況かなって。懸案事項が多い時期でもあるし」

 今はちょうど一月だった。新年が明けた忙しさに合わせ、三月の決算に向けて、処理しておかなければならない事項も多かった。

「浅川智志が背負ってきた仕事を放りだしたくはないんです。すみません、混乱させて。でも協力してくれると嬉しい」

 それが今の自分の持っている答えだった。言葉にしたら素直な自分の気持ちが溢れた。

 こんなに早く、急に死んでしまうなんて思ってもみなかったから、だから足掻いているだけなのかもしれないけれど。

 僕は立ち上がった。とはいってもソファーから出した足が床からは遠く離れていたので、両手を使ってお尻を動かして下りるという、なんとも子供らしい動作を披露してしまった。もうちょっとカッコよく立ち去るシーンだったと思うけど、仕方がない。智はまだ十歳の子供だったのだ。

 陣内を伴い、リビングの入り口までトコトコと歩いていき、ついてきていた視線に振り向く。父は縋るような視線を僕の背中に注いでいた。

「……明日、嫌じゃなかったらまた僕と会って。……おやすみなさい」

 これ以上父の顔を見ていられなくてそのまま部屋を後にした。言い逃げ。でも返事を聞く余裕はなかった。


 ゲストルームに戻り、パジャマに着替えなおす。シャワーは明日、医者に診てもらった後の方がいいと陣内が言うので、それに従った。時刻は夜十一時だった。大人としてはまだまだ眠る時間ではなかったが、子供の体は早くも眠りを必要としていた。心労もあったかもしれない。とにかくふらつくほど眠くて、僕はいそいそとベッドにもぐりこむ。

 傍に控えていた陣内が、上掛けを整えながら静かに言った。

「とにかく今晩はぐっすりお休みください。難しい話はまた明日にしましょう」

 いつも通り、まるで何事もなかったかのように振る舞う陣内の、心の内が気になった。

「……陣内、」

「はい?」

 ――僕を恨むか?

 そう聞こうとして、やめた。他でもない陣内に、今、こんな風に尋ねるのは卑怯だ。

「……いや、なんでもない。おやすみ。お前も早く休め」

「……はい。おやすみなさいませ」

 陣内は何も言わずに立ち去った。電気の消えた暗い部屋で、眠りにつく直前の意識を捕まえる。

 明日になったら、体の本来の持ち主が体を取り返しているかもしれないな。そしたら僕の意識はどこへ行くだろう。体は死んでしまっているから、幽霊になるのかな。

 うとうとと瞼は閉じていく。

 ――でもそれじゃ困る、な。会社のこととか仕事のこととか。

 目を閉じた瞬間、鮮やかに蘇った影。

 ……ああ、でも、それよりも困る、たったひとつのこと、が、あった。

 眠気に逆らってそっと目を開ける。暗闇の中に描く、忘れようのないきれいな笑顔。

 彼女は、元気だろうか。今この瞬間も、幸せに笑っているだろうか。僕が死んだとわかったら泣くだろうか。いや、泣かないか。彼女にとって僕はただの雇い主に過ぎないんだから。

 泣きたくなって目を閉じた。眠気は素直にやってきた。どうしようもない、子供の体。目を閉じたままで呟く。

「……ああ、もう……」

 なぜ智が自分の生を選ばなかったのかと悔しく思う半面、生かされた僕は明日も自分でいられるかどうかを心配している。――完璧な矛盾。よかった、また彼女に会える、そう思ってしまった自分が恥ずかしくて、汚くて。

 もう智は戻ってこない。きっと。頭の奥でそう予感していた。

 自分のものになってしまった小さな手を握り締め、僕は意識を手放した。深く深く眠れば、夢のどこかでまた智と会えるかもしれないと期待して。


   *


「智志様、少々よろしいでしょうか?」

 執務机に向かっていた僕に、陣内が控えめな声を掛けてきたのは、桜が咲く少し前のある日の夕方だった。僕と智の体が入れ替わってから、一年以上が経過していた。

「どうした、陣内」

 パソコンのキーを叩くのを止め、近づいてきた陣内を見上げる。

 僕は対外的には『陣内智』、裏では『浅川智志』として活動する形を整えていた。非常にリスクが高いことは百も承知で、浅川智志は書類上ではまだ生きていることになっている。すべては父と二人の兄が巧妙に隠し、またサポートしてくれているおかげだ。そして陣内もあれ以来ずっと僕の傍で、僕の仕事を支えてくれている。

 本来、平日の昼間というのは小学生なら学校に通っているべき時間であるが、陣内が「小学校には行かなくていいように手筈を整えた」と僕を封じ込めていた。僕としては智の経歴に傷をつけるのは申し訳なく(なにしろ小学校を卒業していないなんて現代日本ではありえない学歴だろう)、理性を総動員して学校に通うつもりだったのだが、陣内は頑として承知しなかった。

 それで一度も学校に通うことなく自宅の書斎にこもり、会社の仕事を片づけているのだが。こんな風に陣内が改まって話しかけてくることはなかった。だから不思議に思って陣内を見るが、陣内はなかなか口を開かない。

「今、入った情報なのですが……」

 そう言ったきり口ごもってしまった陣内の、珍しいほどの歯切れの悪さに首を傾げた。何かの資料を持った手が、小刻みに震えているのが見えた。常にはないその様子に僕は心配になってもう一度尋ねた。 どうも重要な話らしい。作成していた書類を保存し、いったんパソコンの画面を落として陣内に向き合う。

「陣内、どうした。何があった?」

「いえ、申し訳ありません、取り乱しまして……。智志様、気をしっかり持ってお聞きください」

 陣内は一拍の後で普段の調子を取り戻し、頭を下げてそう言った。そしてすっと上がった真剣な目が、僕をまっすぐに射抜く。

「……なんだ、あんまり聞きたくないな。陣内がそんなに深刻にする話なんて」

 真剣すぎるその瞳が、不安を煽る。冗談を言って流したくなるくらいに、陣内の纏う空気は堅く、僕は肩をすくめて目を逸らした。

 だが陣内は容赦なかった。逃げようとする僕を声で突き刺すように、はっきりと言った。

「藤井真央様がお亡くなりになったそうです」 

 ……一瞬、何を言われたのか分からなかった。

「ハワイでの海難事故のようです。ご本人は現在、ハワイの病院に収容されているそうですが……すでに心肺停止状態で」

「……な、なん……」

 なんて? 今なんて言った、陣内。混乱している僕を置いて、陣内は手元の資料から視線を逸らさずに続ける。

「ご両親が現地に向かわれるそうです」

「じ、陣内……」

「事故の内容の詳細はこちらに印刷しておきましたが」

「陣内っ!」

 大声で叫ぶと、ようやく陣内がこちらを向いた。

「……はい」

 ふっと上げた視線がこちらを向いた瞬間に、安堵と羞恥が押し寄せてきた。まるで迷子の子供が、親を見つけた時のような。多分僕は泣きそうな顔になっていたと思う。智の体になってから、感情の振りが大きくなった気がしてならない。

「はい、じゃない、陣内。なぜお前が彼女のことを知っている? なぜお前が……彼女の動向を」

「智志様の想い人のことですから。陰ながら探らせていただいておりました。必要な情報かと」

 しれっと言う陣内の無表情が、これほどまでに憎たらしかったことはない。何で僕の気持ちを知っているのか、何で勝手に探っているのか、言いたいことがせり上がってきたものの、爆発する寸前に、陣内の 最初の言葉が頭を過った。

 ――真央さんが、死んだ?

 はっと陣内を見上げると、陣内は僕の心を読んだように重々しく頷いた。伏せた目のままそっと息を吐くその姿を、僕は何も言えずに見て、そして。

「……彼女が……死んだ? それはどこから来た情報だ? 一般人の動向など、そうそう正確に探れる訳も……」

 言いながら自分の言葉の陳腐さに吐き気がした。陣内が口にする情報に間違いがあったことなどない。この有能な執事は、それがどこのどんな情報であろうと、ほしいと言えばすぐに差し出してくる。一体どんなソースを持っているのか知らないし知りたくもないが、とにかくそんな陣内が告げた情報。

 間違いであるはずがないと誰よりも僕が分かっていて、そして否定してほしかった。間違いであってほしかった。彼女が、死んだなど。

「……詳細は、こちらに。何かありましたらお呼びください」

 陣内は資料を机の上に置いた。そして有能すぎる執事はそのまま踵を返し、音もなく立ち去っていく。そのいつも通りきれいな背中をぼんやり見送って、僕は力なく椅子に凭れた。

 体に見合わない大きな椅子の上で、クッションの効いた革張りの背もたれに頭を預け、膝を抱えた。

『藤井真央様がお亡くなりになったそうです』

 冷静な陣内の声が、頭の中に響いた。僕に事実確認させようと、何度も何度も。

 ……嘘だ、うそだろ。

 心の声は何度も否定の声を上げたけれども、それがどうしようもない事実であることを同時に理解もしていた。


 どのくらいそうしていたのかはわからない。日が暮れてすっかり暗くなってしまった部屋で、固まった体を動かした。さすがに柔らかい子供の筋肉は、少し縮こまっていたくらいでギシギシいったりはしない。腕を伸ばして――と言っても腕だけでは届かなかったので体全体を伸ばして――陣内が置いていった資料を引き寄せる。簡潔に綴られた報告書に目を通し、僕は執務室を離れた。

 歩いている感触も伝えない足で寝室に向かう。

 本来一般社員の休暇の動向など把握しないが、彼女が海外旅行に行くために休暇を申請していたことは知っていた。それが誰と一緒に行くのかも、彼女に恋人がいて、結婚間近であることも、知っていた。

 でもまさか、こんな便りが自分の元へ届くとは思わなかった。ただ彼女の幸せを陰で祈り、叶わなかった自分の恋を消化していくだけだと。彼女の結婚式の日にはひっそり泣くかもしれないとは思っていたが、まさか彼女の訃報に、泣く日が来るなどと。

 閉じられていないカーテンから薄く差し込む光だけを頼りに、クローゼットのドアを開けた。そこに置いてあるものは、僕と彼女の間の唯一の思い出。彼女はきっと、僕とのやり取りを覚えていないだろうけれど。

 僕は壁にもたれかかるように座り込み、思い出の品を抱き寄せた。もう二度と、彼女に返すことができなくなってしまった、借りっぱなしの傘を。


 *


 僕は普段から運転手つきの車での移動が主だったから、自分で傘を持つという習慣はなくて、天気が晴れだろうと雨だろうとあまり気にすることもなかった。

 その日は偶々、車で移動中に渋滞に巻き込まれ、時間を考慮した結果、急遽地下鉄での移動に切り替えることになった。

 久しぶりに乗った地下鉄の駅を出ると空模様は怪しかった。そういえば晴れのち曇りだったかな、なんて朝のうろ覚えの天気予報を思い出しながら、取引先への道を急ぐ。普段なら秘書か陣内が一緒だから、外を一人で歩くのも久しぶりで、陣内に言ったら怒るだろうけれども少しだけ解放されたような気持ちがしていた。

 無事に時間通りに取引先に到着し、仕事を終えて帰途に就いた。もう終業の時間ではあったが、処理しなければならない案件が残っていたので会社に戻らなければならなかった。

地下鉄と電車を乗り継いで会社の最寄の駅に着いたとき、改札の外からやってくる人たちがみな傘を手にしていたので嫌な予感はしていたが、外に出てみると案の定、雨が降っていた。しかも本降りの雨。

 晴れのち曇りは見事に外れだと、大雨が降っているのをしばらくぼんやり眺めていたが、はっと傘を買って歩かなければならないことに気づいた。今日はどうも普段と違うことばかりが起きる。人にドアからドアまで送迎されることに慣れきってはいけないな、と頭を振って売店を探し視線を動かしたとき、後ろから控えめな声が聞こえた。

「あの……社長?」

 僕は確かに社長職をしているから、呼称としては間違っていない。でもこんなところで呼び止められるのが不思議で、もしかしたら自分のことではないかもしれないな、などと思いながら振り向いた。

そこにいたのは小柄な女性だった。会社帰りといった雰囲気の、黒髪の女性。うちの社員かな、と首を傾げながら見下ろすと、彼女はおずおずと自分を見上げて言った。

「あの、社長は社に戻られるところですか? よかったら……これ、使ってください」

 見上げてきた瞳は切れ長の一重で、一瞬目が合ったと思ったらすぐに戸惑うように外された。これ、と言って差し出されていたのは、鮮やかな水色の傘だった。

「えっと……君は」

 自分を社長と呼ぶのだから、多分自分のところの社員なのだろうが、いかんせん人数が多すぎてすべてを把握できてはいない。セキュリティの関係からも、こんなことではよくないな、なんて全然関係のないことを思う。

「あ、すみません。私、営業二課の藤井です。長嶋課長の補佐をしています」

 はっと気づいたように彼女は名乗り、ぺこりと頭を下げた。営業二課の長嶋課長ね、そういえば少し前に補佐が付いたな。

「藤井さん。ありがとう、でもこの傘を借りてしまったら君は……」

 水が滴り落ちている、使われた形跡のある傘を見てそう言った。好意に甘えてもいいが、これから電車に乗るのだろう彼女が、自分の最寄駅に着いた後困るではないか。僕は別に、ここから会社まではそんなに距離があるわけでもないし、最悪走って行っても……などと考えていたところ、彼女はごそごそと鞄に手を入れて、何かを探し始めた。

「あ、私は大丈夫です。えっと……」

 常々思っていたのだが、女性の鞄というものは、なんと大きくて重そうなのだろう。体も小さいし力も弱いのだから、相応の大きさ・重さの鞄を持てばいいし、そもそも何をそんなに詰め込んでいるのだろうと謎でしかなかったのだが、彼女の鞄もまた他の例にもれず大き目で、ぎっしりと中身が詰まっているようだった。黙って観察していたら彼女は底の方から何かを掴みだした。

「ほら、折り畳みも持っているので! だからこれ使ってください」

 戦利品を獲得したかのような笑顔で僕に折り畳み傘を見せると、彼女はその傘をまた鞄に戻し、代わりに僕に長い方の傘を押し付けてきた。その無邪気な笑顔。

 ああ、なるほど、女性はいろいろなものを鞄の中に装備しているのだなぁ、なんて頓珍漢な言葉がぼんやりと頭を過った。

「はいっ」

 呆然として傘を受け取らない僕に業を煮やしたのか、彼女は僕の手を掴み、傘の柄を無理やり握らせてきた。不意に触れた手の滑らかな感触と温度に、内心どきりとする。

「な、何でそんなに……わ、私に傘を使わせたいんですか……?」

 傘の柄を握ったまま、ようやく口から出たのは本当にどうでもいい質問だった。もっと他に言うべきことがあった気がしたが、頭がうまく働いてくれない。

「え、だって。社長にビニール傘とか似合わないですし。買ってもこのちょっとの道しか使わないですよね?」

 そんな答えが返ってくるとは予想もしていなくて驚いた。ビニール傘、僕には似合わないのか、そうか。

 彼女は瞬きをしながら話を続ける。

「普段車で移動されるから今日は例外かなって。この傘も高級、ってわけじゃないので恐縮なんですが、男性が使っても大丈夫な色だと思うので」

 僕が売店を探しているところから見られていたのかもしれない。そう思うと少し恥ずかしくなって、そっぽを向いて小さく咳払いをして誤魔化した。

「あー、と、では遠慮なくお借りします。営業二課の藤井さん、でしたね。後日返しに伺います」

 これ以上、この場をどうしていいのかわからずに笑って誤魔化すことにした。へらっとした情けない感じの笑みになってしまった気がしたが、彼女は僕を見て頷き、にっこりと笑い返してくれた。

「はい、いつでも大丈夫です。 お疲れ様です!」

「……お疲れ様です。帰り道、気を付けて」

「はいっ!」

 土砂降りの雨で薄暗い視界の中でも、まぶしいほどの笑顔だった。ちょっとはにかんだような、可愛らしい笑顔。ぺこりと頭を下げ、手を振りながら改札へ向かっていく姿をぼんやり見送り、これって振りかえすべきなのかな、と迷っているうちに彼女は角を曲がってホームへ行ってしまった。

 取り残されたような気分でしばらくそこに立っていたが、帰宅途中の会社員たちにじろじろ見られ、そそくさとその場を離れた。

 ……こんな、こんな自分は初めてだ。

 借りた水色の傘を広げ、駅へと向かう人波を逆流して会社へと歩く。

 なんだろう、この感じ。ただ傘を借りただけなのに。

鮮やかな水色の傘は無地かと思いきや薄い色で何かの柄が入っていた。花柄のような、幾何学柄のような。高級ではないと言っていたけれど、柄の部分には『M・F』と恐らくはイニシャルが刻印されていた。 誰かにもらった大切な傘なのではないだろうか。

 ……誰か。例えば父親からの就職祝いとか。母親からの誕生祝いとか。……恋人からのプレゼント、とか。

 そう考えたときの胸のざわつきに違和感を覚えた。なんだろう、この感情は。

 ほどなく会社にたどり着き、玄関で待っていた秘書に傘を渡しかけ――自分で持った。フェイントのように鞄だけ渡された秘書は一瞬目を見張ったが何も言わなかった。濡れた傘の水滴をざっと落とし、そのまま持って社長室まで上がる。

 乾かして明日にでも返しに行こう。

 秘書が首を傾げるのを見なかった振りをして、社長室の隅に広げておいた。残っていた仕事を片づけて社を出たときには、雨はもう止んでいた。


 翌日、乾いた傘をきちんと巻き直し、僕は返すタイミングを見計らっていた。

 営業二課の藤井真央さん。

 社員のデータベースで基本情報はさらっていた。大学を卒業後入社。総務から営業二課へ、現在は長嶋課長補佐、勤続三年目。パソコンでの書類操作が得意で、どうりで最近、長嶋課長からの書類がきちんと整っていると思っていたのだが、彼女のおかげだったらしい。人事の考課でも評判は良かった。同期の女子の中でも使える、と一目置かれる存在。

 ただし英語は得意ではないらしい。初期に一度トーイック試験を受け、その結果もひどいほどではなかったけれど、その後英語関係の試験は逃げるように受けていない。

 ……可愛いな。

 誰もいないはずの社長室前の廊下でくすりと笑ってしまい、慌てて前後左右を確認した。ごほん、と咳払いをして、持ってきた水色の傘の柄を握り直す。

 ええと、この時間なら彼女は二課のフロアにいるはずだ。さっと行ってさっと返せばいい。うん、そうだ、それだけでいい。

 頭の中でフロア内の配置図を描き、ルートをさらってシュミレーションをした。大丈夫、これでいこう。

 エレベーターに乗り、二課のある三階のボタンを押す。社長室がある十階から下りていくまでのほんの少しの時間が、妙に長く感じた。ポーン、と音が鳴り、ドアが開く。社内であるのにどこか緊張しながら三階の床を踏む。

 二課のフロアをこっそりと覗き込むと、昼休み直後だからか、皆自分のデスクについてそれぞれ仕事をしていた。カタカタとなるキーボードの音の他は、端のミーティングエリアでの話し声しか聞こえない。 真剣に仕事をしているこの中に入っていって傘を返すのは勇気がいるなぁ、とちょっとたじろぎながら、彼女の姿を探した。と、二課の奥の方、課長のデスクの近くにその姿はあった。やはり真剣にパソコンの画面を見つめて作業をしている。わざわざ邪魔をしに行くのも社長としてどうなんだろう、などと躊躇していると、ひとりの男性社員が彼女に近づいた。ちょうど僕の視界から彼女を遮る位置で、書類を手に何か相談をしている。

 仕事の話なのだろうが、妙に親しげなその距離感に腹が立った。おい、もう少し離れろよ、そう言いそうになってぐっとこらえる。……ああ、僕は一体何をしているんだ。傘を返しに来た、それだけなのに。

 そうだった、傘を返して来よう。そう思い直して一歩、踏み出したその時。話が終わって離れた男に向けられた彼女の笑顔。にこっと軽く笑っただけで、同僚に向ける礼儀的なものだとはわかっているのに。

 ――その笑顔を、他の誰かに向けないで。

 僕は傘の柄を握り締めたまま、踵を返していた。急いでエレベーターホールに戻り、上のボタンを連打する。通りがかった社員が不思議そうな目で見てくるのを無視して、来たエレベーターに素早く乗り込んだ。

 そして一人きりの箱の中……僕は大きなため息をついた。

 持って帰ってきてしまった傘をつっかえ棒にして寄りかかってしまったのを、慌てて体勢を変え、壁に手を置きまたため息をつく。

 社長室に飛び込み、執務席の椅子を窓に向くように回して座った。……こんな姿、誰かに見られたら。

「……はぁ……」

 大きく深呼吸をしたけれども、状況は何一つ変わらなかった。返しに行ったはずの傘を持ち帰ってしまった。会うこともできなかった。視界に入ることすら。そんな自分が、あの同僚の男に抱いた感情は。

「……嫉妬、とか」

 こんなもやもやした感情だったのか、と初めての気持ちがなんだか新鮮だった。こんな風に誰かを妬ましく思ったことなどなかった。つまりこれは……僕が、彼女を、好きになったという……ことで。

「うわ~!」

 恥ずかしすぎて、体を丸めて床に向かって叫んだ。秘書が駆けつけてきたらさらに居た堪れないので、口は手で覆って、声も多少加減して。

 叫んではみたものの、声を押さえてしまったせいか全く何も解消できなかった。状況が許すならば、叫びながら手当たり次第に当り散らしたい。ああ、家に帰ったら絶対にそうしよう。後片付けは陣内に任せればいいし……などと全く持って大人とは思えない発想で気を紛らわせた僕は、確実に赤くなっているだろう顔を何とかしようと洗面所に向かった。


 その後、何度か二課のフロアまでは行ったが、傘を返すことはできなかった。

 雨が降っている訳でもないのに傘を持っているのは変だし、社長が用もなくうろついているのも変だと思い、次第に近くまで行くことすらできなくなった。挙動不審な僕に気づいた秘書が、「二課のどなたかですか。代わりに返しに行きましょうか」と気を利かせてくれたのも、無理な言い訳をして断ってしまった。

 僕はただ……彼女との繋がりを絶ちたくなかったのだ。いや全く繋がってもいない関係ではあるのだが、傘を返してしまったら、そこで彼女と接触する口実はなくなってしまう。会社の社長である僕が、一社員である彼女に会うためにどこかに誘うにしても、彼女からすれば拒否権のない誘いになってしまうだろう。彼女の感情を無視して事を進めるわけにはいかない。だからといって、絶対に何とも思っていないだろう僕のことをどう思うかなど聞けるはずもない。

 そして堂々巡りで進展することのない言い訳探しに悶々とし、傘を返せないまま。……僕は彼女に恋人がいることを知った。

 相手は大学時代の先輩。社会人になってから付き合いだして、結婚も考えているという話を、他でもない彼女の口から聞いた。

 残酷な話を聞いてしまったのは運命なのかもしれない。そう思った。偶々昼食に入った店で、僕の後ろ側の席に彼女と数人の同僚の女性が座って話をしていたのを聞いてしまったのだから。

 ああ、こんなところで幕切れか。その日の午後の仕事がはかどらなかったのは言うまでもない。

 そのまま、傘は返すこともできずに結局、自室のクローゼットにしまいこんでしまった。大切なものなら彼女の方から返してと言いに来るかもしれない、なんてズルい言い訳を最後に思いついて。

 そのほんの小さな可能性に縋り付くくらいしか、彼女と接触の機会を待てない自分の情けなさは重々承知の上で、僕は彼女への想いを胸にしまいこんでいた。いつか、返せるかもしれない。また話をする機会があるかもしれない……。

 そんな折、意気地なしに罰が当たったかのようなタイミングで、父は僕に見合いを勧めてきた。取引先相手のお嬢様数名との見合いだった。

 もちろん気が乗ることなどなかった。どんなに美人で、素敵な服を着て、完璧な礼儀作法で非の打ちどころのない女性だったとしても、打算と思惑に彩られた含みのある笑みか、自分をよく見せようというわざとらしい作り笑顔しか見せてくれない人になど、どうして心が動くだろうか。

 見合いをするたびに鮮明になる、彼女のあの純粋無垢な笑顔。忘れようにも忘れられない笑顔に僕は翻弄され続けた。恋人がいること、結婚することを知っていてなお、諦めることも伝えることもできずにずっと引きずって。でもいつかは僕自身も誰かと結婚するのだろうと、心をだまして誰かと一緒になるのだろうとそう、思っていたのだった。


 ところが状況は一変した。僕は死んでしまった。


 形の上ではまだ生きているとはいえ、浅川智志の体はない。父は婚約者を決めていなかったのをいいことに、すべての見合い話を白紙に戻した。文句を言ってくるものは力で黙らせたようだった。こういう時、父の押しに勝てる者はいない。

 僕はぶら下がったままの気持ちを持て余した。これで好きでもない女性と結婚することはない。でも、彼女が僕に振り向いてくれることもない。もうすぐ結婚する彼女が、十歳の体になってしまった僕に振り向いてくれることなど。

 社長の肩書を持たない智の体は、遠慮なく彼女に思いを告げる状況を手にしながらも、絶対的なハンデを背負ってしまった。

 一つは彼女よりうんと年下であること。もう一つは知り合いではなくなってしまったこと。

 やっぱりそういう運命なんだろうな、と自分に言い聞かせた。

 もうそろそろ諦めろよ、彼女は他の男のものになるんだ。出会ってもいない智の体で、彼女に何をどう言うんだ?

 そう言って自分を丸めこもうとしつつも、つい探ってしまう彼女の動向。人事の記録にアクセスして、休暇の申請を探るなど朝飯前だった。有給と連休をうまくつなぎ合わせた一週間。行先はハワイ。そこに誰と一緒に行くのかを想像するのは簡単すぎた。

 ハワイで挙式とか、挙げるつもりなのかな。

 初恋の終わりを感じながら、最早仕方のないことと、何度蓋をしたのかわからないけれども、何重にも押し固めた感情の箱の鍵をもう一つ増やし。ため息とともに今度こそ押し流そうと思っていたのに。



 ――ねぇ、何故なんだ。

 何故君は、僕の感情を揺り動かす。

 


『藤井真央様がお亡くなりになったそうです』


 色褪せることなく鮮やかな水色の傘を抱きかかえたまま、僕は何も気にせず泣いた。

 自分がこんな風に声を上げて泣けるのだということに変に感心しながら、思いのままに泣いた。


 智の目が溶けてしまうかもしれないと心配になるくらいに泣いて泣いて、そのまま眠ってしまったらしい。やっぱり子供の体は体力がない。気が付いた時には慣れたベッドの上で布団に包まれていた。黙って移動させたのだろう陣内をまた憎たらしく思ったけれど、何も言わずひとり泣かせてくれる優しさの方を評価しようと思った。


   *


 彼女の死の知らせを受けてから、半年が過ぎた。

 なんだか雨が降りそうな雲行きだった。だからかもしれない。僕は仕事を適度に片づけた後、行先も告げずにふらりと屋敷を抜け出した。

 半年という時間が経っても、陣内は彼女の事故に関する調査を続けていた。机の端にいつの間にか置かれている調査書。事故の詳細を知り尽くしているのは間違いなく陣内と、そして僕だと思う。

 二組のカップルを乗せていたクルーズ船で、亡くなったのが二人。藤井真央さんは船室の中から救助されたが、病院で死亡を確認。マイケル・ウッドランドは海の中から遺体が引き揚げられた。そして生き残ったのも二人。彼女と一緒に船室にいたケリー・スミス、そして真央さんの恋人である斉藤知巳。斉藤知巳はマイケルを助けようとしてふたり海に放り出されたが、彼だけ奇跡的に息があり、病院で意識を回復。日本から迎えに行った両親に連れられ、すでに日本に帰国。

 先日、陣内はケリー・スミス嬢の動きがおかしいと言い出した。

 ケリー・スミス嬢。現在ニューヨークの実家で両親と暮らす、十六歳の高校生。事故から半年たった今、彼女はどうやら日本に来るためのビザを申請中らしい。……なぜ? 日本に縁も興味もなかったはずの少女が、何故日本に来ようとしている。

 その理由を口にしようとする陣内を僕は止めた。何を言おうとしているのかなんて、僕にはわかりやすいほどわかってしまったから。なにしろ僕自身が、前例になっているのだから。

「どちらにしても都合の良すぎる話だよ、陣内」

 誰にともなく僕は呟いた。屋敷は海の近くにあって、少し歩くと海浜公園がある。公園の中のベンチに座りしばらくぼんやりと灰色の空を眺めた後、またふらりと歩いて赤レンガの歩道をひたすら辿っていた。なだらかに続く丘の道を、文字通り途方に暮れて。

「陣内は僕に都合のいい話を作る天才だな。でも期待すればするほどに、絶望だって深くなるのは陣内だって知ってるだろうに」

 そう、陣内が持っているのはただの期待だ。希望的観測。ケリー嬢の動きは確かに怪しい、でもそれがどうした? 単純に日本に興味が出たのかもしれないしただの旅行かもしれない。誰だって旅行くらいはする。その目的地が日本だったからって、何も特殊なことはない。

 レンガを踏みながら落ちている小石を蹴ってみる。こつん、と一度レンガに当たって、道の脇の芝生の中に消えた。ぽた、と赤いレンガの上に落ちてきた水滴が茶色い染みを作る。あ、と思っている隙に、ひとつ、またひとつと増えていく丸い跡。

「……降り出したか」

 多少濡れたってどうってことはない。そう思ってしばらく雨に濡れながら歩いていたが、だんだん雨足が強くなってきてしまったので、木の下に避難した。持っていたハンカチでさっと髪の毛を拭いて、服についた水滴を払う。

 智の体は健康そのもので、この程度の雨に濡れたくらいで風邪などは引かないことを、もう一年半ほどになる生活の中で学んでいた。多少徹夜して無理をしても、数時間の睡眠で回復できる。疲れすぎれば眠くて仕方なくなる時もあるが、どんな場合もとにかく寝れば治るというのは子供の特権なような気がした。大人の体ではこうはいかない。あれこれ薬に頼っていた三十歳の自分を思って自嘲の笑みが零れた。

「……本降りだな」

 さらに勢いを増して降る雨に、鼠色の空を見上げた。感傷に浸るにはでき過ぎの雨だった。いつかの再来のような。……あの日の雨のような。

 ぼろっと零れた涙を慌ててハンカチで拭い、雨で濡れたから、と心の中で言い訳をした。別に見ている人などいないだろうと思いつつも、周囲に人がいないかを確認した。すると、雨で煙る向こうの方から人影がやってくるのが見えた。傘を差さずに歩いてくる。この辺で一番大きなこの木の下に、自分同様避難しに来たのかもしれない。

 金の髪だった。

 長い金髪はすっかり雨に濡れていたけれども内から光るように輝いていた。びしょぬれの体を自分の腕で抱きしめるようにやってきたその人がふと顔を上げたとき、目が合った。

 射抜くような、青い瞳。

 きれいだ、と思った瞬間、金髪のその人に重なるように、最愛の、忘れようとも忘れられない人の姿が見えた。切れ長の一重、短く切りそろえた黒髪、ちょっと丸い顔。

 ――真央さん

 だが、金髪の女性は怯えたように眉を寄せ、身を翻して去ろうとした。引き止めないと、そう思った瞬間に声が出た。

「あの、待って!」

 他に言うことなど考えられなかった。立ち止まってくれた女性の背中に、あの日の彼女の姿がまた重なって見えたから。

「あ……の、真央、さん?」

 緊張で、心臓が耳から飛び出さないかと滅茶苦茶なことを思った。雨音と心臓の鼓動で、最早自分がどこにいるのかもわからない。ただ彼女が振り返って、僕を見てくれることだけを期待して……果たしてその願いは叶ったのだけれど。

 ぱっと振り向いた女性の顔には驚き、があった。でも僕が望むあの姿はもう見えなかった。金の髪の外国人女性。彫りの深い造作、高く通った鼻、何より印象的な青く光る瞳。白い肌に赤い唇。

 目を凝らしてももう見えなかった。まるでさっきの姿が、僕の願望が具現化した目の錯覚だったように。……ただの、幻のように。

『……あ、いえすみません人違いでした……。えっと、あなたのお名前を伺っても?』

 外国人だと意識したら自然と英語が出た。

 彼女の姿がただの幻だったとしても、目の前の女性は雨に濡れすぎていて寒そうだった。透けてしまっているシャツも痛々しいし、と僕は親切心からそう尋ねていた。だから彼女が不思議そうに首を傾げた後、ぼんやりと言った名前には心底驚いた。

『……ケリー……』

 ケリー? まさか、いや、でも欧米人にはよくある名前だ。……ああ、待って。陣内の用意してくれた資料に、ケリー・スミス嬢の写真があったな。何でもっとよく見ておかなかったんだろう。でも、ああ、 とにかく、それよりも。

『ケリーさんですね。僕は智といいます。あの、雨が弱くなったら僕の家に来ませんか?すぐ近くなんです』

 言いながら彼女の腕を取り、木の下に引き込んだ。重なる葉のお蔭で、真下ならば濡れずに済む。

『そんなにびしょ濡れじゃ風邪ひいちゃいますから、ね。いかがですか?』

 外国人相手だ、と思えば如才なく口は回ったが、心の中は大混乱していた。彼女なのか、つまりケリー・スミス嬢なのか。だとしたらさっきの幻は、本当にただの幻、それとも……。

 ケリーと名乗った女性は訝しむ様に黙って僕を見ていた。話そうと口が動いて、止まる。……もしも、もしも陣内の推測通り、そして僕の期待通り、彼女の中に彼女がいるのなら。日本語の方が反応がいいかもしれない。そう思って同じ内容を日本語で繰り返した。そしてあくまで無邪気な子供の振りを装って、冷たくなってしまっていた手を握った。

 だが彼女は不思議そうな顔で僕を見返した後、はっと気づいたように目を逸らした。今何か言いかけた、そう思ったのに唇は既に固く結ばれ、拒絶の意思が感じられた。

 僕は慌てた。ここで拒絶されては。

『あの、えっとケリーさん? 家に来るのが嫌なら、お家まで車で送らせましょう。日本には家が? それとも旅行で?』

 とにかく何か情報を引き出したくて、必死で話しかけた。彼女の反応から察するに、英語も日本語も両方理解できている。僕はあくまで通りすがりの少年のつもりで、思いつくままに質問を並べ立てた。どさくさに繋いだ手は離せなかった。冷たすぎる手に少しでも体温を分けてあげたくて。

 けれども顔を背けたままの彼女は、辛そうに身を縮め、力を入れて握っていたはずの僕の手を振り払った。泣きそうな顔だった。……いや、もう泣いていたのかもしれない。

『……ごめんなさい。私に、構わないで』

 そう言うが早いか、彼女は雨の中に駈け出してしまった。

『ケリーさん!』

 咄嗟に名前を叫んだけれど彼女を止める力などなく、煙る雨を蹴散らすように走り去っていく華奢な後ろ姿を、呆然と見送るしかできなかった。

「……ケリー、さん」

 もう一度、名前を呟く。手の内に残る、冷たさを握り締める。

 ――確かめないと。

 僕も雨の中を走り出した。これ以上濡れようともどうだってよかった。頑丈な智の体が、今日一日、いや今この瞬間、熱を出さずに保ってくれたらいい。


 僕はこれまでで最速だろうというスピードで走り(元の体だったときもこんなに必死で走ったことはないというくらいの速さで)、屋敷にたどり着いた。息を切らして玄関に飛び込んだ僕に、偶々通りすがった陣内が目を丸くして駆け寄ってきた。

「智志様! いつの間に外へ? いえ、すぐにお風呂へ。準備いたします」

「陣内、僕の部屋から資料を持ってきてくれ、ケリー・スミス嬢の写真が載っているやつだ。一番下の引出し、知ってるな?」

 浴室の準備に取り掛かろうとする陣内を身振りで止め、早口で指示を出す。陣内は一瞬躊躇したが、僕の剣幕にぐっと頷いて書斎へ走ってくれた。僕は息を整えながら周囲を見渡し、食堂から出てきたメイドに声を掛ける。

「あー、(まき)! 悪いがタオルを用意してくれるか? 大判のバスタオルがいい。四枚くらい、急いで!」

「え、智志様、どうしてそんなびしょ濡れで……?」

「早く!」

「は、はいっ」

 牧という女性メイドはちょっとおっとりしていて、反応が鈍い時がある。僕をいつも心配してくれていることは分かっているのだが。いつにない勢いで怒鳴ってしまったのは後で詫びることにして、僕は僕で手近な食堂へ飛び込み、体を拭くものを探した。


「智志様、持って参りました」

 食堂に入ったら、びしょ濡れの僕に食堂中のスタッフが集まってきてしまい、結局世話を焼かれてしまった。どこから取り出したかタオルで髪や服を拭かれ、さっと用意されたホットミルクを無理やり飲まされている頃、陣内が戻ってきた。

「ああ、ありがとう」

 僕はすぐに陣内の持ってきた封筒の中身をテーブルに広げ、ケリー・スミス嬢の写真を探した。食堂のスタッフは心得たもので、僕が書類を広げるとすぐにさっと持ち場へ戻っていった。

「智志様、一体何が……」

 陣内だけがその場に残り、僕の髪をタオルで拭きだした。僕はその質問には答えず、陣内にされるがまま、目だけで資料のどこかにあった写真を探していく。

「あ、あった……」

 めくった資料の一枚に、金髪の女性が映っていた。十六歳の、女子高生。学校で友達ととったスナップ写真のようだった。

 金髪、碧眼。そしてこの造作。まさに、先ほど会ったばかりのケリーの姿がそこにあった。

「陣内、彼女だ」

「はい?」

 さすがの陣内も僕が何を言いたいのかわからないらしい。でも陣内の理解に構っている暇もなく、僕は椅子から立ち上がった。

「牧! タオルはこっちへ! 陣内、彼女は……真央さんは本当に、僕と同じ状況だった」

 食堂のドアの向こうでタオルを抱え、僕を探している牧を大声で呼ぶ。陣内はそちらを見、また僕に視線を戻す。今度はかちりと焦点が合った。『僕と同じ状況』、それが指し示す事態は陣内もよく知っている。

「まさか。それで、今度はどちらへ?」

 牧が持ってきてくれたタオルを抱えられるだけ抱えた僕に、陣内は言った。僕がどこかへまた雨の中を出掛けようとしていることはお見通しらしい。僕は最小限を伝える。

「彼女がいる。海浜公園だ」

 言うなり駈け出した僕の背中から、焦ったような陣内の声が追いかけてくる。こんな声を聞くのはもしかしたら初めてかもしれない。……いや、二度目かな。

「智志様! それならば私が!」

 老齢の陣内がこんな雨に濡れたら風邪どころか肺炎を心配してしまう。だから追いかけてこないように言おうと思ったが、振り返ってみると既にレインコートに袖を通し、傘も脇に携えて準備万端だった。その支度の速さはいつも通りなのだが、いつもながら一体どこに準備しているのか、謎である。

 ついてくるなら勝手にしろ、と思って玄関を出、少しだけ弱まった気配の雨の中、元来た道を戻っていく。

 彼女はあのまま走って、どこへ行っただろう。でも多分、展望台が行き止まりだからきっとそこだ。

「真央さんっ……!」

 いま、行くから。呼ばれてもいないのに、そう思った。寂しげに伏せられた瞼が、濡れた金の髪が痛々しかったから。


  *


 きっとそこにいるだろうと目算を付けた海浜公園の展望台には、確かに彼女――ケリーさんがいた。

「ケリーさん!」

 勢い余って名前を叫んだが、その時もう一人いた人物に気づいた。傘を差した男が、こちらを振り向いて怪訝な顔をした。

 ……見覚えがあった。とても。藤井真央さんの恋人、斉藤知巳(ともみ)

 なぜ、彼がこの場に? と不思議に思ったが、彼の発した次の一言こそが聞き過ごせないものだった。

『おい、マオ。やめろ、早まるな』

 英語? なぜ。彼は生粋の日本人のはず。

 疑問符が飛び交う頭で彼女を見ると、彼女はにっこりと笑みを浮かべて後ろに下がった。『早まるな』、その言葉の意味を、頭の隙間で解読する。

 ……まさか、でもなぜ?

 一歩ずつゆっくりと後退していった彼女が、ついに手すりまでたどり着いた。相変わらず笑みを浮かべているが、それは優しいものなどではなく、禍々しい狂気を帯びていた。

 僕は彼女を見つめ、そして彼を見上げた。

 なぜ彼は英語で話す、そしてなぜ彼女を止めない? ……いや、違う。違うぞ。

 なぜ彼はケリーをマオと呼んだ? 今の姿はケリー・スミス嬢のもので、そして斉藤知巳からすれば、ケリー嬢とは何の関係もないはず。

 解けかかった謎の端っこを握って、もう一度彼女を見る。本当に、死ぬつもりなのか?

 すると彼女は僕を見て申し訳なさそうに笑った。ふっと、泣きそうな顔で。

 唇が動く。「ごめんね、さとるくん」

 唇の動きだけで伝えてきた謝罪に、僕は思わず目を見開いた。彼女は本気だ。でもなぜ? なぜ彼女が死を選ぶ? せっかく生き残ったのだろう? なぜもう一度生を手放すような……。

 彼女はまた口元を緩めた後、視線を僕から彼に移した。決意の、目を。そして大股で距離を縮め、彼の胸ぐらをぐっと掴む。

 あ――……。

 一瞬の出来事だった。僕の目の前で、ケリーの姿をした彼女は恋人にキスをした。触れるだけのキス。甘さも何もない、多分雨に濡れて冷たいキスを。

 彼は驚いたように『ひっ!』と掠れた叫び声を出して一歩引いた。彼女はそれを見て笑った。満足そうに、見下すように。

 その瞬間、絡まっていた謎がするりとほどけた。

 斉藤知巳が英語を話す理由。真央と呼ばれたケリーが彼にキスをする意味。彼が怯え、彼女が笑う理由……。

 彼女は笑ったままで後ろに下がっていった。そして何の躊躇もなく、体は手すりを乗り越えた。

 ――ダメだ、待って!

 荒れる海に落ちていく体。その瞬間、また、真央さんの姿が見えた。ケリーと一緒に落ちていく姿が。

「真央さん!」

 僕は即座に手すりを乗り越え、壁を蹴った。

 彼女の目が驚きに見開かれた。僕は縮まらない距離を必死に手を伸ばす。当然のように、彼女の方が先に海に落ちた。どうか彼女が岩に当たっていないようにと願を掛け、僕も海に飛び込んだ。

 水の冷たさも視界の悪さも呼吸の苦しさも、僕には気にならなかった。ただ彼女を助けたかった。


 今もう一度出会えたのが運命なら、僕はあなたを二度と死なせたりしない。僕はあなたの手を離さない。あなたが嫌だと言っても、ずっと、もう一生、あなたの傍にいる。


  *


 陣内が後ろからついてきているのが分かっていたので、躊躇なく僕は海に飛び込めた。思った通り勘のいい陣内は即座にボートを手配して、僕が彼女の体を捕まえ水面に顔を出した時にはもう自家用のモーターボートが近くまでやってきていた。

 水から引き上げられてすぐ陣内に怒られた。

「智志様……! なんという無茶を!」

 僕はその説教を甘んじて受け入れた。自分が無茶した自覚はある。彼女共々、岩礁にも当たらず即死を免れて生還できたのは、幸運という以外に表現しようがない。彼女は今屋敷の者に手当を受けているが、目立った外傷もなく、呼吸も脈も落ち着いていた。命に別状はないだろう。

「なぁ、陣内」

 僕は毛布でぐるぐる巻きにされたまま、執拗に髪を拭く陣内を見上げた。体は冷たいが、心は逸っている。今の気持ちは、なんて表現したらいいだろう。

「……? はい?」

「僕は、生きるよ。智がくれた命を、生きる」

 途方もない罪悪感がずっとあった。あの子の命を守れなかったこと、体を奪ってしまったこと。誰のせいでもないことを理解していながらも、ずっと心の底に澱のように溜まった何かが引っかかっていた。

 別にすべてが晴れたわけじゃない。開き直ったわけでもない。ただ、ようやく前向きな気持ちに慣れたのだ。彼女という、生きる目的を手にして。

 陣内は僕の顔をしばらく見ていたが、不意に相好を崩してふっと笑った。

「……はい、わたくしもお供いたします」

 久しぶりの、含みのない柔らかな笑みだった。

「別に陣内にべったりされなくても大丈夫だよ」

 一緒にいるのが当然、といった陣内の物言いに、僕はタオルを取り払って反発した。なぜ陣内がそういうのかが分かっているからだ。

「いいえ、そうは参りません。わたくしは智の保護者であり、智志様の執事です。どちらをとってもわたくしが智志様とご一緒する理由になるでしょう?」

 僕と陣内の関係はもはや切れることはない。陣内の抱える感情は如何ばかりか、僕には推し量る術もない。ただ、できることなら僕が少し解放されたのと同様に、陣内も僕から解放してやりたかった。

 主を死なせた孫の贖罪という形で縛りついている、陣内の心を。

「何を言ったってついてくるんだろうからもういいけれどね。僕はここからなりふり構わないよ? 彼女を落とすために使える手はすべて使う。陣内の描く理想のお坊ちゃま像からは掛け離れていくかもしれない。それでもいい? 陣内は僕に協力する?」

 僕はにやりと笑っていった。言葉はほぼ本心だ。すでに脳内でいくつかのプランができ始めている。いずれもかつての自分では取らなかった、あるいは取れなかったような無茶な手段ばかりだ。

「ええ、もちろん。お嬢様陥落作戦ですね。この陣内、全力を尽くさせていただきます」

 腹黒い笑みで陣内は返してきた。傍から見ると僕たちは、どんな関係に見えるのだろう。悪戯を仕掛けようとする、祖父と孫、そんな風に見えているといい。仲の良い、家族に見えているといい。


   *


 海から助け出したお姫様は、温かい布団の中で安らかな寝息を立てている。時々もごもごと、寝言を言う。僕が相槌を打って話しかけると、会話が成立する。完全に寝ているのだろうに、器用なことだ。

 ああ、いつ目覚めてくれるだろうか。あなたに話したいことがたくさんある。あなたは覚えているだろうか、あの水色の傘を。怒られるかもしれないな、「どうしてすぐに返してくれなかったんですか!」なんて、怒った顔で言うのかな。

 何だっていい、文句だって罵倒だって、どんな言葉だっていい。僕はあなたと話したい。あなたの目を見たい。ねぇ、早く目覚めないかな。僕だけのお姫様……。




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