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1 雨の降る日に

*以前投稿した『雨の降る日に』『明日晴れたら』の改稿版です。ご了承の上お読みください。

 



ぽつり、と頬を濡らす雫を感じて、私は空を見上げた。どんよりとした灰色の空に分厚い雲が掛かっている。

 ……ああ、雨。

 そう思ったけれど、構わずそのまま歩き続けた。

 茶色いレンガが敷き詰められた歩道に、丸い雨の跡がひとつひとつと増えていく。大粒の雨がレンガを赤く染め上げていくのを見ながら、私の足は歩くのを止めない。シャツは雨を吸って、どんどん重くなっていく。靴も冷たく、足先が凍るようだ。

 それでも、……それでも。

 私にはただ歩き続けることしかできなかった。

 だってあなたがいなくなってしまったのなら、私にはどうすることもできないから。

 不意に苦しくなって立ち止まった。頬が熱いのを感じて、思わず両手で顔を覆った。

泣くことしかできないなんて。

 びしょ濡れになったシャツが貼り付いて体温を奪う。降りしきる雨は容赦なく私の体を濡らしていく。寒さを感じても、ただ両腕で自分を抱きしめることしかできずに、私は途方にくれて空を見上げた。空は相変わらずのねずみ色で、当分雨は止みそうにない。ほう、と息を吐いたら少しだけ白く濁って見えた。

 これから、どうしたらいいの。どこへいけば、いい?

 雨で煙るような視界の先に、大きな木が見えた。行くべき場所を持たない私は、吸い寄せられるようにその方角へ歩いていく。ただ一時、雨をしのぐために。

 木の下に人影が見えた。

 それは黒髪に丸い眼鏡をかけた、少年だった。大木の陰に隠れるように立っていた少年がこちらを振り向いた時、目が、合った。

 私はすぐに踵を返していた。今は誰とも会いたくはない。たとえ子供でも。

「あの、待って!」

 後ろから声が聞こえた。まだ成長途中の少年の、あどけない声。思わず立ち止まってしまったのは、その声のせいだろうか。

「あ……の、真央(まお)さん?」

 背中で聞いた自分の名前に、思わず驚いて振り返った。再び少年と目が合って、そのくりっとした大きな瞳を見つめる。しかし同じように驚きに満ちていた少年の顔は一変し、申し訳なさそうに自らの発言を否定した。子供らしくない苦笑いとともに、流暢な英語で。

『……あ、いえすみません人違いでした……。えっと、あなたのお名前を伺っても?』

 私は呆然と少年の言葉を受け止める。真央、が私の名前なのに、少年は人違いだという。首を傾げると、視界に濡れた金色の髪が映った。……ああ、そうだ。私の今の姿は……。

『……ケリー……』

 少年は瞬きを数回繰り返した後、ぱっと華やぐように笑い、人懐っこく話しかけてきた。そして私の腕を取り大きな木の陰にそっと誘導してくれる。その動作があまりに自然だったので、私も大人しく木の下に入った。そのまま手を繋がれても、子供だから何とも思わなかった。

『ケリーさんですね。僕は(さとる)といいます。あの、雨が弱くなったら僕の家に来ませんか? すぐ近くなんです。そんなにびしょ濡れじゃ風邪ひいちゃいますから、ね。いかがですか?』

 元々英語はそんなに得意ではなかったが、半年以上アメリカで過ごしていたら自然と話せるようになっていた。だから意外な程に流暢な智の英語も理解できていたのだが、なんと言い訳して断ったものかと考えていた。しばらく口ごもっていると、智は首を傾げて今度は日本語で同じ内容を繰り返した。私が英語を話せないと思ったのだろうか。顔も名前も外国人のそれだというのに。

 智に話しかけそうになって、はたと自分の状況を思い出した。……誰にも構ってほしくない、一人になりたい。そう思って雨の中を歩いていたのだ。思い出せば、急に重苦しい感情が胸の中に湧き上がり、喉の辺りまでせり上がってきた。

 ――そうだよ、わたし、もう。

 私は智から顔を背けた。愛らしい顔をした少年は、尚も私に話しかけてくれているが何も耳に入ってこない。顔はきっと醜く歪んでいるだろう。

『……ごめんなさい。私に、構わないで』

 それだけをやっと呟くと、温かい体温を分けていてくれた小さな手を振りほどき、私は雨の中に駆け出していた。

『ケリーさん!』

 智の呼ぶ声が聞こえたが、振り向かなかった。ただひたすらに走っていた。体の奥から痛いほどの感情が次々に溢れ出して、出口を探して涙になる。

 走る、走る。

 息が苦しくて嗚咽なのか呼吸なのかもう分からない。涙は滝のように熱い流れを作って落ちていく。焼け付くような涙を押し流しては、雨が降り止むことを知らずに全身を凍らせていく。

大きく息を切らしながら無我夢中で走っていたが、突然、目の前が大きく開けた。

 そこは海に面した広場だった。手すりの向こうには灰色の空と鈍色の海が広がっている。ふらりと近づいて覗き込んだ手すりの下は崖だった。

 自分の今いる場所さえ把握せずにうろついていたのだが、どこかの海浜公園だったらしい。半円形に作られた広場には、均等に並んだベンチが雨に濡れて寂しく佇んでいる。

よろよろと崖から離れて息を整えた。痛いくらいに鼓動する心臓の音が、打ち寄せる波の音よりも耳に響いて煩い。髪を掻き上げ深呼吸をしたら、何もかもに苛立っていることに気づいて馬鹿らしくなった。

 ああ、さっきの男の子、親切にしてくれたのに悪いことをしてしまったな。私のことなんか気にしないで、ちゃんとお家に帰ってくれるといいんだけど。

 少し弱まってきた雨に濡れながら、妙に流暢な少年の英語を思い出して笑った。今時の小学生って英語上手なのね、なんて。

『ケリー!』

 静まりかえった広場に、大きく響く声。少し低めで少し掠れた、聞き覚えのある……ありすぎる声。

思わず振り向いて声の主を探す。そして私は即座に、振り向いたことを悔やんだ。

 広場の中心で傘を差していたのは、私の愛する、彼、の姿をした、

『ケリー……。いや、マオ……』

 私を呼ぶ声は彼そのもの、顔も、体も彼のものだというのに。

『どうして傘も差さずにこんなところに。風邪を引いてしまうだろ……』

 その口から零れるのは聞き慣れた日本語ではなく、流れるような英語。“彼”の下手くそな片言英語なんかじゃなくて。

「……どうして追いかけて来たのよ」

 聞かせたいわけじゃないから小声で呟くと、彼は怪訝そうな顔で問い返してきた。

『すまないが、日本語は不自由なんだ』

 黒目黒髪の、どこからどう見ても日本人にしか見えない身体で“彼”はそう言う。

そうでしょうとも、私が英語に苦労してきたというのに、あなたには日本語が分かるなんて不平等があるわけないじゃないの。

 私は込み上げてくる怒りに歯を食いしばって、目の前の愛する人の皮を被った別人を睨みつける。彼は動物のように威嚇する私に戸惑いつつも、努めて冷静な顔をして私に傘を差し出す。

『……傘。差しなよ』

 自分の差していた傘をほんのちょっと差し出してきた男の表情をつぶさに観察する。

 ……やっぱり、違う。

 私が好きになったのは、私が愛した人は、こんな男ではない。

“彼”ならばこんなとき、私を抱きしめるほど近くで背中を丸めて一緒の傘に入る。小さな傘ではどうしても濡れてしまうから、家に帰る頃には背中がぐっしょりになっていて、それでも私が濡れていないのを見て笑ってくれるような、そんな人だった。

 私が動かないのを見て、結局自分で傘を差したままの彼はまた、おずおずと口を開いた。

『……その、マオ? マオなんだろ? ケリーは……、その……』

『死んだわ』

 彼にわかるように英語で答えた。それだけは言っておかなければならないと思った。

『……死んだ……』

 呆然と呟く“彼”の顔を見ていたら、何を今更、と自嘲の笑みが零れた。

だって今更でしょう。“ケリー”があの状況で生きているかなんて、自分の体に聞いてみたらいい。なんて馬鹿な男。こんな馬鹿な男に私たち(・・・)、人生を滅茶苦茶にされて。それでもまだ、希望を捨ててなかったなんて。

 ……本当に、馬鹿だ。

 苦々しく笑いながら俯くと、足元にできた水溜りに自分の姿が薄く映って見えた。

二十六年眺め続けた、一重で丸顔で全然美人じゃない私の顔ではなくて、くりっとした二重の碧眼と高い鼻、シャープな顎。濡れてぼろぼろでも輝きを放つ金の髪。“ケリー”の顔。

 ……ああ、もう、いいや。

 私は急にその考えに至った。最初からこうしてれば良かったのだ。……そうだよ。小さな、小さな望みに縋りついて期待しなければ良かった。彼が生きていると、彼ならば私のことをわかってくれると期待しなければ。

 生きていられるはずなんかなかった。私が(・・)死んでしまったのと同じように。

 私はにっこりと笑って目の前で立ち尽くす彼を見つめた。できれば天使のような、聖母のような優しい笑みになっているといいと願いながら。疑惑と不安に満ちた瞳を隠そうともせずに彼が後ずさったのを見て、私は可笑しくなった。

 ごわごわする固く短い髪、優しく笑う瞳。照れるとすぐ赤くなる頬。何度もくちづけた薄い唇。子供のようにはしゃぎ、私を笑わせるのに一生懸命になってくれたあの人は。

 ……あの人は、もう、いないのだ。

 一歩、また一歩と私は後退していった。何をするつもりだ、と彼は口を開かず表情で示した。でも私は笑みを浮かべたまま、その疑問に答えてはやらない。

 緊迫した空気が二人の間を流れる。その時、少年の高い声が広場に響いた。

「ケリーさんっ!」

 それは先ほど振り払ってきた智だった。小さな身体で大量のタオルを抱え、智は少し離れた所で立ち止まった。急いで走ってきたのだろう、肩で息をしながら智は私と彼とを交互に見遣り、そして静かに私を見つめてきた。

 なぜ、私を追ってきたのだろうか。ぼんやり考えてはみたものの、ただの優しい少年としか思えなかった。突然その場に現れた少年に彼は驚いていたが、すぐに私に視線を戻してようやくひと言口にした。

『おい、マオ。やめろ、早まるな』

 私はにっこり笑ってまた一歩後退した。制止の言葉など意味を持たない。特にあなたの言葉は。

崖の縁に備え付けられた手すりのところまで後ずさった私は、崖下で岩に当たっては砕ける波の激しい音を聞きながら、険しい顔で身動きできずにいる彼ではなく、タオルを抱えた少年を見た。

 智は彼の斜め後ろに立って、不安げな顔でこちらを見、そして彼の顔を覗き込むように見てからまた私を見た。

 こんな小さな子供の前でやることではないけど、追いかけてきてしまったならどうしようもない。

「ごめんね、さとるくん」と、唇だけを動かすと、智は丸い目を更に大きく開けて何かを言いかけた。が、私はふっと口元を緩め、智から視線を逸らし、そして呆れるほどに無言のままの“彼”に向かって大股で近づいていった。

 必死に表情を作ろうとしていたけれど、どうしようもできずに今は怯えを貼り付けている、その顔に。最後の一歩で思い切り近づき、濡れてもいないシャツの襟元を掴む。そしてその動揺の隙に、最愛の彼のものだった薄い唇にそっと押し付けるだけのキスを贈った。

“彼”は目を丸くし、ぱくぱくと口を動かしたが声が出ることはなかった。私はその表情に満足して笑った。きっと“彼”には悪魔の笑みに見えたに違いない。『ひっ!』と零れた短い叫びが妙に甘美だった。

 ……あなたとも、これでお別れ。全ての元凶を作った、憎らしい男。そして……、“あなた”とも。


 さようなら、私の愛した人。

 私も、海に消える。

 あなたが消えたのと、同じ海へ。


 笑みを崩さないまま、私はまた後ろに下がっていき、手が木製の手すりに触れた瞬間、一気に体重を掛けた。何の躊躇もない動きに体重は自然に後ろに移っていく。そして……。

 最後まで彼の顔が、焦りと恐怖と後悔に強張った顔が見られるようにと、背中から落ちていった。中空に放り出された私の体はふわりと浮くようで、海までの短いはずの時間は、やけにゆっくりと感じられた。身を乗り出してくる彼と智が見えた。智の口が何かを叫ぶように動いているけど、波と空気を切る音でなにも聞こえない。彼は、といえば、ただ硬直したまま、私を見つめているだけ。

 ああ、ほら。どうせ私を助けようなんて気もないんでしょうね。私のことも、ケリーのことも。……なんて可哀想なケリー。あなたの幼馴染は、あなたの恋人は、あなたのこの体を助けようともしないのよ。

 遠ざかっていく崖の上の人影に目を閉じようとしたとき、私は信じられないものを見た。

 智が、あの小さな少年が、崖から身を投げたのだ。

 私に向かって伸ばされる腕に、なぜ、と大きく目を見開いたのを最後に、波に叩きつけられた衝撃で私は意識を飛ばした。


    *


 「結婚しよう」と彼が言ってくれたのは、去年の冬だった。

そして「婚前旅行になっちゃうけど時間が空かないから」と言って、春に休暇を取ってふたりでハワイに出かけた。青い海にはしゃぐ私を見て、嬉しそうに微笑んでくれた彼は、クルーズ船でイルカを見に行くツアーに申し込んでくれた。

 ツアーは少人数制で、その時一緒になったのは、マイケルとケリーのアメリカ人カップルふたりだけだった。マイケルは茶色の長髪に緑の瞳、ケリーは見事な金髪と碧眼だった。私と彼はお互いの英会話能力を補いながら、ふたりとコミュニケーションを図った。

話してみると、マイケルはちょっとナルシスト気味のお坊っちゃまで、今回はケリーの希望で、大きな自家用船ではなくツアーのクルーズ船に乗ったらしい。本来ならこんな小さな船には乗らないつもりだったんだ、と不満げに鼻を鳴らしたマイケルに、私達はケリーと顔を見合わせて苦笑した。

 そんな風に談笑していた私たちの元へ、船を動かしていたスタッフの一人が慌ててやってきた。「嵐が来る」と言って指差した東の空には、大きな灰色の渦巻き雲が浮かんでいた。

「おいおい、冗談じゃないぞ、前もって予測してるもんじゃないのか?」とマイケルが文句を言ったが、スタッフは「予測外のことだ。こんな異常はそうそうないぞ。あの雲がレーダーに引っかかったのはついさっきのことなんだ!」と興奮気味に言い、「とにかく危ないからすぐに船室に入るように」と言い残して走っていってしまった。

 私達はそれなら船室に入ろうと移動の準備を始めたが、マイケルは「何、嵐が来ると言ったって、みろよ、あの雲はずっと先の海の上にあるんだぜ? そんなに慌てなくたって大丈夫さ、気楽に行こうぜ」と、ワインを飲み始めた。ケリーはそんなマイケルをたしなめ、「マイケル、そんなこと言わずに中に入りましょ、ね?」と言ったが、マイケルは聞く耳を持たない。

 三人は視線だけでしょうがない人だねと会話し、マイケルを甲板に残して船室に入った。それから数分後のことだった。急に船が大きく揺れ、扉の向こうからマイケルの叫び声が聞こえたのは。

 彼はその声に扉を開けて飛び出していった。私とケリーは戸惑いながらも扉から顔を出して外の様子を窺った。先ほどまで遠くの空にあったはずの雲がもう頭上に迫ってきていて、大きくうねる嵐の中に自分達の乗った小さな船がされるがままに揺られていた。

 雨なのか波しぶきなのかわからないほどの大量の水滴と、吹き付ける風という最悪の視界で目を凝らしてみると、甲板の先に彼の背中があった。状況から察するに、マイケルは船の揺れとともに振り落とされそうになったに違いない。それを彼が助けたのだろう。なんて迷惑な人と心の中で思ったが、今はそれどころではない。彼を助けなければ、と一歩踏み出した、その瞬間だった。

 見たこともないほど大きな波が、彼と、その腕に掴ったままのマイケルを攫っていった。 目の前の光景に叫ぶ暇もなく、その波でものすごい角度に傾いた船室で、私とケリーは為す術もなく空中に投げ出された。ドン、という大きな音と共に壁にぶつかり、痛みを感じながらそのまま意識を失った。


 それが、私が彼を見た最後の瞬間であり、私が私であった最後の時だった。


 目覚めて最初に見たのは二対の青い目だった。歓喜の声とともにまくし立てられる英語。泣き叫んで喜ぶ見知らぬアメリカ人に囲まれて、私は恐怖のあまりベッドから転げ落ちた。

点滴の針が抜けて血を流す腕を押さえて違和感を覚えた。肌の色、腕の細さ、指。誰かに脇を掬われて立たされた時、目の前の鏡に映った自分の姿に愕然とした。体中の血液が落ちていくような感覚。

そこには『ケリー』がいた。船の中でくっついて揺れをしのいだ、金髪碧眼のケリーが。

 ありえない、と思った。でも鏡の中に映る私は間違いなくケリーだった。訳が分からなかった。何がどうなってしまったのか。

 私がいたのはハワイの病院だった。身体のあちこちが痛んだけれど、誰もいない隙を狙って病室を抜け出した。何が起きたのか確かめたかった。なぜ私がケリーの姿をしているのか。私の身体はどこへいったのか。

 病院中を歩き回っていると、慌しいストレッチャーの車輪の音と日本語が耳に入った。振り向いた私の目に飛び込んできたのは、泣きながらストレッチャーに縋りつく私の両親の姿だった。そして呆然とする 私の目の前で、段差で揺れたストレッチャーから青白い手がずり落ちた。血の気のない人形のような指に光る指輪。見間違えるはずもない、私が彼にもらった、婚約指輪。

「真央、真央っ!」

 泣き叫びながら通り過ぎていく両親を見送った。足は凍りついたように動かなかった。……今のはなんだったのか。あの手は、誰の……。

 

 為す術もなくケリーとしてニューヨークの家に連れ帰られた後、ケリーの両親は私が事故のショックで話せなくなり、記憶も曖昧になったと思い込んで、甲斐甲斐しく世話をしてくれた。

 次第に英語も分かるようになってケリーの体に慣れてきた頃、あの事故の結末を知った。

 事故で死んだのは二人。藤井真央とマイケル・ウッドランド。

 私の身体はハワイで火葬され、葬式も出されていた。……分かっていた。あの婚約指輪もきっと、私の体と一緒に炎の中で焼かれたのだろう。

 ただ、インターネット上のニュース記事には唯一の救いも残されていた。――生き残ったのは斉藤知巳(ともみ)さん(26)、ケリー・スミスさん(16)――。

 ……彼が、生きている。

 私はひとり、全身にみなぎった湧き上がるような喜びをかみ締めた。彼が生きている。それだけが悲しみの中の希望だった。生きていてくれてよかった、そう思った。

 でも、分かってからはどうしようもなかった。生きているなら彼に会いたかった。私自身が別人の身体になっていようと、あんなに好きだった彼なら、あんなに私を大切にしてくれた彼ならば、私のことをわかってくれるんじゃないか、と……。

 そして私は両親を無理やり説得し、日本へやってきた。

 彼が住んでいたアパートは引き払われていたので、何度かお邪魔した彼の実家へ向かった。インターホンを押す指は緊張で震えた。彼に何をどう言ったらいいか。「私だよ、真央だよ」って、彼ならきっとわかってくれる、そう信じて待った。

 玄関から顔を出したのは彼だった。

 ちゃんと動いている彼を見て、本当に生きてた、良かったと涙が溢れそうになった。嬉しくてもう、私のことを分かってもらえなくてもどうでもいいや、彼が生きてくれていただけで良かったと心の底から思った。

 でもそう思ったのも束の間、彼は私と目が合った瞬間、凍りついた。そして言った。

『ケリー、君、どうしてここに?』

 ……ありえないと思った。誰かに否定して欲しかった。まさか、どうして。


 彼にも、私と同じことが。


 短い髪、黒い瞳、薄い唇。少し痩せて頬がこけていたけれど、間違いなく私の愛する彼の姿、そして彼の声。

『ケリー? わかるか、僕だよ、マイケルだ。僕……入れ替わってしまったんだ、トモミの身体と……!』

 彼の英語は日本人が話す典型的な下手くそ英語。その彼の口から流れる明らかにネイティブの英語、そしてその英語を聞き取れるようになった、私。

「……冗談じゃないわ」

 じゃあ彼はどこへ行ったの? 身体だけを残して、どこへ。

『……ケリー……君、まさか……』

 彼は、彼の意識は消えた。おそらくマイケルの身体とともに。私の身体と一緒に消えた、ケリーの意識と同じように。


 死んで、しまった。


   *


 愛してたの。これ以上ないくらいに彼のことが大切だった。なのに彼の意識は消えてしまった。たとえ彼の身体でも、中身がマイケルなら愛せるはずもない……。


 ――それで、死のうと。


 誰にもわかるわけないわ、私の気持ち。自分は存在が消されて、大切な人は身体だけ残して消えた。いっそ普通に死んでたらよかった。死んでたらこんな苦しみ知らずに済んだのに。


 ――でもそれは、今だから思うんでしょう? 今生きているからこそ、そう思えるんでしょう? 


 あなたにはわからないよ。


 ――わかりますよ。


 誰も私だって分かってくれないのよ? 世界から存在が消されてるの!


 ――はい。


 家族も、友達も、誰も私だって気づいてくれない! 私は死んだことになっているんだもの! でもじゃあ、私は誰なの? ケリーなの? 真央なの? 二人ともいないも同然なのに!


 ――はい。


 大切な人の身体に別人がいるのよ? 会いたくて会いたくて、誰よりも愛してた人の身体で、彼を死なせた原因の男が生きてるなんて……最悪よ、絶望よ、理不尽すぎるわ!


 ――それについては分かりかねますが。


 ほらね。


 ――でも、大体わかるつもりです。僕もあなたと同じですから。


 ……は?


 ――ただ、僕は大切な人が生きていてくれるなら、身体が違ってしまっていても受け入れます。


 ……何を言っているの?


 ――あなたの意識が消えなくてよかった。僕は何重もの奇跡の先で、あなたにまた会えたのだから。……ああ、疲れさせてしまいましたね。ちゃんと目が覚めたらお話しましょう。大丈夫、これからは僕があなたを守ります。だから安心して眠って。

 

 だから何を言って……。私はもう、死んでいる、の、に。海に……身投げして死んだの……に。


 ――いいえ、あなたは生きています。大丈夫、安心して。今はもう少し眠ってください……。

 

   *


 柔らかくて優しい香りと、ほかほかする温かさに包まれている。ゆっくり瞬きをすると焦点が合って、見覚えのない天井が見えた。

 ここはどこだろう、そう思った瞬間に、少し高めの声が控え目に響いた。

「……目が覚めましたか?」

 まだぼんやりとした頭で声のするほうに顔を傾ける。声の主は窓からの光を背で受け、逆光の中で笑った。

「おかえりなさい、現実へ」

 少し高めの、子供の声。でも妙に落ち着いた、吐息に乗せるような話し方と大人びた言葉。――夢の中でずっと聞こえていた声。

 それは私に続いて崖から飛び降りた、智の声だった。

「気分はどうですか?」

 聞かれてふと瞬きをし、大きく息を吐いた。

 ……私、生きてる。

「……どうして助けたの?」

 死んでしまいたかった、のに。

 何もかもを終わりにしようと思って、飛び降りたのに。

 生きていたってなんの希望も見えないのに。

「あなたに死んでほしくなかったからです」

 また静かに、落ち着いた智の声が響く。

「あなたは僕の……大切な人だから。死なせたくなかった。もう二度と失いたくないと思った。だから……僕のエゴです。ごめんなさい……あなたの意思を無視して」

 声とともに少し引っ張られて、手が繋がれていることに気づく。小さな手、小さな指。でも温かく私の右手を包む体温。なのにこんなにも、子供らしくない物言い。

「でもあなたを助けたことを謝ったりはしません。僕は間違ったことはしていないと思っています」

 きゅ、っと握られた手に力が込められた。柔らかくも力強いその手を振りほどくことができない。……どうして、子供なのに、こんな。

「……あなたは、誰?」

 小さく呟くと、智はふっと笑った。よく見たら智の頭にも包帯が巻かれていた。

「真央さん」

 智は小さく呟いた。もう呼ばれることのないはずの、私の名を。

「ねぇ……私を知っているあなたは誰?」

 夢うつつでずっと私の話を聞いてくれていた、あなたは、誰?

 なぜ私を死なせたくなかったなんて言うの?

「僕は……。そうですね、どこからお話しましょうか」

 半ばそう尋ねられることを予期していたのか、智はふわりと笑って首を傾げた。

「僕は今小学生の姿をしていますが……本来の身体ではありません。あなたと同じです」

「……え?」

 なに、それ。と口に出したいのに声にならない。智は私の手を握ったままで話し始めた。

「一年半ほど前になりますね、僕の場合も事故でした。あの日は休日で、おじいちゃんの働いているところを見たいと言うこの子を招き、この子は屋敷を探検していました。ああ、おじいちゃんというのはこの屋敷を管理している者なのですが」

 智は体に手を当てて、自分の身体の元の持ち主を“この子”と言った。

「夢中で駆け回っていたようで、この子は三階のテラスから身を乗り出し、庭にいた僕に向かって手を振った。そして……勢いあまってそのまま転落したんです。慌てて抱きとめた僕は、どうしたか頭を強く打ち付けた。そこで意識は途切れて、次に目を覚ました時には……」

「……身体が入れ替わっていた……」

 私のときと似ている。私も頭を強く打ち付けたことを覚えている。

 智は私の言葉に頷いて先を続けた。

「気づいた時には、僕自身の身体は心肺停止状態で、周りの人間はもちろん僕が死んだと思った。……葬式の準備を進めようとする皆を止めるのに苦労しました」

 智は冗談めかして言った。でもその笑みはどこか寂しそうな、複雑な表情だった。

「……僕は僕であることを証明するために、周囲の人間に問題を出させた。僕でしか知りえない情報や知識を確認させるものを。僕はその全てにクリアし、入れ替わったという事実を認めさせた」

「……すごいのね」

 なんだか凄みのある言葉と表情に面食らった。が、智はすぐに表情を崩して微笑んだ。

「いえ、必死だっただけですよ。今思えば……ただの小学生の智で生きるのもよかったかもしれません。もう、僕として表舞台に立つこともできないのですし」

 身体がないですから、と苦笑する智を見ながら、こんな子供らしくない子、どちらにしてもただの小学生ではいられなかったに違いない、と私は思った。

「そ……っか……。なんだか納得したわ。だってあんまりちぐはぐなんだもの、智って」

 ずっと感じていた違和感がようやく解消されて、ふっと大きく息を吐いた。

 けれどもまだ残っている疑問がある。

「……それで? 元々のあなたの名前は? 智、はその子の名前なんでしょう?」

「ああ、僕は……浅川智志(あさかわさとし)と言います……。あの、その……隠していた、訳ではないんですが」

 どんな知り合いかと、にっこり笑って待ち構えていたはずの私は、その名前を聞いて驚愕した。

 ――浅川智志。私がかつて勤めていた会社の、社長の、名前。

「いやあの、その……だから、あなたのことは前から知っていました。会うことは少なかったですが……。……その反応は、僕のことを覚えてくれていると思って、いいんでしょうか……?」

 自分の会社の、しかも若くてかっこよくて(確か三十くらいだったはずだ)女子社員にキャーキャー言われていた社長の名を忘れる社員がいるかと、勢いよく頷くと、智……いや浅川社長は安心したように笑った。

「よかった……あなたに覚えてもらえていただけで僕は……」

 その穏やかな笑い方を見たことがある気がした。顔は今の可愛らしい子供の顔と全然違っているのに、記憶の中の社長がいつだったか似たように笑ったのを見た気がする。

「あの、浅川社長……」

「社長だなんて。僕のことは『さとる』と呼んでください。智も智志も同じ漢字で似てますし、僕は今この姿ですから。敬語も止めて、……ね?」

「あ、はい……うん」

 綺麗な笑顔で念押しされて返事をした。押しの強さに(おのの)いたが、小首を傾げている智は相変わらず可愛らしい。

「……えっと、智、は、だから私のことを知ってて、助けてくれて……? でも私、ケリーの姿だったのに……?」

 今更ながらおかしなことに気づく。最初に会ったとき、智は私を「真央」と呼ばなかったか。金髪碧眼、間違えようのない外国人の顔をした私を「真央さん」、と智は呼んだはずだ。

 すると「それは僕にも不思議なのですが……」と前置きした智が、顎に手を当てた思案顔で言う。

「何故かあなたの元の姿が見えたんです。今のケリーさんの姿に重なるようにして、僕の見知っている真央さんの姿が。だから思わず名を呼んだけれど一瞬後には見えなくなった」

 思わず自分の――ケリーの身体を触って私の痕跡があるのか確かめてしまった。だが智は今は見えないと言うように首を振った。

「あなたが海に落ちる瞬間にも、真央さんの姿が見えた。それで僕は……あなたを助けようと」

 飛び込んだわけね、とありえない理由にもかかわらずすんなり納得する。智の言葉は本当なのだろう。説明不能の不思議体験が現在進行形で起こっている私にとって、今更この程度で動じるまでもない。何がどうなっているのかを考えるのは全くの無駄に思えた。

 妙な脱力感に大きく息を吸って吐いたら、わき腹の辺りがピキッと刺すように痛んだ。

「……い、たぁ……」

 更にベッドに沈んだ衝撃で、身体のあちこちがギシギシと痛み出す。思わず息を止めて目を閉じ、痛みの波が過ぎ去るのを待った。

「真央さん、大丈夫ですか? 医者の話では肋骨にひびが入っているとのことなので……。痛み止めが切れたのでしょうか。医者を呼びましょうか」

 心配そうな智の声に、大したことはないと小さく首を振る。じっとしているうちに痛みの波は引き、私は身体を弛緩させて小さくため息をついた。

「……真央さん? 大丈夫……?」

 ――真央。今は智だけが呼んでくれる私の名前。私は右手をそっと動かして自分の髪を掬った。その金の髪。一度は金髪にしてみたいなんて憧れたときもあったけれど。そしてそれをつかむ白磁の手。細く長い指、若々しい肌。半年以上一緒に過ごしたケリーの身体。

「……私、生きてるのね」

 痛みを感じるのは生きているから。他でもないケリーの身体が、生きようとしているから。私はこの命すら終わらせようとしたのに、生きているのは私で。

「あのね、真央さん」

 不意に智が私の右手を取った。両手で包むように握られて、戸惑いながら視線を送ると大きな瞳が優しく私を見つめていた。

「何が正解かなんて誰にも分からないと思うんです。だって死んでしまった人の声を聞くことはできないから」

 ……そう、どうしたらいいかわからなかった。私は私の絶望に飲まれてただ、死ぬという選択肢しか見えなかった。ケリーの身体で生きているという事実を無視して。

「どうして入れ替わってしまったのかは僕にも分かりません。だから自分と入れ替わりで消えてしまった人がいることを悲しまずにはいられないし、申し訳なくなる気持ちも分かる。……でも残された人は、身体が違っていても生きている僕らは、ずっとそのことで自分を責め続けなければなりませんか? 生きていてごめんなさいって思わなければなりませんか?」

 ……ああ、どうしよう。なぜ私の思っていることがわかるんだろう。

「違いますよね、きっと。僕たちは、死んでしまった人の分も生きるべきだと思うんです。その人そのものにはなれなくても、自分なりに生きていければいいんじゃないかって僕は思います」

 落ち着いた智の声が不思議なほど自然に私の胸に響く。同じように自分の身体を失くしたのに、自暴自棄にならずにちゃんと立っていられる理性。私の話を根気よく聞いてくれる包容力。

「……ああ、もう。可愛い顔してるのに中身はホントに社長なんだね。かっこよくてみんなの憧れの的だった社長そのものなんだね」

 ため息とともに体重を枕に預けてそう言うと、智は顔を真っ赤にして私を見ていた。その顔が可愛くて吹き出してしまう。

「敵わないなぁ、散々悩んだ私って何?」

 笑いながら天井を見上げたら、視界がぐにゃりと歪んだ。堪えていたものが噴き出すように、仰向けの目に涙が溢れる。拭いたいけれども、痛みなく動く右手は智に握られている。

「あのね、智。私本当に絶望していたの。もうこの姿じゃ本当の両親にも会えないし、誰にも真央って分かってもらえないって。ケリーの姿で過ごしていても申し訳なさでいっぱいで。ケリーの両親に優しくされるほどに私はあなた達の娘じゃないのよって、心の中で思って」

 泣き笑いの状態で必死に言葉を紡ぐ。智は何も言わずに手を伸ばし、私の涙を拭ってくれた。

「でもね、ケリーのね、両親が言ったの。『元気で私達の元へ帰ってきてくれたらそれでいい。お前は私達の娘なんだからね』って。……今思えば何だか少しおかしくない? まるで自分の娘が別人になっちゃったことを知っているみたいな」

 あの時の両親の様子を思い出す。必ず帰ってきてくれるなら、と念押しして日本行きを許してくれた二人の姿を。

「……気づいているのかもしれませんね。もしかしたら」

 智はベッドに乗り出して私の涙を拭う。手を離してくれたら自分で拭えるのに、ぎゅっと握ったまま放してくれる様子はない。

「なんかもう、いろんなことに諦めがついたよ……。これが現実だって。私はこれからケリーとして生きていくんだって。ようやく……受け入れられた気がする」

 何かが吹っ切れた。自分を自分だと認めてくれる人がたった一人、いるだけで。

生きていくことへの不安が消えたわけではないし、状況は何一つ変わらないのだけれど。

 同じ境遇の人がいると分かった。そして真央と呼んでくれた。ケリーの姿でなお、私を認めてくれた。

 全てが……この小さな紳士のお蔭だった。

「はい……生きていきましょうね、一緒に」

 止まることを知らない涙が枕を濡らしていく。滲んだ視界で智が笑うから、私も微笑み返した。

「……うん……」


 生きていく、覚悟をしよう

 もう自分の人生は歩めないけれど

 愛した人も、いないけれど

 何もかもを失くしてしまった代わりに

 命がひとつ、ある

 この先どうなるか分からないけど、ケリー

 私はあなたの人生の続きを歩いていくよ

 あなたの思う通りにはならなくても許して

 私は私のままで、精一杯生きるから……


   *


「……真央さん? 眠ってしまいましたか?」

 ベッドの上で目を閉じた彼女は穏やかな寝息を立てていた。泣きながら眠ってしまったようだ。

「本当に……可愛い人」

 智は呟いて、涙に濡れて赤くなった目じりに触れた。まさかこうして、こんなに近くで言葉を交わして触れることができようとは。

「ねぇ……ただ会社の社長というだけであなたを助けたのだと思ってる?」

 額に掛かる髪を除けると、長い金の睫毛がふるりと震えた。起きるかと思ったが、寝息は規則正しく続いている。

「この姿になっても生きていて良かったと、今なら心から思えます。あなたは実に無防備だし、僕も無邪気にあなたに触れますし」

 くすくす笑う智は、まるでいたずらに成功した子供のようだった。

「どんな奇跡が積み重なって僕らが出会えたかわかりますか? どんなに最悪なことが起きようとも、生きていたらこんなにいいことも起こるんですね」

 返事がないとわかっていて語りかける。

「僕はあなたを外見で好きになったわけではないですから、中身があなたなら大丈夫。……それに僕が今十一歳であなたが十六歳なら、子供同士釣り合いも取れますし、ふふ」 

 痛々しく赤く腫れた目じりにそっと触れるだけのキスをし、智は部屋を後にした。

「これからはずっと……一緒ですよ」


 眠り姫はまだ、自分の運命が再び転がり始めたことを知らない。






4話で完結します!

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