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優しい対の勇者

 部活中も、ずっとそのことを考えていた。

 呆けていたのでトモハルに何度か怒られたが、無視した。一歩一歩、夢を現実にするはずだった。部活の後浮き足立って帰宅し、待ち合わせ時間をアサギに連絡しようとした。

 しかし、現実に気づき悲鳴を上げる。

 約束した日曜は、親戚が法事で集まる日だった。どうでもよかったので、すっかり忘れていた。カレンダーには、ご丁寧に『法事!』と真赤な字で書かれている。悍ましい、血の文字に見える。行きたくはないが、抵抗したところで強制連行されてしまう。渋っていても仕方がないので、嫌々ながらアサギに連絡した。


『悪い、用事だったから、その次の日曜でもいいか?』


 すぐに返信がないことは、解っている。その間はトビィと一緒にいるということも、解っている。時計を気にして、ミノルは遅くまで待ち続ける。

 数時間後、ようやく『ポコンッ』と独特の音が鳴り、アサギからスタンプと文字が届いた。


『うん、大丈夫! 調べたけど、プールの営業はその日が最終日だって。とても楽しみだね! 人、多いかな?』


 転寝しながら、光ったスマホを目にして笑みを零す。屋外プールの営業期間を調べてくれた事が嬉しかった、邪険に扱われていないと解った。嫌々だったらどうしようかと、多少の不安はあったが杞憂だったらしい。


『んじゃ、十時にプールの入口前な。門のトコ』

『うん、ありがとう! 五十五分に着くバスがあるから、それに乗るね』

『おー』


 ミノルは大きく溜息を吐き、近いようで遠い約束の日を夢見て眠りにつく。


「やっべ、楽しみ!」


 どんな服を着てくるだろう、水着はこの間と同じなのだろうか。手を繋いで流水プールに入ろう、スライダーも何度も並ぼう。昼は何を食べようか。


――いいの? 本当にそれでいいの? 選んでいるのはトビィなのーに。


 夢の中でアサギと過ごすプール、その片隅で何か黒いものが連呼している。『トビィを選んだ、トビィを選んだ』と連呼している何かがいる。


 嬉しくて落ち着かないアサギも、真剣に衣装と水着を選んでいた。十日以上先の事だが、待ち遠しくて顔が綻ぶ。初めて二人で出かけるのだ、気合を入れて当然だろう。ミノルはどんな服が好きなのか、どんな女の子が好きなのか、どうしたら気に入って貰えるだろうか。そんなことを考えていた。


「そもそも、これはデートでいいのかな? デートだよね?」


 生真面目なアサギは辞書を引いた。『社交的、または恋愛的な会う約束』と記載がある。納得し、困ったように肩を竦める。

 ミノルにたくさんメールをしたかったが、迷惑にならないか、鬱陶しく思われないだろうかと躊躇していた。頻繁に送らなかったことを、ひどく後悔する。もっと自分の近況を報告すべきだったと、反省した。そもそも、親しい仲ではなかったので、メールするにも戸惑った。『おはよう』『おやすみ』のスタンプは送っていたものの、見直すと味気ない。


「私達は付き合っているのかな……。まだ付き合ってないような……でも……」


 アサギは“魔王を倒し世界を平和に導いた”際に、感極まってミノルに想いを伝えた。しかし、その時に返事は貰っていない。その後、ユキの計らいで四人で出掛けたものの、自分達がどういう立ち位置なのか解っていない。校内の噂では付き合っていることになっているが、正直不安だった。


「ミノルに迷惑をかけてないかな、大丈夫かな」


 ミノルにしてみたら、アサギの告白を断る馬鹿がどこにいるのかと、『はい』以外の選択肢はない。そして、気が動転していたが、返事をしたものと思い込んでもいる。

 アサギにしてみたら、確かな“言葉”で返事が欲しいので蟠りがあった。


 アサギは約束の日の前日、焼き菓子を作ることにして着実に計画を進めていた。可愛いラッピングも買い揃え、練習で母と一度作った。上出来だったので、満足して本番に臨む。練習で作ったものは家族とリョウは勿論、トビィにもおすそ分けをした。

 二人きりの予定が入り、気軽に話しかけようと決意した頃。アサギはようやく、ユキや友達にするように、ミノルにも親しげにメールを始めた。


『こんばんは、トビィお兄様の回復力にクレロ様もびっくりしていたよ。流石だね。プールが楽しみ!』

『おはよう、トビィお兄様が元気になったよ。そろそろ過去へ戻そう、という相談をクレロ様としたよ。プールの日は真夏日だって!』

『こんばんは、昨日はトビィお兄様が帰りたくないと言い出して大変だったよ。プールの最終日はね、イベントがあるみたい!』

『おはよう、今日はとっても眠い。トビィお兄様はとても元気に見えるけど、帰らない……。そうそう、イベントだけど、子供には花火が配られるって! みんなで集まって花火をするのも楽しそうだね』


 アサギは、嘘偽りなく真実を告げた。毎日メールをした、早く日曜日になればよいのにと胸を躍らせて。


 そうして、ようやくやってきた当日、約束の時間は十時。炎天下。

 蝉が元気に鳴いているが、彼らの寿命はいつ尽きるのだろう。その時まで精一杯鳴いているのは解るが、元気すぎて余計に暑さが増す気がする。額にじんわりと汗が浮かび上がってきたので、ハンドタオルで押さえた。木陰で多少体感温度が下がるものの、やはり暑い。

 現在気温は何度なのか、熱されたアスファルトから独特の匂いが立ち昇っている。


「……はぅ」


 アサギは、右手の腕時計を覗き込む。予定の時間を、一時間半経過している。気が急いて九時半頃到着したが、今は十一時半。

 プールへ向かう人々のはしゃぐ声が、幾度となく通り過ぎていった。遠くからは、涼しげな水の音と賑わしい声が聞こえてくる。予想通り繁盛しており、入場規制がかかっているようだった。

 アサギは困惑しスマホを操作し、落胆して唇を噛み締める。

 先程から数回かけているが、繋がらない。途方にくれていたが、“ミノルおうち”と登録しておいた番号に気づいた。安堵し笑みを零すと、急いでかける。土曜日は学校で会っていない、熱で倒れているのではないかと、心配していた。


『はい、門脇です』


 声に、ドキリとする。母親が出た。上擦った声で、アサギは訊ねる。


「あ、あの、田上です。ミノル君は居ますか?」

『あら、アサギちゃん? ミノルなら出掛けてるわよ』

「そ、そうですか、ありがとうございました」


 力なく電話を切ると、青空を仰いで涙を堪えた。ミノルは不在らしい、何処へ行ったのだろうか。

 連絡がつかないのであれば、スマホも意味がない。のろのろとバッグに仕舞い、深く溜息を吐く。プールを間違えたのだろうか、それとも、気づかないだけで実は近くにいるのだろうか。

 考え、アサギは首を横に振る。何度もプール前を彷徨い、ミノルを探して人ごみに目を走らせていた。しかし、混雑しているとはいえ、互いの顔くらい解る。そもそも、今はもう人混みはまばら。多少待っている人もいるが、見落とすわけがない。

 ミノルから届いたメールを何度も確認したが、“十時”“門のトコ”と書いてあるので合っていた。

 ふらつきながら木陰のある花壇に座り込むと、項垂れる。俯いたまま動けなかった、楽しみにしていた時間は、容赦なく奪われていく。喉もカラカラで正直しんどいが、買いに行く気力はない。


「事故、じゃないよ、ね」


 アサギはスマホを再度取り出し、近辺の情報を検索する。しかし、何も出て来ない。そもそも、事故だとしたら母親は病院にいる為不在だろう。

 ミノルは、確かに家を出た。その後、何処へ行ってしまったのか。アサギには全く見当もつかなかった。

 スマホに連絡は、ない。

 じわりと身体中に浮かぶ汗が気持ち悪い、今頃二人でプールに入っている予定だった。汗ではなく、水を滴らせているはずだった。下腹部に微量の痛みを感じ、腹を軽く押さえる。昼が近くなってきたので、空腹だと痛感した。本来ならば今頃、中で何か頬張っていただろう。

 

 ……あと一時間だけ、待ってみよう。


 アサギは心の中で誓うと、ぎゅっと水着の入ったバッグを握り締める。そのまま、蝉たちの大合唱を聴いていた。 

 ミーンミンミンミン。

 記憶が朦朧とする中、ふらつく足取りで立ち上がる。細い手首にはめられている薔薇をモチーフにした華やかな時計は、十三時をまわっていた。

 アサギは仕方なく、人々の楽しそうな声を背にプールを後にする。念の為、『帰ります』とだけミノルに送った。

 今日という日を、楽しみにしていた。提案したのはアサギだが、ミノルが誘ってくれた二人だけのプールのはずだった。

 バッグの中には、昨夜作ったミノル向けのスパイシークッキーが入っている。甘いものが苦手だと知っていたので、調べながら頑張って作った。

 浮かれていた事が恥ずかしくて、泣きそうになりながらバッグを強く抱き締め何度も溜息を吐く。落ち込んでいても仕方がないので、急用が出来たに違いないと前向きに思い直したアサギは顔を上げる。

 自販機で水を購入し、一気に飲み干す。心も身体も、乾ききっていた。バス停で時刻表を見ていたが、気合を入れてお洒落をしている。気分転換に雑貨屋でも覗くことにして、歩き出す。向かう先は、人で賑わう月ヶ丘。土日祝日は多くのキッチンカーがずらりと並び、それだけでも楽しい。バスでも向かえるが、徒歩で二十分程度なので散歩がてら歩く。

 人の流れに紛れて歩くと、すぐに腹を刺激する美味しそうな香りに気づいた。

 メロンパンの移動販売カーを見つけたので、熱々の焼き立てを頬張り歩く。空腹だったのですぐに食べ終え、喉の渇きを満たすために自販機で紅茶を購入した。

 小さな白いリボンがついた水色のロングワンピースをなびかせながら歩くアサギを、行き交う人々が振り返って見つめる。相当目を引く容姿に憂いを帯びた伏目がちの瞳が拍車をかけ、誰しもが陶酔する。

 しかし、これだけの注目を集めようとも本人は気にしない、気にも留めず歩き続ける。アサギは、()()()()()()だ。

 声をかけようか相談している男達も少なくないが、美しすぎて躊躇している。そこには、不可触の壁が存在している様に思えた。近寄れば、何かに切り刻まれそうな。


「わぁ……」


 到着したアサギは、感嘆の声を漏らした。久し振りに遊びに来たが、以前より賑わっているように見える。数多のテーブルチェアが設置されており、多くの人は昼食やスイーツを堪能している。こういった明るい場にいられるだけで、心が軽くなる気がした。

 ふと。

 見知った後姿に気がつき、アサギは足を止める。手にしていたペットボトルを、無意識に力強く握り締めた。


「あれ、アサギ?」


 鈍器で殴られたような衝撃に、背後から声をかけられても茫然と突っ立っている。暫し立ち尽くしていたが、肩を叩かれたのでようやく振り返った。


「え、ぁ、……トモハル」


 不思議そうな顔をしたトモハルが立っていた。


「一人? 買い物?」


 手には、トモハルが気に入っているスポーツブランドのショップバッグが握られていた。アサギの視線に気付き、軽く笑ってバッグを持ち上げる。


「スニーカーを買いに来たんだ。アサギは?」

「……ウインドウショッピング、かな。久し振りに」


 アサギは微笑んだものの、苦虫を潰したような表情になっていないか不安になった。声も、掠れている。

 すぐにトモハルはアサギの異変に気づき、二人の間に沈黙が流れる。

 気まずくなったアサギはいたたまれず、近くのゴミ箱にペットボトルを捨てに歩いた。動揺を隠しきれないと思ったので、出来ればこのまま離れたい。しかし、トモハルはピタリとついてくる。


「昼、食べた? 一緒に何か食べない?」

「さっき……メロンパン食べたから。あっちのほうで買ったの、美味しかったよ」


 干からびた声を出すアサギに対し、トモハルはにっこりと笑う。


「そっか。でも、俺はまだだからさ、付き合ってくれない?」


 アサギは断るつもりだったが、先手を打たれた。強引ともとれる態度に、唇を噛む。しかし、断ることが苦手な性分のため、ぎこちなく頷く。瞳を伏せて、困惑気味に視線をトモハルから逸らした時だった。


「……っ!」


 視線の先に、後姿のミノルがいた。憔悴しきった瞳に再び飛び込んできたのは、間違いなく朝から待ち続けた本人だ。

 しかし、声をかけたくとも、アサギにはかけられない。先程は他人のそら似で、見間違いだと思っていた。いや、そうであって欲しかった。

 アサギの視線を追い、トモハルがそちらを見つめる。

 唖然とした二人は、固唾を飲んで同じ方向を凝視する。

 ミノルの隣に、少女が座っている。

 アサギもトモハルも、その少女が誰だか知らない。横顔しか見えないが、少なくとも同じ学校の同級生ではない。問題は、二人がかなり親密な雰囲気で昼食を食べていること。テーブルの上には所狭しと、様々なものが並んでいる。

 トモハルの意識が再編成され、慌ててアサギを見る。

 アサギは硬直したまま、泣くも喚くも怒るもせずに、ただ二人を見つめている。

 トモハルは狼狽し、かける言葉が見つからなくて口籠った。

 始まったばかりの映画を観るようにミノルを見ていた二人は、突然少女と目が合って激しく動揺する。


「っ!」


 気圧されたアサギが一歩後退したので、トモハルは無意識で支えた。

 きつめの瞳が印象的な、大人びた少女だった。ゆる巻きヘアに、ピンクのぼんぼんがついたニット帽をかぶり、エメラルド色したパーカーを羽織った健康的な少女。キャミソールは胸元が広めで、発育のよい立派な胸を強調している。

 “大人っぽい、魅力的な子”。アサギはそういった印象を抱き、自分が着ているワンピースが酷く子供っぽく見えて恥じる。胸の鼓動が早鳴り、押し潰されそうな圧迫感に顔を歪める。

 二人の視線に気づいているらしい少女は、何度かこちらをチラチラと盗み見していた。しかし、露骨に焦点を合わせ、確実にこちらを見据える。

 気のせいかもしれない、しかし、トモハルはあからさまに顔を顰めて睨み返していた。

 確かにその少女は笑った。こちらを見て、故意に。まるで、自分達を知っているような瞳で。


「うふふ」


 獰猛な獣の瞳は、アサギを捕らえて嗤った。後方から一部始終を見ていたトモハルは、気づいて一気に警戒する。子供ながらに、相手の負の感情を察した。

 

「キス、する?」


 周囲はざわつくのに、ミノルと少女の声だけが鮮明に聞こえた。わざとらしくこちらに視線を送りながら、挑発するように言う。

 アサギは、足がもつれて座り込みそうになった。

 慌ててトモハルが支え、救う。二人の鼓動は、壊れそうな程に速い。

 アサギは自分の腕を強く掴み、震える身体を押さえた。


 ……キス?


 目の前の少女は、誰なのか。ミノルと、どういう関係なのか。疑問は浮かんでも、ほぼ答えは出ている。しかし、混乱して正解を導き出せない。

 祈る気持ちで、トモハルはミノルを睨む。アサギを慰める事が無いようにと思うが、その願いは虚しい。不安が脳裏を過る、そんなことはないと信じている。けれども、目の前で起きている現実からは逃れられない。

 恋人がいるにもかかわらず、別の少女と親し気に食事をしている親友に吐き気がした。トモハルは狂いそうな程に困惑している、だが、今一番苦しいのはアサギであると知っている。当事者の心痛さは計り知れず、目の前で小刻みに揺れる髪を息を殺して見つめる。


「実君、好き」


 そこだけ、異空間のようだった。周囲の人々はみんなハリボテで、この場には四人しか存在しない。聞きたくないのに、耳元で叫ばれているように鮮明に届いた少女の声に戦慄する。

 少女は艶っぽく微笑むと、ミノルの口元についていた食べカスを指でとって悪戯っぽく舐めた。どう見ても、親密な関係にある。

 アサギは胸を突かれたような思いで、息を飲む。

 トモハルは、一気に顔を真っ赤にした。羞恥心ではない、そんな行動を許してしまうミノルに腹が立った。恋人同士にしか思えない二人の関係を、まざまざと見せつけられる。


「実君はぁ、私の事好き?」


 瞬きしながら近寄っていく少女に、トモハルは歯軋りして拳を強く握る。ザワザワと背筋が蠢く、あれはあざとい演技だ。彼女のありありとした媚びた様子に、吐気をもよおす。騙されるな、ミノル! そう心の中で叫び続ける。

 

「あぁ、好きだよ」


 けれども、拍子抜けするほど呆気なく、ミノルはだらしなく笑みを浮かべてそう返答した。


「大馬鹿野郎っ」


 堪え切れなかったトモハルは、哀しく震える声を漏らした。

 アサギは瞬きするのも忘れ、目の前の二人を漠然と見ている。


「でも実君、すっごく可愛い彼女がいるよねぇ。私、彼女になれないよね……。悲しいなっ、両想いなのにっ」

「なんだ、知ってたのか。でも、それ誤解。アイツ、彼女じゃないから。問題ない」

「そうなの? あの子だよ、男の子をみーんな虜にしちゃう、有名なあの子だよ? 名前は知らないけど、顔を見たら解るよ。私達、ビッチちゃんって呼んでる」


 少女はアサギに挑発的な視線を投げながら、話し続ける。


「ぶはっ、そんなあだ名ついてんの? うーん、可愛いから調子に乗ってるけど、俺は憂美のほうが圧倒的に可愛いし、好き」


 怒りで手が震えるトモハルは、激昂を抑えきれず歯を鳴らした。


 ……何言ってるんだ、あの馬鹿は。


 危うく前に突き進んで、ミノルの頭を殴りつけるところだった。トモハルは呼吸荒くも、沸々と湧き上がってくる怒りに耐える。何故ならば、アサギが。

 アサギは、トモハルから表情は見えないが微動だしていない。怒っているのか、泣いているのか、分からない。ただ、心が悲鳴を上げていることくらいは想像がつく。今の自分に出来ることは、彼女が動くまで必死に耐えること。それだけだと胸に刻む。


「っ、クッソッ……!」


 歯軋りする奥から、もどかしい思いが呻き声となって漏れた。

 下手に動けば酷くアサギを傷つけるかもしれないので、堪えている。今この場にいることを、ミノルに知られたくないかもしれない。目撃者が自分だけなら、怒涛の勢いで駆け寄って殴っていた。

 頼むから、これ以上何も話さないでくれ。トモハルはそう懇願するが、地獄は終わらない。

 周囲から見たら、なんの変哲もない“幼い恋人同士の戯れ”でしかない。


「じゃあ私、実君の彼女だー。わぁい!」

「あぁ、カレカノ」

「ね、ならぁ、その証拠にキスしよっ」


 喉の奥で妙な声を出したトモハルは、ショップ袋を地面に落とした。トサ、と乾いた音がしたが、ここは雑踏の中。ミノルは気がつかない、こちらになど無関心。二人きりの世界に入っているのだろう、鼻の下を伸ばし、だらしない顔をしている。他の事など構っていられない様子が窺える。

 トモハルは、ただ、アサギが心配だった。瞳に入れる事を拒み、瞳をきつく閉じているのかもしれない。聴きたくなくて、耳を塞ぎたいのかもしれない。けれど動くことすら出来なくて、立ち尽くしているのかもしれない。

 アサギとトモハルのことなど気遣うわけもなく、目の前で、ミノルと憂美は残酷なまでにそっと互いの顔を傾けていった。

 憂美が、アサギとトモハルを見てせせら嗤う。横目で、勝ち誇った視線を投げてきた。彼女は、こちら側を熟知している。

 日盛りの夏の陽が、非常にも二人を照らす。

 唇が近づく様子を、トモハルは唖然と見ていた。しかし、最後まで見届ける勇気も度胸もなく、唇を噛み締め視線を逸らす。親友の浮気現場など、見たくはない。

 護らねばならない人が、すぐ目の前に立っている。この場から逃げ出したいであろう少女が、すぐそこにいる。トモハルの脳が反応し、アサギの瞳を覆い隠すように、背後からそっと腕を伸ばす。そして、優しく視界を掌で覆い隠した。

 二人の声は、聞こえてしまうだろう。だが、せめて目の前の光景からは逃がしてあげたかった。引き摺って立ち去ることも考えたが、それでは憂美の思う壺ではないかと。

 ツーッ、と。アサギの瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。

 頭部が下がり、次いで地面に染み込んだ水滴でトモハルは気づいた。しかし、何も言わず、人混みの中で背後から目隠しを続けた。他に何か、友達として出来ることがあるのであれば教えて欲しいと切に願う。

 どのくらいの間、そうしていたのだろう。通り過ぎる人々がこちらを見ていても、気にしない。ひたすらトモハルは、微動だせずにアサギの視界を遮断し続ける。

 やがてミノルと憂美は、はしゃぎながら立ち上がった。食事を終えたらしい、次は何処へ行くのだろう。クレープを巻いていた紙の破片が道路に落ちたが、気づいているだろうに拾わない。そして、分別せずにゴミ箱に押し込み立ち去った。座っていた席には、置き去りにされたゴミが、汚らしく残っている。

 顔を顰めたトモハルは、舌打ちした。おそらく少女のほうがゴミに対して無頓着だろう。皆で出かけた時は面倒でも、アサギに言われたミノルはきちんと分別し綺麗に片づけていた。

 何故、少女に自分を合わせるのか。出来ていたことを、しないのか。ミノルを一発殴らねば気が済まないほどの鬱憤が、身体中を駆け巡る。


「知ってた、アサギ?」


 自分でも驚くほどの優しい、落ち着き払ったその声でトモハルはようやく呟く。聞こえた声に、アサギが微かに揺れる。


「俺の手、けっこう大きいだろ? 勇者の剣を握っていただけのことはあると思わない?」


 緩やかに指を動かして、隙間を空ける。アサギを怯えさせないように、前方にミノル達がいないことを確認させた。


「……うん。おっきいね」


 冷え切ったアサギの指先が、トモハルの掌に触れた。振り返らずに、被いを外すようにゆっくりと下げていく。そうして、素早く右手を動かす。

 溢れていた涙を拭いたのだろう。

 鼻をすする音がしていたが、アサギはトモハルの腕を大きく開いて囲いから飛び出すと、気まずそうに一瞬だけ振り返った。

 泣きはらした瞳が飛び込んで来て、トモハルの脳を強打した。一緒に泣きたくなったが、堪える。表情が見えたのは僅かな瞬間だったが、酷く痛々しく、見ていられないほど弱々しく思えた。魔王と戦った勇者とは、とても思えない。

 目の前の少女は勇者ではなく、何処にでもいる普通の少女だと今更実感する。


「ちゃんと、ご飯食べるんだよ? 私は折角ここまで来たから、よく行く服屋さんに」


 一人にさせたくなくて、トモハルは間入れず微笑んで口を挟む。


「あぁ、前言ってた安く服が買える店? 参考程度に俺も行こうかな」

「……と、思ったけどあんまりお金ないから帰ろうかな」

「そうか、じゃあね」

「うん、またね」


 ぺこり、と普段のように可愛らしくお辞儀をしたアサギは、早足で人ゴミの中へと消えていった。

 逃げる様に去られてしまった。溜息を一つこぼし、トモハルは地面に落ちたスニーカー入りの袋を拾い上げると、唇を真横に結ぶ。

 そして、迷いもせずアサギを追いかけた。


 一定の距離をおいて、二人は歩き続ける。

 アサギはすぐに後方のトモハルに気づいたが、怪訝に眉を顰めても、振り返ることなく歩いた。ついてこないで欲しい、とは言えなかった。


 ……一人でいたいのに、何故、ついていくるの。


 今のアサギには、泣けばよいのか、怒ればいいのか、蹲ればよいのか、それすらも解らない。願いが叶うのであれば、消えてしまいたいとも思った。

 こういう場合、どうしたらよいのだろう。普通は、どうするのだろう。失恋した人は、どうやって笑顔を作るのだろう。

 微笑み方すら忘れそうになっていた。口角を上げるという仕草が、出来ない。


「ひ、っく」


 友達の前で泣くと、恐らく困らせてしまう。それだけは耐えねばと、唇を噛み締める。

 

「漫画やドラマの中で、失恋した女の子はどうしていたっけ」


 小さく口にしたアサギは、親友のユキを思い浮かべた。家に行き、話を聞いてもらおうかと思ったが、迷惑になりそうで怖い。

 ユキはケンイチと幸せそうに過ごしている、そこに“失恋”という単語を持ち込みたくなかった。落ち着いたら話すとして、今は自分で立ち直らねばと心に決める。


「最初から、好かれてなかったし。夢が終わっただけだから、へっき」


 口にしたアサギは、軽く空を見上げた。驚くほど美しい蒼空に、薄く白い雲が時折浮かんでいる。綺麗すぎて、余計に目頭が熱くなった。

 ミノルに嫌われていることは、数年前から知っていたことだ。それなのに何故あの時、勢い余って想いを伝えてしまったのか。自分を恥じる。

 アサギは二の腕を掴み、爪を立てる。


「付き合って、なかったんだ、やっぱり」

 

 噂に流され、そう思い込んでいただけ。()()()()()()()()()()()()()()()

 心のどこかで、それが偽りで幻だと知っていた気がする。

 今になって、ようやくアサギは気付いた。もとい、()()()()()

 記憶を呼び覚まし、嗚咽を上げる。


「私……いい気になってなんか」


 いないよ、と唇を動かす。


「私……彼女じゃないのも」


 知ってたよ、と唇を動かす。

 ミノルに「好きだ」と言われた記憶など、ない。先程、憂美に『好きだよ』と言っていた声が、酷く鮮明に耳に残っている。

 人は、好きではないものを『好きだ』と口にする時、僅かに躊躇するだろう。嘘で好きと言える人もいるだろうが、それでも何処かに影が落ちる。

 では、先程のミノルはどうだったか。

 自然に告げたミノルは、見たことのないような笑顔を浮かべていた。可愛らしい、無邪気な笑顔ではなく、男らしくて逞しい、見惚れてしまう笑顔だった。

 それが答えだと悟った。

 向けられた相手こそ、ミノルの恋人。つまり、相手はアサギではなく、憂美。


「とても……綺麗な、子だったな。大人っぽい……子だったな」


 あぁいう人が好みだったのか、とアサギは自嘲気味に笑った。自分とは、似ても似つかない美少女である。とてもじゃないが、隣に並べないと痛感した。

 興奮と期待と幸福を詰め込んでしまった朝の荷物が、酷く重く圧しかかる。


「なんて馬鹿な私」


 早く家に帰ろうと思ったが、方向は逆。家から遠ざかって、何処へ向かえばよいのだろう。考えたくないのに、先程のはにかんだ様子のミノルが脳裏から離れない。

 約束をしても忘れられてしまうほど自分は軽い存在なのだと解釈し、歩き続ける。確かに、彼女と一緒に異世界へ旅立っただけの自分とでは、雲泥の差をつけられても仕方がないと甘んじて受け入れた。

 ミノルを責めるつもりは全くない。寧ろ、今まで悪い事をしてしまったと気落ちする。噂になって、不快だったに違いないとうなじを垂らす。


「知ってた、判ってた、はず……なのにな。私はっ、どうしてっ」


 ()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()。足がもつれて何度も転びそうになり、情けなくて涙が幾度も零れ落ちた。汗を拭うフリをして、タオルで涙を拭う。


 ……涙が、止まらないよ!


 後方から聞こえてくるトモハルの足音から逃げる様に、ふい、っと横に逸れて歩くが案の定ついてくる。


 ……トモハル、放っておいて。一体何を話せば良いのか解らないし、困る。


 アスファルトからの照り返しで、意識が朦朧としてきた。

 ビルの隙間を歩いていくと、何処に出るのだったか。行き止まりではないことだけは思い出せたが、上手く脳が回転してくれない。道すらも解らなくなってきた。このまま壁に突っ込んで、知らない異世界へ行けたら楽かもしれないと、そんなことをぼんやりと考える。

 思い出すのは、先程の美少女とミノル。瞼に焼き付き、離れてくれない。劣等感は、もう嫌という程味わった。


『お高くしてるとこ、優等生ぶってること、自分が正しいと思ってること。誰にでも好かれてると思っているとこ、などなど』

『嫌いなもんは、嫌い。俺は田上浅葱が大嫌い』


 溶け込んでしまっていたが、痛みを伴い再び形作った凶器の台詞は、杭の様に胸に打ち付けられた。その台詞は、いつ聞いたものだったか。

 あれは確か、去年だった。トモハルを尋ねて教室へ行ったら、ミノルがそう叫んでいたのを偶然聞いてしまった。その後数週間は怖くて姿を見せないように逃げ隠れていた記憶が、鮮明に甦る。

 どうしてそんな人に告白してしまったのか。迷惑極まりなかったと、自己嫌悪に陥る。その場で絶叫したくて、身体を大きく震わせた。


「お高くなんか、してないよ……。優等生なんかじゃ、ないよ……。正しいなんて、思ってないよ……。誰にでも好かれてるなんて……思ってないし、ない、し……っ」


 じんわりと、タオルが湿っていく。涙が、止まらない。

 

 ……誰にでも好かれてるなんて思ってたら、もっとミノルに積極的に話しかけてたよ。


 溢れる涙で、前が見えない。涙は、止まってくれない。 


「ミノルが私の事を嫌いなの、ちゃんと知ってた」


 言葉にしたら、涙が更に溢れて嗚咽が漏れる。

 当時の状況が甦る。

 足が震えて、それでも精一杯トモハルに話しかけた。あの場で逃げたら周囲の皆が困っただろうから、必死に歩いた。笑顔で、聞かなかったフリをした。気にしていない演技で、どうにか乗り切った。

 それが最善だと思っていた。

 あの時、初恋は無残にも終わったと思ったが、それでも何故かミノルを目で追っていた。

 そして、一緒に勇者になった。

 勇者になって魔王を倒し、地球へ帰る前に感極まってミノルに告白したのはつい最近のこと。唐突過ぎて、面食らったミノルは誤って頷いてしまったのだろう。

 いや。


「頷いてなかった……よね。そういえば」


 キィィィィ、カトン。


 あの時、異常な興奮状態だった愚かな自分が、都合良く解釈していた事に今さら()()()()。砂塗れで全身に浅い傷、魔王の体液で視界もおぼろげ。異様な空間にいた、あの日。

 ミノルが引き攣った笑みを浮かべていたことを、()()()()()

 “嘲笑し、『コイツ、何言ってんの?』と、蔑んだ瞳で自分を見ていたミノルが、頷くわけなどなかったのに。”

 アサギは、喉の奥で悲鳴をあげて「ごめんなさいっ」と鋭く叫んだ。


 キィィィ、カトン、トン。


 音が、聞こえる。

 だが、アサギは気にも留めなかった。聴覚など、現在意味を成さない。

 耳は雑音が常に纏わりついている、何処へ向かっているのかすら解らないので周囲の音など気にならない。視覚さえあやふやで、道路を横断しなければならなかったのなら、車に撥ねられていただろう。

 眩暈がして、咄嗟に壁に手をつきもたれかかる。全力で走った後の様に足がガクガクと頼りなく震え、口内には血の味が広がった。


「少し休もう」


 駆け寄ってきたトモハルによって、アサギの身体は支えられた。

 

 ……放っておいて。


 そう言いたくて唇を動かしたが、口内が乾き切っていて声が出てこない。アサギの胸に、黒い影が落ちる。トモハルが邪魔だと、思ってしまった。心配してくれている、優しい人なのに。放っておいてくれても、自分は平気だし、そのほうが気も楽なのに。構わないで欲しいが、無下に振り払えない。

 物言いたげにトモハルを見上げようとしたのだが、俯いていた為か太陽の光が痛いくらいに眩しくて思わず瞳を瞑る。引き摺られ近場にあった木陰のベンチに座らされたアサギは、痙攣している冷たい指先を、どうにか包み込む。

 隣にトモハルが座ったかと思えば、額に冷たいペットボトルが押し当てられた。何時の間にか、買ってきてくれたらしい。

 優しさが、胸に沁みる。申し訳なくて、どう謝ればよいのか解らない。


「おうち、帰らないの?」


 ようやく声を絞り出したアサギに、トモハルは軽く笑って返答しなかった。

 そのまま、数分が何事もなく過ぎていく。

 何も悪くないトモハルに八つ当たりをしてしまいそうな自分がいて、アサギは身勝手さに嫌気がした。必死に歯を食いしばり、震える拳を握り締める。この気まずい空気は、どうしたら打破できるのだろう。

 芝居がかった口調で、トモハルは言った。


「腹減ったなー」


 私など放っておいて食べに行けばいいのに、とアサギは戸惑いがちに見上げる。

 すると、ようやく二人の視線が交差した。

 アサギは、心を見透かされそうで慌てて視線を逸らす。


「腹減ったなー、何か食べるものないかなー」


 トモハルは、しつこく繰り返す。

 狼狽したアサギは、周囲に瞳を走らせる。この付近は遊歩道で、飲み物の自販機はあるが、先程の大通りのようなキッチンカーは来ていない。

 トモハルは腹を擦りながら力なく肩を落とし、情けない声を出す。


「アサギ。食べ物、持ってない? そろそろ空腹で倒れそう」

「え?」


 下から覗き込まれ、予期せぬ行動に言葉が詰まる。

 動揺しているアサギに、トモハルは普段の様に笑顔を浮かべる。そして抱えていたバッグを指した。


「なんか、いい匂いがするんだよねー」

「え、あ……」


 匂いなどしないと思うが、確かにこの中に食べ物が入っている。今となっては不要なものを思い出し、狼狽する。


「ちょうだい」

「え、う、うん」


 ぎこちなく取り出したアサギは、爽やかに微笑んでいるトモハルに差し出した。

 ハート柄のビニール袋に入っている、昨夜ミノルを想い懸命に作った甘さ控え目のスパイシークッキー。『for you』と記載されたシールも丁寧に張り付けた。

 アサギは、遠い昔の事のようにそれを見つめる。作っていた時は、楽しい時間だった。笑みが零れて頬を染め、幸せ一杯だった。何処で、間違ってしまったのか。愚かな自分しか思い出ず、墨汁で塗り潰したくなる。


「いただきまーす」


 トモハルは一枚摘まんで、口に入れる。歯で割られる音が、妙に響く。

 二枚、三枚、四枚。

 ハート型のクッキーが次々にトモハルの口に放り込まれていく様子を、アサギはじっと見ていた。食べている人は渡したかった相手ではないが、哀しくなかった。不思議と心が静まっていくのを感じていた。

 最後の一枚が、口に投げ込まれた。

 何度か噛んでいたのだが、音を立ててクッキーを飲み込む。トモハルはペットボトルの蓋を開けて乾いた口内を潤す様に一気に飲み干すと、アサギに軽く微笑んだ。

 その視線に、アサギは唇を噛む。透き通った瞳は、どことなく怖い気がした。


「手作りだね、これ」

「う、うん」

「あんまり、俺の好きな味じゃなかったな。残念」


 意外な事を言われ、アサギは驚いた。トモハルなら、お世辞でも「美味しかった」と言うと思っていた。


 ……なら、無理して全部食べなくてよかったのに。


 ぼんやりとしているアサギの隣で、空を仰いだトモハルが虚しそうに笑う。


「まぁ、当然だよね。アサギが、一生懸命誰かを想って作った、ソイツ用のだから。俺の口には、合わない。勿体無いなぁ、食べなかった奴は。アサギの想いが、たーくさん籠めてあったのに」


 弾かれたように、アサギはトモハルを見た。今まで虚ろだった瞳に光が灯り、胸が締め付けられる。

 指に付着していた粉をそっと払い、「ごちそうさま」と告げたトモハルは、背もたれに腕をかけて遠くを見つめる。

 暫し二人とも、そのままでいた。

 トモハルは通り行く人々を軽く見つめながら、唇を真横に結ぶ。

 その隣で、縮こまっているアサギは。

 ぽた。

 スカートに、涙を零した。

 ぽたた。

 大粒の涙が、零れる。ようやく泣き止めたと思ったのに、止まらない。スカートをきつく握り締めて堪えようとするが、無理をすると嗚咽が盛大に漏れてしまう。


「一人で部屋で泣くより、広いところで泣いたほうが後で楽だよ。引き摺らなくて済むから。……どっちかっていうと、俺も一人で居たい派だけど。でも、心に押し込めちゃダメなんだって」


 ぼそ、とトモハルが呟いた。

 言われてアサギは微かに頷く、確かにそのほうが楽かもしれないと思った。

 穏やかな日曜日、晴天の真下、隣にはトモハル。

 アサギは、存分に泣いた。人々がこちらを見ていたようだが、それでも声を張り上げて泣いた。タオルで口元を押さえ身体を震わせて、体温が上がるのを感じながら泣いた。


「ごめ、ごめん、ねっ、トモハ、ル!」

「何が」


 聞き取り難いが、確かにアサギはトモハルの名を呼んだ。

 肩を竦めて、トモハルはぎこちなく微笑む。


「ごめ、ごめ、ごめん、ねっ」

「対の勇者だろ、俺達。それに、……大事な、友達だよ」

「あり、ありが、とっ」

「俺とアサギ、結構似てるしね。だから、分かる。絶対お菓子作ってるだろうこととか」


 トモハルは、躊躇いがちにそっとアサギの肩を叩いた。

 肩越しに伝わる手の暖かさに、アサギを随分と救われ安堵する。


「たくさん泣く分、好きだったってことだよ」


 囁くように隣で呟いたトモハルに、アサギは再び大きく泣き出した。どうしてよいのか解らなかった心を、包んでもらえた気がした。行き場を失っていた心が、今救われた。


 ……そっか、好きだったんだ。好きだったけど、駄目だっただけ。


 アサギは、トモハルの心の広さに感謝し、感服する。


「よかった。……今度は俺、アサギの傍にいられたね」


 トモハルの瞳は、何処か違う世界を見ていた。何気なく呟いた言葉の意味を、二人共知らず。けれども、納得して嘆く。

 アサギが涙を流しきった頃、周囲は暗くなっていた。トモハルは、ずっと同じ姿勢でアサギに寄り添っていた。空の色が夕焼けに染まった桃色と橙色の中間色から、幾つもの飛行機が通り過ぎて細長く雲を作り押し寄せる紺碧の空に、一番星が顔を覗かせるまで

 街灯が、周囲の雰囲気を変えていく。

 ぼんやりと、アサギは浮かび上がった月を眺めた。涙でまだ滲むが、淡い光に心が落ち着く。すっきりした気分になった。


「帰ろう、アサギ。家の人が心配するよ」

「うん……ありがとう」


 頃合いを見計らって立ち上がったトモハルは、大きく伸びをする。

 アサギはぎこちなく笑って、立ち上がった。困惑気味に顔を赤らめているが、瞳も負けず劣らず泣き腫らした為真っ赤だ。


「本当に……ありがとう」

「一人で、抱え込まないように。いつでも頼って、俺はアサギの友達だから」


 普段通りに眩しい笑顔を見せたトモハルに、おずおずとアサギは頷いて照れ笑いを浮かべる。

 二人は、帰路につく。

 会話はなかったが、信頼できる人が傍に居るだけで心強い。

 トモハルは丁寧にアサギを家に送り届け、「またね」と大きく手を振って去っていく。


「あ……()()()()

 

 その様子を、リョウが偶然目撃した。ただならぬ様子を察し、声はかけなかった。ミノルではなく、隣にいたのはトモハル。泣きはらしたアサギの瞳を見れば、嫌でも想像出来てしまう。


「そっか……。クッキー作っていた時、楽しそうだったのに」


 リョウは項垂れて家に戻ると、部屋のベッドに寝転んで瞳を閉じる。ミノルと喧嘩したのか、それとも、別れたのか。

 幼馴染に彼氏が出来たという事実は、リョウにとって痛手だった。気軽に家にも行けなくなるのだろうかと心配していたが、それ以上にアサギが泣かないか不安だった。

 ミノルとリョウは親しい仲ではない。同じサッカーチームに所属しているものの、クラスも違うし、会話を交わした記憶はほぼない。

 アサギには申し訳ないが、二人は根本的に合わない気がして不安だった。だから、もし万が一にも彼女が泣くことがあったら、その時は傍にいようと決心していた。

 杞憂であれと、願ってはいたが。


「僕の代わりを、ありがとう」


 トモハルに密かに感謝し呟いたリョウは、静かに寝息を立て始める。

 そして、夢を見た。

 アサギが泣いているならば、傍に居なければならないと決意する夢を。大勢に囲まれているのに、酷く孤独で怯えている彼女を()()()()と。

お読み戴きありがとうございました、今月中に完結いたします。

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