失意の勇者
救急車に乗せられそのまま病院へ搬送されたミノルだが、一通り検査をしたものの異常はない。周囲に迷惑をかけてしまい、申し訳ない気持ちでいっぱいになったが、医者に診てもらっている間はアサギの事を考えずに済んで、少し楽になった。
母親が血相変えて迎えに来てくれたので、力なく謝罪する。パートが忙しいことを知っているので、こんなに早く駆け付けてくれるとは思わなかった。恥ずかしいと思いつつも、涙腺が緩む。
「あり、がと」
「え、本当に異常なし!? アンタ、変よ!?」
素直に謝られたので面食らった母親は、やはり何処か悪いのではないかと疑った。普段通りの母が今はとても嬉しくて、心が和む。
ねっとりとした妙な声は、もう聞こえない。胸を撫で下ろし、院内を見渡す。余裕が出来た自分を確認し、ぎこちなく微笑んだ。
念の為、頓服として頭痛薬と吐気止めが処方された。
部屋に戻ると、蹲ってアサギの写真を眺めた。情けなく笑って、涙を零す。扇風機にあたりながら、悔しくて唇を噛んだ。
もう近づかないほうがよいのだろうかと思うと、涙が止まらない。
けれども、一応は勇者。今後どうしても顔を合わせてしまうので、恋人でなくとも友達の状態に戻りたい。
「ゆ、許して貰えたら、また……。今度は、俺が告白するから」
身体を起き上がらせ、隣の部屋のトモハルを見つめる。まだ帰宅していないようだが、母親が運んでくれた粥を食べていると部屋に光が灯った。
慌てて立ち上がると涙の痕を拭き、鼻声で話かける。
視線を流したトモハルは、目が充血していたミノルに言葉を詰まらせ、何も言えなかった。
「トモハル。明日の釣り、俺も行く。よろしく」
「……あ、そ」
素っ気無い態度に胸が締め付けられたが、悪いのは自分だと言い聞かせて、素直に尋ねる。
「何時に、何処に集合?」
「六時に、アサギの家。おやすみ」
トモハルが、勢いよくカーテンを閉める。
過敏になっているせいか、トモハルにまで嫌われてしまった気がして憂鬱になった。アサギの事で相談に乗ってほしいとは思ったが、虫のよい話だ。ミノルは堪え、時間と場所を教えてもらえただけで十分だと言い聞かせる。
粥だけでは物足りない、腹が鳴っている。
たくさん食べて、いつもより早く眠る。そして明日に備えねばと意気込んだ。
下へ降りて行ったミノルを、カーテンの隙間からトモハルは見つめていた。その表情は心痛だ、どう接するべきか答えが出ない。二人共大事な友達で、出来れば仲良くして欲しい。だが、先程アサギから『ミノルが何故か誘ってくれたので、お家に遊びに行きました。でも、なんだか怖かったので、逃げ出して来ました』と連絡がきている。
中間の立場であるトモハルだけが、事情を察した。
カーテンを閉める前に、夜空を見上げる。幾多の星々が輝く中で、そっと溜息を吐いた。
「上手く、いかないね」
肩を竦めると、トモハルも早めに寝るべく風呂へと急ぐ。
翌朝。
なかなか寝付けなかった為寝坊したミノルだが、どうにか身支度を整えると家を飛び出す。急いでアサギの家へ向かうべく自転車に跨ったが、気を利かせたトモハルが家の前で待っていてくれた。
「おはよう、急ごう」
それだけ告げて走り出したトモハルに、胸が熱くなった。言葉にはしないが、彼なりの優しい気遣いに感謝する。
「俺が。お前みたいにさ、気を利かせられる奴だったらよかったのにな」
ミノルは自嘲気味に呟くと、自分とは違って眩しく輝いている親友を追った。唇を噛み締め、気を入れ直す。今度こそ、アサギに謝罪する為に。
言わなければ、想いなど伝わらない。
自転車で早朝の風を切りながら、ミノルは真っ直ぐ前を向いていた。もう、耳元で聞こえる闇の声に囚われない、今後も聞こえるかもしれないが、惑わされないと決意した。
本当に欲しいものを、失くさない為に。
あれはきっと自分の弱い心だと思い込んだミノルは、打ち勝つべく気を引き締める。
「負けるもんかっ」
今日もまた、灼熱の日差しが降り注ぐだろう。
違うのだよ、ミノル。そうではない。
集合場所に到着すると、アサギは泣き腫らした真っ赤な瞳を隠すように帽子を深く被っていた。
ミノルはそれを見て、途端に怖気づく。また泣かせたらどうしようかと、参加を躊躇った。しかし、こちらに気づいたアサギに動揺は見られなかった。
黄色のスキニーに、ぴたりとした白いTシャツ、食べ物が入っているのか大きなリュックを背負い、元気よく挨拶をする。
「みんな、おはよう!」
「おはよ、アサギ。すらっとしてるから余計に脚が長く見えるなぁ、いいね、黄色」
「えへへ、ありがとう。今日はたくさん釣ろうね、頑張ろう。ダイキ、宜しくお願いします!」
何事もなかったかのように、アサギは爽やかだ。
二人の視線が交差したが、アサギは狼狽することも怯えることもなく、軽い会釈をする。
釣られてぎこちなく頷いたミノルは、そっと近寄った。
しかし、気がつけばリョウもその場にいる。ミノルの行く手を阻む様に割り込むと、アサギから離れず遠くへ誘導していった。
あからさまな態度に、ミノルは唖然とした。思いたくはないが、アサギが護衛を頼んだのだろうかと、勘ぐってしまう。悪い方向へ考えてしまうほどに、心は脆くなっていた。しかし、アサギに限ってそれはないと言い聞かせる。
「あ、おい……」
勇気を振り絞り追いかけてアサギに話しかけたが、それをリョウが故意に遮る。近寄るな、と言わんばかりに睨まれ、牽制された。
「そりゃ、そうだよなぁ。大事な友達を傷つける悪い奴を近寄らせないように、阻むよな」
項垂れ、仕方なく釣竿を用意する。
ミノルとアサギの距離は縮まることはなく、陽が高く昇り始め温度が上昇した。
「疲れた」
自嘲気味に笑ったミノルは、輪から外れた。疎外感を感じていた、自分で作ってしまっただけなのだが、気分的に入ることが出来ない。
木陰に移動し、持ってきたジュースを飲みながら楽しそうに釣りをしている仲間達を見つめる。
笑顔で弟達や友達と釣りを楽しんでいるアサギの邪魔をしてはいけない気がした。その表情が好きだから、見ていられるだけで十分だと思った。近寄ったら、それが壊れてしまうから。
「なんで、だろうな。あの時、誓ったのに。『貴女に守護を。穢されない様に、守護を』汚したのは中途半端な騎士の俺、勇者になっても同じだった。中途半端な騎士は、勇者になっても結局同じ。馬鹿みてぇ、俺。ホント、ごめん」
微睡みながら、そんなことを口走って眠りにつく。激しい睡魔に襲われ、抗えなかった。心地良い気温と極度の緊張で、一気に沈む。
耳元で木の葉が揺れている気がした。穏やかな空気に包まれて、泣きたくなった。それくらい、優しい雰囲気に満ちていた。
不意に眠りから覚め、懐かしい香りに隣を見上げれば、アサギが立っている。
「あ……」
思いもよらぬ事態に言葉も出ず、ミノルは凝視する。
アサギは、遠くを見つめていた。美し過ぎる横顔は、確かに人間ではないような気がした。何処かの姫君というよりも、もっと神秘的なものに思えた。
「本当に、ごめんなさい。あの、出来れば。その、少しでいいので、普通に接してくれると嬉しいです。私、その、もう、その、必要以上に、近づきませんから。その、本当に、無理を言っていると」
「ち、違うんだ、話を」
手を伸ばしたミノルだが、すでにアサギの姿はそこにはなかった。
風で、木の葉だけが揺れる音だけが響いている。鳥の、そして蝉の鳴声が一気に始まった、先程までは聞こえなかったのに。
何度か瞬きし、低く呻いたミノルは「夢か」と情けなく笑った。
遠くから聞えた歓声に首を曲げれば、アサギが魚を釣り上げたところだった。
「はは、流石だな」
アサギはあそこにいた、近くに来るわけがない。やはり自分に都合の良い夢を見てしまっただけだったと、ミノルは肩を竦める。
はにかんだ笑みで魚を掲げるアサギを、ダイキが優しく見つめ、トモハルが口笛を鳴らし、リョウが拍手をしている。
自分がいなくとも、優しく男らしい誰かがアサギのことを護ることは明白だった。
「俺よりも、その中の誰かのほうが似合ってるよ」
ミノルは、草むらに寝転がると再び瞳を閉じた。冷たいものが頬を伝う。
キィィィ、カトン。
太陽が天頂を通過する頃。
アサギの弟達は人懐っこい。口下手なダイキもすぐに打ち解け、丁寧にルアーの使い分けや投げ方を教えていた。
穏やかな笑みを浮かべているダイキから目を離すと、トモハルとアサギは糸を垂らす。鳥の囀りを聞きながら、湖面に反射する光を瞳を細めて見つめた。
ブラックバスは餌で釣ることも可能な外来種だが、疑似餌を巧みに動かし、魚と格闘して楽しむことが出来る釣りだ。ゆえに、スポーツフィッシングと呼ばれたりもする。投入するだけでは釣れないことは承知で、二人は雰囲気を愉しんでいた。
「少しは落ち着いた?」
不意にそう切り出したトモハルに、アサギは小さく笑った。
「ありがとう、トモハル。へっきだよ」
「無理はしないようにね。……ところで、前から訊きたかったんだけどさ、嫌ならスルーして。ミノルを好きになったきっかけって何? アサギと全然違うから惹かれたとか? アイツ、頭悪いし乱暴だし……共通点ないよね」
それは言い過ぎではないかと苦笑したアサギは、肩を竦め軽く竿を揺らした。波紋が広がっていく水面を、遠目に眺める。
「話すことは嫌じゃないよ、大事な思い出だもの。あのね、幼稚園が一緒だったの」
「それは初耳」
ミノルからはそんな話を聞いたことがなかったので、驚いた。同じ様に竿を揺らしながら返答したトモハルだが、釣る気など全くない。今日は、アサギにとことん付き合うつもりだ。
「多分、ミノルは忘れていると思う。その時は、とっても仲が良かったんだよ。びっくりでしょう? 『大きくなったら結婚しようね』って言われて、嬉しくて」
アサギは、薄く笑った。声のトーンは明るくなったが、その横顔は寂しそうに翳って見える。胸が締め付けられたトモハルは、戸惑いつつも続きを促す。
「へぇ。幼稚園児って意外とませてるもんな……それで?」
「え? それだけだよ?」
「え……そ、そっか」
唖然としたトモハルの視線の先で、アサギは小首を傾げてきょとんとしている。
二人の間に沈黙が流れた。
引き攣った笑みを浮かべ、トモハルは声を絞り出す。
「え、その言葉で好きになったの? 幼稚園から好きだったって事!?」
「う、うん、そうだよ。……とにかく嬉しくて、幸せだったものだから。そんな幸せな言葉を言われるなんて、思ってなかったから」
幼稚園児なのに、その『結婚しようね』という言葉を信じたのだろうか。トモハルは、アサギの性格を思い違えていたかもしれないと思った。
「……い、意外だなぁ。ま、まぁ恋に堕ちるってそんなものかもしれないけど」
拍子抜けして一旦リールを巻き、大きく振り被ってルアーを池に投げたトモハルは隣のアサギを見つめる。ぼんやりと水面を見つめている姿は、確かに美しく、儚い雰囲気の美少女だ。とても勇者として魔物と戦っていたとは思えない。
「現実的な子かと思ってたケド、違うんだなぁ。案外単純というか、ロマンチストというか、良く言えば純粋、になるのかな。危なっかしい」
口籠ってそう呟く。意外なアサギの一面を知ることが出来て嬉しい反面、不安になってきた。側で見ていてあげないと、何か大きな間違いをしでかしそうだと。
親のような心境を抱いているトモハルなど知らず、アサギは開口する。
「四年生の時に同じクラスになって、林間学校が同じ班だったの。あの時ね、一緒に星を見上げることが出来て、嬉しかったんだ。カレーを作って、柿狩りもしたんだよね、美味しかった。トモハルも同じクラスだったよね? 班は違ったけど」
思い出を楽しそうに語るアサギに頷くだけで、トモハルは口を挟まなかった。そして思い出す。以前、ミノルも同じことを話していたと。
あれはピョートルで転送陣に入り、ジェノヴァへ戻った時の事だ。ミノルは、雅味ゆたかな柿に蕩けていた。
『あれ以上に美味い味噌汁を、未だかつて飲んだことが無い』
アサギがよそってくれた味噌汁を、ミノルはこう表現した。想いは通じ合っていただろうに、何処でボタンを掛け違えたのか。
「いつだったか……。絵が上手い子がね、女の子の絵を描いたの。ショートと、セミロングと、ロングの。『どの子が一番好き?』ってクラスの男の子達に訊いててね、ミノルはセミロングを指差したの」
自嘲気味に微笑んだアサギに、トモハルは躊躇しつつ口を挟む。
「それでアサギの髪、短くしたり伸ばしたりしてないんだ」
「うん。セミロングよりは短いけど……」
トモハルは、記憶の中のアサギと目の前にいるアサギを照らし合わせた。確かに、常に髪の長さは同じだ。それがミノルの好みに合わせていたからだったとは、驚愕である。
「なんとなく……ミノルは、アサギの髪の長さの絵を選んだだけな気がする」
アサギに聞こえないように小声で呟きながら、リールを動かし竿を立てる。
「ありがとう、トモハル。とても楽になったよ、これはユキしか知らないことだったから」
頭上でトンビが鳴いた。
それが合図の様に、一呼吸置いてからトモハルが乾いた唇を舐めて口を開く。
「……別れたんだよな」
訊くべきか迷っていたが、有耶無耶なのは嫌いだ。トモハルの声は若干震えていたが、気にせずアサギは大きく頷いて笑う。
「うん」
「そっか……ごめんな」
「なんでトモハルが謝るの?」
「……アイツは俺の幼馴染で友達だから」
アサギは、力いっぱいルアーを投げた。ぼちゃん、と小気味よい音が響き渡る。
「私、最初から嫌われてたし、他の人と何かが違うみたいなの。だから、ミノルは何も悪くないよ。トモハルにも気を遣わせちゃって、ホントにごめんね」
「待って、それは」
キィィィ、カトン。
アサギの言葉が引っかかったトモハルは、顔を上げた。けれども、真剣に糸の先を見つめている姿に言葉を飲み込む。釣りに集中しているのか、考え事をしているのか。邪魔をしないように、自分も釣りに本腰を入れることにする。
「気にするなよ、友達だし仲間だし。俺達、対の勇者だろ」
「うん……」
か細く返事したアサギは、池の中に吸い込まれていく糸を凝視している。
……私、やっぱりみんなと何かが違う。どうしよう。
その瞳に涙が浮かんでいたことなど、誰も知らない。湧き上がった涙は、声に出せない思いのように、瞳に浮かんだまま。俯いたら零れてしまうので、青空を見上げる。太陽の光が眩しい。空は残酷なほど美しい紺碧で、吸い込まれそうな優しい色合いの雲が穏やかに浮かんでいた。
まだ釣りを楽しみたい弟達をダイキが引き受けてくれたので、アサギは昼過ぎに帰宅した。トモハルもミノルも残って釣りをしていたが、結局ほとんど転寝をしていたと後でダイキから聞いた。
家に戻ったアサギは、急いで菓子を作り始める。手軽に作れるバナナケーキを選択し、手際よく調理する。何度か作った事があるので、得意の一品だ。二時間後には出来上がり、甘い香りのするそのケーキを満足そうに見つめる。何等分かに切り分け、端は弟達に渡す為に皿に乗せておいた。
真ん中部分の綺麗な個所は、袋に小分けしリボンで縛るとバッグに入れる。
向かう先は、異界。
天界城でクレロと会話していたトビィの姿を見つけるとすぐさま駆け寄り、ハイの元へ行く事を提案した。アサギに会えたので機嫌の良いトビィは、一つ返事で同意する。
「二人きりが好ましいが、一緒にいられるならばそれでよい。行こうか」
リュウも一緒に行くと約束していたので、クレロに呼びかけを頼む。一応王なので、忙しかったら諦めようと思ったが、様子を覗いた三人は木の上で爆睡している彼を見て絶句する。どうやら勤勉に疲れ逃亡し、隠れて昼寝をしていたらしい。
気まずそうにアサギはトビィを見上げる。
冷めた瞳のトビィが、クレロを軽く睨み付けた。肩を竦めたクレロがリュウを無理やり起こして、こちらへ呼び寄せる。
「助かったぐ! 暇過ぎて死にそうだったぐ!」
爽やかな笑顔でやって来たリュウは、軽快な足取りだった。大嫌いな勤勉から逃れたのだ、浮足立つだろう。自分の我儘ではなく、アサギに呼ばれたという正当な理由があるので尚更だ。
呆れて溜息を吐いたトビィだが、何も言わず三人でハイのいる惑星ハンニヴァルへと移動した。アサギとリュウには二度目の、トビィは初めての訪問である。
ハイが住まう神殿は、鬱蒼とした森の中にある。
陽の光が時折差し込む程度で、普段は暗い。神殿から少し離れるだけで開けた場所に出るのだが、侵入を拒む聖域のような雰囲気がある。
いつかはこの森を散策したいと、アサギは思って木々を見つめた。何か語り掛けてくるような、青々とした葉は見事だ。
ハイが身を闇に堕とし、ここを拠点として人間達を根絶やしにすべく動いていたが、自然は破壊されていない。神殿という人間の手で造り上げた物は毀損したものの、その辺りは彼らしいと思った。
三人は神殿を目指して歩いた。
アサギは申し訳なさそうにトビィを見上げ、控え目に声をかける。クレロと、何を話していたのだろう。
「用事、大丈夫ですか? 忙しかったです?」
「大した用事ではない、気にするな。そもそもアサギ優先に決まっているだろう、惑星クレオが崩壊しても、オレはアサギを選ぶ」
「だぐー」
物騒な事をすんなりと口にしたトビィに、アサギは苦笑するしかなかった。
だが、リュウは深く同意し神妙に頷いている。
神官ハイ・ラゥ・シュリップが住まう崩れた神殿に、足を踏み入れる。修復を一人でするなど、時間が幾らあっても不可能だ。だが、自分への戒めとして貫き通すのだろう。
ハイを捜し、三人は歩く。今日も掃除をしているのだと思っていたのだが、姿が見えない。
「ハイー? 何処に居るぐー? 諦めてサボっているぐーか?」
名を呼んでも返答はない、訝しんだリュウは焦燥感に駆られて足を速めた。嫌な予感がした、まさかハイに限ってそんなことはないだろうが、何故か胸が鷲掴みにされたように苦しい。
眉を顰め、トビィもようやく異様な雰囲気を察した。狼狽しているアサギの肩を抱きながら、背の剣を抜くと構え様子を窺う。慎重に歩きながら、音を聞き分ける。外から聞こえる鳥の鳴き声と、軋む床の音が絶妙に呼応しているようで不気味だ。
キシ、キシッ。
一瞬、風が止んだ気がした。
「ハイ! 私達が遊びに来てやったんだ、早く出てこないか!」
リュウの声が物哀しげに響き渡り、舌打ちしながら乱暴に扉を開いていく。それでもハイからの返事もなければ、姿も見えない。
ケーキの入ったバッグを胸に抱き、震えながら歩いていたアサギが辿り着いた場所。導かれるように、その扉の前に立った。じっと見つめ、喉を鳴らす。
アサギの異変に気がつき、トビィが扉をゆっくりと押した。キキィ、と乾いた音を出しながら開くと、リュウが駆け寄る。
身構えているトビィの後ろから、アサギが覗き込む。
床に何冊か本が散らばっている小部屋だった。
妙な気配はしないが、最初にトビィが侵入する。しかし、部屋に入らずとも見えた真正面の寝台に、三人は同時に息を飲んだ。
「えっ」
弾かれたように部屋に侵入したのはリュウだった。二人を押し退け駆け寄ると、その上で眠っているハイを抱き起こす。
アサギの空気を切り裂くような悲鳴が響き渡ると、トビィは反射的にその痙攣しそうな身体を抱きすくめた。その光景から視線を遮るために。
悲鳴を聞きながら、リュウが乾いた笑い声を出した。ハイの身体を何度も揺すり叩くが、反応はない。微塵も動かない。
解っていた、死んでいるから反応などありはしない。血の気の失せた顔色、だらん、と下りている腕、身体から立ち上る死者の匂い。
「な、何やってるんだよ魔王ハイ! お、おい、意味が解らない、ハイ、ハイ!」
リュウは、青褪めた唇で名を連呼した。遠目で見て解っていた、すでにこと切れていると。しかし、目の前の現実を受け入れることなど出来ない。
「な、んで」
神官から魔王に堕ちたが自分を取り戻し、誠情をもって生きていくはずのハイが何故死んでいるのか。
リュウは悪い夢を見ているのではないかと、状況を否定したい。アサギは重すぎる現実に、ただ叫ぶことしか出来ない。
トビィは逸る鼓動を抑え、冷静に見極めようと周囲に鋭い視線を投げかけた。
アサギの精神状態が乱れた為なのか、緊急信号を発せられた気がしたクレロが連絡をとってきた。しかし、本人は会話出来る状態ではない。一大事だと焦りトビィに語り掛け、ようやく事態を把握する。
惑星ハンニヴァルの状況は天界城から垣間見る事が出来るので、クレロは大急ぎで三人の安否を確かめる為にその光景を映し出した。途端、射抜くような視線のトビィと瞳が交差し、息を飲む。
リュウはハイの亡骸を抱き締めたまま身体を震わせ、焦点の合わない瞳で佇んでいる。
アサギはトビィに抱かれたまま、頭を抱えて悲鳴を上げ続けていた。
疑心の瞳を投げかけてきたトビィが皮肉めいて口を開き、クレロは我に返る。
「……おい、神のアンタは過去に何があったのか視えるんだろ? ハイの死因はなんだ」
「今、調べよう。だが、管轄が違うので安易に映らないかもしれな」
「随分と都合がいいな? お前、まさか見殺しにしたのか」
言葉を被せられ、クレロは拳を強く握り締める。それはあり得ないが、今のトビィには何を言っても信じてもらえないだろう。こちらに向ける猜疑の目に、喉を鳴らす。
「それは違う、そのようなことは、決して」
か弱くそう告げたが、クレロも不測の事態に動揺している。神は万能ではないと熟知しているのが、神本人でしかないのがもどかしい。
神は、万能ではない。
万能なモノなど、どこにもいない。
「トビィお兄様!」
二人の会話を聞いていたアサギが、弾かれたように顔を上げてトビィの衣服を強く掴み首を横に振る。
「そんなこと、言わないでくださいっ」
深い悲しみを宿した瞳に、トビィは固唾を飲み込んだ。
「……すまない」
小さく謝罪し、アサギを真正面から強く抱き締める。だが、再びクレロに鋭く睨みを利かせていた。
脅迫めいたその視線にさらされ、クレロは唇を噛んだ。それでも、時間の確保が出来たことに安堵の溜息を漏らす。
「今調べる、少し待っていてくれ」
アサギが声を上げなければ、トビィは言及をしただろう。
三人は無言で頷くと、暫し言葉を発せずに佇む。
しかし、冷たく硬直したその亡骸を抱えていたリュウは、疲弊しきった表情で乾いた声を出した。
「このままでは可哀想だ」
潤み声で呟いた事により、アサギの瞳に光が戻る。ハイの亡骸を一刻も早く埋葬せねばという話になり、適切な場所を探した。
神殿の脇には本来歴代神官達の墓地があったのだが、それらは魔物によって破壊されている。そして、彼らは存在すら知らない。
アサギは、以前ハイが話してくれた丘を思い出し、そこを求めて駆け出した。
ハイを魔王へと導く要因になってしまった、鳥の巣を人間が落として遊んでいたという池が見える開けた丘。そこからは森全体を、そして廃墟である神殿も見渡すことが出来る。
「なんて美しい景色……」
感極まって、アサギはどっと涙を流した。ハイは、皆にここを見せたかったに違いない。否応なしに、嗚咽がもれる。
「オレが知る限りでは火葬が一般的だが。どうしたもんか」
追いかけてきたトビィの声に、アサギとリュウは瞳を泳がせた。このままではいけないのは解っているが、死を受け入れることが出来ない。真実を歪めたい、火葬してしまえば、本当にもうハイはいなくなってしまう。
死者は、甦らない。
ぼんやりと、リュウはハイを思い出していた。惑星イヴァンでは見たことがなかった、掃除をしていた愛嬌ある姿はもう見る事が出来ないのだと思うと、胸にぽっかり穴が開いた。
元魔王は、何が原因で死んだのか。どうしても、納得ができない。
動けない二人に代わり黙々とトビィは穴を掘り、その中にハイを寝かせた。
結局土葬することにし、ここへきてようやくアサギは泣きながらハイの亡骸に土を被せる。
「あ、あ、あああ」
土が、ハイの服を覆う。だが、どうしても顔に土をかぶせることが出来ない。現実を受け止めようとしているのに、身体が拒否をする。
リュウは、項垂れて見ているだけだった。アサギの小さな手が汚れ、そこから零れた土がハイの全身を隠していく。
死んでいるのだが、眠っているだけのようなその顏。二人は涙で揺れる視界ながらも、目に焼き付けた。嗚咽は、止まらない。
「ま、待ってよ。ハイを埋めてどうするんだよ! まだ生きてる、生きてる!」
いよいよ姿が覆い隠されそうになった頃、錯乱したリュウが埋めたハイを掘り起こそうとした。魔王同士親しかった二人は、憎まれ口を言いながらも、互いの存在を認め安堵していた。魔王戦で生き残り、故郷で生きていく筈だった。
今までの過ちを、償う為に。
「落ち着いてください、リュウ様! 落ち着いて、落ち、つい、てっ」
悲鳴に近い声でアサギに抱き締められたので、ようやく我に返ったリュウは大きく吼える。絶叫が響き渡り、鳥たちが一斉に飛び立った。身体中の毛穴から一斉に汗を吹き出し、喉が嗄れるまで叫び続ける。
……声と共に、哀しみも消えてしまえばよいのに。
背後から抱き締めてくれているアサギの腕に幾分か落ち着いたリュウは、そっと手を乗せ掠れた声で弱弱しく謝罪する。
「ごめんだ、ぐ。意味が、わからなくて、ごめん……」
震えているアサギの腕を擦り、同じ様に彼女も辛いことに今更気づいた。
「ごめ、ん。ごめん。私も共に弔わねばならないのに、ごめん……」
土を被せ続けていたアサギのほうが、どれだけ勇気があって怖かっただろう。その手に付着している土を払うと、トビィを見上げ申し訳なさそうに瞳を伏せたリュウは鼻を啜る。
トビィは、何も言わずに黙って土をかけていく。二人には最後までさせられないと思った、親しかった分だけ辛いことは解っている。
「何やっている、ハイ。私達は死者にかける言葉など知らない。適任者は、神官であるハイだろう。頼むから、冗談だと言って起きてくれ。そうしたら、私は全力で殴るから」
リュウが、涙ながらに声を絞り出した。
リュウの手を、アサギが優しく握る。
そっとその手を強く握り返したリュウは、溢れてくる涙を拭うことなくハイの亡骸がすっかり埋まった箇所を見つめ続けた。
二人の手と身体は小刻みに震え、今にも卒倒しそうな程青白い顔をしている。だが、大事な人を弔うために気丈に立っていた。
アサギは、作ったケーキを置いた。こんなことの為に持ってきたわけではないのに、やりきれなくて嘆くことしか出来ない。
目印にと、トビィが人の頭程の石を運び墓石とした。
リュウが、近くに咲いていた花を植え替えた。
澄み切った青空の下で、三人はその簡素な墓標を見つめ続ける。
しかし、思い立ったアサギは蹲り土に触れ、詠唱を始めた。
何気なく見ていたリュウだが、堪え切れず号泣した。
墓標の周囲に、花が咲き乱れる。朱色の花は瓔珞草であり、地球での花言葉は『親切』や『片想い』それに、“注意する”など。白い花びらに紫の斑点は 杜鵑草、その花言葉は『秘めた意志』。
以前、アレクの城でアサギが咲かせたように、リュウとトビィの知らない花々が周囲を覆い尽くす。花で満たされたその場所は、風が吹くと仄かに甘く香る。
「ハイ様は、お花が好きでしたので」
三人は、あっけなさ過ぎる不可解なハイの死を受け入れられず、ただ立ちつくしていた。
元魔王ハイ逝去。
この訃報はすぐに仲間達に知らされ、騒然となった。
ムーンは暗殺されたのではないかと勘繰ったものの、他殺ではないと聞き多少安堵した。以前の自分のように、魔王ハイに恨みを持つ人間は多い。だが、彼が元魔王だとムーンとサマルト以外は知り得ない事実。
彼の働きぶりを見て、若い神官を派遣しようと提案する予定だった。流石に一人であの神殿の整備は骨を折る。また、本来偉大な彼なのだから、弟子入りを願う者達も多いだろう。
「もっと早くに私が決断していたらっ」
助けられなかったことを、ムーンも悔いた。怨恨などとうに薄れ、共に未来を担う仲間だと認識していた。過労ではないかと、自身を責める。
仲間達は、当然ハイの死因を知りたがった。
クレロが過去の映像を覗き見て判明したことは、体調が悪かったことくらいだ。何度か煎じた薬湯を飲んでいる姿が確認出来、嘔吐と咳を繰り返していた。顔色も酷く青白い為、何者かに殺されたわけではなく、病気が原因だと判断された。
毒殺ではないか、とも噂されたが人の気配はなかったように思える。
地球と違い医学が発達していない為、原因は解らない。傷を回復魔法で治癒することは出来ても、病気は魔法で回復出来ない。ゆえに、回復魔法に長けたハイが詠唱したところで、状況は変わらなかっただろう。
傷口からの破傷風菌感染ではないかと、アサギは疑った。小さな傷口だからとハイが放っておいたのならば、十分に有り得る。
「もし、私が頻繁にハイ様のところへ遊びに行っていたら。体調不良だと解った時点で、地球に連れてきて病院へ行く事が出来ました。そうしたら助けられましたか?」
泣きながら繰り返すアサギに、クレロは何も言えなかった。死因は不明。クレロは地球の医学が何処まで発達しているかなど知らない、何より、対応出来るものなのかどうかすら解らない。
そもそも、異世界の住人を日本の病院へ連れていくには高リスクが生じる。血液型すら違う、地球の住人に効く薬も、異世界の者に正しく反応するかどうか。
「どうしよう、私のせいだ。地球だったら、地球にさえ連れて行けばっ!」
自分を非難し、泣き喚くアサギに「それは違う」と、皆が口を揃えて諭した。
だがアサギは大きく首を横に振り続ける、何故すぐにケーキを焼いて会いに行かなかったのかと自問自答を繰り返し、責め続けた。何をしていたのかといえば、トビィの看病をしていた事と、ミノルと揉めていた事くらいだ。行こうと思えば、いつでも行けた。約束はしたが、ケーキなど焼かなくともよかった。
「どうしよう、どうしよう、どうしよう!」
後悔に苛まれ、圧し掛かる罪悪感に体調を崩したアサギは数日学校を休んだ。
魘されて寝込んだと思えば、急に飛び起きて震えながら毎日ハイの墓標へ向かう。何を備えれば良いのか解らなかったので、地球の香水入れに天界の水を入れ、その硝子瓶を石の近くに置いた。花々に肥料と水を与え、自然が好きなハイが少しでも喜んでくれるようにと願いを込める。
「ごめんなさい、ハイ様。私がもっと早くに会いに行けば」
そればかりを唱え続ける。
心配した勇者達が、アサギを見舞いに来た。
母親にも宥められて一週間後には学校へ行くようになったが、今にも倒れそうな状態だった。
勇者達も懸命にアサギを励ました。自分を責めなくてもいいと、絶対にアサギのせいじゃないと口々に告げた。
けれども、アサギは首を横に振り続ける。すっかりハイの死に囚われてしまった。
そんなアサギの背を撫で抱きしめ続けていたトビィは、密かにリュウのもとを訪れ不信感を露にした。
突然の来訪に驚いたが、それにリュウも同意し二人は意思の疎通を交わす。
『神クレロは、腑に落ちない点が幾つもある』
二人は暫し沈黙したまま、互いの瞳を見つめていた。
そこまで親密な仲ではなかったものの、激動の時間を共有していた。友情という枠ではないが、信頼出来る相手だと認識している。
皆は、ハイの死に気を取られて過ぎていた。最期に、リュウがハイに頼んだことは何だったか。
「勇者なのに、私、何も出来てない。……どうしよう、どうしよう、どうしよう」
ハイの墓標の前で泣いていたアサギは、ふらつく足取りで天界に戻る。
勇者とは、人々を救う者ではなかったのか。
一体、これまでに誰を救えたというのだろう。
……アサギ、アサギ、アサギ。聴こえるかい、アサギ。アサギ、どうか、私の声を聴いておくれ。
今はもう懐かしい、今後聞くことは出来ない声が墓標の周りで悲しげに叫んでいた。風に乗って漂っている声は、本人に届かない。
……アサギ、アサギ、アサギ。私の大事な友人よ、尊敬する勇者よ、愛する人よ。どうか、私の声を、今一度聴いておくれ。
ハイは、叫び続ける。渾身の力で、アサギに訴えかけていた。
天界人もアサギを心配し、痛々しい視線を向けていた。
けれども、上の空のアサギは常に放心状態で、生ける屍。目の前が歪み、冷たい壁に触れながら歩き続ける。
クレロに頼まれたソレルがアサギの後を追うが、それすらも気付いていない。
「勇者なのに、何も出来ない。何人助けられなかったのだろう、勇者なのに。勇者は全てを救える凄い人なのに。私、どうしよう、欠陥勇者だ」
ボソボソと呟きながら、行先を塞がれようやく焦点を合わせる。
大きな丸い球体の前に立っていた。
これは、神しか起動出来ないはずの球体。
アサギが過去のトビィの危機を知った、それ。
何も映っていない球体が、僅かに煌く。そっとアサギは手を伸ばして触れると、冷たいそれに身体を寄せた。疲労困憊で、寄りかかりたかった。
すると。
球体が発光したかと思えば、赤い惑星がぼんやりと浮かび上がる。
「これ、はっ!?」
その様子を最初から見ていソレルは、強張った表情で踵を返す。また、勇者アサギが起動してしまった。
アサギは異変に気付いていなかった、ただ、大きすぎる球体を抱き締めるように腕を伸ばした。
映し出されたのは惑星マクディ。神殺しの民が蔓延る、死の星。化学物質で穢れた惑星は、毒々しい赤色をしている。しかし、一箇所だけ、緑の場所がぽつんと見えた。
「オレはここだよ、早くおいで」
その惑星で、紫銀の髪の少年が手を鉛色した空に掲げる。
声に気づいたように、アサギは身体をゆっくりと起こして球体を見つめた。
キィィィ、カトン、トン、トン。
そして、ゆっくりと歯車が起動する。
それが必然であり、避けられない運命がすぐそこまで来ている。
だから言っただろう、後悔すると。
お読み戴きありがとうございました。
なろうで続きを読む事は出来ません(´;ω;`)
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すみません(´;ω;`)