歯車は、軋む
釈然としないトモハルは寝付けず、自室でサッカーボールの手入れをしていた。無心で磨きたいのに、静かな部屋に一人きりだと昼間の件が甦って腹が立つ。
思うように集中できず苛立っていると、窓を叩く音が聞こえる。二階の窓を叩ける人物など、一人しかいない。怪訝に顔を上げると、元凶であるミノルが身を乗り出し上機嫌で手を振っていた。
トモハルは怒りに燃える瞳を逸らし、無視しようとした。昼は、ここまで怒りが湧き上がらなかった。恐らくは怒りよりも、アサギを護ることを脳が優先した為だろう。
しかし、今は違う。
裏でこそこそ、あのように卑劣な事をしたミノルを殴っても、罰はあたらないと思った。知られなければ、何をしてもよいだなんて間違っている。
「卑怯者」
苦虫を潰すような顔で本音を吐露したトモハルは、舌打ちをした。気安く話しかけるなと怒鳴りたいのを懸命に堪え、不機嫌さを剥き出しに仕方なく窓を開ける。
ピシャン、と冷たい音が響く。
「よ! 邪魔するぜっと!」
「何だよ、いきなり」
窓から、いつものようにミノルは乗り込んだ。トモハルの声が低いので、機嫌が悪いことに気づいたが、不思議そうに肩を竦めたものの立ち去ることなく床に座り込む。
「別に? 遊びに来ただけだけど」
「俺、忙しいんだけど。見ての通り」
「ボール磨いてるだけじゃねーか」
今の二人は火と油。
機嫌がよいので何事もおどけたように返事を返すミノルが腹立たしく、無視をする。口を開けば怒鳴り散らしてしまう、平常心を保とうと腹に決める。
訊きたいことは山ほどあったが、どこから問い詰めたらよいのか解らない。
「なぁ、トモハルってキスしたことあるか?」
勝手にベッドに横になったミノルは、逆なでする様なことを口にした。
手を止めたトモハルは、唇を噛締め挑むような視線で見つめる。しかし、ミノルは天井を見ていた。横顔からも解る、締まりのない口元で惚けている。
「あるわけないだろ。俺、彼女いないから」
トモハルは単語を強調し、ぶっきらぼうに告げた。ボールを磨く手に、知らず力が籠もる。
「あ、そうだよな。だぁよなぁー」
浮ついたミノルを殴りたいのを、必死に堪える。単純なので、今日の出来事を自慢したいのだろう。トモハルは承知の上で、あえて切り返す。
「アサギとキスしたわけ? で、上機嫌なわけだ? へー、よかったね。あんな可愛い子とキス出来て。自慢もしたくなるよね」
親友は、どう答えるのか。トモハルは一か八かの賭けに出た。
「え、いや……」
真っ向から見つめたトモハルの視線から、ミノルは逃げた。想像通りの行動に、落胆する。疚しい事があるから、挙動不審。本人も、それを認めている。流石に『アサギではない少女とキスをした』とは言えないらしい、口籠ったまま俯いている。
つまり、浮気を認めているのだ。
「よくアサギにキスさせてもらえたよな」
嫌味を籠め、トモハルは蔑みながらに言い放った。
その言い方が勘に触ったミノルは、怪訝にトモハルを見つめた。引き攣った笑みを浮かべて、首を竦める。親友の機嫌が悪い原因が自分だと、全く思っていない。
「何怒ってんの、お前。俺が先にキスしたのが屈辱的とか?」
見当違いな発言に、トモハルの堪忍袋の緒が切れた。
「俺は確かに怒ってるけど、それとこれとは話が別。俺は誰ともキスしたことがないけど、屈辱なんて感じてない。だって、俺には好きな子がまだいないし。つまり、相手がいないからキス出来ない」
「言う割りに気にしてねーか、お前? 優等生のモテ男トモハル君、先に越されて劣等感ー、みたいな」
ダン!
トモハルが床を殴りつけた音に、ミノルの喉から声が微かに漏れた。怒りを露にした瞳と視線が交差すると、小刻みに身体を震わす。
「キスって、恋人同士がするもんだろ?」
「そりゃ……そうだけど」
ミノルには、一体何がトモハルの機嫌を損ねたのか見当もつかない。
空気が澱む中、すごすごとミノルは窓から部屋に戻った。これ以上いても、悪化するのが目に見えている。「じゃ」と、軽く告げて出ていく。
トモハルは、追及しなかった。
暫くして、ミノルの部屋から話し声が聞こえてきた。相手は憂美だろう、声が不自然に弾んでいる。
歯痒い、目撃したことをぶちまけてしまいたい。
けれど、幼馴染で親友だと思っている男は、二股する卑劣な男ではないと信じていた。
信じていたから、二股ではなく、アサギとは別れていたのだと思いたかった。
しかし、彼は目を泳がせた。あからさまに動揺した。
「何やってんだよ、ミノルッ!」
キィィィ、カトン。
何かが、音を立てた気がした。
家の前で、徒労感をたっぷりと浮かべていたアサギは意を決した。
トモハルが傍にいてくれたので、気が楽になった気がした。勇者になっていなければ、こうして寄り添うこともなかった相手だ。幼馴染のリョウや、親友のユキとは違う大事な友達の一人になった。
対の勇者として、というよりも、トモハルにはどこか懐かしさを感じている。懐かしさ、というよりも、欠けていた部分が補われたような感覚。
以前、本で『過去に繋がりがあった人とは、現世でも必ず出逢える』と読んだ。親密であればあるほど、身近に存在するという。
「ありがとう、トモハル」
気持ちを切り替えねばならない、なるべく家族には暗い表情を見せたくない。気が重いが、笑顔で振る舞う。
「おかえり、アサギ」
「ただいま! 夕飯はなぁに?」
「今日はゴーヤチャンプルーよ」
「やったー、ゴーヤ大好き!」
母の美味しい手料理が、胸に沁みる。そういえば、昼はメロンパンしか食べていない。しかし、想像以上に食事が喉を通らない。
「あら、具合が悪いの?」
「暑かったから、夏バテかも」
「まぁ、気を付けるのよ」
夕飯を食べ終えると、療養中である過去のトビィに会いに行くことにした。
肌に視線が刺さる。
アサギは、なるべく不自然にならぬよう努めた。しかし、笑顔を作っていたつもりでも、洞察力に長けているトビィの前では意味がなかった。
沈んだ様子に気づき、怪訝に眉を顰める。けれども、すぐには何も言わず、いつものように世話をしてくれる姿を見つめる。
「とろとろで、美味しいスープですよ」
「ありがとう」
並べられた食事を綺麗に平らげたトビィは、一息つく。そして、薄く微笑み大人しく座っていたアサギに声をかけた。
「何があった。泣いただろ」
訊けば悲しませることになるかもしれないとは思ったが、見て見ぬふりをすることは出来ない。彼女は弱々しく、今にも消えてしまうように見えた。
アサギは動揺し、震える手を力いっぱい握り締める。しかし、気丈に顔を横に振った。
「……悲しいことが、ありました。けど、もうへっきです」
泣いているように笑ったアサギに、トビィの胸はジクジクと痛む。
「それのどこが平気だ。無理して笑うな、余計辛いだろう?」
アサギの頭部を撫で、そっと引き寄せ軽く抱き締める。
伝わる体温は温かく、ずっと傍にあるその温もりと香りに安心感を抱き、若干アサギは俯いた。鼻を啜り、緩む涙腺を必死に堪える。顔を上げ、肩を竦めて微笑んだが、涙は隠せなかった。
「いつでも、優しいですね。でも、ホントにへっきです。……あの、回復されたようなので、そろそろお別れの時間となりました」
心からの笑顔でトビィを過去へ送り届けたかったが、まさか日中あのようなことが起こるとは。しかし、先延ばししても仕方がない。彼はもう、十分過ぎる程に回復している。
「まだ治っていない、足首が」
悪びれた様子もなく真顔で切り返したトビィだが、それは離れたくないゆえの嘘。彼にとって離れることは、死活問題である。
堂々とした態度に吹き出したアサギは、心が解れていくのを感じた。
「大丈夫、すぐに逢えますから」
「本当だろうな?」
「はい、大丈夫です。“クリストヴァル”へ向かってください、そうすれば」
「ほぉ。アサギは巫女か修道女か?」
「いえ、違います。ゆ……ゆ、ゆるゆると旅をしています」
危うく“勇者”と言いそうになったが、色々と詮索されても困るので、どうにか誤魔化した。
「ゆるゆると旅?」
訝ったものの、ただの気休めでないと悟ったトビィは、渋々ベッドから下りた。痛みを感じる箇所はなく、以前よりも身体は軽い。肩を竦め、アサギに苦笑する。
「オレがここまで丈夫ではなかったら、アサギと共に居られる時間が僅かでも延びただろうに。惜しい事をした」
「ふふ。長い間、居られるようになりますよ」
「……その言葉、信じよう」
二人は視線を絡ませた。
アサギは、次の再会を知っている。
トビィは、次の再会を待ち望んでいる。
二人は必然で出逢う。
アサギは背伸びをすると、そっとトビィの頬に触れた。
「では、また」
途端、急に眩暈がしたトビィはその場に崩れ落ちる。
その身体を支えたアサギは、外で待機していたクレロらに声をかけた。
「御苦労だったな、アサギ」
「いえ、ここからです」
トビィの意識があるままでは、過去へ返し辛い。申し訳ないが、今は眠ってもらった。連れてきてしまったアサギが、責任を持って返さねばならない。どうすれば戻せるのか考えても仕方がないが、過去の自分はやってのけたはずだ。
だから、アサギとトビィは洞窟で出逢った。
「きっと、出来る」
トビィを丁重に運び、連れてきた時と同じように球体の前に立つ。意を決し、念じながら“神にしか起動出来ない球体”に触れる。
クレロと天界人が固唾を飲んで見守る中、球体はおぼろげに発光した。周囲は声にならない感嘆を漏らし、喉を大きく鳴らす。これで、勇者アサギは神でもないのに球体を作動出来ることが認知された。
偶然ではなかった。
「また、後で。トビィお兄様」
アサギは呟き、瞳を閉じているトビィの身体に触れる。過去の正しい場所へ戻るように、願う。
トビィに触れていたアサギの手が、ぽとん、と床に落ちた。
忽然と姿を消したトビィに、その場に居た者達は慌てて球体を食い入るように見つめる。すると彼は、何事もなかったかのように木の根元で眠っていた。
「ふぅ……。どうにか出来ました」
トビィが元の場所へ戻ったことを確認し、アサギは安堵の溜息を吐く。
トビィがいる場所は、ジェノヴァから離れた森の中。手には、愛剣ブリュンヒルデを握っている。このままジェノヴァを通過してクリストヴァルを目指し、洞窟へ足を踏み入れるだろう。
そして、惑星クレオへ来たばかりのアサギと出逢う。
アサギはクレロに会釈をし、その場を去った。険しい表情の天界人と、何処か誇らしげな様子のクレロに首を傾げながら。
「アサギ!」
地球へ帰ろうとしたところで、呼び止められる。振り返ると、トビィがこちらへ大股で向かってきた。
「……トビィお兄様!」
目の前にいるのは、現在のトビィ。先程まで共に居た過去のトビィと比較すると、何処となく逞しく、肌が日焼けで多少黒い気がした。
「ようやく逢えたな、アサギ。ところで……何があった。泣いただろ」
「……悲しいことが、ありました。けど、もうへっきです」
「それのどこが平気だ。無理して笑うな、余計辛いだろう? ……って、この台詞、以前もアサギに言ったような」
先程と全く同じ言葉をかけられ、アサギは吹き出した。
涙を浮かべ笑っているアサギに頭をかきながら、トビィはそっと髪を撫でる。
「そんなに笑わずとも」
トビィに触れられると、安心する。うっとりとその指を確かめる様にアサギは瞳を閉じ、大人しくしていた。彼氏でも、好きな人でもない、“兄”と呼んでいる男。彼には、恋愛感情ではない特別なものを感じている。
「本当に……優しい、人です」
「言っただろう、アサギには優しいと。ところでこれからどうする?」
「今日はもう、地球に帰ります。近いうちに遊んでください! そうだ、一緒にハイ様のところへ行きませんか? リュウ様も誘って」
「出来れば二人きりが好ましいが……アサギが言うなら共に行こう」
和気藹々と談笑していたが、後方に気配を感じたトビィは皮肉めいて視線を流す。クレロが立っている。二人の会話を何処からか聴いていたのだろう、苦笑しつつも一つ返事で頷いた。
明けきらない朝の青い光と清々しい空気に、アサギは小さく呻く。結局寝付けず、朝方になってしまった。学校を休む事も考えたが、それは甘えだと叱咤し、憂鬱なまま登校する。
「おはよう!」
「アサギちゃん、おはよう!」
この学校に、ミノルがいる。
遭遇するのは怖いが、教室が違っていてよかったと安堵した。泰然自若を装い、どうにか一日を乗り切った。
休憩時間のたびに、トモハルはアサギを心配して遠くから見守った。
当のミノルは、気にした様子もなく普段通り過ごしている。
誰も、この三人に渦巻く微妙な空気に気づけない。
「なぁ、ダイキ」
「ん?」
トモハルは、授業中にダイキにメモ用紙を投げた。
『今週の土曜日、空いてたら遊びに行かない? メンバーはダイキ、ケンイチ、ユキ、アサギ、俺』
メモに眼を落したダイキは、疑問がひらっと舞った。何故ミノルがいないのか気になったが、隣同士の二人だから用事がある事を知っているのだろうと思い込んだ。
ミノルが正直に話してくれたら誘うつもりでいたトモハルだが、どうせまた憂美と遊んでいるに違いないので最初から外した。
『行く。何する? またプールに行きたい』
『屋内だけらしいけど』
『それでもいい、まだ暑いし。夏らしい事、もっとしたい』
トモハルは先生に見つからぬようにダイキをメモの交換をしつつ、不安になった。アサギは、プールに行きたくないだろう。最初から行先を指定すればよかったと、項垂れる。
放課後、他の三人に計画を話すと、案の定アサギ以外は大賛成だった。
「この間、楽しかったもんね」
ケンイチも嬉しそうに言うので、行先を覆すことは出来ない。
「ごめんなさい、私は用事があるから。みんなで楽しんで来てね! 行きたいけど、また別の日に」
申し訳なさそうに瞳を伏せたトモハルに、アサギは笑顔を向ける。その心遣いが嬉しかった。
トモハルは、ユキはアサギが行かないのならば参加しないと思っていたが、ケンイチがいるからなのか率先して待ち合わせ時間を仕切り出した。意外だな、と思った。
「ごめんな、アサギ」
「どうしてトモハルが謝るの? 次に遊ぶ時は、私も参加するね! 秋になったら、フルーツ狩りも楽しそう」
「それいいね」
「でしょ、時間はまだたくさんあるから、大丈夫」
辛いだろうに気を利かせてくれるアサギに申し訳ないと思いつつも、感謝したトモハルは頭を下げた。
「辛い事があれば、連絡して」
「うん、ありがとう。今のところ大丈夫だし、ユキに話すから」
「そうだね、それがいい」
ユキ達が談笑している傍で、二人は密談した。
下校中、ユキに家に行ってもよいか確認をとり、一旦帰宅してからアサギは御菓子を持って出掛ける。そうして、何度も遊んだことのある部屋で、全てを話した。
話しながら泣き出したアサギに、ユキも一緒に涙を零す。
「そんな……酷い! 一体どういうことなの? 憂美って、誰!?」
「私は全然知らない子だった。でもね、最初から、私は好かれてなかったから。それは、ユキも知ってるでしょう?」
「そんなのおかしいよ! きちんと追及するべきだよ、そして謝ってもらおう。私、絶対に許せない! 前からいい加減だと思っていたけど、本当に嫌い! そもそも、アサギちゃんをこんなに苦しめるなんてっ。よくもまぁあの程度の顔で浮気が出来るよねっ、女の敵だよっ」
「ま、待ってユキ。ミノルの顔は結構かっこいいと思うけど……」
「そんな甘いことを言っているから、浮気されるんだよっ! 浮気は、超絶イケメンの特権だよっ」
「え、えぇ……。いくらかっこよくても浮気は」
アサギがたじろぐほどに、ユキが怒り狂っている。その為、なんとなく胸がすっとした。しんみりと、本音を吐露する。
「ミノルにしたら、私が悪いって思ってるよ」
「そんなことないよ、アサギちゃんは何も悪い事してないでしょっ」
懸命に励ましてくれるユキに感謝し、話したことで胸の奥底にこびりついていた鬱憤を吐き出せた気がした。部屋の窓から、垂れ込めた雲の隙間から夕焼けが滲んで見えた。
「ユキ、本当にありがとう」
「ううん、気にしないで。私達、“親友”でしょう? 私の大事なアサギちゃんを傷つけたミノル君は、同じ勇者だとしても関わりたくないな」
手を振って去っていくアサギを姿が見えなくなるまで見送っていたユキは、夜の帳が降り始めた周囲の暗さに紛れ口角を上げる。低く笑いながら家に戻ると、自室で声を抑えて嗤った。
「え、マジ!? ちょっ、めっちゃ面白いっ! フラれたんだ! アサギちゃん、めっちゃ可哀想! あはは! あー、嗤い堪えるの、必死だったっ。もー、やめてよ、不意打ちっ。あははっ!」
先程流したのは、嬉し涙。
土曜日のプールが、俄然面白くなった。なかなか整った顔立ちの男三人と自分という、逆ハーレム状態に興奮を隠せない。想像するだけで、歓喜で震える。
「私には彼氏がいるけどぉ、アサギちゃんは、フラれたんだってっ!」
ユキは、嗤う。
その日も、夏の緑の匂いがする空気だった。蝉は、やはり鳴いていた。
ユキから『いってきます』と愛らしいスタンプが届いていたので『楽しんで!』と返信した朝。 アサギは、気怠さを感じそのまま昼頃まで眠った。時間が勿体ないと思ったが、倦怠感に負けた。
しかし、部屋に閉じこもっていても気が滅入ってしまう。
「ぅー……」
昼食をのろのろと食べ、あてもなく行動することにして自転車にまたがる。足を動かしていたほうが、余計な事を考えずに済みそうだった。
ジリジリと熱い日差しが降り注ぐ。あの日を思い出し、項垂れた。
道路に出て漕ぎ出した瞬間、硬直する。
「よ!」
「ミ、ミノル?」
思いもよらない人物と出くわし、心臓が口から飛び出そうになった。
動揺したアサギは、名前を呼んだものの次の言葉が出てこず唖然と佇む。学校ではずっと避けていたが、まさか、休日に遭うとは。
「どっか行くのか? 新しいゲーム買ったから、うちで一緒にやらねぇ?」
「え……? ゲーム?」
アサギの胸中は乱され、足が小鹿のように震える。
……憂美さんと逢わないのかな。どうしてここにきたのかな。私は、どうしたらいいの?
異世界で魔物と対峙した時より、恐怖を感じている。家で眠っておけばよかったと、心底後悔する。ミノルは以前と同じような口調で話しかけてくるので、余計に混乱した。
……あ、あれ? 私との約束も勘違いだったかな、それとも、本当に忘れているだけなのかな。
アサギの中で混沌とした考えが、雲のように蠢いていた。
「そ。トモハル達連絡つかねぇし」
彼女とは逢えない、トモハルらも不在。暇をもてあまし、最終的に選ばれた。アサギは、そう考え着いた。
「えと……用事があって」
アサギはぎこちなく微笑んだ。代わりでも声をかけてもらえたことは嬉しい、しかし二人きりで遊ぶ自信はない。震える手に精一杯の力を籠め、自転車を押し進める。
「一人でかよ?」
「そ、そうだけど……」
「一人ならたいした用事じゃないだろ、来いよ」
「で、でも、その」
お使いを頼まれていると、何故言わなかったのか。アサギは、自分の頭の悪さに嫌悪した。
……嫌いな私といて、ミノルは楽しいのかな。
じわりと、涙腺が弛む。
……そもそも、彼女がいる人の家に行ってもいいのかな。ミノルに恋愛感情がなくても、あの子が知ったら哀しむんじゃないかな。
知らず、頭が下がっていく。
しかし気落ちしたアサギには気づかず、ミノルは怒気を含んだ声を出した。熱さも手伝い、煮え切らない態度に苛立っている。
「後ろ、ついて来いよな」
アサギは脅迫されているように感じ、頷いてしまう。ふらつきながらミノルを追うと、カーブミラーに自分が映った。気持ちが顔に出ており、どんよりとした虚ろな瞳と視線が絡む。
……どうしたらいいの。
何も出来ない自分が、情けない。こんなことなら、ユキ達と出掛ければよかったと憂鬱になる。
ミノルの家に向かう事が、以前はとても楽しかった。それなのに、今はこんなにも億劫だ。前を走る背中が、知らない人に思えた。
……あ、また。
次のカーブミラーで、自分の服装が目に入った。胸元と裾にレースをあしらった黒のコンビネゾンで、後ろの腰には大きなリボンがついている。何故このように子供染みた服装なのか、忸怩とした思いで溜息を吐く。
その服は非常に似合っており、寧ろ大人びている。しかし、今のアサギにはレースやリボンが酷く幼稚に見えた。“ミノルが好きな女の子”は、アサギにとって羨むべき存在。彼女が身につけないようなものを好む自分に、劣等感を覚えた。
何処かで工事をしていたら遠回り出来る、と思う程に切羽詰まっていた。思いも虚しく家に到着したので、自転車を停める。まごついていると、促された。
「お邪魔します」
蚊の鳴くような声で告げると、ミノルの声がワントーン高くなる。
「家には誰もいないからさ、適当に寛げよ」
誇らしげにそう言ったミノルに、アサギは絶望する。せめて先週のように母親がいてくれたら、まだ気が楽だった。
二階にあるミノルの部屋へ、キシキシと軋む階段の音を聞きながら上る。そうして、隅のほうに居心地悪そうに正座した。
開いたままの窓から風が入り、カーテンを揺らす。
隣はトモハルの家。不在だと知っているのに、顔を覗かせてくれないか期待してしまうアサギは幾度もそちらを見る。
「今クーラー入れるから」
ジュースにスナック菓子が広げられ、準備が整うとゲームを開始する。
それは、アサギには未体験のゲームだった。最近出たばかりのもので、人気なことは知っている。説明を受けたが上の空で、何度やってもミノルには勝てなかった。
「ミノルは上手だから、私じゃつまんないでしょ」
重苦しい空気を感じ、アサギは引き攣った笑みを浮かべた。息が詰まる空気に耐え切れず、ジュースを必要以上に飲む。
「鈍臭いな、こうすんだよ」
「え?」
ミノルはアサギを引き寄せ、背後から抱える形でコントローラーを握った。二人の手が触れ合い、互いの熱を感じる。
しかし、アサギは瞬時に蒼褪めた。
「こうすると早く動くから」
愉快そうに覗きこんだミノルとは真逆で、アサギは強張った表情で唇を噛み締めた。吐息が髪にかかり、揺れる。
……怖い!
トビィとは違う、手の大きさと温もり、そして香り。アサギの全身に、鳥肌がたつ。
何故ここまで触れてくるのかさっぱり分からず、アサギは泡を吹きそうな程緊張した。彼女がいる人は、他の女の子に対しても大胆になるのだろうかと余計な事を考える。
ミノルが、知らない人に見えて仕方がない。
「あのさ、本腰入れてプレイしてくれねーと、俺がつまんねーんだけど。アサギなら上手く出来るだろ、反射神経よいし、手先も器用だし」
「う、うん、が、頑張る……ね」
身動ぎし、あからさまにミノルから離れたアサギは愛想笑いを浮かべる。
拒絶されたようで、ミノルは顔を顰めた。人の感情に鈍感だとしても、挙動不審なアサギに気づく。瞳を細め一瞥し、わざとらしく溜息を吐きゲームを再開する。
言葉を交わすことなく、二人はコントローラーを握り締めた。
言われた通りゲームに集中するアサギは、勝たねばならないと暗示をかける。
反して、ミノルはアサギの横顔を見つめていた。簡単に勝ててしまうので集中していなくてもよいことと、先程触れ合った肌を思い出した為だ。身体の芯が熱くなるのを感じた。髪の香りだったのか、自分にはない甘くて柔らかなそれに頬が赤くなる。コントローラーを握る細くて綺麗な指は、触り心地が良かった。憂いを帯びているような綺麗な横顔に、艶やかでぷっくらとした唇が妙に際立っている。
ミノルは喉を鳴らした。
『アサギとキスしたわけ? で、上機嫌なわけだ?』
トモハルの声が、脳で反響する。そう言われ、ずっと意識していた。
こうして二人きり、アサギとキスをするなら今しかないと思った。そのつもりで、招いた。
キスなど、簡単だった。
あれから毎日、憂美とキスをした。子供らしい唇を触れ合わせるだけのキスだが、緊張したのは一度きりで慣れてしまった。
……まぁ、アサギも一応彼女なんだし。キスくらいしとかねーと、平等にな。
ミノルは、どちらが本当の彼女なのか選べずにいた。適当に付き合って、一緒にいて楽しいほうを選べばいいと思っていた。いや、バレるわけがないと過信し、このままでいいやと楽観視した。
おそらく、アサギを選ぶことになると解っていた。
しかし、告白してきた憂美は断るには惜しい容姿だった。
それだけ。
自分よりも遊び慣れていた憂美に、背伸びをして付き合った。手を繋ぐことに抵抗はなく、他の小学生があまりしていないようなキスだって体験した。
大人になった気がした。
大人になれば、アサギがなついているトビィに近づけた気がした。
自分が誇らしく思えた。
次は、得た魅力をアサギに伝えねばと思った。これでトビィのように自分も気にしてくれるに違いないと、何処となく納得していた。
トビィへの敗北感と羨望が、歪んでミノルを支配する。
抱き締めることもキスをすることも容易いと思っていたのに、実際アサギを前にすると出来ない。緊張で頭の螺旋が吹き飛び、やり方を忘れてしまった。
脳は正直だ。本当に好きなのはアサギで、遊び相手の憂美とは違うと、完全に分けている。
「クソッ」
それに気づかず、上手くやらねばトビィに盗られると、勝手にプレッシャーを背負った。普段のほんわかした明るい笑顔のアサギであれば談笑しながら雰囲気を作れたのに、余所余所しい態度に困惑する。
二人の間に、大きな壁が出来ていた。
「あ、勝てた!」
ゲームどころではなかったミノルに、ようやくアサギは勝利することが出来た。これで少しは流れがよくなるだろうと笑みを浮かべ、首を動かす。
「ミノル?」
アサギの顏に、驚愕の色が浮かんだ。
先程よりもミノルが接近しており、身体より顔が近い。反射的に床を腕で押し、どうにか後退する。距離を保とうとしたが、追うように近づいてきて縮みあがった。鋭い視線が、怖い。荒い呼吸で迫ってくる姿に鼓動が速まり、身体が震える。
焦燥感が高まり、バランスを崩したアサギは床に倒れ込んだ。
「きゃ」
「あぶねぇ!」
助けようとしたミノルが腕を伸ばす。アサギの身体の下に腕を入れたまではよかったが、支えきれずに覆い被さる形となった。
二人の身体が密着する。
赤面し焦って離れるミノルと、その下で蹲り震えるアサギ。
そこに、甘い空気はない。あるのは、湿気を含んだ重い空気。
「い、痛くなかったか? 絨毯ないから、悪い」
「だ、大丈夫」
ぎこちなく笑い、アサギは起き上がろうとした。しかし、ミノルは挑むような瞳で、再び上に覆い被さってきた。
一旦は、離れたのに。アサギの喉の奥から空気が漏れ、緊張で呼吸を忘れた。瞳を閉じ身体を縮こませ、タスケテと誰かに救いの手を求める。
この部屋に、いや、この家には他に誰もいないというのに。
「アサギ」
熱っぽく名を呼ばれ、鳥肌が立つ。粘っこい甘い声は、アサギが聞いた事のない声だった。ミノルの荒い息が、前髪を揺らす。怖くて瞳が開けられず、ただ恐怖を覚えた。
完全に、怯えている。
だが、ミノルは恥ずかしくて震えているように見えた為余計に興奮し悩ましい気分になった。優等生のアサギが未体験であるキスを、自分は知っている。それを今から教えるという優越感に高揚する。
初めて、アサギに勝った気がした。
彼女には負けたくない、褒められたい、尊敬されたい、強く思われたい、頼られたい。一人前の男に見られたい。そんな欲求が爆発する。
スッと、アサギの耳を何かが掠る。
「ひゃん」
「っ、へ、変な声出すなよっ!」
極限状態のアサギは、空気の流れに過敏になっていた。上ずった声を出したアサギは、顔を背ける。
慌てたのはミノルだ、キスをしたことはあっても、“女の声”は知らない。
アサギの艶めいた声は、慣れた男ならその気にさせ、不慣れな男であれば羞恥心を増し動揺させる。
空気の流れが止まったので、アサギは怖々瞳を開いた。
「ほら、早く起き上がれ」
ミノルが手を差し伸べ、ぶっきらぼうに言った。
顔を背けていた横顔はどこかあどけなく、普段通りな気がして少し安堵した。しかしアサギは、素直に掴まってよいのか躊躇し、考え込む。
……憂美さんは、きっと嫌だと思う。私があの子の立場だったら、嫌だもの。
罪悪感に苛まれる前に立場を弁えたアサギは、自力で起き上がった。二人きりで遊ぶことすら躊躇い、悩んだ。自問自答しても答えは出ないが、これは“悪い事”だと認識した。
アサギはミノルに好意を寄せている。
恋愛感情がなければ、後ろめたい気持ちはなかったのだろう。アサギと、リョウのように。だが、一方通行でもそこに想いがある以上、これは悪い事だと自分が叫んでいる。自分が哀しいと思うことを、他人にしてはいけない。
アサギは、顏しか知らぬ“憂美”という少女の気持ちを護ろうとした。
飄々と起き上がったアサギを唖然と見つめたミノルは、瞬時に逆上した。良かれと思ってしたことを、跳ね除けられた。善意を拒絶され、胸が痛む。可愛らしく摑まってくれるものだと期待し、『憂美なら掴まっていた』と比較した。
ミノルが、大きく舌打ちをする。
気まずい空気が部屋に充満する。限界を感じたアサギは、ここにいてもお互いの為にならないと判断し、立ち上がろうとした。
「あ、あの、そろそろ……。用事を済ませないと」
「待てよ」
意を決し言葉を発したアサギの右手を強引に掴んだミノルは、乱暴に壁に押し付ける。頭に血が上っていた、全てが気に入らなくて、力でねじ伏せようとした。
後頭部を壁で打ったアサギは、低く呻く。
「っ、いっ、た……」
痛みに顔を顰め、うっすらと瞳を開く。近づいてきたミノルの顔に気づき、恐怖に引きつった悲鳴を上げた。反射的に首を大きく横に曲げ、逃げる。キスをされそうになっていると解った。嫌だった、ならば唇を死守するしかない。
アサギの瞳から、涙が零れた。哀しいのか悔しいのか怖いのか、この感情が何か解らない。
それでも、ミノルはしつこく迫った。ここまで来たら、後には引けない。血走った瞳で、獲物を捕らえ続ける。抵抗しているアサギを気遣う余裕は、彼にはなかった。
アサギは懸命にミノルの胸を押し戻し、離れようと試みた。キスをしてはいけない、だから阻止せねばと、心中で連呼する。ミノルがキスをする相手は、自分ではないと言い聞かせる。
……彼女がいる人と、キスをしてはいけない。
キィィ、カトン。
けれども、アサギの必死の抵抗はミノルの欲望に火をつけ煽ってしまった。弱者を征服したい男の本能が働く。黙らせて言うことを聞かせるにはこれが一番だと思い、我武者羅に顔を近づける。
二人の意思は、相反する。
「私、キスは彼氏としたいから、いやっ」
「お前は何言ってっ」
アサギの言葉に、怒りが湧いた。彼氏である自分がキスをして何が悪いのかと、躍起になる。
そして、二人の攻防は呆気なく終わった。
男と女、体格差からも歴然としている。ミノルはアサギの顎を持ち上げ、噛み付くようにキスをしようとした。
キスとは、互いを想い合ってする、気持ちを確かめる神聖な儀式。アサギの考えるキスの意味などそこにはない。
『二人でいると、落ち着くから。それを確かめる為に口付けよう』
遠い昔、誰かにそう教えられた気がした。
その相手がミノルではないと、この時アサギは確信した。この言葉を教えてくれた人こそが、自分が求める相手であり、先程から彼に救いを求めていたことを悟る。
『この唇は、オレのもの。オレの唇は、“ ”のもの。だから、絶対に他の誰にも触れさせないで。オレも触れさせない。解る?』
彼と、そんな約束をした。アサギは大きく瞳を開き、男の名を呼ぼうとする。しかし、おぼろげに顔は浮かぶのに名前が思い出せない。
様々な糸が絡み合い複雑になりすぎた二人の縁は、繋がっているのか、解けているのか、切られているのか。
……ト!
紫銀の髪が揺れ、意地悪そうな瞳がこちらを見ている。彼が手を伸ばした。
アサギの目の前で、光が激しくぶつかり合う。
「なんっ、だよ、お前っ」
ミノルはアサギが好きだから、キスをしようとした。何度も他の女で練習したから、上手く出来るはずだと思っていた。気紛れと優越感で他の少女と付き合ってみたが、本命はこちらのアサギだと分かっていた。
その筈だった。
けれども、久し振りに会えば妙に余所余所しく、つまらなさそうな態度に憤慨した。キスをしなければ、男が廃ると思った。キスさえしたら、覆る気がした。十二歳でも、男は男。誰に教えられたわけでもなく、太古からの男の本質が蠢く。
だがしかし、根本的に思い違いをしている。見当違いだ。
求める男の存在に気づいたアサギは、まだ見ぬ彼に背を押され、大声で叫ぶ。
「私のこと、彼女じゃないって言ってたっ! ミノル、そう言ってたっ! わ、私は、最初のキスは彼氏とするって決めてるもん、絶対絶対、彼氏とするんだもん! ずっと昔から、決めていたのっ」
悲鳴に近い絶叫で、ようやくミノルは我に返った。目の前のアサギは号泣している。大事な彼女を泣かせたのは自分だと気づき、狼狽して手を離す。
胸元を乱暴に掴んだ為、アサギの着衣は乱れボタンが一つ無くなっていた。傍から見たらそれは扇情的だ、だが、ミノルはそこまで非情になれなかった。
残虐性よりも喪失感が勝り、アサギの涙がミノルの心臓を締め付け、抉る。
間違った事をしたのだと青褪め、口元を押さえた。泣いているアサギなど見たくないと思っていたのに、泣いている。
また、泣かせてしまった。
「あ、その、ごめ」
「私、あの子みたいに可愛くないからっ!」
解放されたアサギは本心を叫ぶと勢いよく立ち上がり、一目散に部屋を飛び出す。階段を転がってでも逃げたいと思い、玄関を目指した。外の熱された空気に飛び込むと、安堵して力が抜けそうになった。しかし、立ち止まってはいけない。自転車に跨ると、振り返ることなく全速力で家へ帰る。
怖い、怖い、怖い。アサギは涸れたと思っていた涙を再び流した。
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完結は8月18日~24日の何処かになりそうです。




