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9/12

 平壤に入ってから既に一月近くなる。当初は二三日の予定で、お決まりの観光コースを巡るだけと思っていたが、先方に何らかの不都合があったのか、飽き飽きする観光も見るところが無くなり、かといって勝手に出歩くことは禁止されている。

 出られたとしても外国人専用のデパート位で、陳列された商品のどれを見ても日本で普通に売られている物だ。これといって目新しくはない。しかも電化製品などは、日本製でも四五年前の古い型か、あとはどこ製かも分からない粗悪品ばかりである。街は綺麗に整備されてはいるが、他の国のように繁華街らしきところは見当たらない。

「一体。いつまでこうして居なきゃならないのかしら」

 白鳥は退屈で死にそうだとぼやいている。

「白鳥さん。何か読みたい本は無いの?――借りてあげるわ」

 智美は、案内員から次々と本を借りては大人しく読書にふけっていた。

「ありがと。あなたみたいに読めればね・・・コミックならいいけど、無いわきっと」

 横瀬だけはどこに行くのか、時々姿を消している。不審に思って行先を訊けば、人差し指をこめかみに当てて「要領だよ」と、ただニヤニヤしていた。恐らく賄賂でも握らせて、怪しげな所にでも外出していたのだろう。だが、哲夫はこのところ毎日のように研究所に呼び出された。


 そこには、世界中から採集された菌糸類のサンプルが保存されていた。哲夫の見る限り、それらは全て神経系の毒を有する種類に限られていた。麦角菌のような菌類だけではなく、麻黄、大麻、ケシなどの、麻薬の原料になるものが殆どであった。

 哲夫は、それらを見て疑問に思い、付き添いの案内員に訊いてみた。

「ここはいったい何の研究所なのでしょうか」

「何って、もちろん治療の為の新薬を研究している所に決まっています」

 薄暗い廊下では、軍服を着た人間と何度も擦れ違った。

「でも、軍人の出入りが多すぎやしませんか」

「滝川さん。勘違いされては困ります。彼らは皆軍医です」

 哲夫には、そうは思えなかった。もしかすると、新しい生物兵器を開発しているのかもしれない。だとすれば、戦闘意欲を一瞬にして削ぐことが可能になる。生命を奪うことは無い代わりに、廃人化してしまう事も考えられる恐ろしい兵器となる。兵隊はそれに適応した防毒マスクで凌ぐこともできるが、無差別に投下された時の一般市民がどうなるか、それを想像した哲夫は思わず身震いをした。

 もう一つ気になるのは、上越の雪山で発見した同種のサンプルが見当たらないのだ。手紙には無尽蔵に採れるような事が書いてあったのに、別室に呼び出された時は例のキノコについていろいろと質問された。

「これに間違いないか」白衣を着た男がファイルを開いてテーブルに載せた。

 驚いたことに、キノコと自分の写真が並んで貼り付けてある。智美がハンバーガーショップで撮影したVサインをしている写真である。

「どこで手に入れたんだ」哲夫は思わず白衣の男に問い質した。

「そんな事はどうでもいい。これに間違いないかと訊いているのだ」

 男は睨むようにして威嚇した。哲夫は黙って頷いた。

 智美は「買ったばかりのカメラなのに」と、盗難に遭ったことを悔しがっていたが、キノコの写真もあのとき撮ったものに違いない。

 だが哲夫は、智美を北朝鮮の工作員とは考えたくなかった。このことは智美には黙っていようと思った。とにかく、相手はまだ例のキノコを発見してはいないようである。それを、我々に採集させようとしているのか。

 もし、そうだとすると、見つかるまで日本に帰れないことになる。果たして、発見できるかどうかも分からない。哲夫は、背中に悪寒のようなものを感じた。


 九月の半ばになって、ようやく空港までの車が迎えに来た。皆はホッとした表情で車に乗り込み、平壤の空の玄関、順安スナン飛行場に向かった。着いたそこは、まるで日本のローカル空港のような殺風景な所だった。旧ソ連製のツポレフジェット機と、アントノフ軍用プロペラ機がポツンと駐機している。哲夫達は、ここから三池淵サムジヨンまで飛ぶのだ。

 白頭山辺りは、既に秋を通り越して、初冬近くなっているだろう。ぐずぐずしていると本当に冬になってしまう。しかし、よく考えてみると、例のキノコは寒冷にならないと採集できないのだ。彼らは、その時間調整をするため、我々をここに足止めしたに違いない。 哲夫は自分の迂闊さに愕然とした。指定された船便の時期から、てっきり夏山と考えていたのだ。冬山装備など積み込んで来ていない。それより、横瀬と白鳥は問題ないにしても、智美には雪山経験が全く無い。智美の言った通り、我々は、かつてのマナスル登山隊訓練地に向かおうとしているのだ。まさか、智美だけ置いて行く事など心配で出来る訳がない。

「一体どうやって・・・」哲夫は腕を組んで考え込んだ。

 軍用プロペラ機の前には、軍服を着た大勢が並んでいた。そして、その真ん中に、カーキー色のジャンパーを着た、背の低い小太りの、サングラスを掛けたおじさんが立っている。何だか偉そうに反っくり返っている。横瀬は、おどけながら歩いていたが、その人の前に来ると、最敬礼をしてタラップに足を乗せた。チマ・チョゴリの白鳥も、深くお辞儀をして後に続いた。哲夫は傍に来て驚いた。なんとそれは軍の最高指揮官、つまり将軍様であった。我々のような輩を直接見送るなど普通は有り得ない事だし、心の準備の無かったせいもあったが、哲夫は軽く頭を下げただけで機内に入ろうとした。そのとき、その将軍様が口を開いた。

 哲夫が振り返ると、彼は智美に握手を求めて何かを言っていた。哲夫にその言葉は解せない。智美は、それに対して最高の笑顔で応え、流暢な言葉を返している。哲夫の脳裏に、考えたくはない疑惑がよみがえってきた。

(思えば僅か大学の四年間で、あれほど韓国語を匠に操れる筈はない。やはり智美は、この国のスパイだったのか。俺に向けたあの笑顔は偽りだったのか)と。


 三池淵までの機内で、三人はいつもと違う目を哲夫に向けていた。哲夫は、今までに見せたこともない不機嫌な様子で、誰が話しかけようが取り付く島がなかった。特に智美に対して、ことさら無視を装っていた。横瀬と白鳥は心配になって、いろいろと智美に詮索の言葉をかけた。そうして、ときどき智美を怒らせるような言葉も吐いた。

「言っとくけど。私、滝川さんの愛人なんかじゃ無いんだからね。私だって、なんであの人が拗ねているのか分からないんだから。聞きたいのは、こっちのほうだわ」

「じゃあ、側に行って聞いてこいよ」

 問答の末、横瀬は命令口調で智美に言った。智美は仕方なく哲夫の隣に席を移した。

 哲夫は窓の外を向いたまま、相変わらずむくれていた。智美は哲夫の耳に顔を近づけて「何があったの」と優しくささやいた。哲夫は外を見たまま「君を信じていたんだ」と力なくつぶやいた。その声は、僅かに震えているように聞こえた。しかし、智美にその意味は分からなかった。そのあとは、何を訊いても押し黙ったままだった。智美は途方に暮れた様に、横瀬たちを見ると首を横に振った。

 そうこうしている内に、彼らを乗せた特別機は高度を下げ始め、間もなく強い衝撃と共に、所々草の生えた滑走路に降り立った。そこには、軍の車とトラックが待ち構えていた。兵員はトラックに整然と乗り込み、哲夫達は押し込まれるように車に乗せられて基地へ運ばれた。


 三池淵では、日に日に秋が深まっていった。山裾が奇麗に色づいていたのが、いつの間にか鮮やかさを欠いて、青黒く広がっていった。その遥か先、雪を被った白頭山の稜線が霞んで見えた。

 哲夫によそよそしくされると、智美は余計に気になって仕方がない。それでなくても、武装した兵隊の行き交う基地内では、恐ろしいやら心細いやらで、哲夫から離れていられなかった。哲夫のほうは、智美のそれを監視だと解釈している。誤解は誤解を生む。哲夫はいよいよ口を訊かなくなる。智美はますます気にかかる。横瀬達は、その様子を『痴情の確執』と心得て、出来るだけ関わらないようにしている。横瀬に言わせると、犬も喰わないどころか、豚でもそっぽ向く代物らしい。思い違いも、ここまでくれば立派なものである。


 ここに来てからも、お決まりの観光コースになっている抗日パルチザン司令部跡や、金正日生家などを見てまわった後、半月ほどの間、彼らはほったらかしにされていた。そして、勝手に出歩けないことは、前にも増して厳しくなった。仮に外出できたとしても何も無いところだし、だいいち寒くて仕方がない。

 そんなある日、哲夫達が仮設テントに案内されると、将校らしき背の高い男が、疳高い朝鮮語で何か言ってから、テーブルの上に色々と並べ出した。初め哲夫ら三人は、それを昔使われた資料かと思った。底に鋲の打った編上げ靴。杖のように長いピッケル。耳当ての付いた毛皮の帽子。重そうなメルトンの軍服とコート。ザックの代りに背納である。明治の雪中行軍か、戦前の登山者と何ら変わるところがない装備である。智美の通訳によると、どうやら我々の登山装備のようである。横瀬がそれを聞いていきなり笑い出した。相手の将校は一瞬怯んだ様子を見せたが、鋭く何かを言うと、側に居た兵隊に横瀬を取り押さえさせた。横瀬は馬鹿力でそれを振り解くと大声を出した。

「貴様等!我々を誰だと心得る。恐れ多くも、偉大なる『金正日閣下』より御招聘にあずかった賓客であるぞ。その客人に対して、このような前世紀の格好をして山に登れとでも言うのか!」

 横瀬が芝居掛かった物言いをするので、白鳥が笑いをこらえながら思わず言った。

「水戸黄門の助さんみたい。だけど、あの人には通じていないわよ」

 しかし、キム・ジョンイルという『音』は解ったらしく、急に態度に威圧的な所が消えて、丁重に説明を始めた。横瀬はそれも両手を振って遮った。そして智美に「ゴニョゴニョ」と何かを言った。智美はそれを将校氏に通訳する。「我々宛の荷が届いている筈なので、それを持ってこい」と言っているらしい。しばらく寒い中を待っていると、兵隊が木の枠に梱包された大きな箱を運んできた。

 横瀬は「開けてみろ」と偉そうに言う。兵隊はその素振りで分かったらしく、バールのような道具で梱包を解いた。ダンボール箱が幾つか姿を見せ、中を開けると、カラフルな最新装備が次々と出てきた。カーブのついたメタルシャフトのアイスアックス、氷壁用アイゼン、ヘルメット、ゴーグル、手袋とスパッツ、遠征用の極地ウェア、プラブーツ、アイスピトンにフィックスロープと確保用ザイルが数セット、登攀具にはユマールも入っている。いくらでも出る。調理用具にフリーズドライの食料、大型ザックに厳冬用シュラフ。仮設テント内は、まるで山用品の展示会場の有様となった。これに酸素ボンベでもあれば、ヒマラヤ八千米級にも行けそうだ。

 哲夫と智美は、目を丸くしてそれを見た。もっと驚いているのは北朝鮮兵士達である。海外登山隊など、ここ十年来受け入れていないこの国の兵士にとって、初めて目にする物ばかりである。

 将校氏が夢から覚めたような表情をして、嬌声を上げながら荷物の前に来たかと思うと、片手を遮断機のように広げ、もう片方は腰のトカレフを抜いて銃口を横瀬に向けた。後ろに控える兵士は、AK47カラシニコフ突撃銃をガチャリと構える。共に旧式のソ連製銃器だが、引き金を引けば弾が飛んでくる。横瀬がいくら威張ったところで、飛び道具には適わない。拳に力を込めて睨み返すが、さすがの横瀬も動くことすら出来ずにいる。智美は哲夫の腕にしがみついて震えている。哲夫は呆然とそれを見守ることしかできない。白鳥は素早く哲夫の陰に隠れた。

 結局、装備は没収となった。


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