六
あのあと哲夫は、横瀬と白鳥を相手に長々と論争をした。結果、決裂寸前になるころに、横瀬が折れた様子を見せながら切り札を出した。
「ドクター。強引な手を使ったのは済まなかった。だが俺たちは、あんたを単独で『北』に行かせるのは危険だと判断したんだ。真行寺には悪いが、語学に堪能な彼女と三人で護衛する積もりだったのさ」と本心を明かした。すると白鳥が後を続けた。
「黙ってたって、あの国の工作員が貴方を連れ去りに来るのは分かりきっているわ。そうなれば状況はもっと大変な事になるでしょ。だからそうなる前に、むしろこちらから招待に応じる格好で、みんなで乗り込んだ方が安全なのよ」
その言葉を信じた哲夫は、それを受け入れざるを得ず、仲間の温かな友情と心強さに目頭を熱くしたのだった。
そうと決まれば、準備が大変である。ハワイに行くのとは訳が違う。公式な国交は無く、手持ちのパスポートでは渡ることのできない国である。特別な入国の許可を得るには、いろいろと面倒な申請をしなければならない。そこは、横瀬がどういうコネを使ったかは分からないものの、気の抜ける程すんなりと許可が下りた。だが急な事であり、会社から休暇をとるのに随分と手間取った為、苦肉の策で智美に頼み、漢方薬草の調査依頼をハングル文字の文書で捏造してもらい、例の封筒に入れて上層部に提出した結果、新薬の開発という名目で出張扱いとなった。しかし、あながち嘘とも言えない捏造である。そうして、家族には研究の為なので心配は掛けないからと説得し、際どい所でどうにか出発までにこぎつけることができたのだ。
いよいよ出国の日を迎えた七月の下旬、ようやく四人は羽田空港を飛び立った。
「しかし、思い切ったもんだねェ。あんなに奇麗な髪を」
哲夫が隣に座る智美のショートボブをつくづくと眺めながら言うと、後ろの席から横瀬が口をはさんだ。
「ドクター。つまらんオヤジギャグは止めたほうがいいぜ」
智美はその意味が分からず応える。
「私ね、白頭山のこと調べたのよ。そしたらね。むかし、マナスル登山隊が極地法の訓練に行った、すっごい山だって事がわかったの」
「それで思い切ったんだ。ふふ、そうか。うん、偉い!って言いたいが、今は夏だぜ。――しかも標高は、八ヶ岳の赤岳より百・ン十米も低いんだよ。まあ、緯度は襟裳岬と同じだから冬は確かに厳しいけど、とにかく今は日本の夏山と大して変わらないんだから・・・あれ?どうしたの」
智美はうなだれて、頻りと髪に手を触れている。そして「ぷい」と立ち上がり「席を交換して」と横瀬に八つ当たりした。
(あーぁ。またやっちまった)
「だ、だけど。短い髪の方が可愛くて好いよ。ハハハ、いや、ほんと」などと哲夫は言い訳をしたが、もう何を言っても駄目である。乙女心は、そう簡単にはいかないのである。哲夫の隣に席を移した横瀬は「だから言っただろ」とニヤニヤしながら知らん振りをしている。白鳥は「髪は女の命よねェ」などと、煽るような言葉を吐いてうそぶいている。智美は白鳥の肩に顔を伏せて泣き出した。哲夫は先行きが思いやられた。
東京には夏空が戻ってきたものの、新潟の港はまだ霧雨に煙っていた。
哲夫らは、在日の人達に混ざって桟橋を渡る。万景峰号に乗船し、元山までの航海の人となる。そして陸路、平壤に向かうのだ。
かつてはこの方法と、一度北京に飛んで、更に空路で平壤に入るか特急列車で国境を越えるかだったが、今は名古屋か新潟の空港から直接平壤に飛ぶ事もできる。が、いずれにしても、ビザが下りるには余程の理由がない限り無理である。
だが何故か相手は、わざわざ時間の掛かる船便を指定してきた。そして平壤で二三日滞在してから、平壤空港発の特別機で三池淵飛行場に着き、そこから白頭山に向かう予定である。旅を堪能して欲しいとでも言うのだろうか。
それにしても、手紙に国賓級の扱いと記されていたわりには、大したキャビンではなかった。これでも一等より上の特等らしい。セミダブルのベッドがツインで並んでいる。普通は寝台列車のような二段ベッドの狭い部屋で、二等はジュータン床で雑魚寝になる。もともと豪華客船ではなく、軍事用の対潜ソナーを装備し、有事となれば武器を積んだ哨戒艦にもなる特殊な貨客船だから仕方がない。それは良いのだが、エアコンにドライ機能がないのか、或いは故障しているのか、矢鱈と寒い。止めれば高い湿度が不快である。
「これを使いなよ」
姿の見えなかった白鳥がいつの間にか戻ってきて、皆に毛布を配った。
「何処からくすねてきた」と訊けば、二等船室の床に積んであったのを黙って持ってきたと言う。湿っているのかシットリと重く、何となく変な臭いもするが、寒いよりは増しだ。哲夫はそれを智美の肩に掛けてやった。智美はようやく機嫌を直した目を向けた。
新潟港まで迎えにきた北朝鮮当局の案内員は、友好的な顔つきで話しかけてきたが「船内といえども、日本人が勝手にうろつくことは許されていない」と厳しいことを言っていた。
白鳥は「一度着たいと思っていたの」とチマ・チョゴリに変装しているので、咎められなかったらしい。化粧も普段より薄くしている。しかも妙に似合っている。美女軍団にスカウトされてもおかしくない程妖艶である。だが旅券の性別までは変えられない。哲夫は、入国審査官の驚く顔を想像すると、可笑しくてならなかった。
しかし、入国してからの事を思いやると、不安は募るばかりである。相手の狙いは解っている。智美や横瀬達には関係ないことなのに、最悪となれば、全員が二度と日本の土を踏めなくなるかもしれない。すでに船は岸を離れてしまった。明後日の昼には元山に着くのだ。もう引き返すことはできない。哲夫は、やはり単独で来ればよかったと思い始めていた。
白鳥は、また何か言いながら部屋に入ってきた。缶ビールを腕に抱え切れないほど抱えている。
「売店で買ってきたの。先は長いんだから、飲みましょうよ」
それを見た横瀬は、歓声を挙げると、いそいそと鞄から乾き物を取り出してきた。この人達は、観光旅行のつもりでいるらしい。哲夫は益々気持ちが滅入って来る。が、考えても仕方がない。
「どうにでもなれ」と、哲夫も自棄気味に銀色の缶を掴んだ。
その夜は、男二人が隣り合わせのベッドで、何事もなく朝を迎えた。何事もなかったが、横瀬のいびきは尋常では無かった。故に、哲夫は少々寝不足気味である。
招待した相手は、哲夫達が男三人と女一人であるとは思わず、わざわざツインのキャビンを二部屋用意していた。哲夫にとって、それはそれで特に異議は無かった。白鳥は既に女性に成りきっていたし、智美は、白鳥がそう言う人種であるとは、夢にも思っていないのであるから。
しかし、二晩目に事情が変わった。夕食を終えて、甲板に涼みに出た哲夫が、暗い海を引き裂いて進む舳の波を見ていると、いつのまにか智美が隣に並んでいた。哲夫が驚いて顔を向けたとき、智美は両手をメガフォンにして背伸びをすると、「あの二人。何だか危ないわ」と言った。
その時、突然後ろの方から、案内員の咎めるような日本語が聞こえたので、智美は哲夫の耳に当てた両手を、慌ててその首に巻きつけた。そうして頬と頬を摺り合わせるように密着した。
「ななな!」
哲夫が驚いて身を固くすると、智美は「そのまま私を抱いて」と耳元にささやいた。哲夫は言われるままに、智美の背中に腕を回して抱きしめた。二人がしばらくそうしていると、案内員は「我々の国では考えられないことだ」と、ぶつぶつ言いながらその場を去っていった。
彼が離れて行くと、智美はその腕を解いて言った。
「ごめんなさい。あの人に聞かれると困ると思ったから・・」
(いや、もう少しあのままで居たかったのに)と喉から出そうになる文言を飲み込んで、まだ鼓動の治まらない哲夫は「一体何があったんだ?」と言葉を変えた。これが夜でなかったら、互いの顔が赤いのに気づいただろう。
案内員と白鳥が廊下でひそひそ話しをしているのを、智美が偶然耳にしたところによると、白鳥ら二人は、我々を監視するために北朝鮮側に雇われたらしく、横瀬の『連れてくるだけを頼まれた』と言うのは方便で、それ以上の事を取り引きしているようだと言う。話しの中に『エス』が、とか『エス』をとか、しきりに『S』という頭文字だか隠語だかが使われていたと言う。
「人名であれば「真行寺」の『S』で智美という事になる。だとすると、どうしようというのだろうか」
智美を見ながら首をひねってみたが、哲夫には彼らの狙いは解らなかった。しかし、警戒するに越したことはない。智美も「怖くなってきた」と言っている。哲夫は智美に部屋を代わるように言った。
翌朝、智美の綺麗な目は赤くなっていた。昨夜は余り眠れなかったのだろう。そのことを言うと、一つの部屋に男性と二人だけで寝るのは、やはり抵抗があると答えた。哲夫は「白鳥だって男だぜ」と言おうとしたが(智美は知らないのだから)と、こう言った。
「山では平気なのに、海では駄目か」
「山だってどこだって同じよ。こないだの山小屋の時も殆ど眠れなかったんだから」
智美はそう答えると、化粧ポーチを手に洗面所に立って行った。
「信用無いんだなぁ。俺が、何か悪さをするとでも思ったのかぁ」
哲夫が首を伸ばして洗面所のドアに向かって言った時、部屋の扉が少し開いて横瀬が顔を覗かせた。
「ゆうべは前の晩より、船の揺れが激しかったな」
横瀬は小声でそう言うと、卑猥な笑いを浮かべながら中に入ってきた。哲夫は人差し指を口に当て、歯を剥き出して首を横に振った。そして(昨夜、横瀬に変な冗談を言わなければよかった)と、後悔した。
昼近く、船は元山に接岸された。心配していた細かな入国審査は、国賓扱いと言うことか、ごく簡単にしか行なわれなかった。恐らく、事前に入念な調査が行われていたに違いない。白鳥も無事入国した。楽団の鳴り響く大袈裟な歓迎式に迎えられた後、二台の高級車に乗せられた四人は、高速道を平壤に向かった。
高速道路とは名ばかりの、路面はことごとく荒れていて、継ぎ目では天井に頭が当たるほどだった。ガードレールすらない。車窓の両側には田園風景とは程遠い、緑の少ない畑がどこまでも続いている。
「あの人達、変に思わなかったかしら」
智美は、前の席の案内員に聞かれないよう、哲夫の耳元に唇を寄せてきた。
「俺達二人が同じ車に乗ったから?」
「そうじゃなくて、ゆうべの事」
哲夫は智美の息を感じながら、片手を口に当ててささやいた。
「急に俺の部屋に移りたいと言ったからか」
目だけはフロントガラスに向けている。荒れた路面が心配でならない。
「ええ。それもだけど。一応私たち男と女でしょ。夫婦でもないし恋人でもないのに」
智美の口調は、幾分後悔しているようにも聞こえる。
「その点は大丈夫だ」
「なんで?」
「なに。横瀬には、君のことを俺の愛人だと言っておいたから」
「ええ!冗談でしょう。ちっともだいじょうぶじゃないわよぅ」
智美がそう言ったとき、車は大きく跳ねて哲夫のひざに倒れかかる。哲夫が抱き止める。時間が止まる。無言のまま見つめ合う。
「・・・・・」
智美は跳ねるように起き上がった。その様子に哲夫は声を上げて笑う。昨日とは別の案内員が、助手席から不思議そうな横顔を向けると、智美は顔を赤くして背筋を伸ばした。
「横瀬達は本気にしているようだし、これで君にちょっかい出さなくなるから好いじゃないか」
哲夫が駄目押しを言うと、智美は口を訊かなくなった。