五
月が替わり、六月の半ばになると、列島の南岸を北東気流がなぞるようになった。
三日と開けずによく降る。哲夫が勤めから帰宅して、濡れたレインコートを玄関の帽子掛けに吊るしているとき、お帰りも言わずに「外国からの手紙よ」と、娘が封筒を手渡した。見ると、成程、住所も自分の名も英字で印字されている。だが、差出人の名に記憶は無い。
不審に思いながら食卓に着いて封を切ってみると、数枚の便箋にハングル文字がびっしりと並んでいた。
「何だぁこりゃ」と、素っ頓狂な声をあげて、何かの間違いじゃないのかと、もう一度宛て名を見るが、間違いなく自分に来た手紙である。しかし、朝鮮半島に知り合いは居ない。朝鮮の言葉など、およそ珍ぷん漢ぷんである。娘が興味を寄せて覗き込んできた。
「おまえ読めるか?」
哲夫がからかうように訊くと、中学で英話を習い始めた娘は、西洋人がする身振りをして答えた。
「ノットアトオール ぜーんじぇん、わっかりましぇーん」
哲夫は(訊くんじゃなかった)といった顔をして、便箋に眼を戻すと、また首をひねった。その時、哲夫の頭の中に『ピンポーン』と電灯が点った。
(確か智美は、大学で韓国語を専攻していた。弁論大会でも賞を取るほどに精通していると聞いていた。次の定例会の時に、これを訳してもらおう)
哲夫は、智美に接触できるきっかけを得たことに、思わず「ムヒヒ」と不気味な笑いを浮かべた。娘は「キモッ」と言って居なくなった。妻は変な顔をして「どうしたの」と、湯気の立つ椀を手元に置いた。我に返った哲夫は「たぶん何かの間違えだから、明日会社の人間に訊いてみる」と、やり過ごし、熱い味噌汁をすすった。
しかし、何れにしても不可解な手紙であることに変わりはない。
定例会の晩も雨だった。
「おい。最近、つき合い悪いじゃないか」
別れ際、今回も二次会に参加しない哲夫に、詐欺師の会長はコウモリ傘から不平顔を覗かせた。
「あら、珍しいわね。貴方が飲みに行かないなんて」
前回欠席していて事情を知らない会計のおばさんが、水溜まりを避けながら哲夫の後を付いて来る。風邪が治っていないのか、おばさんも飲みに行かないようだ。二三歩先を智美の赤い傘が行く。この状況を、哲夫は(困ったな)と思った。
駅に近づく頃、智美はちょっと振り向いて、哲夫のシャツの胸ポケットに「これ」と言って何かを差し込むと、早足で先に行ってしまった。哲夫は、おばさんに気づかれないように、その紙片を手に取って見た。この前待ち合わせしたハンバーガーショップの割引券である。哲夫の頭の上に『?』マークが飛び交う。
しばらくして「そうか!」と哲夫は大声を上げた。
「え?」
今度は、おばさんの頭に『?』が三つほど浮かんでいる。
「あ、あの俺、ちょっと用事思い出したんで」
哲夫は、駅と反対側に足を向けて駆け出した。回り道をしてその店に向かうのだ。息を切らしてそこに着くと、明るい看板が濡れた歩道を照らし、智美の傘が一際赤く光っていた。
「意外と、感が良いのね」
智美は傘を傾けて見上げた。哲夫は、息の整うのを待ちながら、智美の微笑みに新たな鼓動が起きるのだった。
「君こそ。どうして用があるって分かったんだ?――もしかしてテレパシーなのかな」
「まさか。――滝川さんが大好きな飲み会に行かないので、多分そうじゃないかと思ったのよ・・・なんて言うのはウソ。――本当は、こないだご馳走になったから、今日はそのお返しをしようと思っていたの」
智美はそう言うと、何とも言えない笑顔を見せた。哲夫は、だらしなく顔を崩して赤い看板の店に入ろうとした。
「ちょっと、どこ行くの?」
「ここじゃないのか?割引券の」
智美は「プッ」と吹き出し「いくらなんでも」と笑いながら眉間にしわを寄せて言った。
「もう少し美味しいものをおごらせて」
哲夫は斜向かいにある小洒落たイタメシ屋に案内された。
「今日はワインを飲まないの?」
哲夫はジンジャエールを注文した智美に訊いた。
「こないだで懲りたわ。やっぱりお酒は向いてないみたい。それより、素敵な絵をありがとう。お礼言うの忘れててごめんなさい」
「いいんだよそんなこと。返って迷惑だったんじゃないかと思ってたくらいだから・・・。そのかわりと言っちゃ何だけど、ちょっと頼みたいことがあるんだ」
食事を終えてコーヒーがテーブルに運ばれた時、哲夫は鞄から縁どりのあるエアメールの封筒を智美の前に差し出した。智美は「何?これ」と言って、それを手にとった。
哲夫は、何処から何の目的で、日本語でもなく英語でもなく、わざわざ自分には解らないハングル文字で差し出されてきたのか、そしてその中身は何なのか、不思議に思っていることを話し「それを翻訳してくれないかな」と頼んだ。
智美は、その封筒の表を見た途端、自分でも顔色の変わるのが分かるほどの衝撃が起きた。だが、薄暗い店内では哲夫に気づかれる事はなかった。貼ってある切手の絵は、金日成主席の肖像である。北朝鮮最高権力者『金正日』の父の肖像である。智美は、何故その切手の図案にショックを受けたのか解らないまま、嫌な予感を感じながら便箋を取り出して、その内容を検証した。
智美の顔色は益々蒼くなる。ここに記されている意味をそのまま、目の前にいる誠実な人に伝えるべきか迷う内容である。でも、これはその人に来た手紙であり、朝鮮語を解せる人間はいくらでも居る。曲げて伝えることは出来ない。智美は正直に翻訳した。
その概略はこうだった。
『貴殿の研究の成果は、民間個人の研究とはいえ、我が共和国を中心とする東アジアにとって、西側諸国のノーベル賞に値するものである。だが惜しいことに、貴殿の研究は、未だ最終段階に至っていない中途過程にある。また、肝心の生物資料に至っては、貴国の山野から採集するにおいて、偶然に頼らねばならないこと甚だしい。幸い、我が朝鮮民主主義人民共和国の誇る白頭山には、貴殿の研究対象とするサンプルが、無尽蔵と言えるほど豊富に自生するという確認を得ている。ついては、我が共和国において、貴殿を国賓として招聘し、最大限の研究費を供せる用意がある。それを踏まえて、この度白頭山調査隊を編するに当り、是非とも貴殿に参加を願いたい』
『と言うのがこの書簡の主旨である。詳細については追って連絡が届くであろう。朝日両国人民に幸あらん事を願う』
『朝鮮民主主義人民共和国中央人民委員会経済政策委員長』
「知らない単語も幾つかあるけど、ざっとこんな感じなんだけど。――何だか凄いことが書いてあるわね。一体どういう事なのかしら。それにペクト山ってどこに在るの?――そこに行けばあのキノコが沢山あるっていうの?滝川さんの研究って本当は何なの?ノーベル賞位凄いことなの?」
「ちょっと黙っててくれないか・・・あ、ごめん。翻訳ありがとう。つい興奮してしまったようだ。真行寺君、これは大変な事だよ。何処からどうやって北朝鮮に情報が流れたのか知らないが、今でもあの国からは大量の覚醒剤が密輸入されている。余程外貨が不足しているのだろうけど、今にも増して不幸を輸入することになってしまう。それも最大級の不幸を。かつて英国が輸入代価として中国に払った阿片よりも、もっと重大な結果を招くかも知れない」
「ええ?何のこと。あのキノコが不幸を招くの?」
「いや。君には関係の無いことだ。その手紙の事も忘れるんだ。絶対にそのことを誰かに喋ってはいけない。いいね!今日はもう帰ったほうがいい」
哲夫は智美に訳してもらったことを後悔した。悪くすれば、彼女を巻き込みかねない事態になる。相手は、国をあげて自分を捕捉するかも知れない。今の時点では、警察も政府も真面に取り合わないだろう。それよりも、研究の内容を隠していたことに嫌疑がかけられる恐れがある。会社にも家族にも迷惑をかけてしまう。相手が危害を加えないと言うのならば、白頭山の調査にも捨て難い魅力が有る。だが、例の成分を精製する方法を相手に知られてはそれこそ大変な事になる。哲夫は、どうして良いのか分からなくなってきた。事が、余りにも重大すぎるのだ。
不安を感じた哲夫は、店の前に止まっていたタクシーに智美を乗せ、自分も横に座ると「家まで送って行こう」と言った。だが、二人を乗せたその車は、目的地と違う方向に走って行った。
智美が窓の外を見ていた顔を哲夫に向けて「何か変よ」と言った。哲夫は「何が?」と智美を見る。智美は道が違うと答える。哲夫は顔色を変えた。
「ねえ運転手さん。何だか行き先が違うみたいなんだけどな」
哲夫は、身を前に乗り出して言った。その時、車はタイヤに悲鳴を上げて停止した。その拍子を受けて、腰を浮かせていた哲夫は、危うく前のシートまで飛ばされそうになった。哲夫は腹が立って、大きな声を上げようとすると、自動ドアが開いて若い女が乗ってきた。
「あぁくたびれた・・・。もう少し詰めてくれないかしら。――タ・キ・ガ・ワさん」
「ん??!」
前の背もたれを掴んだまま、変な格好をしていた哲夫は、自分の名を呼ばれたので驚いて振り向いた。智美も口を開けて目を丸くしている。
薄暗いルームライトに現れたのは、なんと山岳会員のニューハーフ嬢だった。名は『白鳥礼子』という。が、本名は分からない。
「待たせたな、白鳥」
今度は、ルームミラーから鋭い眼を向けた運転手が、聞き覚えのある野太い声で言う。哲夫と智美は思わず目と目を合わせた。この声は山仲間の取り立て屋だ。名は『横瀬兼男』という。余りにも出来すぎの名である。
実のところ、馬鹿馬鹿しい事に、彼の職業はその名前から想像されたのである。だから本当の素性を知るものは誰も居ない。しかし、ただ者でないことは確かだった。山から下りて温泉に入る度、隆々とした背中に彫られた倶梨伽羅紋紋を何度も見せつけられている。
その横瀬が、振り向いてニヤリと笑った。横瀬と白鳥が言うことに、二人にも怪文書が届いたらしい。
「これよ」と、白鳥はその手紙を寄越した。こちらは何故か日本語である。哲夫の文書がわざわざハングル文字であったのは、智美に何か関係があるのだろうか。
彼らが受け取った手紙の内容は『滝川を白頭山に連れてくる条件で、その調査隊に招待する。しかも、それ相当の謝礼も付ける』というものらしい。欲も手伝い、山好きの彼らにとっては堪らないだろう。
「それにしても、随分と手の混んだ事をするな」
哲夫はルームミラーを睨みつけた。
「山の会で喋れる内容じゃないし、この方が四人で集まるのに自然だと思ってな」
横瀬は薄笑いの目を返す。
(どこが自然であるものか)と哲夫は呆れたが、この際どうでもいいことだ。それよりも、北朝鮮側の余りの手回しの良さに唖然とするばかりだ。
しかし哲夫は「関係のない真行寺は巻き込むな」と強く主張した。それに対し「信用できるかどうか分からない相手なので、朝鮮語に堪能な人間が我々には必要だ」と横瀬は言う。困ったことに、いつしか智美もそのつもりになっている。「白頭山のキノコが見たい」と言っている。哲夫は尚も「俺が行かないと言ったらどうする」と言うと、横瀬は真顔になって振り返り「このまま拉致するしかない」と、ウインドにロックを掛けた。