四
その月、智美はメンタルクリニックを休んだ。治療の日は定例会の翌日だった。飲めないのに滝川と食事をした時のワインが美味しかったので、翌朝になって応えてきた事もその理由だった。
気がつくと部屋の隅に茶色の紙袋がある。そういえば滝川が自分にくれたものである。中身の新聞紙に包んだ四角な板を取り出してみると、紅の花弁の中に立つ婦人の絵だった。
裏に返してみたところ『Tomomi of Cherry』と、走り書きの文字がある。なんと、我が身の肖像だった。
「あの時、私こんな恰好していなかったのに」と、思わずつぶやいた。
(髪は三つ編みじゃないし、チェックの赤いシャツも着てない。下は確かベージュのコットンパンツだった)そう思いながら、智美はキャンバスを表に戻し、その絵を改めて鑑賞する。
低い位置から見上げたアングルのそれは、早春の空気感溢れる淡い色彩の空を背景にして、クリーム系のワンピースにライラック色のカーディガンを肩に羽おっている。その裾が風にそよぎ、ウェーブの髪が陽光に輝いている。足元には若草の幼い緑が丘に萌えている。そして中央の人物を丸く囲むように、画面の端から細かな緋色の花びらが舞い散っている。
智美は、どこかモネの『日傘の女』を思わせる印象を受けたが、部屋に飾ってあるミレイより明るさがあって良いかも知れないとも思った。
好きな絵の一つである『オフィーリア』の色彩は確かに美しいのだが、どこか陰欝さがある。それに比べて、余り上手ではないのかも知れないが、色調を淡く暈して滲んだ様に仕上げているので、水彩画のような優しさがある。
今の自分の心に宿る陰を取り払うが如く、智美はそれをオフィーリアの複製と掛け替えた。そうして、白い壁面に出現したやわらかな色を眺めていると、ふと昨夜の滝川の顔が浮かんできた。
(あの人は自分の質問に、真剣な眼をして答えていた。言葉の一つ一つに、何処となく懐かしい響きがあった。その時の自分は、今思うと、心が安らいでいたような気がする。やはり近頃の不安は、父を亡くしたせいなのだろうか)
智美は、そんなことを考えているうち、催眠療法に行く気が失せていった。
だが、一週間も経たないうち『治療の継続をするように』と、こころの研究所から通知が届いた。契約条件の、ややこしい事にも触れていた。
滝川の絵を見ていると少しは気が安らぐのだが、まだ時々不安定な気持ちが顔を出すこともあるし、家の中は相変わらず父の会社の親族が出入りしてゴタゴタと静まらなかった。それを思い返した智美は、指定された日に三度目の治療を受けに行った。
いつものように催眠療法を受ける。滝川が問題のキノコを研究していることは、催眠時に全て報告させられていた。しかし本人はその事に自覚がない。さらに調べるように指令が出される。
今日は智美に例のキノコの実物を見せる約束の日だ。哲夫は(仕事はいい加減なところで切り上げて)と思っていたところ、何だかだと打ち合わせが入って、十五分近くの遅刻だった。
「やあ、待たせちゃってごめん」
「私も、今来たとこ」
「お、好いカメラだね」
「うん。時間に早すぎたから、あそこの店で見ているうち、何だか欲しくなっちゃって」
哲夫達は、定例会の二時間前に、あるハンバーガーショップで待ち合わせをしていた。研究者に有りがちな、歳の割には世間に疎い哲夫は、以前家族の買い物に付き合わされては寄っていたその店しか取り敢えず浮かばなかったので、やむを得ずそこを指定したのだった。智美は「そんな所より」と、流行りのコーヒーチェーン店を候補に挙げたが、哲夫が珍ぷん漢ぷんなので、結局そこに落ち着いたである。
智美は、新しいカメラを買ったようで、使い方が呑み込めず頻りに説明書を見ていた。哲夫は、ポケットからハンカチを取り出して額の汗を拭くと、しばらく智美とカメラを代わる代わる見ていたが、自分の機種とメーカーが同じである事に気づいて「貸してご覧」と言うと、手にとって操作の仕方を教授した。
それから智美は、あれこれとカメラをいじくり回していたが、いきなり顔を上げて「試しに撮るわね」と言ったかと思うと、哲夫にレンズを向けてストロボを焚いた。哲夫は、恥ずかしそうにしながらも、条件反射という悲しい性で、両手にVサインを作っている。突然の光に、周りの客は一斉にこちらに眼を向ける。
「わわわ」と、哲夫は慌てて居住まいを正した。
それから少しの間、二人は春山以来の互いの消息について語り合った。そして約束の事に話しが落ちた。
「これがこないだ話したキノコだよ」
哲夫は、小さなジュラルミンケースから、サンプルを取り出してみせた。智美は、異常とも思える興味を持ってそれを観察した。そして、哲夫が何もオーダーしていない事に気づいて階下に降りて行ったとき、智美は急いで手袋をはめると、用意した黒い紙の上にサンプルを取り出してカメラに納めた。智美にとって、その行動は無意識の中で起っているので、特に異常とは思わなかった。ただ、そうせずにはいられなかったのだ。
「ねえ。今度このキノコが生えていたとこに連れてってくれない」
智美は、席に戻った哲夫にねだった。哲夫は少し躊躇したが、今はこの種の生える時期ではないのでそれを引き受けた。
だが『会員同士や個人的山行であっても、事前に登山届けを提出しなければならない』という会則がある。しかし、届けを出せば他の会員も参加しかねないので、智美に念を押した。
「連れて行くのはいいけど、無届けで行くんだから、今夜の定例会で喋っちゃ駄目だよ」
定例会の集合時刻が来るまでの間、二人は計画の概要と登山装備などについて話し合った。今日も哲夫は、智美が時々見せる不安な表情について聞くタイミングを失った。
それから二週間の後、哲夫は約束通り智美を連れて上越の山に向かった。ゴールデンウィーク過ぎからしばらく天気の崩れはなかったが、梅雨の走りとでも言うのか、その日に限って空は霧のように細かく煙っていた。しかし、こんな天候にも関わらず、智美は元気に後を着いてくる。
「少し休もうか?」
「大丈夫。――早くそこに行きたいの」
「早くったって、まだまだ先は長いんだからバテるぜ。一息入れよう」
哲夫は、妙に焦る智美を制止した。そうして、テルモスの熱い紅茶をキャップに注いで智美に手渡すと、煙草に火を点けて空を恨めしそうに仰いだ。折角の智美との山行が、この天気では半減である。幸い、彼女は思ったより喜んでいるようだ。
それにしても、哲夫には気にかかることがあった。あんなにキノコに興味があるのかと思えば、その辺に生えている普通の種類には眼もくれない様子である。何で例のキノコにだけ、ああして異常な興味を寄せるのだろうか。彼女の受けている引力は、自分ではなく、何処か他の所にあるように思えてならない。哲夫は、目に見えない何者かに、嫉妬のようなものを感じた。
モヤに霞んだブナ林を抜けると、いくらか明るくなってきた。遠い西の空に、染みのような茜色が見えている。雨も何時しか上がったようだ。どうやら雨雲の上に出たらしい。五月も末だと言うのに、谷筋にはびっしりと残雪が付いて雪渓をなしている。ひんやりと冷たい風が濡れた頬を撫で、コブシに似たタムシバの白い花から水滴が落ちる。レインウェアで蒸れた体には心地よかったが、じきに汗が冷えてきた。そこから道は少し下りになって、モヤの先に避難小屋が見えてきた。二人は露に濡れた夏草を避けながら其処に下って行った。
明り取りの無い避難小屋は、扉を開けると黴臭く澱んだ空気が鼻をついたが、中に入ると風を避けられる分、いくらか暖かく感じた。ヘッドランプを点けて装備を解いてからポケットストーブを焚いた。湯の沸く間に、照明のロウソクに火を灯し食事の準備をする。そしてコーヒーを口にすると、哲夫は山に来た至福を感じる余裕が出てきた。コーヒーを受け取った智美は、何故か哲夫から離れた所に腰を掛けた。若い女性の防衛本能がそうさせているのか、哲夫はそれが可笑しくて思わず声に出して笑った。
「何がおかしいのよ」
智美は、カップを両手で包みながら、上目使いでそう言うと益々身を堅くした。ここが今夜の二人の宿だ。
レトルトの簡単な夕食を済ませ、しばし歓談をするが、智美の口数は少なく、直ぐに会話は途切れがちになる。智美はザックからシュラフを引っ張り出して、さっさと寝支度を始めた。どうもいつもの智美と様子が違う。やはり、狭い小屋の中で、二人きりでいる事がそうさせているのだろう。哲夫は仕方なく、ロウソクの揺らぐ炎を相手にホットウイスキーでくつろいだ。黄昏は夜へと移り行き、哲夫の体内に、ほんのりとアルコールが染みわたる。心持ちの良くなった哲夫は、ここぞとばかり智美に話しかけた。
「真行寺くん」
「え?」
「あのさ。前から訊いてみたいことがあったんだけど・・」
「なにを?」
「だから、その・・。何か悩みでもあるのかなと思って・・。ほら、時々すごく暗い顔をすることがあるよね」
「ええ?なんで?そんなこと無いと思うけど・・」
哲夫は、訊き方が直球過ぎたことに後悔しはじめた。
「そうかなぁ」哲夫は次の言葉が出てこない。
「滝川さんには、そんな風に見えるの?」
「いや。まあ、そんならいいんだ・・」
またしても、話しは途切れてしまった。
(訊き方が悪かったのか、俺の単なる勘違いだったのか。いっそ、勘違いであったほうが気が楽になる)哲夫はそう思うと、またロウソクを相手にカップを傾けた。
しばらく続いた沈黙のあと、哲夫は気まずい空気にならないうちに、シュラフの中からじっと灯火を見ている智美に声を掛けた。
「明日は早いから、もう寝たほうがいいぞ」
「だって、寒くて寝れないんだもん」
(自分こそ、いつ迄も飲んでないで寝たらいいのに)そう思いながら智美は情けない声で応える。
「もっと近くに来れば?――君も少し飲めば好いのに。あったまるよ」
湯気の立ち昇るストーブの近くに行きたいのは山々だし、飲みたくても体質的に飲めない智美には、嫌な響きの言葉だ。
(そういうところが無神経っていうのよ)智美はぷいと壁のほうを向いてしまった。そうして、小屋の中の音といえば、ストーブと木々を揺らす風の音だけになった。哲夫はお湯の少なくなったコッヘルに水筒の水を足した。静かに夜は更けてゆく。
寝入りばなに何かの気配を感じた智美は、薄眼を開けて見ると滝川が覗き込んでいた。
「えッ!なに?」
智美は驚いて半身を起こそうとした。
「まだ寒いか?これを足許に当てると好いよ」
哲夫は、湯を詰めたアルミの水筒をタオルに包んで、智美に手渡した。
受け取った手にその温もりが伝わる。智美は、その温かさに彼の心の優しさを感じるのだった。そして、滝川に対する『ムシンケイ』の五文字を、取り消さなければならなかった。
翌日、例のキノコが自生していた岩穴に来てみると、そこには去年の落ち葉が折り重なり、うっすらと霜を被っているだけだった。智美は乱暴に落ち葉を取り除くが、出てきたのは逃げ惑う小さな虫達だった。
「雪の降る時期にしか出てこないんだよ」
智美はがっかりした様子で、しばらくそこにしゃがみこんでいたが、怒ったような顔を上げて言った。
「冬になったらまた来るわ」
「無理だよ。この辺りは豪雪地だから、雪山の経験が無いと――だいいち、またここに生えてくる保証もないんだから」
「初めからそう言ってくれればいいのにぃ」
智美の声は今にも泣き出しそうだ。哲夫は(その場所を見てみたいと言うから連れてきただけだ)と言おうとしたが、それを言うと本当に泣き出すかも知れない。
「雪山訓練を二三度受けたら、また連れて来てあげるよ」
そう言って、哲夫は隣にしゃがむとその肩に手を置き「帰ろう」と言った。




