三
端午の飾りが立ち始める頃、智美は二度目のカウンセリングを受けた。モニター契約をしたからには、途中で止めることはできない。できないが、衰弱した精神に回復の兆しがあることは確かだった。
その代わり、引き続き催眠中に次の指令が出る。
『目標への接近は成功した。彼は自然科学の趣味を持ち、特殊な研究を行っている。その研究の内容を調査するのが、我々にとって最も重要な任務である。速やかに調査報告せよ』
智美は、何も疑う事はなく行動に移った。智美は滝川に対して更に接近するため、翌日から図書館に入り浸り、博物館にも足を伸ばした。そして彼の好みそうな凡ゆる事柄をノートに記した。
*
哲夫は、子供の頃から自然科学に対して何にでも興味の目を向ける科学少年で、それは大人になった今も変わりはなかった。近頃は菌糸類、つまりキノコに興味を寄せている。キノコには、まだ解明されない事が数多く残されているからだ。山に登るのも自然科学が好きだからで、観察のしにくい雨の日や、対象物の少ない雪山には余り足を向けなかった。しかし、去年の雪山で希少な発見をしたのである。低温のなかでも繁殖する、いや、低温でしか繁殖することが出来ない菌糸を見つけたのである。早速持ち帰って、こっそり会社の研究室で調べた結果、大変なことが解った。
それは毒キノコであったが、その成分の中に、エフェドリンとエルゴバシンが含有されているのが解かった。エフェドリンとはマオウ科の麻黄から抽出される咳止めの漢方薬だが、加工精製されると『アンフェタミン』ができる。エルゴバシンはイネ科植物に付く麦角菌のアルカロイドに含まれ『リゼルギン酸』に変化する。アンフェタミンとは、覚醒剤の事であり、リゼルギン酸は幻覚剤のLSDである。
日本の原野に自生する普通の毒キノコにも、幻覚などを引き起こす神経系のプシロシビンという毒を持つ種類や、古代ヒンズー教の信仰対象にもなった『ソーマ』と呼ばれるベニテングダケ等幾つかあるが、全く比較にならない毒物である。無論そのままでは、大量に食さない限り、死に至る程のものではない。だが、培養して精製すれば、今までにない最強の麻薬になる危険な物質であることに変わりはない。
哲夫は恐ろしくなって、鍵のかかる小型冷蔵庫を購入すると、壜に詰めたサンプルを、その奥深くに仕舞い込んでしまった。学会に発表できる程の大発見ではあったが、人類にとって重大な不幸を招くかも知れないそれを、世に出すのが怖かったのだ。
しかし最悪の毒は、精製の仕方によって最良の薬にもなり得る。それが人類の求める薬学の使命でもある。薬学に携わる哲夫は、自分の胸に仕舞っておけず、大学病院に勤める麻酔科の友人にそれとなく漏らしてしまった。気の置けない友なので、つい口が滑ってしまったのだ。無論「ここだけの話しだぞ」と、ことわった上の事ではあったのだが『ここだけの話し』程いい加減なものはない。それがどういう経路で、どういう組織に伝わったかは、今は解からない。
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哲夫は、久しぶりに山岳会の定例会に顔を出した。通勤鞄の他に大きな紙袋をさげている。
「何だ、珍しいじゃないか。最近ちっとも顔を見せないから、みんな心配してたんだぜ」
詐欺師の会長から声がかかる。
「近頃変な風邪が流行っているから、お医者さんは忙しいのよきっと」
自称モデルのニューハーフ嬢が代わりに答えた。取り立て屋はニコニコとしていて、いつもと変わらない面子が揃っている。会計のおばさんの顔が見えないので訊ねると、このところ流行りの風邪を引いているらしい。奥に目を遣ると、端の方に智美が座っているのが見えた。目が合うと、彼女は体をずらして哲夫の座る場所を作ってくれた。哲夫は申し訳なさそうな顔をしながら智美の隣に腰を降ろした。
若い男性会員達から「なんでドクターなんだよ」というような嫉妬の視線が向けられる。智美は男性会員にとって、マドンナ的な存在になっていた。そのマドンナが、いつもドクターの傍にいるのが不可解であり余り面白くないようだ。その事を知っている哲夫は、彼等から誤解を受けないように、山の会では常に素知らぬ態度をとっていた。故に会員同士の平和は保たれている。
会報が配られた後、会長から連絡事項が読み上げられ、次に最近行った山の記録と感想が各々から報告される。それから次回の例会山行と個人山行予定の説明があり、参加希望者が決まると夫々のグループに別れ、登山届書をもとに装備の確認と細かい行動計画が練られる。そしてそれが済むと、いつもの通り席を変えて飲み会になる。
酒の好きな彼らの殆どが参加する二次会なのだが、その日の哲夫は残している仕事を理由にして、そのまま帰ることにした。飲めない智美は、大抵の場合その席を遠慮している。
結局、二人は駅までの帰り道を伴にした。きらめくネオンを映す都会の歩道にも、初夏の清々しい空気が流れている。
「なんで今日は、みんなと行かなかったの」
智美は前を向いたまま、肩を並べて歩く哲夫に聞いてきた。
「二次会か?」
「うん」
「これを渡したかったからさ。みんなの前だと誤解されるだろ」
哲夫は立ち止まると、大きな紙袋を持ち上げて智美を見る。
「なに?それ」
智美も止まって、紙袋と哲夫を代わる代わる見る。
「春に行った時の山の絵だけど、君に上げようと思ってね。――それより腹減ってないか」
「ペコペコ」
「おごるよ。何が食べたい?」
「おうちのほうはいいの?」
「今夜は山の会で遅くなるって言ってあるから」
哲夫は、絵を渡す事を口実に、智美に対する疑問をいろいろ聞いてみたかった。しかし、テーブルにスープが運ばれてきた時、聞いてきたのは智美の方だった。
智美は、このあいだの虫コブの話しから、滝川の趣味は植物や虫に関することではないかと推測して、分からないながらも、図書館や博物館などで身につけた予備知識で、いろいろと質問を用意していた。若い智美にとって、それらは化粧品や服飾と違い、決して興味あるものではなかったし、昨日今日知り合った二十歳も年上の男性に、好んで接近しようなど余程でない限り有り得なかった。それらの全ては、精神操作で組み込まれた自己暗示から来るものであったが、智美にはそう言う意識はない。人を好きになると、相手の好みが気になるし、その人の趣味に影響を受ける事がままある。マインドコントロールによって、実際はそうでなくとも、それと似た感覚が智美の感情を動かしているのだ。
だが哲夫は、そんなことを夢にも思わない。それどころか、純粋に相手の引力を感じ始めていた。しかしそれは、恋愛という生々しいものとは違う、何か別の感覚だった。(これこそが、以前友人の言っていた癒される対象なのかも知れない)と、思うようになった。そして興味を同じくする仲間を得た事を喜び、信じて疑う事はなかった。
哲夫は、彼女の質問疑問にことごとく答えた。そして、自然科学に関する知識の風呂敷を広げ、哲夫は有頂天になった。仕舞いには、例の希少種のキノコにまで話しが及んだ時「ステキ」と眼を輝かせた智美に、専門的な説明こそしなかったものの、何の警戒もなく採集の状況を聞かせたり、次に逢うときに実物を見せる約束までしたのだった。
智美は、第二の指令にも、手応えを確実にしていた。恐るべし、マインドコントロール。
だが、智美を操作するのは、そして、その指令は、一体誰が何の目的でしているのであろうか。






