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 このところ、哲夫は仕事が忙しく毎晩遅くなるので、休日は家で過ごすことが多かった。そういう時こそ山でリフレッシュしたいのだが、休みの前日も帰宅が遅いので、集合時刻の早いそれには中々参加できなかった。

 今日はその休日である。日が高くなる頃に起きて、キッチンに現れると、冷めたトーストとハムエッグがラップに包まれてテーブルの上に置き去りにされている。以前は二言三言のメッセージが添えてあり、文字の周りには娘の描いた可愛らしいイラストまで加えられていたのだが、彼女らも忙しいのかそれどころではないらしい。

 テレビのリモコンをものぐさに持ち上げてボタンを押すが、詰まらない番組ばかりで見る気も起こらない。哲夫は、新聞を広げて大見出しだけ目を通しながら、固くなりかけたパンに噛りついた。が、パサついたそれは、たちまち喉に支えそうになる。

「歳だな。俺も」四五年前から、水物が無いとパン食が出来なくなっていた。

 冷蔵庫を覗いても、牛乳はおろか麦茶すら見当たらない。仕方がないので、蛇口から水を注ごうと戸袋からグラスを出した。そして扉を閉めた。

 そのとき「オオ!」という感じのトキメキが起きた。

「何だ?今のは」また扉を開けると、薄暗い戸袋の奥から、高級ウイスキーのラベルが目に飛び込んできた。どこからかの貰い物のようである。

 哲夫は、すぐさま今日の方針を思いついた。

 まず、熱いシャワーを浴びて汗を流す。身体が火照ったところで、好きなCDを聴きながら冷たい水割りを傾ける。心持ちの良くなった所で自室に入り、描き掛けの絵の続きをする。そうして眠くなったら文庫本でも読みながら昼寝と洒落込む。

 哲夫は「ムフフ」と気味の悪い笑いをもらすと、バスタオルを手に風呂場へ駆け込んだ。

「ふぅ、さっぱりした。さてと、どれどれ」

 哲夫は機嫌良く戸袋を開けて、例のビンを引っ張り出した。しかし、手元に取ってみると、どうも様子が変である。赤黒っぽい液体の底に沈殿した物体から分離した妙な物が、ビンの中を縦横無尽に浮遊している。フタを開けて匂いを嗅いでみた。すると、甘ったるいような、薬臭いような変な臭いがする。哲夫はガッカリしてフタを閉じた。

 そういえば、どこで教わったのか、妻は果実酒を造っていた様な気がする。

 だが、一度今日の方針を決めたからには、どうしてもその通りにしたい。そうしなければならない使命感の様な物がムラムラと湧いてくる。かといって、せっかくさっぱりしたところなのに、わざわざ着替えてまで酒を買いに行く気にもなれない。

「えい。呑んでしまえばおんなじだ」

 そう思うと、漢方薬のような味のするそれを立て続けに二杯呑んだ。好きな音楽など耳に入らない。三杯目を口に運んだとき、急に気分が悪くなってきて、絵の続きは後回しにしてベッドに倒れた。もう文庫本どころではない。薬草のような臭いが鼻に付いて、気持ち悪くて寝るにねれない。今日は最悪の日になりそうだった。

 それでも少しウトウトとして、夕方近くに起き出した。そうして、後回しにしていた絵の続きを描きに書斎に入った。書斎といえども、元は子供部屋の狭い空間である。机も、娘が小学校の時まで使っていたもので、なにやら訳の分からないシールがあちこちに貼りつけてある。本来の自室は、現在娘に占領されている。

「だって、仕方がないじゃないの。洋服ダンスも置けない狭いところじゃ、あの子だって可哀想よ。それでも貴方は良いわよ。自分のお部屋があるんだから。私はどうなるの」と、家族会議の末にこうなったのである。

 イーゼルの代わりに、机の引き出しに立て掛けられたキャンバスには、緋寒桜の舞う背景に、一人の女性が髪をなびかせて立っている。但し、顔の部分が未完成である。哲夫はその絵をじっと見つめて、そして目をつぶる。頭の中では、鮮明にあの時の智美が浮かんでくる。浮かんでは来るが、どうしても筆が思い通りに描いてくれない。

「やっぱり、あの微笑みは、神かダ・ヴィンチでもなければ描けないんだろうな」

 哲夫は、そう呟くとため息を洩らした。このところ定例会にも顔を出していないので、智美にも会っていない。絵が完成したら彼女に渡すつもりでいたのが、一向に出来上がる気配が無い。そのこともあって、会に行くことが出来ないでいた。

 定例会は月に二度、決められた曜日に、都心の薄暗い喫茶店で行なわれる。行けば、二回に一度くらいは智美に会えるだろう。それはそれで良いのだが、都会で見る何かに疲れたような智美と、自然に囲まれた山の中で見せる輝いた智美とは別人のように思われてならない。彼女は一体、普段はどうしているのだろうか。あの陰のようなものは、何が彼女をそうさせているのだろうか。その原因は、家庭なのか、恋愛の上にあるのか、職場での事なのか。個人の生活に触れてはならない会則ではあるが、少しでも彼女が救われるのならば、話を聴いてやりたかった。

 哲夫は、気晴らしに散歩にでも出ようかと、硝子の向こうに眼をやると、空は晴れているわりに、梢の先が沸くように騒いでいるのが見える。戸外は三寒の北風が吹いているらしい。陽も既に傾きかけていた。それを見ているうち、急に寒さを背中に感じた哲夫は、カーディガンを取ってきて羽織ると、再びキャンバスに向かいながら、脳裏からあの笑顔を引き出そうと瞑目した。頭の奥にあるスクリーンには、いまも活き活きと、その可憐な姿を映し出していた。

「あぁ疲れたわねぇ」

「さむかったぁ」

「昨日は暑いくらいだったのに」

 玄関のドアにバタンと音をさせたかと思うと、がやがや話しながら母娘は居間に入って来た。そして今日観た映画の俳優や女優役の評をしたり、買い物袋をがさがさと開けて、ファッションショー始めたりしていた。

 一家の大黒柱は、騒音に夢から覚まされた人の如く、苦い顔をして様子を窺っていたが、その存在すら忘れ去られているようだった。

            *

「なに今頃そんなことを気にしてんだよ。どこの家でも同んなじさ。お前んとこなんぞまだ良いほうだよ。まあ、気にしないで、そろそろ第二の青春でもしてみたらどうだ」

 一ト月程前に、学生時代の気の置けない友人と呑んだとき、そんな事を言っていたのを思い出した。それからこんなことも言っていた。

「家庭ばかりに視点を置いているから、そういう悩みを抱えるのさ。俺なんか今、ルンルンの『青春』しているぜ。――なに、浮気とかじゃないんだ。若いときと違って、あっちのほうは二の次さ。別にそんな事しなくったって好いんだ。互いの引力を感じながら、傍に居て静かに話しをしているだけで、何だか癒されるんだ。詰まりハアトだよ。要するにそういうものは、恋人が妻と成ったときから徐々に失われて行くんだ。子供が出来ればなおさらさ。まあ、そこんとこはお互い様で、女房の方でもそう思っているんだろうけど、女は俺達と違ってそれを紛らわすのが上手いんだろう。お前も、思いやりの言葉を掛けてくれるような人を見つけたら好いじゃないか。お前に不足しているのは、そういうことなんだから」

            *

 哲夫は、そういう人が果たして自分の周りに居るか、改めて記憶の中を検索してみた。けれど、会社と家の往復以外、月に二度の山の会か、付き合いで飲みに行くだけのごく狭い行動半径の哲夫には、職場はおろかたまに行く飲み屋にも、そんな気の利いた相手は居なかった。かと言って、まさか若いときみたいに、知らない女に声を掛けるなど可笑しくてできる訳がない。

「今度あいつに会ったら、どうやって相手を見つけたか聞いてやろう」そう思って、またキャンバスに眼を戻した時、未完成の顔の部分が微笑んだ。

「そうか!」

 哲夫は思わず声に出して小さく叫んだ。

「いやいや、それはまずい。会則にも反する。だいいち歳が離れすぎているし、話しも合うはずはない」

 今度は心の中の自分に言い聞かせた。


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