一
厳しい寒さも峠を越し、梅の盛りが緋寒桜に代わる季節となったある日、智美は陽溜まりハイキングに参加した。見晴らしの良いカヤト野原を登っているとき、景観が気になって振り向けた眼の端に、一人遅れて来る中年男性が映った。言葉は交わしたことはないが、定例会で見かけた記憶がある。智美は少し様子を見てみようと立ち止まった。
すると、木の葉を摘んで裏返して覗いたり、道に落ちている何かを拾って眺めたり、樹の幹を擦っては枝先を見上げたりと、散漫な行動をしながらヨタヨタと登ってくる。
「あのひと、何してんのかしら」
智美は腕組みをして首をかしげた。そして彼の追い着くまで待つことにした。
「もう休憩かい。荷物持とうか」
先に行った若い会員が戻って来て声をかける。
「大丈夫。ちょっと好い景色だから・・」
智美はそう言ってから(ひとが少し止まったくらいでうるさいなぁ)と思いながらも、顔では感謝の笑みを向けるのを忘れなかった。そして遅れて登ってくる人を指差してその名を訊いた。
「ああ、ドクターだろ」
「ドクター?」
「仇名だよ。本名は――ええと、滝川なんとかって言ってたな。ドクターが、どうかしたの」
智美から質問を受けた若者は機嫌良く答えたが、その相手が「先に行ってて」と言ったきり元に向き直ってしまったので、一気にテンションが下ったのか「あれは変わりもんだぞ」と、捨て台詞を残すと皆の後を追って行った。
その変わり者と言われた人に眼を戻すと、なるほど、今度は小さな図鑑の様な冊子を広げて、手に持った物と見比べている。虫眼鏡まで出して見ている。これでは皆から離れるばかりである。
(今迄、男性会員で私に声を掛けなかった人はいなかった)と、智美は少し自惚れていたが、よく考えてみると、何度か山行を共にしているのに、滝川という人からは、声を掛けられるどころか(私の存在すら眼中に無かったのではないか)と智美には思われた。
しかし、そんな哲夫の様子が却って気になったのか、初めて声を掛けたのは智美の方だった。それも唐突に、両手をメガフォンにして叫んだ。
「ねーッ!タ・キ・ガ・ワさァァあん。なにしてんのォお。置いてかれるわよォお!」
哲夫は、上の方で誰かが自分の名を呼んでいるので、見上げた顔を声のする辺りに向けた。するとカヤトの間から頻りに手を振っている人がいる。が、逆光線で誰だかよく分からない。分からないが、声からすると若い女性のようである。哲夫は、何か困ったことが起きたのかと思い、ポケット図鑑と虫眼鏡をウエストバッグに仕舞うと、慌てて斜面を駆け上がった。
智美は、今まで牛のようにのろのろと歩いていた人が(こんな速さで斜面を登れるものなのか)と思う程の勢いで近づいてくるのに眼を見張った。だがその人は、目の前に立つと、気の抜けるような言葉を吐いた。
「なにか、あったのか?」
(こっちが訊きたいくらいよ)と、反論したくなる気持ちを抑え、智美は少し睨むようにして言った。
「みんな先に行ってしまったわ。早くしないと置いてきぼりになってしまうと思って、心配してあげたのよ」
智美が入会してからこれまでの間、遠くから眺めているだけだったその顔を、哲夫は初めて近くで見る機会を得た。
切れ長の大きな眼は、白い部分が汚れなく水色がかっていて、貝殻のように透けている耳と、丸味のあるオデコのおくれ毛は幼い少女のようだ。それに反して、幾らか厚みのあるピンク色の唇とその横にある小さなホクロは、モンローのように魅惑的でもある。根が研究者の哲夫は、相手が人間であっても細かく観察する癖が抜けない。
だが哲夫は、やはり男である。平気な顔で見つめ返す智美を前に、顔が赤くなりそうでいつまでも観ていられなかった。そんな自分を誤魔化すように周りをキョロキョロ見渡して「本当に、誰も居ないな」と言うと、霜解けの斜面を駆け上がって行った。
大分登ったところ、下のほうでまた声がする。立ち止まって振り返ると、智美が腕を振り回して何やら叫んでいる。何だか怒っているみたいだ。今度は哲夫の待つ番である。
しばらくすると、ふくれ面の智美が横を擦り抜けて行った。(怒った顔もなかなか可愛い)後ろ姿は、清楚に結った三つ編みの先まで怒っているようだ。
哲夫は(しまった)と思ったがもう遅い。少しの距離を置きながら、黙ってその後に着いて行った。もう、石ころや木の葉どころではない。
智美は「バカ」とか「無神経」とか悪態をつきながら、プリプリと先を行く。それでも時々息を入れるのか、智美は立ち止まる。哲夫はそれを見て、やはり止まる。近寄りがたいので止まる。智美はズボンの裾に跳ねた泥汚れを気にしながら、チラリとこちらを窺う。哲夫は眼を合わせるのが何となく恐いのか、あわてて空を見上げたり、遠くの景色に眼をそらせる。智美は「ふん」という感じで、また登り始める。哲夫もそろりと後に続く。
道はプロムナードのように広く平坦な様相に変わり、やがて智美の姿が大きな岩の陰に消えた。不安げに哲夫はそれを追う。そして岩角を回った時、切り株に腰を掛けている智美と目が合った。哲夫は驚いて一瞬止まりかけた。が、成りゆきで止まれず、そのまま通過しようとした。
「ねぇ、何でそうやってあたしを避けるのよ。あなたに何をしたって言うのよ」
智美は、その容姿に似合わない口調で、哲夫の背中を問いつめるように言った。哲夫は背後から浴びせられた意外な文言に振り向いた。そして、少し躊躇する様な表情で智美を見返した。
「べ、別に、君を・・・君を避けているわけじゃない。つ、つまりその・・・そっとしておきたかったんだ。――だから声も掛けなかったわけで・・」
哲夫は、しどろもどろに、やっとそう言うと、また歩き出した。
「まって。私も行くから」
智美は立ち上がると、腰についた土埃を叩いた。それから二人は、しばらく黙って肩を並べた。
歩きながら哲夫は、道端の古い落ち葉を一枚拾うと、それを観察しはじめた。葉の基部に、コブのようなものが見える。
「これ、何だか解かる?」哲夫がそう言って立ち止まると、智美も歩を停めて顔を近づけてきた。
「これは虫コブって言うんだよ」哲夫は落ち葉から眼をはなさず説明する。智美は背伸びをして覗き込む。
化粧の香が哲夫の鼻をかすめ、眼を上げると、頬の産毛が間近に見える程智美が接近している。智美は眼が合った途端、弾けるように離れた。哲夫は耳たぶを赤くさせて、虫コブの説明を続ける。
「春から夏にかけて、この中に小さな虫が巣を作って、秋になって葉が落ちるまで子孫をどんどん増やすんだ。ひと夏に何世代にもなるんだけど、それが産まれくるのが全てメスなのさ。オスがいなくても子供が出来るなんて、男から見ると何だか怖いよね」
哲夫はそう話しながら、時々横目で智美の様子を窺う。智美は「ふうん」とか「へぇ」とか、感心したような、しないような応答をする。哲夫は「えへん」と咳払いをして先を続ける。
「どんどん増えて巣が狭くなると、虫達はコブのドームが成長するホルモンを葉に対して分泌し始める。――そこが不思議なんだよね。彼らの寿命の殆どは夏が終わるのと一緒なんだけど、最後に産まれてくる虫には羽根が生えていて、落葉と共に飛び立って行き、冬の間は苔のなかで暮らすんだ。そうしてまた春が来るとその中の何匹かがオスに変化する。――それも不思議だろ。で、春に出会った虫だけに、本当の結婚が許されるんだね」
「その虫、春にしか恋が生まれない訳ね」
「そう。丁度今日のような暖かい春の日はそのチャンスだね。――そうして、最初の母親が新しい葉の中に卵を産み付けて、産まれた子がまた巣を作るんだ。それがこの奇妙な虫コブなんだよね」
哲夫は、物識り顔の偉そうな態度で智美を見るとまた歩き始める。智美の方は、余り興味が無いというか、理解できないらしく、こう訊いてきた。
「それって、知ってると役に立つの?」
哲夫はその瞬間、躓いて前のめりになった。智美はそれが可笑しくてクスクスと口に手を当てる。哲夫は立ち直ると、何か不思議な物でも見るような視線をしばらく智美に向けてから言った。
「あのねえ。君は、何かの役に立つと思って山に登るのかい?――たしかに、好い景色や奇麗な空気の中で汗を流すことは、心身の健康に良いかも知れないけど、役に立つとか立たないとか考えたりしないだろ」
今度は、生徒のように神妙になって智美はうなずく。哲夫はそれを見て満足げに微笑むと、空を見上げながら拳に力をこめて続ける。
「そういうことのほうこそ!人間には大事なのさッ」
智美は、哲夫の芝居がかった様子を見て、呆れたように変な顔をする。
「あッ」
調子に乗り過ぎた哲夫は、後ろ頭に手を遣って、「いかんいかん」と照れ笑いを作る。ようやく打ち解けた空気の中で、智美も楽しげに笑う。(ハッとするほど素晴らしい笑顔だ)
早春の空を背景にして、折からの風に緋寒桜が緋色の花弁を舞い散らす。おくれ毛が揺れる。哲夫はそれを脳裏に焼き付けた。
智美は無意識の中で、『こころの研究所』の催眠中にインプットされた指令を見事に遂行した。