智美
真行寺智美二十六歳。智美を愛し同族会社のトップでもあった父がこの世を去ったのは今から半年前。それが元で親族関係に亀裂が生じ母は病床の人となった。そして僅か三月で父の後を追うように亡くなった。その悲しみと親族のゴタゴタで、軽度のうつ病に悩ませられる日々を送るようになった智美に、一通の封書が届いた。
青いA4版封筒には、どこを見ても差出人の名がない。智美は、うす気味悪く思いながら封を切ってみた。中から出てきたのは、数枚のパンフレットだった。
『貴方の心の病を完治する、医学を超えた最新治療法。哲学心理学の権威が絶賛する、超催眠療法が貴方の未来の幸福を約束します』『財団法人 こころの研究所』
というもので、治療を受けた数名の著名人のコメントが載せられ、各国の心理学者の絶賛が、もっともらしく写真入りで紹介されていた。
要約すると、以前ベストセラーになった自己の脳をプラス思考にする本があったが、さらにそれを具体的に踏み込んで、ノイローゼやうつ病など心療系・精神系の病に適用し、心理学的に脳内ホルモン分泌を改善方向へ精神操作するという内容だった。
治療そのものは、月に一度のカウンセリングと催眠療法を受ける簡単なメンタルクリニックで、投薬を含め一回二万円ほどかかるが、五回目には確実に効果が現れるらしい。病状に依っては保険も適用される。そして、治らなければ料金は全額返金する。キャンペーン中の今なら半額でよろしい。さらに、モニターを希望すれば全額無料という、どこかの怪しげな通信販売のような事も書かれている。だが、お申し込みはフリーダイアル0120・・・などとは書かれてはいない。『直接研究所までお越しください』とあり、小さく地図まで載っている。
智美は、何だかちょっと試してみたくなった。どんなモニターかは分からないけれど、それを希望すれば費用の心配もないし、今の不安定な精神が少しでも良くなるのであれば、直ぐにでも行ってみたいという気になった。
翌日、智美は研究所を訪ねた。そこは予備校の看板が立ち並ぶ代々木駅からさほど遠くない、裏通りにある小さなビルディングの一階にあり、入り口に『こころの研究所』と目立たないプレートがあった。
プレートの横にあるボタンで、パンフレットにあった暗証番号を押してから、インターフォンで名前を言うと、扉のオートロックがカチンと音をたてて開いた。スピーカーから案内の声が中へ誘導する。円形のエントランスを抜けて奥に入ると、鮮やかなレンガ色の絨毯に観葉植物が巧みに配置され、落ち着いたベージュの壁にはモダンな形の間接照明が眼に優しく取り付けられていた。どこか、高級ホテルか有名なエステサロンの廊下を思わせる。静かにピアノのBGMも流れている。だが、人影はない。職員の姿も、治療を受けに来ている人も見当たらない。カメラだけが天井のあちこちに取り付けられていた。
プライバシーは厳守するとあったので、こういうシステムになっているのか、また案内のテープが流れる。案内のまま進むと、幾つ目かの扉が自動的に開き「この部屋にお入りください」と天井のスピーカーが言う。智美は少し不安になってきたが、思い切って踏み込んでみた。
室内は十二畳程の広さで、床も壁も天井も、エメラルドグリーンで統一されていた。四隅の床に置かれたプロジェクターからは、揺れる木漏れ日が部屋全体に映し出されていて、まるで森の中にいる様な気分になる。部屋の中央にリクライニング式の椅子があり、言われた通りそれに座ると、背もたれがゆっくりと倒れ、左右のスピーカーから心地よい小鳥の囀りが静かに聞こえてきた。そして何とも言えない安息の香りがしてきて、オゾンの多い空気に包まれると、それだけでも充分に体はリラックスしてきたが、照明が一段落とされてから、穏やかな声の問診が天井から降りてきた。
問診と言っても、答えるにはひじ掛けのボタンを選択するだけで良い。右はイエス、左はノーだ。官能的とさえ思えるベルベットボイスの姿は見えないが、体も頭も、とにかく心地良い。それが既に催眠状態になっているのだ。が、智美にはそういう自覚はない。
しかし、照明が明るくなって部屋が元の状態に戻ったとき時計を見ると、わずか数分の出来事に思えたのに、二時間近く経過していることが分かった。そして立ち上がると、昼寝から目覚めた時のような気怠い感覚が治まらず、足が宙に浮いている様だった。
智美はまたテープに導かれて裏にある出口に向かう。出口には銀行のATMのような機械が設置されていて、液晶画面にモニターを希望するかどうかの選択が出る。智美は一瞬躊躇したが、思い切って『希望する』に指を触れた。条件に『定期的な状況報告が必要です』と画面に文字が現れる。(それで治療の進捗が分かるのなら)と思い、確認ボタンに触れると出口のロックが解除され扉が開いた。通常は、その日の料金を払うと開く仕掛けなのだろうか。
夢から現実に放り出された智美は、寒い風の吹く中を、戻りたくない家に帰って行った。
二日後、研究所からまた封書が届いた。ワープロで打たれた書類と、紹介状が同封されていた。指示書には、ある山岳会に入会するように書かれてあり、記入済みの入会手続き書が付いていて、同封の紹介状を持って、何時何日何処に行くようにとある。
『マイナスイオンの多い山野で自然に触れることが、メンタルトレーニングの一環になる』と言うのがその理由らしい。
智美は、幼い頃から父に連れられて山登りに行ったり、ガールスカウトで野外活動をした事もあったので、快くその指示に従った。
智美は、山岳会に入ってからは地図でしか知らなかった山に行けるので、時間の許す限り参加しようと思った。皆は親切にしてくれた。特に古参会員が色々と気を使ってくれるのを、素直に受け入れていた。(まさか賭け事にされているとは、本人は知る由もない)それらをうるさく思うこともあったけれど、初めて出逢う素晴らしい山に向かうとき、嫌なことは全て忘れられるのだった。しかし自分のレベルを知っている智美は、ハイキング程度の山に限って参加することにしていた。