八
二日後、兵士を連れた将校が、横瀬の荷を部屋に運んできた。幸いにも装備は手元に戻ってきたのだ。彼らにとって、余りにも奇っ怪な品々であったので、検査をするため没収したらしい。しかし将校氏は、念のため一揃え預かると言う。実は私物にするようである。この国では、偉い人ほど横領・横流しに長けているのだが、さすがに相手が賓客なので、自分の分だけをねだったようだ。横瀬としては、元々ガイド役の将校の分も用意していたので「馬鹿だねぇあいつは」と鼻で笑っていた。
兵隊が去った後、哲夫は余りにも完璧な準備の良さを不審に思い、横瀬に疑問を投げかけた。
「いったいこれはどういう事なんだ。説明してもらおうじゃないか」
「そうさ。元々、全ての計画は俺が立てたものだ」
横瀬はあっさりと白状した。そうして智美に「悪かったね」と言いながらカメラを手渡した。盗難に遭った例のカメラである。
「きっさまぁア」
哲夫は、叫びながら横瀬に殴り掛かって行った。すぐさま白鳥が止めようとしたが、強烈な右フックが横瀬の顎にヒットした。横瀬はのけぞって倒れたが、ニヤリと立ち上がった。そして不敵の笑いを浮かべながら反撃のファイティングポーズを取ると、白鳥は叫んだ。
「仲間割れをしている時じゃないわ!」
オンドルの床暖房が効いている部屋は暖かだったが、平壤のホテルとは違い、四人はひと部屋に押し込まれていた。この方が、監視が行き届くからだろう。白鳥の一言で、哲夫と横瀬は最大限の距離を置いて座った。部屋には険悪な空気が流れている。智美は、怖くて白鳥の側から離れられない。痛む拳を庇いながら、先に口を開いたのは哲夫だった。
「訳を話してくれ」
横瀬は、殴られた顎をさすって、返事もせずにそっぽを向いていたが、やがてポツポツと話し始めた。
「国家機密なので詳しくは言えないが」と前置きをして、北朝鮮の麻薬シンジケートについての説明があり、ミャンマー・ラオス・タイなど、いわゆるゴールデントライアングルと呼ばれる東南アジアから仕入れた原料をこの基地内で精製したあと、錠剤や粉末にして日本の組織暴力団に密輸している実体を述べた。中国や韓国でも密造はある。が、この国でやっている事は密造ではない。もはや外貨獲得に向けたひとつの産業と言えるのだ。故に、年々北朝鮮からの輸出量はそれらの国を凌ぎつつある。かつての韓国政府高官が爆死するラングーン事件は、原料のルートにまつわるトラブルもあって、そのことも絡んでいるらしい。
「北朝鮮としては東南アジアに頼らず、なんとか自国で麻薬の媒体となるものが開発できないかと研究し始めた」横瀬は、そこで言葉を切って、哲夫にギョロリと目を向けた。
「それを突き止めるのが俺の仕事だ」
「ちょっとぉ。かっこいいじゃない。ゴルゴ○○みたい」と、白鳥。
「お前は黙ってろ」と、ゴルゴこと横瀬。
哲夫は何のことか分からずに、「え?」と聞き返した。
横瀬の正体は、警視庁の麻薬シンジケート捜査官であると言う。背中の彫りものは、暴力団に囮捜査で潜入した時の名残りであると言う。だからその筋には知り合いが多く、自分が桜田門の人間であることを知るものは、庁内のごく一部の者以外誰もいないと言う。横瀬の話は続く。
「そこで、ドクター。あんたの発見したキノコについて情報を掴んだ。それを餌にシンジケートに近付こうと考え、今回の芝居を打った。サンプルの画像は事前にこの国の当局に送り付けていた。信用させる為に、送ったのはネガフィルム丸ごと一本だから、ドクターの顔写真はそのおまけだ。そして、あんたが平壤の研究所に行っている間、闇ルートもいろいろ調べ上げたのさ。その結果、この国のナンバー2の側近が、密売利益の一部を資金として抜き取っていた事も分かった。そのナンバー2は、後継者問題でトップに睨まれており、近く亡命を企んでいるとの事だ」
哲夫は全身に鳥肌が立つのを感じた。
(何ということだ!それにしても奴が警察官だったとは・・。平壌でも伊達に抜け出していた訳ではなかったんだ)
「じゃあ、船の廊下で言っていた、『エス』って何だったの」
智美が口をはさんだ。今度は白鳥が受けて立つ。
「聞いてしまったのね。――そう、『エス』はアルファベットの『S』でSPEED。詰まり覚醒剤よ。昔はシャブとも言ったわ。私たちは、その密輸ルートを解明するため派遣されたのよ」と答えた後、自分は厚生省支局の麻薬取締官で、警察と連携をして捜査する事になったと言う。もちろん、歴とした女性でもある、と。
(なんと本物の女だったのか。しかし、とんでもない輩だった訳だ)
哲夫はまだ信じられない。白鳥はさらにこう言った。
「先に謝るわ。ごめんなさい。真行寺さんを滝川さんに近付けさせる操作をしたのは私の仕事で、この国の当局を、それから滝川さん、あなたを警戒させないためだったのよ」
そして、こころの研究所でのマインドコントロールでは、安息香に微量な麻薬を配合していた事実も明らかにした。だが、精神医療そのものは正しく行われており、病が回復に向かった事も確かだったと付け加えた。
「警察や厚生省は、どこかのカルト宗教より恐ろしいことをやるんだな」
哲夫は、もう怒る気にも成れず、呆れたように呟いた。智美も、真実の余りの展開に、眉間に戸惑いと怒りを現わしている。
そのとき扉が開いて、いつもの案内員が凄い形相で入ってきた。哲夫は慌てた。今の話しを聞かれたらしい。案内員は他の人間を無視するが如く、真っ直ぐに横瀬に接近した。横瀬はその様子に、緊張した面持ちで立ち上がった。
「どうした」横瀬は小声で応じる。
「緊急を要する事態が生じた」
案内員は額に汗を浮かべて、只ならぬ気配である。
「何が有った。説明してみろ」
彼は、横瀬に顔を近づけて耳打ちをしようとしたが、唇から血の滲む跡を見て、その顔を哲夫に振り向けた。そして哲夫を睨むようにして一歩踏み出した。横瀬は彼の肩を掴んで遮った。
「待ってくれ。今、この二人には全てを話し終えた所だ。もう隠すことは無い。こうなれば同舟の仲間だ。何が有ったか、喋れる範囲でいいから話してくれ」
その情報とは、当局は我々の動きに疑いを持ち始めたらしく、まもなく平壤から、この国の秘密警察にあたる『国家政治保衛部』を出動させるのではないか、というものである。彼の日本語も、今までとは打って変わった流暢なものとなった。
「何故だ。当局の監視員が、そんな情報を俺たちに漏らしても大丈夫なのか」
哲夫は、案内員と横瀬を交互に見て言った。
「それは、こういう事だ」
横瀬が言うには、なんとこの案内員は、二十年以上も前に、日本から北朝鮮に送り込まれた工作員であった。国籍は北朝鮮で、労働党員でもあるので、当局からは信用されているらしい。
哲夫は、何がなんだか分からなくなってきた。新潟から常に監視の目を光らせていた彼は、我々の味方であったのだ。
だが横瀬は、これ以上の話しとなれば国家機密の範疇なので、民間人の耳には入れられないと言う。
「少しのあいだ席を外してくれ」
「おいおい。何だか知らないけど、席を外せったって、ここはリゾート地じゃないんだぜ。外は寒いんだぜ。風邪でも引いたらどう・・・」
抗議する哲夫に、三人の鋭い視線が走る。哲夫は言葉に詰まった。
「案内員の部屋に行っていろ」
三人の声が見事にハモる。哲夫は智美を連れて、すごすごと部屋を出た。
「少しでも君を疑ったことを後悔しているよ」
案内員の狭い部屋で二人になったとき、哲夫は智美に謝った。
「私こそ、ごめんなさい」
智美は、精神操作を受けていたとはいえ、哲夫を巻き込んでしまった事に、許しを得ようとした。
「どうして。君が謝る事なんて無いさ。悪いのは俺の方だ。君に恋心を抱いた罰があたったんだ」
「え!滝川さんが?私に恋?」
智美は、哲夫の意外な言葉に戸惑いの目を向けた。
「あ。いや違う。そういうんじゃないんだ。つまりその・・説明するのは難しいんだけど、なんか、ほら、あー上手く言えない!」
「でも。嬉しい。私も滝川さんとお話ししてると、何だか死んだお父さんと居るみたいで気持ちが安らぐの」
「そ、そう。そういう感じ。って、言いたかったんだ。そばにいてくれるだけで癒されるっていうか・・」
二人は、やっと元のナチュラルな関係に戻った。だが、現在置かれている事の重大さに変わりはない。智美はそれに怯えているようだ。哲夫はその肩にそっと手を置いた。
「絶対に。俺が守ってみせるから」
智美は、こっくりと頷いて哲夫の胸に額を押しつけた。哲夫の手に肩の震えが伝わる。抱き締めてやりたい衝動に駆られるが、哲夫はその心を無理やりに封じ込めた。
「恋人でもなく愛人でもなく、ただ側にいてくれるだけで幸せになれる存在があっても良いだろ」そう言った友人の言葉が脳裏をよぎる。だが、実際のそれは、初恋の心情にも似た、余りにも淡く切ないものだった。
智美は、間もなくして顔を上げた。哲夫は涙に濡れたその頬を手の甲で拭ってやった。そうして、彼女が落ち着くのを待って、哲夫は、ある計画を話しはじめた。
「装備と食料が揃ったら、ここから脱出しよう」という計画である。
「まもなく十二月になる。全山雪に覆われたら追っ手の動きも鈍くなるだろう。鴨緑江も氷結しているはずだ。そこを渡れば中国側に抜けられる。そして朝鮮族自治区を北上しロシア領に入るんだ」哲夫はテーブルを指でなぞりながら説明した。
ゴルバチョフ以後、ロシアと北朝鮮はそれほど親密ではなくなっている。うまくすれば受け入れてくれるだろう。国を出る前、もしもの事を考えて、ロシア通の知人に頼んでもある。
「二週間後に決行だ」
哲夫は、智美を勇気づけるように両の肩を掴むと、その目を見ながら力強く頷いた。
翌日から、哲夫は雪山訓練に智美を連れ出して山麓を歩いた。無論、兵員が監視のため付いてくる。初めから分かっていることなので、哲夫は気にせず、智美にピッケルやアイゼンワークを指導した。そして毎日場所を移動して、ここら一帯の地形を記憶した。高台に登れば双眼鏡で行く手を腑観した。そうして、部屋に戻ると、こっそり概念図を仕上げた。
一方、身の危険を感じた横瀬達も、別の計画を組んでいた。案内員も、彼らを逃がしたとなれば、後でどんな嫌疑をかけられるか分からないので、三人で逃亡しようというのである。そもそも、この国の狙いは哲夫にあるのだし、足手まといになりそうな智美も置き去りにしようという事なのか。
国家機密の話も何もあったものではない。




