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十割る三は  作者: 小林 慶太
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第四話)ジャパンツアー

シンシアの提言によって、無謀なアメリカツアーに出た四人だったが、

帰国後、本格的に国内でのライブ活動を開始する。

さて、その後の彼らは・・・

また、その彼女達は・・・

しかし、元の生活に戻るには少し時間がかかった。

というのも、東京という街は異常だという認識が四人を包んだからである。

剛とカズは案外と早くにアルバイト生活に戻ったが、タンツリのメンバー、特に優人には理解しがたいことが多かった。

二ヶ月間、アメリカで厳しくも楽しい生活を送ったが、逆にそれは東京の異常さと便利さを再発見するという意味も持っていたのである。

みんながみんな、同じ時間帯に電車に乗り、身動きも取れないような状態で一時間も二時間も待っている。

道路だって高速道路も渋滞ばかりで高速とはいえないじゃないか。

低速道路だ。

そして、休みといって、ゴールデンウィークや盆、正月にわざわざみんなで渋滞にはまりに行く。

何故みんなでそんな同じ行動を取るのか優人には理解できなくなっていた。

運転をして対向車を見ても、みんなのっぺりと同じような顔をして運転しているし、表情も少ないように見えた。

自分だって同じような顔をしているくせに、そう思えて仕方なかったのである。

なんだかおかしいぞ、この街は。と思ったのは帰国後しばらく続いた。

「なんでみんなロボットみたいに同じように動くんだ?」

車を運転して、曲がる度に逆車線に突っ込みそうになりながら、そう思った。

由美にも相談した。

「ちょっと、東京っておかしくない?」

「それは、ちょっと分かる気がする」

由美は珍しく優人の意見に賛同した。

それに日本に限ったことではないが、優人はクラクションの音が嫌いだった。

もう少し待ってあげればいいのに。

あからさまに、人間の邪悪な心の叫びを聞いているようで、胸が痛くなる。

だからといって優人だって本当に危ない子供達や、サンキューの意味のクラクションは使ったが、

とにかくあまり、鳴らさないようにしていた。


ホコ天は八九年に法律によって打ち切られ、もう演奏は出来なくなっていた。

革ジャンのロックンローラーは命をかけて守ったのだろうが、死んでしまったのかも知れない。

そういった事実も、優人の日本政府に対する不信感を倍増させた。

ホコ天はある種の文化だった。

外国人が観光したり、ストレイキャッツが来る程、一種の観光地であったのに。

どうして、そういう場所をつぶすのだろうか?

近隣の住民が反対した、とか、交通事情によるもの、とかいろいろと理由は考えられたが、

優人が近隣の住民の心の狭さや、政府の気の弱さ、あるいは文化への興味の無さに憤りを感じたのは事実である。

ニューオーリンズのようには絶対にならないのだろうな。


そして帰国後、タンツリは都内でのライブは多かったが、タンツリは主にパパスを拠点としていた。

毎月一回はパパスでライブを行い、その他はイベントや千葉や横浜といったライブハウスによく呼ばれた。

戸田屋の仲間や枕草子の大久保達は「ライブどうだったんだよ?」「UFOってほんとにいたの?」

とか「原住民には会えたの?」等いろいろ馬鹿にした質問をしてきたが、優人達はありのままを答えた。

「な~にやってんだ」

「結局お墓参りに行ったのか」

などと馬鹿にされもしたが、優人達は凄く良い経験をした、

と思っていたし、恥ずべきことではない、むしろ凄いことをしてきた、

「俺たちは世界を変えるんだ」という「事実」が口には出さなかったが、内心の感想であった。


しかし、葵だけは妙に関心を持った。

優人の不思議な体験や経験を、浩二の話以上に聞いた。

葵は、浩二の根拠の無い宇宙の話よりも、優人の読んだ本に関する内容の方やアメリカでの経験談の方が真実味があると考えていた。

優人と葵の読む本や思想は、驚くほど似ていたからである。

「パパラギ」やマヤ文明の本がそうだった。

それに女性陣の中では葵だけが、一九九九年に何かが起こる、というノストラダムスの予言を信じていた。

優人は、由美よりも葵に多くのことを語った。

そして「分かる、分かる~!」と相槌を打ってくれたり「そこのところはこう思う」といったような理想論を

ライブや打ち上げ、また私生活でも会うたびに語り合うような仲だった。

仲間うちでも、さして問題になるような会話ではなかったし、毎日顔を合わせているような日々であったので

葵と優人の仲が怪しい、ということもなかった。

ただ、ほかの彼女達やメンバーよりもさらに、葵は優人と現実離れした会話をできたのである。


帰りの、上空四千メートルを猛スピードで進む飛行機の中でタンツリの四人は飲み放題のビールを飲みながら話した。

機内でジャンプをしても、後ろに飛んで行かないことはもう分かっていた。

その頃はまだ、飛行機の中でもビュッフェではタバコが吸えた。

「俺達、世界を変えるらしいぜ」

優人はシンシアに言われた言葉をメンバーに伝えた。

どのように変えるのか、具体的には分かっていなかったが、シンシアにそう言われた言葉は、

優人の奥底に深く響いていた。

他の三人のメンバーも、そのシンシアの言葉については興奮した。

「俺達が世界を変える」

その言葉の響きは、日本に帰ってからの彼らの活動をますますエスカレートさせ得る言葉だった。

帰国してからは四人の体内に同じリズムを生み出したのである。

素晴らしき、バンドという生き物への作用だった。


今回のアメリカツアーを快く思っていなかった由美、順子、カーさん達も、

「やっぱりライブなんか出来なかったんじゃん!」

「シンシアの口車に乗せられて!」

と怒っていたが、帰国後のパパスでの彼らの演奏を見て、パワーアップしたことを否定しなかった。

というよりも出来なかった。

実際に優人のパフォーマンスは渡米前より比較にならないほど堂々としていたし、

アクセル・ローズやミック・ジャガーのようなダンスや立ち振る舞いを真似ながらも、

練習を重ね、以前よりももっと大きな声や高い声が出せるようになっていた。

それに

「ワオ!」とか

「イェイ!」といったシャウトも自然に体から飛び出てきたし、

それは、無意識の中で発せられる魂の叫びだった。

若さもあったし、パワーがみなぎっていた優人のそれは、ジェームス・ブラウンやミック・ジャガーに引けをとらなかったかもしれない。

他のメンバーも、演奏中にここぞという所では無意識のうちに叫ぶようになっていたが、

それは各々の楽器にかき消されて聞こえないだけであった。


歌詞の内容も、アメリカでの経験に基づくようなものが多く、

また、優人の思想である、UFOや社会主義などへの想いや「世界を変える」という思想もはっきりと出だした。

他のメンバーも納得しながら作曲していった。

優人は世界を変えるべく、歌詞もキチンと伝わるように心がけた。

健はギターをピックで弾く際に、ピックの先っちょではなく、お腹の部分に弦を当て、

より強いピッキングで強い音を出せるように工夫していたし、より正確にリズムを刻めるように努力した。

ギターソロにおいても誰よりも練習したし、以前よりも音楽に対して真剣に取り組むようになった。

ロサンジェルスで買ったフェンダーUSAのストラトも活躍し、湿気による音質の違いなど、健の気合で押しのけた。

それに、シンシアに言われた、

「健のギターにはアメリカの匂いがするのよね、それも、嗅いだことの無い」

という言葉が健を後押ししていたのである。

確かに、竹を割ったような性格である健にはロサンジェルスのような場所が似合った。

似合っていたし、そのキャラクターを存分に日本でも発揮できるようになっていたのである。


浩二と越後、二人のリズム隊は、旅のおかげか息がぴったり合うようになり、

我流ではあったが、確実なグルーブを出せるようになっていた。

越後はタワー・オブ・パワーというファンクバンドのベーシスト、ロッコの大ファンで、

彼のように十六ビートを刻むのが得意であった。

また、細かい指技も器用で、ギターとの隙間を埋めるのも上手だった。

浩二は越後と一緒にリズムを刻み、彼の持つクレイジーなパワーでバンド全体を引っ張っていった。

ムードメーカーであり、浩二の馬鹿な発言や行動は、いつも皆を明るく前向きな気分にさせた。

ライブの前には渡米前から四人手を重ねて

「いくぞ!」

「オー!」

といった掛け声の風習も自然に出来上がっていた。

ライブ前には緊張という緊張はしなかったが、毎回が四人にとって勝負であり、同じ日に出るバンドには負けない、

という強い意識が前にも増して皆を支配していた。

それだけエネルギッシュなパフォーマンスができたのである。

レパートリーも倍くらい増えていたし、何よりもバンドとしての一体感が飛躍的に伸びた。

ファッションもアメリカにいる頃とほとんど同じで、ヒッピーのような、派手な柄のTシャツや、それか裸。

ジーンズも穴の開いたジーンズだった。

四人は特にステージ衣装というものもあつらえずに、優人が目の周りだけアイラインを引いた。

秋だというのに色は浅黒く、ボーカリストの髪の毛の後ろには三つ編みした紐が三本ぶら下がっている。

幾重にも重なったカラフルなビーズのネックレスも安っぽくて、個性的だった。

他のバンドはたいがいキッチリとメイクをして、キッチリと黒の衣装と銀のアクセサリーを決めていた。

そんな中でのパワフルな演奏とパフォーマンスはパパスでも比較的目立つバンドに成長していた。

由美や順子達の彼女連中も、衣装の提供をしてくれたが、皆ヒッピーのような派手な柄の布や、

オバサンの着るようなスパンコールの着いたパンツやジャケットと、一風変わったもので、

当時のロックバンドとしては少し風変わりだった。


ライブの後はいつも心地よい疲れが残った。

しかし、どんなに疲れていようとも、打ち上げは欠かさなかった。

五十人ものタイバンの輩やお客さんを交えて飲む酒は何にもましてウマかったのである。

しかも、アメリカにおいて、あんなに憧れた居酒屋である。

焼き鳥や唐揚げがたくさん出てきた。枝豆もある。刺身だって頼めば出てきたし、ビールは飲み放題だった。

というのも、女の子はそんなにビールを飲まないし、カクテルやウーロンハイを一杯飲む程度であったからである。

それでも、女の子達はタンツリのメンバーに触れたがった。

「やっぱ居酒屋だな!」

「俺、さんまの塩焼き!」

「じゃあ俺はマグロのカルパッチョ!」

などと口々にはしゃいで飲む酒は、まさにサイコーだったのである。

お会計はだいたい由美やカーさんが仕切り、大きな声で

「一人三千円おねがいしま~す!」というケースが多かった。


まだ結成から三年という短い期間ではあったが、バンドブームという風潮もあってか、

ホコ天や数々のイベントといった地道な活動で着実にファンを増やしていった。

「フタゴ」や「タイガー」や「チビデブス」「八広ババア」といった常連客はもちろんのこと、タイバンをやることによって

お互いのお客さん同士とメンバー同士、みんなが仲良くなったし、そうして友達ともファンともつかぬ関係をどんどん増やして、

ライブ会場は、一種の音楽を通したコミュニティの場所になっていった。

当時はインターネットなんていう言葉もなく、「生の触れ合い」が何にも増して重要であり、また楽しかった。


タンツリのメンバーはライブの次の日や、たまたまパワーハウスやムーンハイツや健の貸家に集まった日には、

ライブを録音したカセットテープを聞き、反省会のようなものもやった。

時にはダメ出しをし、時には誉めあった。

少し前からではあるが、ライブハウスに備え付けてあるビデオも録った。

そして優人の目が遠めから見るとあまりにも細く、客席からは目があるように見えない、という理由から、

アイラインを引くようになったのである。

それだけでなく、この曲のここではああしようこうしよう、くるっと回ろうというパフォーマンス面でのアイデアも出し合えるようになった。


そして同時にこの頃から柳沢亮子という人物が、スタッフ=マネージメントを買ってでた。

柳沢亮子は当時二八才という優人達から見れば随分年上だったが、

髪の毛は黒くてモジャモジャで長く腰まであり、いつも黒いジーンズを履いている「ロックな女」であった。

亮子はパパスで照明という仕事をしながら、渡米前から毎月のタンツリのパフォーメンスに魅了されていたのであるが、

渡米後の彼らの成長振りを見て声をかけてきた。

亮子はパパスに勤めていた為、亮子の参加はタンツリにとって物凄く有効であった。

パパスという老舗のライブハウスがタンツリを全面的に推してくれる、という方向に向かったからである。

それに、亮子は職業柄からも、日本の音楽業界にもよく通じていた。

バンドは劉備元徳が諸葛亮孔明を得たように、強力な味方を得たのだ。


バンドはそれほど目に見えるほどに成長していた。


タンツリはまた、新宿の小さなバー「ダローネ」でも演奏するようになった。

たまたま打ち上げの後に、さらに健と優人が飲みにいったのが初めのきっかけである。

何人かのミュージシャンが演奏していて、演奏が終わる頃には上機嫌になっていた二人は、

マスターに「出してくれ、出してくれ」とお願いし、仕方ないから一曲歌ってみろ、とマスターに言われ

優人と健が二人でギターを借り、エリック・クラプトンのワンダフル・トゥナイトを歌ったのが気に入られた。

十人も呼べば出してやる、という話になり、二人は二言返事で出演することにした。

ダローネはお客さんが二十人も入れば一杯になる本当に小さなカウンターバーであったが、

タンツリは一回の出演料として二万円をもらい、それを四人で割って一晩五千円の収入になるという、

趣味と実益を兼ねたいいアルバイトになった。

ダローネという変わった名前は、マスターの口癖で

「そうだろうね」とか

「まあ、そういうことだろうね」

といった発言からママさんが名づけたものと思われた。

ダローネのステージは四人も乗れば一杯の狭いステージで、ドラムセットを置くのも邪魔なほどであった。

週に二回ほどは出演するようになるのだが、そこでも二十人くらいはいつでも入り、

タンツリの人気ぶりを示していた。


優人はダローネではライブハウスのライブとは違い、アコースティックギターをぶらさげて、

瞬時瞬時にアドリブで歌い出せるように工夫した。

ライブハウスではなくバーだったのでレパートリーは昔から得意だったカバー曲を多めにした。


ある日、タンツリの面々の行動を見ていたマスターが

「言ってみれば、お前らは野生の集団だろうね」

と言ったので、その日から「野生の集団タンジェリンツリー」という看板が出来上がった。

確かに優人達の行動はアメリカにいたときの様にワイルドであったし、

常に腹をすかせており、ゴミこそ食いはしなかったが、マスターにいつも何か食べさせてもらっていた。

金のなかった優人は一人だけで弾き語りで出演して少しの金をもらうこともあった。

そんな日は、オリジナルはもちろんだが、ストーンズや、ビートルズ、キャロル・キング、忌野清志朗の歌など

優人の好きな曲を好きなように歌った。

が、ジョン・レノンの歌はあまり歌わなかった。

もちろん、ビートルズの歌はレノン&マッカトニーであったが、ジョン・レノンのソロの曲をあえて歌わなかったのにも意味はある。

なんとなんく、みんながみんな十二月にジョン・レノンを歌えば大衆受けをする、というイメージを優人が持ってしまったからだ。

他聞にもれず、十二月には日本の多くのアーティストが好感度アップの為にジョン・レノンを歌っていた。

ジョンの本当のメッセージなど関係なく。

「だって、「マザー」とか平気でかっこつけて歌うんだぜ!そんなミュージシャンなんてサイテーだよ!」


しかし、優人にとってこういったカバーソングを歌う活動は凄く有意義だった。

英語の歌をたくさん歌うことで、英語を自然と覚えていったし、ノートに歌詞を書き、

日本語訳と照らし合わせることで歌詞の意味も理解できるようになっていった。

英語の歌の意味を理解すればするほど、内容の深さに感心したし、特にジョンやストーンズ、ボブ・ディランなどは、

楽曲のみならず、歌詞のウェイトが大きいことに気付くことができた。

長きに渡り、世界のスターの座に君臨するには、それなりの理由があったのだ。

素晴らしいリリックス達である。

これは見習うべきだ。というよりも、これが「歌詞」だ。

優人はメンバーに相談もせず、一人感慨にふけった。


そうしたダローネでの活動も動員数に良い結果をもたらした。

演奏の後には、お客さんと音楽について語り、酒を飲んでタバコを吸いながら仲良くなれたし、

そんな中からライブハウスに足を運んでくれるお客さんもいた。

もちろん、その逆もあり、まさに相乗効果を生みだした、この、良いスパイラルにはマスターも満足気であった。

優人の廻りには「人」が集まりだしたのである。

それは、優人の人生、その後にとって大きな財産であった。


ダローネとライブと練習を合わせれば、ほとんど毎日四人は顔をあわせていた。

タンツリ結成当初からの計画は順調に進んでいた。

この調子で頑張れば、世界制覇も夢ではない。

優人、健、浩二、越後の四人はそう信じて疑わなかった。

優人はまだ二十歳、他のメンバーもまだ二十二歳という若さであったのでる。

そうしてだんだんと人気を博すうちには、戸田屋以外にもいろいろなバンドと知り合った。


戸田屋の遠藤さんは、千葉の「ワッチ」というライブハウスの店長になっており、

主に千葉でライブをやるときは、このワッチや岡野さんのストリートであった。

遠藤さんは引き続き毎年「遠藤たけしミュージックショー」を行っており、

稲毛野外ステージにおいてのライブには、タンジェリン・ツリーとして毎年出演していた。

数年前とは違い、そういったライブにも、稲毛という都心からは少し離れた場所にありながら、

わざわざタンツリの為に足を運ぶお客さんもいた。

亮子も横のつながりで、遠藤さんや岡野さんと交友があった。

亮子はライブに来ては「よろしくお願いします」と店長に頭をさげたが、健は

「そんなことする必要ね~よ!」と例の高い早口で亮子に毎回といっていいほど言った。

「だめ、挨拶が基本なの」

しかし、亮子はキッとして言いうのである。


都内進出してからは岐阜出身の「ザ・オク」という奥秀行率いるバンドや、

広島出身の「ジャングルブギ」といったありとあらゆる地方出身の仲間も大勢できた。

それらはとてもエキサイティングな出会いで、大阪出身のバンドや当然埼玉や横浜のバンドとも仲良くなった。

メンバーだけではなく、彼らが連れてくる女性達も集客という意味で重要な関係になった。


また、年は随分上であったが、「ザ・ステューピッツ」という、

巷では伝説的に有名な存在のバンドメンバーとも仲良くなった。

ただ、ステューピッツやオクは筋金入りのジャンキー集団であり、

この関わりは当然ドラッグ好きな健や浩二には良い影響をもたらせなかった。


そして亮子の「マネージメント」により、四人はある程度の束縛を受けた。

まず、クスリには手を出さないこと、アルバイトを真面目にやること、彼女を大事にすること。

つまり、浮気をしない、お客さんに手をださないこと、亮子の言い分はそのような生活スタイルことが多く、

音楽に関してはあまり口を出さなかった。

音楽に関しても時には口をだしたが、彼ら四人の才能を信じていた。

後になってポップ志向な曲を作るように指示をだすのであるが

そうして打ち上げでのバカ騒ぎも由美と亮子の目によって監視されたので

なかなか女遊びが出来なくなってしまった四人であった。


ライブのギャランティも管理されたが、そのお金はチラシの作成に使われたり、アンケートを作り、

住所を書いてくれたお客さんに、ライブの予定のダイレクトメールを送ることなどに使われた。

ギャランティと言っても、せいぜい一晩に三十人呼んで一万円くらいで、それまではたいがい飲み代に当ててしまっていたお金だが、亮子は有効に活用するようにしたのである。


そんなライブ活動の毎日のある日、パパスのライブにあのヴィクトリアが現れたのである。

なんらかの仕事でヴィクトリアは日本に来たらしいが、シンシアがパパスへと連れてきた。

「あれ~!ヴィクトリアじゃん!」

シンシアに会うのも久しぶりだったが、ヴィクトリアがいることには本当に驚いた四人は大きな声を出し、それぞれにハグをした。

「なんで日本にいるの?」

シンシアを介して四人は話した。

「執筆の作業できたのよ」

「へ~日本は初めて?」

「イエス、初めてよ」

ヴィクトリアが答えると、シンシアが割って入っ言った。

「ヴィクトリアは日本に凄く期待してきたみたいなのよ、想像では、自然がいっぱいあって、

お寺や神社が素敵でって。でも実際に来てみて、電気や電波が凄くて、凄いショックだったって言ってたわ」

「あ~そうなんだ・・・」

「まあ東京だからだろうけどね」

健や優人はそう答えた。

「じゃあ、今日はヴィクトリアの為に演奏しよう!」

健が言うと、皆賛成し、楽屋へと向かった。

そして、いつものように、というよりもいつもより激しかった。

八曲、アメリカで作った曲や、帰国後にアメリカを想い作ったロックを演奏した。

思いの限り演奏した後四人は、疲れきりながらも表に出て、いつものファン達に挨拶をした。

そしてヴィクトリアに、

「ヴィクトリア、ありがとう・・・いや~疲れたけどどうだった・・・?」

とシンシアを通して優人が言うと

「あなた達の物凄いエナジーを感じたわ!サンキュー、サンキュー!」

と、とても興奮した様子で英語で直接返してきた。

「ヴィクトリアのおかげだよって伝えて」

と健がシンシアに言った。

「ノー!ノー!それはあなた達のエナジーよ、重要なことよ」

ヴィクトリアはそう言っている。通訳が無くても分かった。

「そんなことないよ!サンキュー、ヴィクトリア、ところでジョンとアレックスは元気?」

このくらいの英語は何とか優人にも話せた。

「イエ~ス、彼らはとても元気でとてもよく働いてくれるわ」

だって、とシンシアが訳した。

「そっか~また会いたいな、また遊びに行ってもいい?」

優人の言葉をシンシアが訳すと

「オフコ~ス!プリーズ!プリーズ!カム・アゲイン」

そうした会話の中

「じゃあヴィクトリアはあまり時間がないから」

とシンシアが仲に入り、皆に告げた。

四人はハグをして別れた。

「あ~アメリカにまた行きたいな~」

四人は口々にそう言い合った。


そしてこんなライブ漬けのこの頃、優人はまたしても寝坊の為運送屋をクビになり、次なるアルバイトを探した。


お花屋さんなんていいかもしれないと思った。

花に詳しくなれるなんていいアルバイトじゃないか。

「お花の運送」と書いてある求人誌に○をし、またも面接に行った。

「明日からでも来なさい」という返事だったので、とりあえず行ってみた。

ところが行ってみると、運ぶ花は菊ばかりで「なにかおかしいぞ」と優人は思ったが、

とりあえず、トラックの助手席に乗った。

着いた先は葬儀場であった。

「うをお、こりゃあ詐欺だ、ただの葬儀屋じゃないか」と思ったが、葬式が始まってしまってからは逃げ出せない。

その日、優人は初めてご遺体を見た。見てしまった。

ご老人のご遺体だったが「ひいいっ」と体中に電気が流れたような衝撃を受けた。

まだ、優人のおじいちゃんもおばあちゃんも元気だったのである。

次の日にはもう行かなくなった。


そうして行き着いた先は小岩で練習していた「スタジオK」で、店長は「大丈夫か?」と、半分というより、

全然優人を信用していなかったが、流れで雇ってしまった。

スタジオKは時給は安いながらもムーンハイツから近かったし、アルバイトとして働きながら、常にスタジオにいるような毎日であったので、暇な時には、スタジオのピアノを弾いてピアノの腕を磨いたり、ギターをいじくったりして、作曲や作詞に役立てることが出来たので、優人には好都合であった。

しかも、バンドは相変わらずスタジオKで練習していたので、わざわざ通う必要のない優人にとっては一石二鳥であった。

ジャンキー集団のオクやステューピッツもスタジオKで練習しており、

健や浩二、越後といったメンバーに覚醒剤やら、アシッドといった、良からぬ薬を薦め、

メンバーも、その悪魔の薬を快く受け入れた。

優人達はいくらかの金を払い、よく一緒にトリップした。


例えば優人がマリファナを吸って演奏すると、ベースの音だけが異様によく聞こえたり、

ドラムの音だけが大きく聞こえたりして、グルーブの中にどっぷりと浸かって、とても集中できた。

ほぼ無心の状態で歌うことができた。

しかし、優人は酒の方が好きで、ライブの次の日には必ず向かえ酒をするようになっていた。

スタジオKのアルバイトのときでも酒臭かったが、

「いや~夕べの残りで・・」

と誤魔化した。


健は覚醒剤を好んだが、服用している時には傍から見ても明らかに眼光が鋭くなっており、とにかくギターを弾くのに集中していた。

健は一人で三十時間もギターを練習したこともあったが、手がぼろぼろになり、

その後は三日間寝続けたりして、みんなに迷惑をかけることもあった。

越後は特にドラッグにはハマらなかったが、みんながやるときにはマリファナくらいは吸った。

浩二もドラッグは好きであったが、この頃は越後と同じ程度であった。

まだ特に問題は無かったが、そんな一年が早々と過ぎた。


大久保率いる枕草子も相変わらず、地道な活動を続けていたが、タンツリほど派手な活動ではなく、

客がいなくても自分達の信じる音楽を淡々とこなしているような日々だった。


帰国後、約一年が過ぎた頃、今度は千葉県の成東海岸の海の家でハコバンをやらないか、という話が舞い込んできた。

またしても、シンシアの話である。

聞けば、成東海岸の海の家で、客寄せのために毎晩演奏すれば良いらしく、

六・七・八月の三ヶ月間、マンションのワンルームで、皆で泊り込み、報酬は月に一人十五万円という話であった。

しかも、はす向かいには女子医大の寮があり、演奏すれば、毎日がうはうはの日々であるという話であった。

越後は少し悩んだが、馬鹿四人はまたも二言返事でOKした。

「マネージャー」亮子は反対したが、事後報告だったし、パパスでの定期的なライブは続けるというこだったので仕方なくOKした。

亮子はもともとシンシアのことは斜めから見ていた。

一九九二年の夏のことである。

六月に機材を持ち込み、準備をした。

「メグミ」と名づけられたその海の家は、いわゆる畳やゴザといった和風な趣とは違い、

白いテーブルに白い椅子、全体が丸い建物で真ん中にカウンターがあり、

その上の高い場所にステージがあるという、洒落た建物であった。

しかし、五月末に楽器を持ち込んだ初日には、もの凄い豪雨で、「ザーーーーー」という雨の音が白いビニールで出来た屋根を叩いていた。

もともとこの話はシンシアが持ってきたとはいえ、その上に出資者がおり、

おそらく、その出資者はヤクザかなにか、左ハンドル車に乗った柄の悪い人物に思えた。

しかし、演奏をするだけで月に十五万円という話は魅力的だったし、向えの女子医大の学生も放ってはおけなかった。

結局四人は成東のマンションに一時的に引越し、またもや野性的な生活に入るのであった。

六月の海は人もおらず、白いステージの上で演奏はしていたものの、

お客さんや女子大生は一人も来ずに、ただただ演奏を続けた。

それはほとんど、練習に近かったし、いろんなジャンルの曲をカバーするのにちょうど良かった。

ごくたまに、女子大生がその音を聞きつけてやってきたが、

言葉は悪いが、皆ブスであり、たいがいの客はデブであった。

「話が違う!」

タンツリのメンバーはまたしてもシンシアに喰ってかかったが、やはり、シンシアの訳の分からない口車に乗せられ、

海開きはまだだから、という理由で落ち着かされていた。

しかし七月に入り、五日には実際に十五万円をもらうと、がぜんヤル気が出てきた。

七月二十日に海開きが行われる予定だったが、ポツポツと人が来るようになった。

メンバーは夜演奏すれば良かったので、昼間は海に入り、午後には演奏した。

曲目には実にお遊び的感覚の曲も選ばれた。

例えば、浩二が歌う、CCRの「雨を見たかい?」であったり、

越後が歌う、チープトリックの「サレンダー」であったりした。

健はストーンズの「ハッピー」というキースの歌を歌った。

それはそれで楽しく、単純に演奏を楽しむ、良い息抜きになったし、その後のダローネでの演奏にも計らずとも役に立った。

亮子は初めから、シンシアの話には慎重になれ、と言っていたが、パパスでの毎月のライブの日やその他のライブにはタンツリ号で渋谷新宿に赴いていたし、ダローネにも成東に行くということは伝えてあったので何も問題がなかった。


ある日、浩二は案外に歌のうまいことに気付いたメンバーは浩二にもコーラスを取る為にマイクを常備させて練習をしよう、という話になり、優人の実家にあった古いアンプを試しに使ってみてみてはどうか、という話になり、

そのアンプとスピーカーにマイクをつないだ。

浩二の座っている顔の位置にマイクを持っていき、浩二がテストをして口をつけたその瞬間であった。

「バチ!」という大きな音がし、壊れたようであった。

浩二は「いてっ!」と言い目を大きく見開いたまま放心状態で口の辺りをおさえた。

みんなビックリして浩二を見ると、髪の毛が十本くらい立っていた。

感電したのである。

「大丈夫?」

優人は聞いたが、内心では感電すると髪の毛ってほんとに立つんだあ、と感心していた。

「あ~!いって~!なんだよ今の?」

浩二には何が起きたのか分かっていないようであった。

「ぶっ壊れたみたい、ごめん浩二・・・」

優人は申し訳なさそうに謝った。

健と越後はけらけらと笑っている。

アンプは確かに電源が着かなくなり壊れていた・・・

これで、浩二のコーラス参加は無かったことになった。


成東にて優人達は昼は昼で海で遊び、夜は演奏をしながら、カクテルを作ったり、

生ビールの缶を入れ替えたりして、飲み放題であった。

「サイコーだね」

健はサーフボードをどこからか仕入れ、昼間に「ザーザー」という海で何回か挑戦したが、

たいがい口から血を流し帰ってきた。

健は初めてサーフィンというものに挑戦したが、完全に失敗に終わった。

他の三人は特にサーフィンには興味はなさそうであった。

今回のハコバンの話は、彼女連中も割合と楽しみにしていたので、順子や葵、由美とカーさん達も当然遊びにきた。

噂を聞きつけた、枕草子の連中や、剛やカズも遊びに来た。

また、熱心なファンであったタイガーや双子、チビデブスなども時々遊びに来た。

そういった来客は時にはマンションに泊まり、時には日帰りで遊んでいった。

が、亮子がわざわざ成東までくることは無かった。

この頃には熱心なファンも多かったのでメンバーはいろいろな場所でいろいろな女性と遊んだ。

彼女連中は時々は来たが、ほとんど危険な状況ではなかった。

「リゾラバ」というリゾートラバーという言葉の略が流行っており、集団生活においては部屋に帰ってこないメンバーがいれば、

「ああ、リゾラバね」という程度でお互いに気にしなかった。

なにしろ、太平洋の海のそばに、雑魚寝ではあるがタダで泊まれてお金まで貰えるのである。

しかも、若く、人気者になりつつある彼らにとっては遊びたい放題ではないか、全く以って羨ましい。

戸田屋や、パパスの連中から見ればそんな話であった。


しかもシンシアはここでも、いたりいなかったり、という態度であった。

が、メンバーにとってはどうでもよかった。

ある日の午前中に浩二が「メグミ」でホットコーヒーを飲み、海を眺めていた。

いつになく波が穏やかで、爽やかな日であった。

浩二は温かいコーヒーを白いコップで飲みながら海を眺め、満足気であった。

その姿は、まるで哲学者のようである。

優人は近くの違うテーブルで宇宙の本を読んでいた。

そこへ、ツカツカと先のとがったブーツを履いた健がやってきて

「オメー、コーヒー飲んでんじゃね~よ!」

と、例の高い声で浩二に先制パンチを喰らわせた。

「なんだよ!いいじゃねえか、コーヒーくらい飲んだって!」

浩二はびっくりしながら反論した。

「良くねーよ!毒だよ毒!」

何か気に食わないことでもあったのか、健は浩二に早口でつっかかった。

「うるせーよ、この野郎!」

浩二も反撃したが、多分健には哲学者のように浩二がコーヒーを飲んでいる姿が気に食わない、というその理由だけだったのであろう。

「毒だよ!ど、く!」

「毒じゃね~よ!」

「毒だよ!」

「毒じゃね~よ!」

優人も近くのテーブルで本を読んでいたのだが、この二人の永遠に続きそうな会話を眺めて、

あまりにくだらなさ過ぎて、止める気にもならず、その場を立ち去った。


少し暑くなり、ポツポツと人がくるようになったが、海開きは二十日も先であり

「メグミ」は海の家の中でも、遊泳場所から一番遠い場所にあり、人はまばらだった。

「メグミ」には他にもスタッフがおり、「佐藤オヤジ」という小柄なヒゲのコックさんと、

ホール担当の女性がいた。

おそらく総予算は月に百万程度と思われ、人権費はそこから出ていたようだ。

佐藤オヤジとホールの女性は、優人達とは別の所に住んでいたが、

メグミで毎日顔を合わす為、すっかり仲良くなっていた。

昼飯や夜飯は佐藤オヤジが作ってくれ、大体メニューは決まっていたが、

カツ丼かラーメンといった簡単なものだった。

佐藤オヤジは健のことをいつの間にか酋長と呼び、ご飯ができると

「お~い、酋長!ご飯できたぞ」

と叫び、皆を集めた。

その声を聞いた四人は、猿のエサの時間のようにウヒョウヒョと集まった。

佐藤オヤジの料理は、たいしてウマくはなかったが、タダなので文句一つ言わずに食った。

しかし、あまりに客が来ず、しかも優人達は勝手にビールを好き放題飲んでいたので、

「大丈夫なのかなあ?この店」

などと越後や浩二はたまに心配していたが、健と優人は知らんぷりであった。

そのうちに、昼は漁業を営む家の息子、北澤兄弟という二人が毎日顔を出すようになり、

お金を払って酒を飲んでいってくれた。

タンツリの四人はすっかりこの兄弟と仲良くなり、

彼らの持っていた二人乗りの四輪バギーを借り、交代で夜の砂浜を走った。

皆、十連発の打ち上げ花火を手に持って、バギー二台を走らせてお互いに撃ち合うという面白い遊びをした。

命中こそしなかったが、顔の真横を飛んでいく赤や緑の火の塊は非常に恐ろしく、

まさにスリリングな遊びであった。

「ぶううん!ぶうんん!」

パンパンパンパン!

「ワ~!おっかねえ!」

「いくぞ!十三連発!」

等とほぼ毎晩のように叫ぶこの六人は、一体全体ナニモノなのだろう、と地元の人は思っていたに違いない。

そしてここでもカーさんが問題を起こした。


ある曇った日に遊びにきていたカーさんら、彼女一行は、佐藤オヤジに飯を注文した。

やはり、カツ丼や唐揚げといった軽食であったが、カーさんの下には唐揚げが出てきた。

カーさんはその唐揚げを食べ、また、完全に火が通っていないことを知ると、

佐藤オヤジを呼びつけ、またしても唐揚げを投げつけ激情した。

カーさんは唐揚げに対して、何か執着があったのかも知れない。

佐藤オヤジは初めびっくりした様子だったが、そのうちに今度は佐藤オヤジが逆上し、

パートナーである越後をたいして広く無い厨房に呼びつけた。

「なんだ、あの女!お前の彼女か!」

「そうだけど・・・」

「なんだって唐揚げを投げやがる!人がせっかく作ったのに!」

見ると、頭は油だらけで、ビーダマが入る程鼻の穴を膨らませ、顔は怒りにより真っ赤だった。

越後も困ったなあ、という様子で

「それは・・・火が通ってなかったからでしょ?」

騒ぎを聞きつけた優人と、浩二も厨房に駆けつけた。

「まあまあ、そんな怒らずに」

優人は言ったが、佐藤オヤジの怒りは収まらないようだった。

「うるせえ!この野郎!なんだ、あの女!俺に唐揚げを投げつけてきやがって!」

「アバズレじゃねえか!」

「だからあ!そうじゃなくて!」

普段は温和な越後も興奮し出していた。

厨房の佐藤オヤジの手元には包丁が並んでいた。

浩二も優人も必死になだめた。

「酋長を呼んで来い!」と佐藤オヤジが言うので、浩二が健を呼びに行った。

その間も佐藤オヤジと越後の口論は収まらず、まさか佐藤オヤジが包丁に手を出すのではないか、と、

優人はヒヤヒヤした。

「なんで俺なんだよ・・・」

と健はブツブツ言っていたが、

結局流血沙汰にはならず、健がなだめ、佐藤オヤジの怒りも収まったようであった。

最終的には「調理人として申し訳ない」と佐藤オヤジが謝ったのだが、

ここでも凄まじきカーさんのパワーが炸裂し、また健の親方ぶりも発揮されたのであった。


そんな日々が続き、海開きの日に入った。

ところが、間もなく「メグミ」は閉店する、というシンシアからの通告があった。

まだ海開きも始まって間もないのに、経営者は見切りを付けてしまったのである。

「はあ~?」

「一ヶ月間、俺達何やってたんだ?」

優人や浩二は話した。

もしかしたら、閉店はしないで、ハコバンだけを辞めるという話だったのかも知れなかった。

四人でしこたま酒を飲み、客の一人も来ないのでは当然である。

越後と浩二の予感は当たった。

しかし、金はちゃんと貰えたので別に四人にとってはどうでも良かった。

七月の中頃に四人はマンションを引き揚げさせられた。

引き揚げることが決まって、しばし荷支度をして、北澤兄弟との別れを惜しんだ。

最後に北澤兄弟の家に泊めてもらうことが出来、広い倉庫のような部屋で雑魚寝をした。

その中にはメンバーはもちろん、ファンなのか友達なのかよく分からない女の子もいた。

当時はいつもこんな感じだった。

どうやら、北澤兄弟の家族には内緒らしく、北澤の兄の方が指を一本口に当て、静かにするように言われた。

なるべく声を低くして皆で酒を飲んだ。

そうして皆倒れるように眠った。


優人はその倉庫のような場所で何故か朝五時に目が覚めてしまい、横に寝ていた見知らぬ女に入れてしまった。

そしてフルチンのまま北澤家の玄関口で水を浴び、股間などを流した。

隣の家のオバちゃんと目があってしまい、バツが悪かったが一応会釈だけした。

そして部屋に戻ると、まだみんな寝ていたので、優人ももう一度寝た。

十時くらいであろうか、皆なにやらバタバタと騒いでいる。

北澤家のオカンが怒っていたのでる。

「ここはあんた達の泊まるとこじゃないんだよ!」

「早く出ていきな!」

もの凄い見幕で怒鳴り散らしていた。四人はそそくさと家を出た。

北澤の兄が言うには、オカンは四人のことを日本人だと思っていなかったらしい。

四人は一ヶ月も海にいたため真っ黒に日焼けし、髪も長かったので、そう思われても仕方が無かった。

アメリカにいる時と同じ、長髪の真っ黒い四人である。

しかも一人は長い髪の毛にミサンガをぶらさげている。

しかも、優人がフルチンで水を浴びているのを隣のオバちゃんに見られたのが良くなかったようである。

優人が会釈をした時には、オバちゃんはにこやかに笑い返してくれたように見えたのだが。

しかし朝、隣のオバちゃんに北澤のオカンが、

「何故見知らぬ外国人を泊めているのか?」

という質問をされたのは容易に想像できた。

兎にも角にも外国人に見える四人とその仲間は追い出されてしまった。

それでも、北澤兄弟にはバギーの事やこの一ヶ月間に深くお礼を言い、

「また、遊ぼうね」

と言って別れた。

女の子達は成東の駅で降ろし、タンツリ号を飛ばして、それぞれの家に着いた。

金は二ヶ月分もらったので、シンシアにこれといって文句は言わなかった。

しかしいつもシンシアの持ってくる話には禄でもない結末が待っているなあ、

四人は口々に話し、首をかしげた。

四人は元の生活に戻った。


このころから、由美と優人はムーンハイツ一〇一号室に完全に同棲するようになっていた。

二階の二〇一号室に越後が住んでいたので、カーさん達とよく遊び、楽しかった。

よく、パーティと言うほどのモノではないが、優人と越後、その彼女は集まって食事をした。

カーさんや由美が簡単な料理を作って出し、ワインやら焼酎やらを飲んで楽しんだ。

確かにカーさんの作る唐揚げにはきちんと火が通っていた。

優人はどうすればキチンと火が通るのかカーさんに聞くと「心を込めて料理する」ということだった。

なんとなく深いな、と優人は感じたのである。


浩二はパワーハウスを引き払い、高円寺のアパートに引っ越してしまった。

都内の方が良いアルバイトがあるから、という理由であった。

健は相変わらず小岩にいたが、小岩の貸家は広かったので、ザ・オクのメンバーやらが溜まったりしており、

相変わらず薬物を盛んにやっているようだった。

しかし四人とその彼女達はほとんど一緒に行動していた為、家はあってないような物であり、

ほぼ毎日、誰かの家で雑魚寝して、昼間はアルバイトに精を出した。

バンド、タンジェリンツリーはマネージャーの亮子のマネージメントによって、パパスに月一回、ダローネに週二回、その他のイヴェントに出演し、カバーも合わせるとレパートリーも大分増えた。

この頃スタジオKで、オムニバスのCDに二曲ほど参加したり、図々しくスタジオの電話やファックスを使って観客動員に勤めた。

やはり、亮子の力は大きく、バンドの集客力や名声といったものもパパスを発信地として全国的に広がっていった。

「東京にタンツリっていうかっこいいバンドがある」

そういった噂が地方にも流れ出したのだ。


もう、パパスでのタンツリの位置は有望株のバンドに成長していたので、

亮子のブッキングで、名古屋、大阪という場所のライブハウスにも行った。

今回はスタッフや彼女達を伴わず四人だけでのツアーだった。

亮子はライブの日にちだけを設定し、彼女達は連れて行かずに行ってきなさい、と言った。

タンツリ号に機材と楽器を積み、今度は国内のロングロードを走った。

しかし今回はライブの日にちも決まっていたし、シンシアもいなかった。

れっきとした「ロックバンドのツアー」だ。夜中に高速を飛ばし、西へ西へと向かった。

ストーンズやツェッペリンといったBGMも聞き飽き、真っ暗な景色とオレンジ色の明かりはは見ていても退屈なだけだし、四人は道中やることもないので、「井上運送」と書いてある、たまたま同じく名古屋方面に向かうトラックを意味も無く追いかけることにした。

交代で運転し、この時の運転は優人だった。

「井上運送」は平均百五十キロくらい出して飛ばしていた。

気を抜くとすぐに離されてしまう。

助手席から優人にハッパをかけたのは浩二だった。

「ユート!追え追え!追い抜くんだ!」

タンツリ号はそんなにスピードは出なかったが、優人は必死にアクセルを踏んで追いかけた。

越後と健はうとうととし出していた。

約三時間ほど優人が運転しただろうか、もうすぐ出口だいうころ、浩二が

「ユート!最後だ!抜け!抜くんだ!」

助手席で叫んだ。

「よおし!」優人はアクセルを目いっぱいに踏み、スピードメーターは百六十キロをオーバーしていた。

BGMはガンズ&ローゼズのセカンドアルバムだった。まるで映画「ターミネーター」だ。

右斜線に入り、ついに「井上運送」を追い抜いた。

「よっしゃ!やったぞ!ユート!」

「よっしゃ!」優人もガッツポーズをした。

しかし、追い抜いたその瞬間、またも浩二が叫んだ。

「おい!出口だ出口!」

見ると緑の看板に目的地の降り口まで五百メートルと書いてある。

素直にスピードを落とせばよかったのであるが、「井上運送に負けるな!」と浩二が横でうるさかったので、

優人はさらにアクセルを踏み井上運送を少し引き離した。すると

「ユート!ここだここ!出口だ!」

浩二が叫んだ。

見ると、すぐそこに「出口」と書いてある。

「うわああああ!」

優人は叫ぶと、ハンドルを左に切り、井上運送の目の前を横切り、出口の看板へと向かった。

「あぶねえ!」

浩二が叫ぶと、緑の看板をギリギリかわし、料金所へ向かう下り坂のカーブへと突っ込んでいった。

「ユート!ブレーキ!ブレーキ!」

優人は無言で減速に集中した。

キキキキッ、減速しながらタイヤは音を立ててカーブを曲がった。

「おおおおお!」

今度は優人が叫びながら減速すると、料金所の前に無事たどり着いた。

「はあ・・・」

優人の足はガクガクと震えていた。

「あっぶねかった~」

浩二がそう言うと、後部座席の健が騒ぎを聞き、

「どうした?」とまた前がかりになって聞いてきた。

「どうもしないよ?」

下手な言い争いを避けた浩二はそう答えた。

「お~い、やめよ~ぜ、スピードとかそういうの」

健は椅子にドスン!と腰を下ろすとそう言ったが、意外にもスピードは苦手なようだった。

そういえば健は、アメリカでも日本でも案外とスピードは出さないタイプだった。

まだ夜の開け切らない、朝の手前である。


四人は名古屋では味噌カツを食い、大阪ではたこやきの旨さに感動した。

優人は名古屋から、大阪への道中、タンツリ号を降り、越後と二人で京都に寄った。

優人は名古屋や大阪や京都は初めてであった。

高校へ行っていれば、修学旅行で来たことが出来たかも知れなかったが、

修学旅行にも行けなかったので京都には是非とも寄りたかったのである。

越後も、こと歴史においては興味があった。

二人は、さまざまな神社仏閣を訪れたが、優人が一番衝撃を受けたのは銀閣寺であった。

この寺を建てた、室町幕府八代将軍足利義政は晩年政治を執ることに嫌気が差し、

銀閣寺完成前から、ここ銀閣寺にて隠居生活を送っていたと言われている。

優人は、その銀閣に足を踏み入れると、その意味が分かった気がした。

山奥の静寂に流れる空気は明らかに他の場所とは違い、ほとんど晴れ間の見えない昼間には、

ジッと物事を考えるのにぴったりだと思った。

いわゆる、日本のわび・さびというものがなんとなく分かった。

そして、池の前には砂で出来た小さな山があり、山のてっぺんは丸く削られていた。

義政はその砂の上で晩酌を楽しんだ、という。

何も無いこの場所に一人で過ごすというのは全く以って孤独の中に身を置くということで、

何かなければ正気の沙汰とは思えなかった。

山々に囲まれたこの場所には、何かが夜な夜なやってきていたのだろう、

優人は直感した。

それは、UFOだったかも知れないし、はごろもを巻いた天女のようなものだったかも知れない。

何かは分からないが、「何か」があったはずだ。銀閣寺の異様な静寂はそう感じさせた。

それに対して金閣寺にはあまりそういった宇宙的な魅力を感じなかった。

そうこうして「哲学の道」などをわざわざ歩いたり、「三十三間堂」を見たりして、京都を出た。

京都は優人と越後にとって非常に興味深い場所であった。


泊まる場所は友達の家であったり、ビジネスホテルであったが、

ビジネスホテルに泊まるある日、優人と浩二はかりんとうを使ったイタズラをした。

二人づつの部屋割りになっており、今回は優人と浩二、健と越後という組み合わせであった。

優人と浩二は、健と越後が夜の繁華街に出かけると、ティッシュの上にかりんとうを

二本か三本乗せ、少し水をたらした。

完全なうんこの出来上がりである。


健と越後の帰るころを見計らい、入口の前にそれを置いた。

その時点で優人と浩二は大笑いして喜んでいた。

「あいつらびっくりするぞ~」

「どんな顔するかな?」

部屋の入口のすぐそばにある階段の上に隠れてわくわくしながら待った。

しばらくすると、健と越後が酔って帰ってきて、その物体を発見すると、

「わあ~!なんじゃこりゃ!」

「うを~!うんこじゃんか!」

と健と越後は予想以上に驚愕した。

優人と浩二は階段の上から、笑いをこらえるのに必死で、腹が痛かった。

「浩二の仕業だろ!」

健が叫んだ。

「あいつ、うんこしてったのか?」

「でもこれ、小さいから猫かなんかのじゃないか?」

健と越後はしばし押し問答をしていたが、しばらく眺めているうちに

「ん?」

と越後が気付いた。

越後は顔を近づけ、くんくんと匂いを嗅いだ。

「これ、かりんとうじゃないか?」

越後は持ち前の冷静さで見破った。

「これ、かりんとうだよ!かりんとう!」

健は自分が発見したように高い声でリピート攻撃をした。

優人と浩二はその時点で大笑いをしながら階段から顔を出した。

「わはははは!見事にひっかかりおったな!」

と言いながら浩二が降りていった。

「やっぱお前か!馬鹿なことすんなよ!」

健は怒ってはいなかったが、また高い声で浩二に言い返した。

「ふっふっふ、俺のアイデアだ」

優人はそう言いながら、してやったりの表情で階段を下りていった。

「ったくよ~ホテルの人に怒られるぞ」

越後が呆れ顔で言った。


しかし、このツアーも良い経験になり、山道をずうっと運転してきた彼らは関東平野がいかに広い平地か実感できたし、

徳川家康が平和を想い、日本の首都を江戸に持ってきたのも分かる気がした。


そんな名古屋・大阪のツアーの反響も良く、無事に終えて、帰ってきた四人はその年の末、

渋谷パパスにてカウントダウンライブを行い一九九三年を迎えた。


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