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十割る三は  作者: 小林 慶太
3/6

第三話)アメリカでライブをやろう!

ロック好き四人の日本人で結成されたバンド、タンジェリンツリー。

前回、ストーンズUSAツアーで知り合ったシンシアにアメリカでのライブを提案される。

が、その中身と結末やいかに・・・


古いとか、新しい、なんて、関係ないのさ



やがて時代は九十年代に突入する。


八十年代に別れを告げる大晦日にも、何かが起こるのではないかという、

おぼろげな期待と不安を四人は抱いていたが、結局何もおこらず、ストリートでカウントダウンライブを行っていた。

スリー!ツー!ワン!

「キャーーーーーーーー!」

という歓声とともに一九九〇年に入ると、ストリートに思わぬ連絡が入る。

シンシアからだ。

ストリートの岡野さん夫婦を伝って、アメリカで一週間過ごした、あのシンシアからの電話である。

「け~ん!電話よ!シンシア!」

騒音の中、岡野さんが健を呼んだ。

「え?シンシア?ロスで会った?なんで?日本にいるの?」

「そうみたいよ、ひさしぶりでしょ、何か話があるみたいよ」

健はストリートの事務所で電話を取った。

「お~~~~!シンシア!久しぶり!元気?」

健に限らず、当時の仲間はみんなこんな感じで、年の上下関係無く会話をしていた。

健の話では、どうやら、シンシアは日本に戻ってきたのでタンツリのライブに同行する、ということである。

しかも、コーラスとして参加したい、と言い出した。

皆けげんな顔をしたが、それによって何かが起きるかも知れない、という甘い考えもあったので、結局、皆で相談した結果承諾し、シンシアもたまにライブに出演したりするのだが、やはり、来たり来なかったり、という感じでこのオバハンはいったい何をしたいんだろう?という疑問の中、ライブは続くのである。

しかし、シンシアは「音楽の神」へとタンツリを導く「ミューズ」であったのである。


実は、シンシアの母は日本人で、五反田のあたりに居を構えており、シンシアの本籍は東京都の五反田で、

国際的には日本人なのであった。

その事を知ったタンツリ四人は非常に驚き、

「シンシアって日本人だったの?」「また会うとは思わなかったなあ」

などとシンシアとの再会の際、口々に話した。


しかしシンシアは運転免許証を持っていなかった為、タンツリ号を足代わりに使い、ことある事に彼らを呼びつけた。

メンバーも何か面白いことがあるのかと思い、足代わりにされているのは分かっていたが、

なんとなく上手く利用されていた。

確かに何人かの有名なミュージシャンに会えたりはしたが、それによって何かが生まれる訳ではなかった。

良く言えば持ちつ持たれつという関係とでも言うのだろうが、結局はシンシアの足代わりに使われていたのである。

また、ふしだらではなかったが、よくメンバーの家に泊まることもあり、勝手に風呂や台所を使ったりしていた。

メンバーはそれでも別に気にする程でも無かったのだが、困るのは電話だった。

「ちょっと電話かして」と一応は断るのだが、かける先がニューヨークやロサンジェルスで、

しかも英語でべらべらと長く話すので、月の電話代がいつもの倍くらいかかった。

四人はそれぞれシンシアを煙たがり、

「お前泊めてやれよ」

「いやあ今日は勘弁してくれよ」

「じゃあ送ってけよ」

「やだよ、遠いもん」

「じゃあ泊めてやれよ」

「やだよ!だって電話代高くなるんだもん!」

などという口論は誰と誰ということもなく、四人の間でよくあった。

しかし、シンシアは持ち前の図々しさで、結局誰かの家に泊まり、長電話をした。


シンシアが参加してからも、ライブは順調に進んでいった。

逆にシンシアの存在の方が邪魔な程である。

実際少ないながらも一部ファンや彼女連中の間からは、

「あのオバハン何者?」「一体なんの為にいるの?」という声も上がっていた。打ち上げの席でよく聞いた話である。


それでも打ち上げにはお客さんも全員参加、というような状態であった為、

酒の席でシンシアとお客さんや彼女連中は打ち解け、大きな誤解を招くことは無かった。

酒というドラッグは皆の仲を好くするためのモノかも知れない。

さらに優人達は、シンシアから刺激的な薬物を受け取り、数々のロックミュージシャンが辿って来たであろう道を追いかけるべく、

時には彼女連中も交えてマリファナを吸ってヘラヘラ笑ったり、覚醒剤を服用して眠れぬ夜を過ごしたりしていた。


中高生のやる、シンナーや風邪薬には興味はなかったが、わざわざ六本木に行く必要がなくなった彼らは、

LSDやらアシッドやら、薬という薬はなんでも試してみた。


中でも薬物好きだったのは健で、その頃から一人でもよく服用すようになっていたが、

他の三人も、一緒にマリファナは吸ったりした。


そんな九十年代に入り、音楽シーンはガラっと変わるかと思われていたが、

特にそうでもなく、強いて言えばレニー・クラヴィッツという黒人ミュージシャンが

八九年にアルバムを発表し、プリンス以来の黒人ロックのカリスマと祭り上げられて

九十年初頭には日本で東京ドーム公演を行うようになっていたくらいか。

しかし、レニー・クラヴィッツの音楽性は、クラッシック・ロックと呼ばれ、優人達の目指す音楽性に似ていた。


レニーの音楽性が大衆に受け入れられるということは、優人はそこでも音楽のブームというか、自分達の目指す方向性が間違っていない、また、音楽のサイクルが間違っていない自然な流れだと確信した。


しかし同時にラップやヒップホップという聞きなれないジャンルも浸透していった時代でもあった。

ラップといえばランDMCというアメリカの黒人グループがエアロスミスの「ウォーク・ディス・ウェイ」という曲を八六年にカバー曲として発表し、プロモーションビデオでは実際にエアロスミスのメンバーを起用して大ヒットした。

アルバムも二百万枚を売り上げ、ラップミュージックは大衆に広く認知されることとなり、

当時人気の衰退していたエアロスミスもこの曲を起爆剤に息を吹き返した。

日本での元祖は八六年発表の吉幾三の「オラ東京さ行ぐだ」といわれていたが、

やはりこの頃から徐々に一般的に認知されるようになってきた。


しかしタンツリはそちら側の流行りには全く興味が無く、

ラップだのヒップホップだのがなんなのかよく分かっていなかったし、一体全体どこに魅力があるのか分からなかった。

ジュリアナ東京やお立ち台などにも縁がなかった。

縁が無いというよりも「アホじゃなかろか?」という気持ちの方が強かった。

なんの目的も無く扇子や何かをヒラヒラさせて、パンツを見せたがっている。

金が余っていたようなバブル時代とはいえ、もっとマトモな発想はないのだろうか?

もっと前向きな夢や発想はないのだろうか?

そんな目でニュースなどを見ていた。

テレビでは「トレンディドラマ」というものが流行り、テレビ向けの俳優や女優が持てはやされていた。

女性は眉毛を太く書き、ワンレン・ボディコンなどという言葉も流行った。

そして道行く人々も皆、同じようなファッションをして満足していた。

優人達も、その言葉は知っていたが、なんの魅力も感じなかった。

それよりもロックで世界制覇を目指して演奏して踊る方が百倍楽しかったのである。

当時の女性達や、それに群がっていた男性達は、西暦二千年を過ぎた今現在何をしているのだろうか?


そのようなミュージックシーンとバブル絶好調を見過ごしていたタンツリの音楽性は、

原点回帰ともいえるブルースやファンク、R&B等にますます傾いていった。

CDやカセットテープを貸し合い、ライブ前のタンツリ号の中で聞き、意見を交換しあい、向上していった。


ある意味では、当時はブルースミュージックも流行りであったのかも知れない。日比谷野外音楽ステージでは

「ブルースフェスティバル」なる催しが年に一回行われるようになったし、

今は亡きマディ・ウォーターズや、バディ・ガイといった大御所のブルースミュージシャンが異様な程最注目されていた。


考えてみれば、ヘヴィメタルの輩が「俺達のルーツはロックンロールさ」と言い放ち、

そのロックンロールの連中であるストーンズやビートルズが

「俺達のルーツはブルースさ」と常々言っていたので、世代的に、ブルースがカッコイイという風潮になっていったのかも知れない。


ヘヴィメタルはその発言によって自滅し、それ以上激しい音楽はもう一般的には受け入れられなくなっていた。

ブームというものは何度も繰り返し、そうやって原点に戻ってさらに現代音楽と融合して成長していくものなのだろう。


九十年代までの音楽の成長過程にはブルースはもちろん、レゲエと呼ばれるものもあったし、

パンクと呼ばれるものもあったが、九十年代初頭は、若者にとって昔のそれらのレコードが

どれも新鮮な音楽ジャンルであったのである。


それでも、昔のレコードに共通していたのは、我々日本人にはあまり分からない人種差別的な行為に対する「反社会的」な魂のメッセージがあったであろうし、貧富の差によって生まれる差別に対する「反社会的」な魂のメッセージもあった。特に六十年代のアメリカ音楽にはベトナム戦争に対する「反社会的」なメッセージが多く含まれていた。

先人達は確固たるメッセージを込め、誰に媚びる訳でもなかった。

言いたいことが山ほどあって、そのエネルギーを音楽に集中させていたのである。

中でもジェームス・ブラウンやボブ・マーリーの黒人音楽などはまさにその典型で、

彼らの音楽はまだ「ロック」と呼ばれてはいなかったが、それこそがロックの原点だと優人達は理解していた。

だから、日本にロックは根付かない。

なぜなら彼らのような苦しみを僕たちは知らないから。

ほとんど単一民族で構成されている島国「日本国」において、

実際にはあるのだろうが、他国に比べれば差別など無いに等しい。

僕達は戦争を知らない。

生まれてから二十年近く日本で育って、差別や貧困、あるいは戦争というものを優人達は全く知らなかった。

それは、生活という意味では幸せだったのかも知れないし、ハングリー精神という意味では不幸せなのかも知れなかった。

事実、日本において「ロック」というジャンルは、ありはしたが、

皆、商業主義の中で生活しており、格好やビートは「ロック」であっても、

メロディーラインを重きに置いていたし、歌詞も恋愛に関するものがほとんどであった。

恋愛の歌が商業的に一番良い結果を残しているのは今も昔も事実である。

また、デビュー当時こそ、本当に不良であったバンドも、CDの売り上げに左右され、

結局は生き残る為に大衆受けのする音楽に変え、品行の良い、いい子ちゃんにならざるを得なかった。

ただ、RCサクセションだけは違うと優人は感じていた。

清志郎の歌詞や言動はまさに反社会的であったし、それまでの日本の音楽シーンを変えてきた人だと思っていた。

いや、それどころか日本語のロックを造ってきたバンドだ。

そういったロックのルーツや日本の音楽業界の話はシンシアからよく聞いた。

遠藤さん、岡野さん達もほとんど同じような意見だった。


が岡野さん夫婦や遠藤さんはシンシアに流されることのないように、行動を慎めと、タンツリに警告した。


優人達は、過去の例から言えば、ロバート・ジョンソンやジェームス・ブラウンにはなれないし、

ボブ・マーリーにもなれない、と自覚していたが、情熱だけは負けまい。

負けるもんか、という信念こそがロックだと自負していた。

実際に彼らはロックを愛して止まなかったし、経済最優先のニュースや、くだらないトレンディドラマなどには目もくれなかった。

世界一のロックバンドになってやる。

日本人初の世界的なロックバンドになってやる。

地図に無い道を切り開いてやる。

その想いが優人達のエネルギーの原点であった。

日本語だろうが、英語だろうが、そんなものは関係ない。

エナジーでありパッションだ。そう硬く信じていた。


八 再び米国へ


そんな信念の下、タンツリはライブ活動を続け、ライブのペースも一段と上がっていった。

月に五回くらいは当り前にこなし、週に二回の夜八時から三時間の練習も続けていた。

さらにライブ前日の日にはスタジオに入っていたので、メンバーはほとんど毎日顔を合わせていた。


由美は、一九九一年の春の朝、ムーンハイツ一〇一号室にいた。

冬を追いやり、ようやく暖かく感じられる風を感じながら、畳の上にテーブルを置き、インスタントコーヒーを飲んでいた。

午前十時、今日はブティックのアルバイトも休みである。ラジオもテレビも付けていなかった。

優人を始めとするバカ達との生活も慣れてきた。久しぶりにゆっくりと出来る時間は、由美にとって珍しかった。

優人は働きに出ている。今は運送業の仕事だ。

がしかし、とんでもないように見える優人との生活は、まんざらでもなかった。

優人は寝坊をしながらも、アルバイトとバンド活動に励んでいたし、由美もワイワイと楽しみながら、自分の仕事が出来た。

「そのうちタンツリは有名になってしまうかも知れない・・・」

ちやほやとされ出した優人を見ていると、由美の頭にはそんな良くない予感がよぎった。

「それでも優人は私のことを考えてくれるだろうか?」

そんな良くない予感が頭をよぎった。

考えてみれば、二一歳という若さだが優人しか知らない。

「もし突然、振られたらどうしよう・・・」

由美は不安になった。

特に優人にこだわることも無いはずの由美であったが、ふ、と落ち着くと、気になった。


タンツリの活動は、至極順調であった。

作詞、作曲活動にも励み、レパートリーも五十曲を超えるようになった。

どこのライブハウスでも三十人呼ぶのは平均的になっていたし、そのお客さんとの繋がりも親密になっていた。

毎回来てくれるお客さんはほとんど女性であったが、いろいろ個性的な子達がいた。

双子もいたし、三十なのに六十くらいに見える女性、

十八くらいであったが、いつも黒い服を着ていて、打ち上げの最後には毎回必ず黄色いゲロを吐いたので、

「タイガー」というニックネームを付けられた女性。

双子は「フタゴ」というあだ名だったし、六十くらいにみえる女性は「アノヒト」というニックネームが自然と付けられた。

「アノヒト」といえば、彼女しかいない。ただ、それだけの理由である。

また、小さくて太っており、不細工であった為「チビデブス」というニックネームをつけられた女性、

墨田区の八広に住んでいる、というそれだけの理由で「八広ババア」というあだ名になった三十くらいの女性。

「駒込のマドンナ」といった背の低い可愛らしい女性もいた。

それらのあだ名はメンバー間のみで使うだけで、直接本人に向かって呼びかけることはなかったのであるが・・・

可愛い子もいたし、不細工な子もいた。

だいたいタイバンをしたバンドと一緒に打ち上げをし、お客さんもほとんどその打ち上げに付いてきた。

そうして交友関係を広めていったのだが、優人に限らず、メンバーは時に酒の勢いでお客さんと過ちを犯した。

皆、彼女にはバレないようメンバー同士でアリバイ工作をしたりして工夫した。

「駒込のマドンナ」をモノにしたのは健であった。

その話を後日聞いたメンバーはひどく怒った。

「なんで、あんな馬みて~な顔したやつがよ~」

「駒込さんも趣味がわるいな」

「順子にばらそうか?」

等と言いたい放題で、しばらくの間、スタジオで険悪な時期があったが、そんなことは日々に追われ、すぐに忘れてしまったのである。


そんな風に時々は問題になりながらもバンドとしては集客力に有効であったし、何もマイナスになることはなかった。

もう、タンツリのメンバーにとってこんなライブ漬けの生活が当り前になっていたし、自分たちの好きなことをやっているだけで、

なんの苦痛もなかった。これが「仕事」になればどんなに幸せだろう。

そんな風に、太陽のような、エネルギーの塊である彼らは日々世界制覇に向けて何も疑わずに頑張っていた。


新宿や渋谷でライブをやり、飲みすぎた夜には、タンツリ号を見捨て、たいがい朝まで飲み、始発、もしくは昼頃の電車に酔っ払って乗り込みそのまま熟睡し、総武線の三鷹から千葉を何往復もした。

そんな日は誰かがタンツリ号に乗って帰っていた。

始発で乗り込むときには良いだろうが、ラッシュ時に金髪の男がグダグダと椅子で寝ていたら、迷惑だったに違いない。

しかし、そんなこともお構いなしであった。

また、終電でやっとこさ本八幡駅に着き、ウンコをゆっくりしたかった優人がトイレにこもっていると、

「お客さ~ん!頑張って~!もうシャッター閉めますよ~!」

と駅員に叫ばれ、そそくさとお尻を拭いたこともあった。まったく腹立たしい。

JRなんて「国鉄」のお下がりじゃないか。民営化されたんだから客を大切にしろよ!


また、満員の終電で優人が「すかしっ屁」をした時には、酔っ払いのおっさんがあまりの臭さに怒り出し、

「お前か!?」

「お前が屁をこいたのか!?正直に言え!」

などと、四方八方の立ったままの乗客の乗客の襟首をつかんだり、とクダを巻いている酔っ払いの光景も目に焼きついた。

「いくら俺の屁が臭いからとはいえ、あんなオヤジにはなりたくね~な」

もし「本当は自分が犯人です」と言えば大騒ぎになったかもしれな。、オッサンの勢いに負け、当時の優人には言えなかった。


そんなこんなでライブの動員数が増えるに連れ、タンツリのメンバーは皆、優人と同じような経験をしながら

自分達の夢に向かって確実に階段を登っていることを感じることが出来た頃なのである。

都内で同じように活動する、よきライバルになっていた枕草子の動員が伸び悩む中、どことなく優越感もあった。


そんなある日、シンシアがまたもや、パパスの演奏終了後、楽屋でとんでもない話を持ちかけた。

アメリカでライブが出来るというのである。

場所は思い出深いロサンジェルスという話である。

「どうせシンシアの持ちかけ話だろ」女性陣や枕草子は言った。

本当かどうか分からなかったが、やはり調子に乗っていた四人にとってはワクワクする話であった。

「どうする?」

浩二は優人に聞いた。

「行ってみたい気もするけどね」

健は

「出来るよ!絶対出来るに決まってるじゃん!なんでみんなそんなとこで躊躇するんだよ!」

と、例の甲高い早口の声で叫んだ。本当に単純で明快な男である。

越後は無言でベースをアンプも通さずに弾いていた。


しかし、他の三人も単純である。健のその言葉に後押しされ、アメリカでやってみたい!

馬鹿四人はまたもパワーハウスで相談し、早々に決心した。無知という程強いものは無い。

もともと世界制覇が目的であったし、アメリカでどの程度このバンドが通用するのか体感したかった。

ライブがいつどこで出来るとか、具体的な話は一切無かったが、日米を何往復もしているシンシアなら本当に出来るかも知れない。

どんな小さな場所でもいいからやってみたい。そんな衝動が四人を動かした。

一九九一年七月のことである。


今回は全部で二ヵ月という長旅である。

その噂を聞きつけた戸田屋の仲間、中澤剛と小野一之もアメリカへ行ってみたい、

と言い出し、参加することになった。

この剛と一之は「ガラスホーム」というバンドをやっていて、健や浩二と同じ年で、

タンツリともよく千葉で一緒にライブをする仲間であった。

ガラスホームもビートパンクとは一味違うバンドで、ブルースを基調としていたが、

ロックとも言えない独特の音楽のスタイルであった。

剛はギターを担当していたが、他の楽器もうまくこなす、マルチプレーヤータイプの

全体的に体毛の濃い男で、一方の一之はドラムを担当していた。

一之は通称カズと呼ばれ、非常に純粋な心を持った、素直な男であった。

由美やカーさんといった彼女連中は、

「そんな話シンシアの嘘に決まっている」

と、女性らしい現実的な意見で、一緒に行くなど以ての外、という態度だった。

葵だけは「行ってきなよ!面白そうジャン!」とはしゃいでいたが・・・

かくして、優人、健、浩二、越後、剛、カズ、そしてシンシアの七人が、今回のロサンジェルスツアーのメンバーになった。

前回の旅は分割払いだったが、今回はいくらかかるのか分からないので、優人は幼少の頃からお年玉などを貯めていた郵便局の定期預金を解約し、約二十万円ほどを今回の旅行の為に用意した。

優人の両親も「学費に金がかからなかったから」という理由で、またもその旅を許可した。

というようりは、なんか頑張っているらしいから、放っておけ、という感じであった。

他のメンバーも似たような方法で、どこかから金を集め、旅行代に充てた。

優人以外は二つ年上だったので、もっと大人な理由で金を用意できたのかも知れない。

日程が無理やりのように決まると、丸々二ヵ月、ライブの予定は入れずに、優人にはアメリカのことばかりが頭をよぎる毎日であった。

また、あのカラッとした風を浴びたい。なんとも能天気なあの街に行きたい。

そしてアメリカ人を自分達の音楽で躍らせたい、虜にしやる。そんな強い想いでいっぱいだった。


この頃盛んにライブ活動を行っていたタンジェリンツリーが、二ヶ月もライブをやらないということは、大変な噂に成り得る話で、

戸田屋の仲間うちでは、あいつらアメリカでデビューするらしい、とか、アメリカでレコーディングをしてくるらしい、

はたまた、テレビ番組の収録でアフリカの原住民を追いかけに行くんだって、

いやいやUFOの取材だってよ、といった、ある話ない話が容赦なく飛び交っていた。

由美やカーさん、順子も同じような噂話をしていたが、葵だけは

「凄いじゃん!アメリカでライブができるなんて!私も行きたい!行きたい!」

とまたもや自分のことのようにはしゃいでいた。

浩二は「まだ分からない話だからさあ・・・」と興奮する葵をなだめた。

そして巷の噂話は当人達は知りもせず、総勢七人は日本を発った。

今度は真夏の西海岸である。


またも飛行機内で「ぬををを~~」と叫び、

空港に降り立った七人は、前回のようにシンシアの手配と思われるキャンピングカーに乗り、市街地へ向かった。

しかし今回は運転手はいなかったので、珍しく浩二が運転を買って出た。

「俺運転するよ!」

このキャンピングカーは運転席の上にベッドがあり、トイレや簡単なキッチンの着いたスグレモノだった。

「ロックバンドのツアーが行くぜ!」

「アメリカじゃん!アメリカじゃん!」

「この車で生活できんじゃん」

皆、口々にはしゃいでいた。

早速どこからか入手したマリファナを一服した健が、道中

「ここ前来た時通ったね」

と、越後と話していたが、優人は道なぞ全く覚えておらず、デューティーフリーで買ったマルボロを咥えながら、

健と越後の記憶力と、アメリカのでかさに再び感心していた。

というよりも、優人が物凄い方向音痴であったのである。剛とカズにとっては初めてのアメリカだったので、車から外を眺める様子は

ちょうど四人が初めて来たとき様子に似ていた。

しかし、剛には少し負けず嫌いな面があり、どうという事はないな、という顔を作っていた。

顔は作ってはいたが、やたらと早口で「あ~腹減ったな」とか「ビールがウマそうだな」

等と口数が多くなっていたので、本当は嬉しいんだろうな、と優人は口には出さなかったが感じていた。

カズは素直に「ここがアメリカなんだね」と感心していた。

しかし、キャンピングカーは誰かの借り物だったらしく、間もなく撤退させられ、

まず初めの一週間はハリウッドのホテルに泊まった。

シンシアは例のごとく現れたり消えたりしていたが、六人はシンシアが各ライブハウスとアポイントを取っているものだと思い、

ハリウッドの安いホテルにてただの観光客と化していた。

夜な夜な缶ビールを飲み、馬鹿話をして、次の日には仕事も何も無いのだから、楽しくて仕方がなかった。

訳も分からず、シンシアに連れられ、グランドキャニオンに行ったりもした。

グランドキャニオンの光景はまさしく見事で、優人は改めて大自然の凄さを思い知った。

そして、レストランで昼食をとり、ワイルド・ウィング(手羽先)を頼んだのだが、出てきてさらにビックリ仰天した。

バスケットボールより大きい、大きなお皿に手羽先がこれでもか!という程山盛りに乗っかっている。

ご飯やパンは一切無い。

「これだけで食えってのか?」まさに、信じられなかった。

しかも、味付けは濃く、とてもじゃないが、こんな物一人では食えない。

しかしこれで一人前だ。みんな太る訳だよなあ。

結局皆で分けて食ったが、お国が違えば、全て違うということを前にロサンジェルスに来た時も思ったが、今回はさらに驚いた。


はじめの頃は六人はハリウッドのホテルに雑魚寝をした。

またしてもバドワイザーを買い込んで飲んだ。

しかも六人で、だ。いくらあっても足りない。しかし男だらけとはいえ楽しかった。

剛とカズも、はしゃいでいた。


そうしてシンシアに連れられ、現地のライブハウスに行ったり、自分達の意思でストリップ小屋に行ったりした。

そういった夜の繁華街には、キャーキャーと金髪のネーちゃんやら、黒人のネーちゃんやらがたくさんたむろしていた。

日本で売っているCDを買ったこともある、ある意味では憧れのアメリカのミュージシャンらがうろうろしていて、

握手を求めたりした。

若い彼らには十分刺激的であったが、それだけで、特に収穫といったものはなかった。

ただ、トイレに入ると、またもや驚いた。

大便用のトイレにドアがないのである。しかしコンドームの自動販売機が置いてある。

おそらく薬物やセックスを防止するためのものであろうが、こちらがうんこをしているのに、

わざわざ目の前に来てから「オー!ソーリー!」とか「ハ~イ」だとか話しかけられては、とてもじゃないが、ゆっくりできなかった。

「ゆっくりさせない」ことが目的なのかもしれないが、ならばどうしてコンドームの自動販売機があるのか分からなかった。

昼間にベニスビーチに行ってもドアはなかった。

ベニスビーチでは強い太陽の下、まことにいろいろな人達がパフォーマンスをしており、大道芸人のような人や、

インドの楽器を楽しそうに弾く人、また新型のローラースケートを操ってビーチを物凄いスピードで駆けていく人達などが大勢いた。

もちろん海には入れたがビーチ自体が日本の倍以上か、それよりももっと物凄く広かったので、

四人はふらふらとビーチを歩いている方が多かった。

優人はその中でもヒッピーのような白人に、三つ編みを頼んだ。

三色で優人の十五センチくらいある後ろ髪に編んでくれるというのである。十ドルだと言うので、頼んでみた。

「何色がいいか?」と英語で聞いてきたので「白と緑・・・ああ、それと紫も入れて欲しい」

と答えると「紫はヘヴィメタルの色だから良くない」というようなことを言ってきたので「じゃあ紫を青に」ということで合致した。

十分くらいでその三つ編みは出来上がり、優人は結構気に入り、全部で三本編んでもらった。

白、青、緑、のコンビネーションは優人が元々好きな色合いであった。

日本に帰っても、そのミサンガのような三つ編みは彼のお洒落、というよりも優人のトレンドマークの一つになった。

帰国後は由美がその編み方を覚え、定期的に編んでくれるようになったのである。紫も入るようになったが・・・


また、今回の目的の一つであった楽器の購入もした。

一番興味を示したのは健で、本場ロサンジェルスで買うエレキギターには興味津々であった。

また、剛もアメリカ産のギターやベースなどには興味があるようだった。

数件の楽器屋を巡り、健は一本のフェンダーのストラトキャスターというギターに目が行った。

フェンダーというメーカーにも、車のようにフェンダージャパンとフェンダーUSAがあり、

当然、アメリカに置いてあるフェンダーUSAの方が高価だが、ギタリストにとっては魅力的であった。

ギターメーカーとしてはギブソンとフェンダーというのが二本柱で、

どちらも甲乙付けがたいのだが、ギブソンはレスポール、フェンダーはストラトといったイメージがあった。

どちらも形によって分けられたが、レスポールはへヴィメタルのように重い音を出すのに適し

一方のストラトは生音を生かした、カントリーやブルースといった音楽に適していた。

もちろん、どちらも同じギターという楽器なので、どちらを使わなければいけない、

という決まりはなかったが、その音質から多くのギタリスト達が使い分けていた。

例えると、レッド・ツェッペリンのギタリスト、ジミー・ペイジはレスポールがトレードマークであったし、

ストーンズのキースやロニーはストラトや音質の薄いテレキャスターのイメージが強かった。

勿論、他にもテレキャスターやフライングV、ファイヤーバードなどといった他の形もあったが、

主にレスポールかストラトに分けられた。

健はすでに、ギブソンのレスポールを持っていたので、ストラトやテレキャスターを重点に見た。

フェンダーUSAのストラトは日本で買うと物凄く高価なものであったが、

本場アメリカではびっくりするような金額ではなかった。

健は吟味した結果、一本の黒い中古のストラトキャスターを五百ドルで購入した。

しかし、日本とアメリカの湿気の違いのせいで若干の音色の違いが生じてしまうということであった。

しかし、健もミーハーな部分は持ち備えており、アメリカで聞くストラトの音色の誘惑には勝てなかったようである。

そんな健のギターも帰国後はもちろん大いに活躍した。

剛もいろいろ物色したが、購入にはいたらなかった。

剛は、アメリカでギターを物色したというその行為自体に満足していた。

優人も、アコースティックギターの購入を予定しており、健ほど入念ではなかったが、

オベイションというギブソンの子会社のアコースティックギターを二百ドルほどで買った。

優人と健はこのアメリカ旅行の際にはいつもここで買ったギターを持ち歩くのである。


一週間、そんな生活を満喫して、

今度六人はマウント・ワシントンという小高い丘の上にある、ヴィクトリアというおばあさんの家に連れて行かれた。

ヴィクトリアは、マリファナを吸うと人体にどのような影響を及ぼすとか、

その他の薬物に関しても研究し、論文を書いて発表する、という先生のような仕事をしている人だった。

白人女性でほとんど白髪であった為、年齢こそ六十前後に見えたが、

とても元気で愛想も良く、優人達にも優しく接してくれた。

ヴィクトリアの家は百坪ほどあり、丘の上に建っている為、とても眺めが良かった。

一階の広間にはグランドピアノが置いてあり、ガラスはステンドグラスであったので、

日中、西海岸の日差しの中ふとみると、凄く神秘的に輝く広間であった。

当然のごとく、優人、健、浩二はグランドピアノをいじった。

その、、ヘタクソだが心地良いピアノの響きは、ステンドグラスの下、六人の心に感動をもたらせた。

それに、真夏の日差しはとても強く、ギラギラとした太陽が木々を照らし、

葉っぱも日差しを跳ね返すようにギラギラと萌えていた。

ヴィクトリアの家にはお手伝いのようなアレックスとジョンという若い黒人男性が二人住んでいて、

特に優人達の世話役をするわけではなかったが、彼らもまた優しく接してくれた。

しかし、シンシアに事情を聞くと、アレックスの方は、純血のアフリカ系黒人だそうだが、ジョンは白人二人の夫婦の間に生まれながら、肌の色が黒かった為、両親はお互いに浮気を疑い、ジョンが理由で離婚したのだという。

ジョンは行く所が無くなり、路頭に迷っていたところをヴィクトリアに救ってもらったという話だった。

優人は、日本ではそんな話は考えにくいな、と思うと同時に、どうして、浮気もしていない白人の夫婦から黒人が出てくるのだろう?とすごく不思議に思った。少なくとも優人の同級生に、そういった例は無かった。

確かに、日本人の両親から生まれたのに外国人のような顔立ちの友人はいたが、肌の色までは違わなかった。

しかし日本人でもそういったケースはあるらしく、実際にシンシアの廻りにいる友達の例を聞いて、

遺伝子の突然変異か何かかと深く考えさせられた。

本当は浮気かも知れないし、真実は分からなかった。


ジョンは、その生い立ちの為か、愛想こそ良かったが、内心では我々日本人を嫌っているのではないか、

と感じさせるような態度をしばしばとったりした。

まだ、お金のことを気にするほどでもなかったが、兎にも角にも立派な家にただで辿り着いた六人である。

まずはグランドピアノを弾いてみたり、あちこちでごろ寝をしたり、わざとではなかったがトイレを詰まらせたりした。

ヴィクトリアも優しかったとはいえ、限界というものがある。

優人がピアノを誰彼構わず弾いていると、「エクスキューズミー!」と怒鳴ったり、健と浩二がごろ寝をしている傍へ寄り、

「ウェイクアップ!」と叫んだりと、三日目あたりから、かなりしびれを切らすようになっていった。

シンシアには「お願いだからあの坊や達をどうにかして」と懇願していたようである。

優人達はヴィクトリアでなくシンシアに怒られた。

「あんた達お行儀良くしてなさいよ!」

「そんなこと言ったって、別に寝室が用意されてる訳でもないじゃん」健は反論した。

剛とカズはほうほうの体であった。

そんなこんなで、ヴィクトリアの家には二週間ほど滞在した。

食は主に大型スーパーで買ってきた日本製のインスタントラーメンや、近くで売っているタコスやハンバーガーであった。

ヴィクトリアはキッチンやシャワーを快く使わせてくれたのである。

タバコと酒は、マルボロとバドワイザー。当時は大して高くなかった。

しかし、その二週間は非常に色濃い日々であった。


実は、マウント・ワシントンは原住民(インディアンと呼ばれるネイティブアメリカン)

達の間では「聖なる丘」と呼ばれ、古くから神と接触する場所だと言い伝えられてきていたそうだ。

ヴィクトリアがあえてその場所を研究や執筆の場所に選んだのかどうかは定かでないが、なんらかの関係があったようであった。

シンシアは優人達にドラッグを薦めた。

「世界が平和になるのを望んでるんでしょ?」

この悪魔の囁きのような言葉によって、

マウント・ワシントンに着いてからは、毎日のようにアシッドやらLSDやらを薦められ、服用していた。

優人達は度々、

「雲が手になって僕らをつかもうとしているよ」とか「木の中でパン屋さんがパンを作っているよ」

という幻覚を見たり、カリフォルニアの太陽の下、大地のエネルギーによって立ち上がれない、

といった不可思議な発言や行動をとっていた。


剛とカズも同じように、これがドラッグというものかあ・・

と夏休みの自由研究に来たように自ら体験し、そして客観的に見ていた。


ある日ヴィクトリアに勧められ、マリファナを服用した日本人全員は、

「チャクラ」という聞きなれないものと遭遇した。

ヴィクトリア先生が説明してくれたのある。

「インド哲学で、チャクラっていうのがあってね、現在の通説では七つの扉が体にあるっていうの」

シンシアの通訳と研究用の本によってグランドピアノのある大広間にて説明がなされた。

主に、頭、おでこ、喉、胸、腹、股間、陰部、ということだったが、全てに意味と色があるのだという。

「へ~え」という、みんな興味もなさそうに聞いていたが、一番ピュアなカズが答えた。

「俺、今みえるよ?」

皆、カズの方を振り向いた。

シンシアがそれをヴィクトリアに伝えると「ここは何色?」と健の喉を指した。

「う~ん青っぽいかな」

「じゃあここは?」と頭のてっぺんを指した。

そのくらいの英語とジェスチャーが理解できたカズは、「レッド」と答えた。

その後七ヶ所全部の色を聞かれ、七ヶ所全部、正解の答えを聞いたヴィクトリアは

「パーフェクト!」と物凄く驚いた様子でシンシアに向かって言った。

ヴィクトリアの研究している通りの答えが、無知の若い日本人から返ってきたのである。

他の六人はキョトン、としていた。

その後、シンシアとヴィクトリアは別の部屋に行って何かを語っていたようだった。

優人や健はチャクラについて興味津々でカズに聞いた。

「俺のおでこのチャクラ開いてる?」

「う~ん・・・半分くらいかな」

「じゃあここは?」

優人が股間を指すと、

「まあ、はっきり見えるわけじゃないから・・・わかんないなあ・・・」

マリファナのせいであろうか?それとも場所のせいであろうか?

とにかく本当にヴィクトリアの研究の通りに答えたカズには質問が集中し、他のメンバーも「チャクラ」というものを完全に信じるようになった。

「チャクラ」が閉まっていれば、意思の疎通ができない。逆にチャクラが開いていれば、完全に意思の疎通が出来ている。

しかし優人は「チャクラ」という言葉に頼らずも、この人が今本音で言っている、なんとなくよそよそしい、

といった感情は自然に感じていた。それはチャクラが開いているかどうかなのだろう、とすぐに理解できた。


しかしその後「チャクラ」という聖なる言葉はワキガやおならの時に使われるようになった。

「お前、ケツのチャクラ締めろよ!」

「今日、脇のチャクラ全開だぞ!」という台詞や、

あえて「チャクラ、ゴー!オン!」といってまるで「ガンダム」のアムロ・レイのように叫び、おならをしたり、と

匂いの出る部分のことを指すようになった。

「チャクラ」という聖なる言葉は、タンツリのメンバーによって、タダの「匂いの扉」の言葉に変換されてしまったのである。


そんなある日、今度は東洋から来た六人全員が一緒に、体験したことのない薬を服用するのである。

「エクスタシー」と名づけられたその薬は、

日本の六本木で売られているような薬とは違うらしく、ヴィクトリアが、精神病患者用に調合したもので、

直径五mmくらいの丸く白い錠剤で、優人達にも全く分からない代物であった。

夜、一階の広間にてヴィクトリアとジョンとアレックスを含めた十人は、その「エクスタシー」を服用した。

ヴィクトリアとアレックスとジョンは初めてではなかったようで、

「凄いでしょ?」

というような目で七人を見つめ、モーツァルトの曲を流した。

十分後程経過し、初めに兆候が現れたのは健だった。

「まだまだ出来るよ、俺たち」

と急に言い出したが、優人には何が出来るのか分からなかった。

多分、バンドかなんかのことだろうな、というくらいで特に気にはしていなかったが、優人にも作用が現れだした。

優人は健と浩二にこのカーペットの上で大の字になれ、と言われ、二階の部屋に連れて行かれ、

やわらかく、暖かいカーペットの上に実際に大の字になった。

健と浩二はそう言うと、優人を置いて広間へと降りていった。

数分後、優人は一人、なんとも言えない幸福感に包まれ、なんでも許せる、という心境になっていった。

優人は四次元の世界の中に入っていったようであった。

自信に満ち溢れ、まるで神になったような気分である。

健の別荘にて体験した、あの森の中にいる感覚に似ていた。

カーペットの上に立ち上がり、目を瞑り体全体で何かを感じた。

「もう大丈夫」

優人は静かにそうつぶやくと、カーペットの部屋を出て、階段をゆっくり笑みを浮かべながら降りていった。

自身に満ち溢れた笑みであることは、優人自身も分かっていた。

階段は、一階の広間に直接つながっており、広間には皆がいる。

「お~!ユートがでかくなって帰ってきたぞ」

階段を堂々戸降りてくる優人を見て、浩二が驚いて言った。

「ほんとだ!」

皆も驚いた。

優人自信も階段を下りながら、自分が大きくなったように感じている。

「ユート!お前でかくなってるぞ!」

健も浩二も越後も言った。

「そう、そうなんだよ、自分でも分かる」

そして六人は広間で寝転がったりしながら談笑し、浩二と優人は「星を見に行こう」と二階のバルコニーに上がった。

皆も好き勝手に談笑していたが、「エクスタシー」の効用は顕著に現れ、

馬鹿騒ぎということはなく、「うふふ」とか「おほほ」というような笑い方だった。


優人と浩二はバルコニーで宇宙を見上げていたが、優人は宇宙を見上げているうちにどんどん幸せに包まれ、ついに感極まり、涙を流した。

そして浩二に訴えた。

「浩二!俺、世の中の「優しさ」というものや「愛」なんて偽善だと思ってた!」

「でも、そんなことない、ほんとにあるんだよな!」

まだ、大人になりかけの大人、優人の涙は止まらなかった。本当にそう思えたのである。

疑うものや理由はないように思えた。

身の周りのもの全てに感謝する気持ちでいっぱいだった。

浩二もひどく感激したようで

「良かったな!良かったな!」

と優人の両肩をつかみ、目を凝視し、そして優人の肩を揺すり一緒に涙を流した。

優人は、その浩二の顔を見てさらに感激し、浩二のこの優しい涙は一生忘れまいと心に誓った。

おそらくこの瞬間、この二人のチャクラは七つ全部、全開だったのであろう。

いつの間にかバルコニーに来て、その光景を遠くから見ていた剛とカズは、また「うふふ」と笑うのである。

どこからどう見ても、泣きながら肩をつかんで話す二人はおかしな男二人に見えたのであろう。


全員、その薬の効用により、確実に平和主義者になっており、

優人のように涙を流す者こそいなかったが、表情は穏やかで、にこやかであった。

越後はバルコニーにおいて一人夜空を見上げ、宇宙人か何かとコンタクトを取っていた。

「な~んか言おうしてるんだよな~」

「誰が?何を?」優人が聞くと

「君達個性的でいいね、とかそんなようなことなんだけど、誰なんだかよく分からないんだ」

きっといにしえのインディアンのように、越後もまた、宇宙人とコンタクトを取っているのだ。

越後は無口な分、そういう特殊な会話能力があるに違いない、優人は思った。

優人はインディアンのいう神とは宇宙人だと考えていた。

ふと気付くと、横では剛とカズがお互いに手をかざしながら何かをしている。

「何してんの?」

優人が不思議に思い剛に聞くと

「ハンドパワーだよ」剛が笑顔で言った。

「ほら」

剛は優人の胸の辺りに手をかざすと、目を瞑り、何か集中しているようだった。

優人は確かにその手の辺りにビリビリと何かを感じた。

「お、なんだこれ?」

「どうやってやるの?」

優人は剛に驚いて聞くと

「目をつぶって「気」が届くように手に集中させるんだよ」

と、簡単だよ、と云わんばかりに優人の胸に手をかざして答えた。

胸に「何か」を感じた優人は自分にもできるだろうか、と思い、後ろを向いていた健の背中に手をかざし、

集中して「気」が届くように目をつぶった。

「いてっ」健は振り向いた。

「ハンドパワー」

優人は自慢げに言った。

言うと同時に優人も非常に驚いていた。

健も驚いた様子で、剛にどうやってやるのか聞いた。

しばしの間「ハンドパワーごっこ」が流行り、全員でハンドパワーを送り合うのである。


優人は自分にも出来たと思うと同時に、人間は日頃脳の三%しか使っていないという説を思い出し、

脳のどこかを刺激すればこういう事も出来るんだな、と確信したのである。


夜はどんどん更けていき、皆は再び広間で談笑していた。

ヴィクトリアとジョンとアレックスの姿は見えなかった。多分、どこかの部屋で、英語で談笑しているのだろう。


優人はしばらく一人の時間を過ごしてから、広間に続く階段を降りると、そこはギリシャ神話に出てくる神殿のようにしか見えなかった。

皆、古代ローマ人が着ていた白い装束をきており、何も喋らずに幸せそうに横たわっている。

実際に浩二がグランドピアノの横に横たわっていたし、剛とカズと健は座って静かに何かを話していた。

それは分かっていたが、まさしく神殿の中のようにしか見えなかったのである。

無音の世界で、言葉は交わしていなかったが、意思の疎通は出来ているようだった。

一万一千年前の風景だ・・・

優人は驚くと同時に直感した。

ピラミッドを残して絶滅した文明はこのようにして暮らしていたに違いない。

言葉ではない、ハンドパワーかテレパシーのような、別のコミュニュケーション手段を使って会話していたのではないだろうか?

そんな話はどのようなオカルト本にも書かれてはいなかったが、優人は疑わなかった。

そうして、皆にそう見えたことを伝えたり、今の幸せな気分を話したりしてバルコニーに戻った。

皆は神殿に見えたことについて驚きもしなかったし、否定もしなかった。


もう夜が明けようとしていた。

インディアンの丘の上のバルコニーから見下ろす景色は、白んでくる空の下、木々達が柔らかい風によって揺れており、

爽やかな、平和な自然を絵に描いたような風景であった。樹木のいい匂いがした。

優人は明日からの生活を思った。

この地球上の自然の道の上で、すれ違う人と抱き合ったり、時には寝転んだりしてのんびりと暮らすことが出来れば、人類は本当に平和かも知れない。そのようなことを考えている間、時間は止まっているように感じた。

タバコも酒も必要なかった。

後ろにガラスでできた、風鈴のようなものがぶらさがっており、カランカラン、という心地の良い音が静かに何度も響いた。

「天国だ・・・」

優人は声に出してつぶやいた。

多分、死んだらこんな感覚になるのだろうな。そう思った。

しかし、時間は確実に進んでいて、眩しい太陽が木々達を照らし出した。

おそらく、何時間もバルコニーから眼下の緑を眺めていたのであろう。

後ろを振り返ると、アレックスがバルコニーの窓辺にあるソファーで寝ていた。

他の皆ももうおそらく、それぞれベッドで寝ていた。

優人はバルコニーから室内に入り、寝ているアレックスの顔の前に手をかざし、集中した。

すると、アレックスは目を覚まし、ウ~ンと唸った。

「感じた?」と優人が英語で聞くと、アレックスは「イヤー」と答え、朝日の下、また眠った。

優人は満足して、小さな部屋に入り、二段ベッドの上で横になった。

薬の効用か、眩しい朝日のせいか、なかなか寝付けなかったが、知らぬ間に寝ていた。


翌日、優人は昼頃目覚めた。もうシラフだったが、昨日の考え方はそのままだった。

その考え方とは一言で言えば「人類皆兄弟」である。

グランドピアノのある、前世のように見えた広間へ降りると、ヴィクトリアが英語で、どうだった?というようなこと聞いてきたので、

「グレイト、世界が変わったようだよ」

となんとか英語で答えた。

ヴィクトリアはにっこり笑うと、車でどこかへ出かけた。

シンシアが来て

「ヴィクトリアは世界の人々が同時にあの薬を飲めば、地球は平和になると考えているのよ」

と優人に耳打ちするように言った。

まあ、確かにそうかもしれないが、現実的ではないな、と優人は思った。

シンシアは続けざまに優人の目を見て

「あなた達は世界を変えるの」

そうつぶやくように言った。

その言葉は優人の心を大きく動かした。

「世界を変える?」

「シンシア、今世界を変えるって言った?」

「言ったわよ。あなた達がね」

「俺達が、世界を変える・・・?」

優人は武者震いを覚えた。

「俺達が世界を変える・・・」

「そう、あなたちが世界を制覇するんでしょ。選ばれし者、よ」

「選ばれし、者」優人はもう一度心の中で言うと、考えた。

アメリカに来て、神の丘の上にいる。

これはきっと偶然ではない。

俺の運命、いや使命だ。

優人はニヤッと笑うと、心の奥底から沸いてくるエナジーで、体が熱くなるような感覚を覚えた。


その日、歩いて十分ほどの少し高級なハンバーガー屋に皆で一緒に買いにでかけたタンツリメンバーと剛とカズは、

「エクスタシー」の感想を皆同じように表現し、喧嘩なぞする気にもならなかったし、

それならば「平和な世界」というものが本当にあるのかも知れないな、という結論に達していた。

ここのハンバーガー屋はチェーン店ではなく、実際にこの店で調理をしてそのまま焼いた大きめのハンバーグに、

たっぷりのレタスとトマト、それからピクルスはお好みで取り放題、ケチャップやマスタードもお好みであった。

どうにも焦げ具合がおいしかった。

ヴィクトリアの家での日々はこうして二週間続いたが、その間には他の経験もできた。

またしてもガンズが見れるというのである。


場所はL・Aのバスケットボールスタジアムで、規模としては武道館程の規模である。

タンツリ四人は、あの衝撃をもう一度味わいたかったので、

二言返事で見に行く事にしたが、

剛とカズはそれほど興味がなかったらしく、行かなかった。

「もったいね~な~」「おめ~ら、アメリカに来た意味ね~じゃんよお!」

健は、カズと剛に本当に見に行かないのかしつこく二人に聞いた。

それでも彼らは行かないと言い、剛は何故かジャパニーズテンプラを振舞うと言い出した。

みんなお腹をすかせているし、和食も恋しいだろうから、たまには腕を振るってやる、と言うのである。

剛は調理師免許を持っていたし、少しそういった世話女房的な面もあった。

じゃあ行ってくる、という事で四人とシンシアはスタジアムに着いた。

チケットはやはりシンシアが手配してくれた。

アメリカでの移動は全て車か歩きだったが、この日はアレックスが送ってくれた。

スタジアムより大きそうな駐車場には車が何万台と押し寄せ、赤と黄色の綺麗なイルミネーションを作っていた。

やっぱり凄い!

中に入った四人はアメリカならではのメチャクチャな雰囲気に感激した。

この日はガンズのコンサートだったが、オープニングアクトとして、

ロサンジェルスではガンズと同じくらいの人気を誇っていたセンスチャン・バックというボーカルが率いる「スキッド・ロウ」というバンドも出演していた。

席はステージの真横で、スクリーンが降りていたが、ステージは丸見えだった。

四人の前の白人女性が「私、スキッド・ロウが大好きだから、あなた達も立って盛り上げてね」

というような意味のことを話しかけてきた。

しばらくリラックスして待つと、

そのスキッド・ロウの演奏が始まったが、四人はスキッド・ロウの音楽を聞いたことが無く、

原始人のような長髪のアメリカ人が激しく頭を振っているだけの

うるさいヘヴィメタルバンドにしか見えなかった。

健も浩二も越後も、不思議そうな顔をして見ていた。

しかし、会場は大盛り上がりである。

前の女性などはキャーキャー言ってはしゃいでいた。

「あれ、かっこいいと思う?」

優人は越後に聞いた。

「俺にはよく分からん」越後は冷静にそう答えた。

四人ともスキッド・ロウの曲を一曲も知らなかったし、四人の間で一度も話題に上ったことが無かったのもツボにささらなかった一因であろう。

そうしてスキッド・ロウが終わり、四人がビールを買いに行こうとすると、その前の女性が騒いでいる。

「ジャケットが無い!ジャケットが無い!」

そう言って騒いでいるのだが、もちろん四人は知らない。

どこかの子供が盗んだのであろうか、探しても無いので「知らないよ」と言うしかなかった。

アメリカの風習なのだろうか?

そういった事も日本ではあまり考えられなかった。

コンサートでジャケットやジャンバーは普通に座席に置いていたが「盗まれる」なんて考えたこともなかった。

優人は、テレビで知った、新渡戸稲造の言った言葉を思い出した。

「日本人は無宗教なのに秩序というものがあり、それによって調和が保たれている」

確かに、日本国においては前の人が財布を落としたら「落としましたよ」

と言って返すだろうし、ジャケットの場合だって同じだろう。優人だってきっとそうする。

主にキリスト教信者が多いここアメリカでは、そういう教育はなされていないのだろうか?

もっとも、教育というよりはモラルであろうか。もしかしたら日本の方が変わっているのかも知れない。

日本人にはおばあちゃんや、おじいちゃんに、泥棒はいけないよ、お財布を拾ったらお巡りさんにとどけるんだよ、

といった小言が、DNAとして脈々と流れていたのかも知れない。

貧富の差が産むのであろう、こういう「犯罪」は平和慣れしている日本人にとっては理解し難かった。

むしろ、もっともっと深刻な問題に思えた。

優人の平和的な宗教観は、日本という平和な国に住んでいるから出来る発想かもな。

なにはともあれ、無いものは仕方が無い。

優人達はビールを買いに行った。

また、あの狂ったようなトイレを今回は見過ごし、ビールを買って席に戻ると、どういうわけか度々会場が

「ウォ~~~!」という歓声に包まれる。

ステージに誰か出てきたのか?と真横からスターを探すが、どこにもそれらしき人物はいない。

ローディが一生懸命セッティングしているだけである。

そのうち、歓声がどんどん盛り上がるので、気になって気になって仕方がなくなり、

優人は広い会場ぐるっとを歩いてみた。

すると、真横だったので見えなかったスクリーンに観客、それも綺麗な女性ばかりを狙ってカメラマンが映し出している。

映る女性も喜んでおり、照れながらも会場のコールに乗せられ、Tシャツをまくり上げ、おっぱいを見せびらかしていた。

「ウォ~~~~~~!」

また歓声が上がった。

「これでみんな騒いでいたのか」

優人は納得し、なかなかタダで見られるものではないと思い、一緒になって盛り上がった。

「やっぱアメリカすげ~」

そういった、自発的な演出の中、会場のボルテージは上がった。

カメラマン自身も自ら楽しみながら盛り上げているようだった。

そうした中、照明が落ち、またも「ウェルカム・トゥ・ザジャングル」のイントロから

ガンズが始まった。

当時は二枚組みセカンドアルバム「ユーズ・ユア・イリュージョン」の発売前で、

「ゲット・イン・ザ・リングツアー」という全国ツアーの一環であった。

「ゲット・イン・ザ・リング」とは直訳すれば「ボクシングのリングに上がれよこのやろー」といった

非常に攻撃的な意味で、ニュアンス的には「表に出ろ!この野郎!」といった、まさにケンカを売るときの言葉で、

ガンズの勢いや想いを表していた。

脂の乗り切った時期で、ボブ・ディランの「ノッキング・ヘブンスドア」や

ポール・マッカトニーの作品「リヴ・アンド・レット・ダイ」といったカバー曲が披露され、

会場は大いに盛り上がり「パラダイス・シティ」で幕を閉じた。

優人達はステージの真横で、前回のコロシアムよりも比べ物にならないくらい近く見れ、

アクセルやスラッシュの動きがよく見えた。

アクセルの動きは自信に満ち溢れていて、世界を制覇した王様に挑発されているように優人は感じ、興奮した。

「アクセルめ!調子に乗りやがって!俺もあのステージに上がってやる!」

「そして世界を変えるんだ!」

優人はひとりつぶやいた。

日本で見るコンサートとは観客との距離感や一体感がまるで違った。

MCはもちろん英語でダイレクトに観客に伝わったし、観客のレスポンスも

日本人とは比べ物にならないくらい激しかった。

ガンズ&ローゼズは前回コロシアムで見たときよりも、さらにパワーアップしたように感じた。

またしても、衝撃的な興奮の中、四人とシンシアは帰途に着いた。


ヴィクトリアの家に着くと、剛が約束通りジャパニーズテンプラを作って待っており、腹ペコだった皆に振舞った。

ヴィクトリアの家から見おろすロサンジェルスの夜景はいつも綺麗だった。

剛はギターもうまかったし、いろいろと細かい作業のできる万能型の人間で器用であった為、

お手製の天ぷらとはいえ本格的で、皆「うまいうまい」と食った。

アレックスとジョンは日本食に縁が無かったらしく、こんな気持ち悪いもの食えるか、という表情で初めは食べるのを拒んでいた。

しかし、健や浩二が強引に「食べろ、食べろ」と薦めると、

アレックスはやっと心を決めて海老の天ぷらにトライした。

「オー!シーフーディ」

と言い、結構気に入ったようで、その後もジョンと二人でパクパク食べていた。

アレックス、ジョン、テンプラをなめちゃいけないぜ!

その夜は、ガンズの話で盛り上がり、剛とカズに「なんで見ないんだよ~」

「もったいね~な~、もうこんなチャンス二度と無いかもしれないぞ」などと

四人は興奮したまま蹴りを入れたりして責め立てた。

傍からニコニコ見ていた越後もガンズのベーシストには興味が無かったが、

バンドの勢いやアクセルのカリスマ性には感心しているようであった。

ビールやワインをしこたま飲んで、天ぷらと共に十人全員が丘の上の家で楽しく過ごし、倒れるように寝た。


・・・次の日、優人は広間にあるソファーの上で寝ていることに昼頃気付いた。

頭がガンガン痛い。

どうしようもない二日酔いである。

「あ~頭いて~」

と嘆いたところでどうしようもない。

カリフォルニアの太陽が優人を攻める。

仕方がない、もう一度ベッドで寝るか、と思った時、ジョンが缶ビールを勧めてきた。

無言でバドワイザーを差し出し「飲むか?」という表情をしたのである。

ジョンは普段、ちょっとひねくれていたせいか、あまりこういった優しい行動を取るタイプでは無かったので、

優人はもう飲みたくない、とは言えずにサンキューと言った。

するとジョンは缶ビールを優人に右手で軽く投げてよこした。

ナイスキャッチした優人は隠しておこうかと思ったが、ジョンが見ているので仕方なくバドワイザーを飲んだ。

「プシュッ」

投げてよこした為、缶の口から少し泡が出た。

優人はその音と泡を見て、また嫌な気分になったが、一口飲んだ。

ゴクリ

「オエ」やはりマズかった。

しかし、缶ビールを飲み終え、苦痛に耐え数十分もすると、頭痛は嘘のように治まり、元気ハツラツになった。

これが、迎え酒か!

迎え酒という言葉は知っていたが、実際にこんなに二日酔いに効果があるのは知らなかった。

「サンキュー!ジョン!」

ジョンが迎え酒を知っていて勧めたのかどうかは分からなかったが、とにかく気分は良くなった。

優人はもっとビールを飲みたくなり、わざわざ近くのスーパーに買いにでかけたほどである。


そうした非常に色濃い日々も終わり、とうとう六人は追い出された。

優人はシンシアに、ライブは出来ないのか?と詰め寄ったが、例のごとくのらりくらりと交わされ、ライブには到らなかった。

シンシアが言うには、ロスでも日本と同じようにオーディションが必要であり、

どこの馬の骨ともわからん奴らには演奏させない、ということだった。

「話が違うだろ!」

「そんなこと初めから言えよ!」

俺達は、ドラッグをやりに来たんじゃない。

ライブをやりに来たんだ。

大体、練習だってしていない。

「練習は?スタジオはどこにあるんだよ?」少々遅い質問であるが、シンシアは

「アメリカには練習用のスタジオってものはないのよ」

「へ?」寝耳に水だった

「じゃあこっちの人はどこで練習してるの?」浩二は不思議そうに聞いた。

「みんな家が広いから、適当に機材を持ち寄ってやってるのよ。苦情もこないし」

「え~!そんなこと早く教えてくれよ!」四人は口々に文句を言った。

もうアメリカに着いてから三週間も経っている。

一体当初の話はどうなってる?


シンシアからは、はっきりとした答えもないまま、タンツリと剛とカズの六人はマウント・ワシントンを降り、

近くのメキシコ人が多く住む街のモーテルへと移った。

シンシアはヴィクトリアの家にいるということだった。

そのモーテルは二階建てで、横に五部屋ほど並び、二階には黒人の家族が住んでいて、

駐車場の入口にある受付は在米の中国人か韓国人に見えた。

顔は東洋人であったが、日本語が通じなかったし、英語もなまっていたからである。

そろそろ、六人のお財布も尽きてきていた。

シンシアからライブが出来る、という連絡もなく六人はモーテルの二部屋で過ごした。

部屋の割り振りは適当で、ある日は一部屋に四人、ある日は一部屋に三人という感じだった。

モーテルでは各々が楽器の練習に励むくらいしかやることがなかった。

「ヘイ!ボーイズ!二階に住んでる美人がよお、十ドルでしゃぶってくれくれるぜ!」

隣人が優人達にそう叫んだ。

そんなお願いはしなかったが、金が無くなってきたとはいえ、まだ、余裕はあったので

六人は毎晩近くにある「ビッグオー」というバーに飲みに行った。

ビッグオーのマスターは黒人の、もの凄く大きな体をしたおじさんで、

無口ながら、優人たちが何か話しかけるといつも「はっはっは」と笑ってくれた。

客もメキシコ系のアメリカ人が多く、皆フレンドリーであった。

店内には懐かしのテレビゲーム、パックマンなどがあって、優人達はビールを飲みながらパックマンでよく遊んだ。

ライブがやりたくて仕方なかった優人は、ある夜、ビッグオーにおいて、

ギター弾き語りのアメリカ人二人組みが演奏しているところに飛び入りし、ハーモニカを吹かせてもらった。

演奏が始まる前の準備をしているときに、片言の英語とジェスチャーでなんとか交渉し、

二人の了解を得たときは、単純に嬉しかった。


さえない演奏が始まり、優人は、こんなものか、とがっかりしながらもわくわくして待っていると、

アメリカ人二人組みが

「日本からの友達です!ミスターユートーー!」と英語で紹介してくれ、二曲ほどセッションをした。

優人はハーモニカにとても自信がある、という訳ではなかったが、

酒の勢いもあり、一生懸命二人のアメリカ人の目を見て力一杯吹いた。

十人くらいしかお客さんはいなかったが、皆、拍手で歓迎してくれた。

他のタンツリのメンバーも笑って見守ってくれた。

優人は素直に嬉しそうだった。

二曲だけであったが、音楽は世界の共通語であるということを実感した貴重な時間であったのである。


ある夜、いつものようにビッグオーに遊びに行った翌日、何か面白いものなかったっけ?

とバッグをあさっていると、優人はパスポートが無いことに気付いた。

「あれ?パスポートが無い」

部屋中どこを探しても無かった。

越後に聞くと、越後も「え?俺もパスポートが無い」と言い出した。

隣の部屋の健に聞くと、バッグに入れておいた五百ドルがないという。

同じ部屋の剛の百ドルもなくなっていた。

やられた。

即座に泥棒だ、と気付いたが、鍵を壊した形跡もなく、部屋を荒らした形跡もないので、

多分優人達の行動を見ていた二階の住人か、受付のアジア人としか考えられなかった。

優人達はヴィクトリアの家に電話をかけ、シンシアを呼び警察へ出向いた。

警察ではシンシアが事情を説明して、警察の方も分かった、という返事だったので、

すぐに解決するような事件だろう、と思ったが、現場に警察が来ることもなく、

そのままなしのつぶてで、結局何もしてもらえず、事件は解決されなかった。

アメリカにおいて、その程度の盗みでは事件とは呼べないのだろう。

「はあ~あ」

六人はため息しか出なかった。

優人と越後はバスで日本大使館に行き、被害届けを提出して、

「帰国の為の渡航書」というものを受け取った。

どうやらこれで飛行機に乗れるらしい。

皆は住人や受付の人間を怪しんだが、確固たる証拠も無く責める訳にはいかなかった。

パスポートはなんとかなったが、優人達にとって現金の盗難は痛かった。

当時のレートで1ドル百三十円くらいだったので、百ドルといえば一万三千円ほどの大金であった。

優人は、こんなことは日常茶飯事なんだろう、と思うと胸が痛かった。

仕方なく宿泊費二百十ドルと消費税を払い、そのモーテルを出た。

一行は一旦ヴィクトリアの家に戻り、結局ライブの話は立ち消え、シンシアの饒舌により、

今度は何故かシンシアのおじいちゃんのお墓参りにシアトルまで行く、という話に切り替えられていた。

「なんじゃそりゃ?」

「結局それが目的だったんじゃね~か?」

などと優人達は話し合ったが、もう金もないし従うしかない、という結論に達した。

ここから約一ヶ月の意味不明な旅行が始まるのである。


シンシアが九人乗りのバンをどこかから借りてきた。

運転手は交代で、アメリカ西海岸をひたすら北へ北へと走らすのであった。

シンシアの言うとおりに進むしかなかった一行は、途中にはラスベガスにも寄ったし、

サンフランシスコにも寄った。

六人の日本人は皆真っ黒に日焼けし、皆、肩まである長髪で、メキシコ流の三つ編みをしている者もいる。

格好もジーンズにTシャツ、あるいは現地で調達したポンチョなどを着ており、

一見すると、インディアンなのか、メキシカンなのか、

それとも東南アジアのどこかの国の人間か分からない、不思議な集団であった。

健に到ってはラスベガスにて、見知らぬマッチョな外人に

「どこから来た?」

と英語で聞かれ、

「ジャパン!」

と郷ひろみのように答えると

「グッド」

と言ってそのマッチョな外人は去っていくほどであった。

どこから来ていたら「バッド」なのだろうか?

夜のラスベガスは想像していた以上に派手で、街中にはそこらじゅうでギラギラとネオンが光っており、

時間になるとあらゆるホテルの前にある庭園から炎が噴き出していた。

優人にはなんともえげつない演出に思えたが、これはこれでアメリカらしいな、と思った。

しばし、ラスベガスを堪能し、白と黒の虎を見て、スロットマシーンなどで遊んだ。

ラスベガスのスロットマシーンは、日本と違い、一セント硬貨や一ドル紙幣を交換した赤いコインで遊ぶため、

まさに現金が出てくるのであった。

優人の隣でスロットマシーンで遊んでいた太った黒人のおばさんが、

スロットマシーンからジャラジャラとあふれ出てくる一セント硬貨を見ながら

「オーマイゴーッド!オーマイゴーッド!」と叫んでいる姿が印象的である。

一行にはいわゆるルーレットとかポーカーといった本格的な賭け事を楽しむ金銭的余裕はなかったし、

賭け事をやりにラスベガスへ来た訳ではなかったので、せいぜいスロットマシーンに留まった。

皆賭けにより、損も得もしなかった。

せいぜい十ドル勝ったか、あるいは負けたか、という程度であった。

そんな一夜を過ごし、ホテルに一泊する。

そのホテルではシンシアも一緒だった為、シンシアがバスルームから出てくる所を見計らって、

優人と浩二がドアの前に全裸で逆立ちして待った。

建が耳をドアに着けて、中の様子をうかがい「今だ!」と小声で叫びいつものように指令を出すと、

二人はドアの前に逆立ちした。

シンシアがバスタオルを巻いて出てきて

「あんた達なにやってんのよ~」

と特に驚いた様子もなく呆れ顔をした。

しかし、健や他のメンバー達は腹を抱えて笑っていた。だいたいこういうイタズラの発端は健なのである。


そうして夜が明けると、ラスベガスは一転し、白いビルが立ち並ぶ街に変わっていた。

昼頃には、また炎が上がっていたが、夜に見るのと昼に見るのとでは迫力が違い、

前夜に見たせいか、人もばばらであったし、その炎はなんとなくむなしげだった。

そうして、ラスベガスを出て、今度はサンフランシスコに到着した。

約三時間、越後がぶっ続けで運転した。

夕焼けに近づいていて、サンフランシスコの街はラスベガスとうって変わって、

大人の、なんというか幻想的な静かな街に見える。

浩二は

「こんなに違う雰囲気だと、笑うしかないよな」

「おんなじアメリカなのにね」

と優人も眠い目をこすりながら少し笑って言った。


一方はギンギラギンのピッカピカに対し、こちらは情緒あふれる港町という趣きであった。

広大な土地を持つアメリカゆえの差であろう。

サンフランシスコには数時間しか滞在しなかったが、夜になるに連れ、

道路のマンホールからモクモクと水蒸気が煙立つ風景や、落ち着いたオレンジ色の外灯が照らす街並みは、

映画で見た、古きヨーロッパを連想させた。

しかし、ハンバーガー屋に入ると男性同士が一つのコップにストローを二本立てて、

向かい合って座っている姿は異様であった。

サンフランシスコには同性愛者が多いということである。

だからという訳ではないが、ここには宿泊せずにそのまま車を北に走らせた。

この頃からバーガーキングの一ドルハンバーガーが当り前になっていった。

とにかく一行は北へ向かった。

しかし、道は遠く、来る日も来る日もカリフォルニアの太陽が差す砂漠の中を走ったは車中で、

よくタバコを吸いながらアコースティックギターをいじった。

タバコだってもはや高級品だったが、みんなで協力しマルボロを買っていたのである。

メンバー全員が運転を変わり、ギターで暇をつぶした。

昼間は見渡す限りの砂漠で、ポツンポツンとサボテンのような木が生えていたが、

たまに車を止めて降りると、土は焼け付き、犬の糞と見られる物体も、白くひからびていた。

浩二はそれを見て、

「みなさん!見てください!うんこです!う~んこですたい!」

と騒ぎ、皆を笑わせた。

また、夜の国道は真っ暗で、星空があまりに綺麗なので、しばしば車を止めて皆で宇宙を眺めたりした。

それは、日本国ではどんな田舎に行っても見られないくらいの宇宙で、

月もなく、まるで太平洋に浮かんでいる船から見るような星空であった。

本当に無数の星があり、ほんの針の穴くらいの星を入れれば、何万、いや何億という星の数であった。

シンシアは

「この宇宙の向こう側には光の世界があって、その光が穴から漏れてきているのよ」

と六人に優しく言った。

実は星ではなく、本当にそうかも知れない、と優人は思うほどであった。

「すげえな、シンシアはなんでも知ってるよ」

浩二と優人、またメンバー全員、真面目にそういう話になった。

もともとカリフォルニアは砂漠で、ラスベガスもロサンジェルスも造られた街であり、

国道沿いに他には街は無く、東京のように大きな光は地上にはなかったので、本当に息を飲むような星空であった。

見上げているうちに、

きっと有史以後の古代の人々の夜は電気によって星空が見えない現代程明るくなかった中で生活し、

こんな夜空と毎日向き合っていたのだろう時代もあったのだろう、と想像できた。

だからきっと、夜は空が暗くなる、というよりも、星の時が来る、といった感覚だったのかも知れないし、

もしくは狩猟民族にとっては夜の星空の方が中心で、太陽が全てを消し去ってしまう大きな星という、

今とは逆の認識だったかも知れないな、と優人は感じた

星座に名前を付けたり、神話や占いなどを作ったりしたのは当然であり、

星は一年中動くので、明日の生活もままならない人々にとってはかけがえのないよりどころであったのだろう。

星はまぎれもなく古代の人々と共に生活していたのだ、現代の文明はそれを忘れてしまっている。

宇宙の一部だということを。


そうして、北へ北へと進み、パーキングで休憩し、トイレへと向かう途中には、メキシコ人らしき人達が親しげに、

「オラ!」と声をかけてきた。

シンシアに「オラ」とはどういう意味か聞くと、「ハ~イ」とか「こんにちは」といった挨拶の言葉だという答えが返ってきた。

実に親しげだったので、それから「オラ」と言われると「オラ」と返すようにしたのだが、

返すと、おそらくスペイン語と思われる聞きなれない言葉で話しかけられるので、皆対応に困った。

「いや~僕たち日本人だから」と日本語で言っても何かを話しかけてくる。

これは困ったものだ、とそそくさと車へと戻るメンバーであった。


五日目くらいにオレゴン州に入ると大きな川があり、

日本のビルよりももっと大きな木々達が優人達を待っていた。

オレゴンに入った一行はここぞという河原を見つけると、有無を言わさず車を止め、裸になった。

優人や浩二は特に裸になるのが好きだった。

全裸で泳ぐ川は素直に気持ちが良かったし、まだ無邪気にそういった行為を楽しめる年頃であった。

健は全裸で河原の石の上を飛び跳ね、インディアンの酋長の真似をした言葉を発した。

「アンダデラマ!ソンソム!」

ふざけて言ったのだろうが、そのように聞こえた健の声は全てを物語っていた。

その言葉や全裸の姿はまさに、原始人かアフリカの山奥に住む民族そのものであった。

剛とカズも例外ではなかった。

剛は濃い体毛を風にふさふさとなびかせていた。

とにかく全員はいろいろなところで全裸になった。

全裸になった一行は上半身こそ日焼けしていたが皆尻が白く、不自然であった。

シンシアはピンクのビキニを着ていた。

数え切れないほどの河原で全裸になり、水遊びをして楽しんだ。

ある日には皆シンシアに貰ったアシッドを食い、川の水の中でそよそよと泳ぐ優人のイチモツが七色に光っているように見えると、

優人のイチモツに手を合わせ拝んだ。

「うをおお!神の光だ!」

そう叫んだのは同じく裸の浩二ではあったが、皆が調子にのって優人のイチモツに向かって手を合わせ、拝んだ。

実際には光の加減によってそう見えたのかも知れない。


宿泊は、だいたい車の中か、あるいは車の下に寝たりして、朝方、散歩中の犬に吠えられたりしながら過ごした。

そんな旅の途中、ジェリー・ガルシアという、グレイトフル・デッドというアメリカの伝説的なバンドのシンガーであり、リーダーであった人物のソロライブを見に行く機会に恵まれた。

やはり、シンシアの情報だ。

グレイトフル・デッドは、アメリカにおいてはカリスマ的な人気を誇り、

ヒットチャートとはほとんど無縁の存在ながら、常にアメリカ国内のコンサートの年間収益では一、二を争う存在だった。

かのクリントン大統領もファンだったことで有名である。

優人達は、七人を乗せた車を飛ばしオレゴンの山に向かった。

しかし、夜遅くなってしまい、結局コンサートには間に合わなかったのだが、

デッド・ヘッズという、ガルシアの追っかけ集団に出会った。

彼らは何百台というキャンピングカーで移動し、ガルシアのコンサートにずっと付いてまわっていた。

いわゆるヒッピーの集団であったが、別にドラッグを除けば、悪さをする訳でもなかったし、

社会に迷惑をかけるような集団ではなかった。

ドラッグをやっているといったって、彼らの中では当たり前で、皆非常に温厚で、フレンドリーだった。

デッド・ヘッズとの出会いもまた衝撃で、カズが聞いたところによると、彼らの思想は、

社会主義の向こうには平和がある、というものであり、実際優人達に対しても凄く優しかった。

優人はアコースティックギターをぶらさげて、一夜にして車で出来たであろうヒッピー達の村の中を歩いた。

皆眼が合うと、「ハーイ」とか「ヘイ」と言う風に挨拶をしてくれた。

優人はポンチョをはおり、アコースティックギターを持って歌いながら、ヒッピー達と話したりした。

英語なので、ほとんど会話にならなかったが、彼らヒッピー達はひからびてはいたが、パンをくれたり、水をくれたりした。

優人が、下心もあり、女性二人組みの前に立ち止まり「ふふふん」と鼻歌で歌うと、今度はアシッドが出てきた。

「どこから来たの?」

女性は聞いてきた。

そのくらいの英語は優人にも分かった。

「ジャパン」

と優人が答えると、二人組みは笑顔で何か話したが、優人にはよく理解できなかった。

アジア人で禄に英語も話せない男は珍しかったのかも知れない。

しかししばらく平和的な話をしたり歌ったりして、素敵な時間をすごしたのである。

「シーユー」

と帰り際に声をかけると、

「いい歌を作ってね、ビューティフル・ボーイ」

とにこやかに言われ、優人は少し照れながら「サンキュー」と答え、

紙にアリの絵が描いてあったさきほどの五mm角ほどのアシッドを口にした。

その日は月が綺麗であった。

帰国後、この日のことも優人は歌詞に取り入れた。

また、そうやって歩いていると、白髪で長髪の、おっさんがバンの後ろを開けてそこに座り話しかけてきた。

「どっから来た?」また同じ質問だ。

「ジャパン」

優人は事もなげに答えると「マイ・サン・イズ・・・」とそのおっさんは息子のことを勝手に話し出した。

酒に酔っているのかドラッグに酔っているのか、もしくはシラフなのか、よく分からなかったが、話し出した。

「俺の息子はよお・・・東海岸の町に住んでいる・・・もう、いい年だろう、四十くらいかな、孫もいるかもな、・・・

お前はいくつだ?」

おぼろげながら語り、その内容を優人はなんとか理解した。もしかしたらあえて易しい英語にしてくれたのかも知れない。

「トウェンティ」と答えると、

「そりゃあ、いい年だ、ジェリーはサイコーだ、俺の孫にも教えてやりたい・・・お前、どっから来たって?」

「ジャパン」

「お~!ジャパンか、あそこはいい国らしいな、海に囲まれて平和でな・・・俺も行ってみたいよ・・・」

「子供や孫を想う気持ちはみんな一緒だ。苦労して育てるんだ、当然さ。この俺だってそうなんだから」

そう言うおじさんは満天の星空を見上げていた。

もうろうと発言していたおじさんと、優人はもっと話したかったが、英語力が足りなかった。

優人が「日本語でアイ・ラブ・ユーってなんていうか知ってる?」

なんとなくそう聞くと

「知るわけね~だろ~!教えろよ!」

「ア・イ・シ・テ・ル」

「ア~イ・シ・テル~?」

「そう、アイシテル」

「ウ~ッム、わかった。アイ・シ・テ~ル」

そういうとおっさんは「今日は十分だ向こうへ行け、楽しめよ」とばかりに優人を追いやった。


またガルシアがここでライブが出来るようにゴミを拾うデッド・ヘッズはまさに「平和な世界」の住人だった。


四人は車へ戻り、シンシアと話をした。

「ガルシアはなんでこんなに人気があるの?」

「デッドヘッズってなあに?」

「ガルシアのメッセージはなんなの?」

一人一人、ゆっくりと聞いた。

シンシアは

「ガルシアに大したメッセージはないわ。それがメッセージなの。グレイトフル・デッドを長くやっていたからこんなに人が集まるのだと思うわ。みんな優しかったでしょ?」

「ふうん」「まあ、そうだね」みんなはなんとなく納得したようなしないような様子だった。

「それがいいのよ」

そしてシンシアは言った。

「デッド・ヘッズの考えはみんな一緒。哲学の反対なのよ」

「え?どういう意味?」優人が聞き返すと、

「要するに人生について考えることなんてないのよ。私の持論だけど。なあんにもないのよ。音楽さえあればいいの」

「多くのミュージシャンがそう思ってるわ。

ファンクバンドやブルースバンドなんて単語一つで何時間も演奏するでしょう?」

車は再び北へ向かった。


こういった経験も、バンドを成長させていったのは確かである。


当時、優人は資本主義や社会主義という概念に対して、あまり興味がなかったというか、きちんと勉強をしていなかったので、深くは分からなかったが、皆平等に国から報酬をもらい、競い合うことなど無い、といった類の考え方であろうとしか思いつかなかった。

しかし、実際に彼らデッド・ヘッズに出会い、彼らの優しさに触れると、

その方が正しいのかも知れない、暴君という、いわゆる独裁主義者の国家にならなければ、彼らのように皆で助け合う生き方、その方が良いのかも知れない、と思った。

凄く原始的だが、その方が人間として正しい生き方だ。


ロサンジェルスからシアトルまで、片道約千六百キロメートルの長旅は寄り道も含め十日間かかった。

サクラメントやセーラム、ポートランドといった街を抜けた。

ポートランドやセーラム、どこでも一行は全裸になった。

しかし、もうほとんど金が尽きていた。

「腹減った・・・」

皆の口癖のようになっていた。

それに、道中はほとんどやることがなかったので、マルボロを吸いながら優人達はいくつも曲を書いた

剛とカズはしょっちゅう日本から持ってきた、よくコンビにで売っているポケットゲームの将棋をやっていた。

優人が、いったい何回将棋をやっているのか二人に訊ねると、

「今、五十三勝五十四敗」

とカズが素直に答えた。

優人はあまりに実力が拮抗しているのに驚いたが、それ以上にその対戦回数にもっと驚いた。

「そんなにやったの?」

「だって他にやることないんだもん」

まあ、確かにそうだけど・・・道理で二人はいつも将棋をやっているように見えた訳である。

ヴィクトリアの家、車の中、道路の上、至る所で対戦していた

失くしてしまった「歩」や「香車」などは1セントコインや何かで代用していた。

アメリカに来てから百回以上も将棋を差しているということは一日に三回くらいは対戦している計算になる。

優人も当然対戦したことがあったが、この二人には到底かなわず、あえてやらないようにしていたのだが、

二人でこんなに対戦しているとは思わなかった。

日本にいる頃、剛とカズは将棋五段の人と対戦したことがあり、当然負けはしたが

「君達、二段くらいの腕前だよ」

と言われたこともある程であった。

そんな彼らに優人がかなうはずはなかった。

しかし、あまりに暇で何回か対戦するうちには、優人が一回だけカズに勝ったことがあった。

その時はまるで鬼の首を取ったようにメンバーと剛に威張り散らした。

周囲は冷ややかな目で優人を見たが、その後も優人はたびたび自慢した。

そうやって刺激的とも退屈とも取れぬ旅を続け、皆優人のおならに悩ませられながら、

十二日目にようやくシアトルにたどり着いた。


シアトルにはシンシアの伯父さんと伯母さんが住んでおり、

第二次世界大戦の時には日本に来たこともあるのだという。

やはり、アメリカらしく大きな立派な家で、庭もキャッチボールが全員でできるほど広かった。

しばし、伯父さんにお世話になり、ささやかながら、伯母さんお手製のシチューなどを頂き、

少しゆっくりさせてもらった。腹が減っていたせいもあって、とても美味しくみんなで平らげた。

シンシアは伯父さんとつもる話があったのだろう、しばらく英語で話していた。

そうしてそこから程無いところで、ようやくシンシアのお父さんのお墓に着いた。

お墓は軍人の慰霊墓のようで、芝生の上に整然と石碑がいくつも並んでいた。

七人はジョセフ・アンダーソンと書かれたその石碑の一つに水をかけ、神妙に手を合わせた。

目的を達した七人は、シンシアの伯父さんのところに戻りハグをし、シンシア達と写真を撮り、シアトルを去った。

再び南下する旅が始まった。

一行にはもう金がほとんど無く、バーガーキングを見つけては一ドルハンバーガーを分け合うほどになっていた。

もう、金が無いのでロサンジェルスまで戻るのは早かった。

もう早く日本に戻りたい。

優人達はそんな心境であった。

来るときには壮大で荘厳に見えた風景も、帰り道にはもうただの殺風景でしかなかった。

車中でも、みなボーっとしていて、会話はあまり多くなくなっていた。


そんな帰りの道中、優人は由美のことを時々想った。

由美に限らず、葵、順子、カーさんや他のファンも含めてだったが、頭をよぎった。

「みんな元気かなあ・・・」

たまに、バッグから絵葉書を取り出し、眺めた。

ヴィクトリアの家にいる頃、由美から絵葉書が送られてきた。

アメリカに上陸した頃、国際電話で、ヴィクトリアの家の住所は伝えていた。

その葉書には

「地球の裏側にいても、私たちは同じ月を見てる

 優人はきっと、もの凄く良い経験をしているのだから、楽しんできてね」

短い文章だったが、優人は由美が恋しくなった。

受け取った時にはそれほど感じなかったが、こんな貧乏旅行を続け、

車の中から星空や月を毎日眺めると、その言葉は胸に響くようになった。

優人はその絵葉書を大事に持って旅していたのである。

絵は、日本の森の絵で、水墨画のように情緒が溢れ、見慣れてはいたが、アメリカで見ると、

どことなく懐かしい絵であった。

もう、アメリカでライブをすることは諦めていたし、充分な経験を積んだように思えた。

優人は満点の星空を眺めながら、借り物の車の中で少しセンチメンタルな心境にいた。

そこへ、健が物凄く大きな声で騒ぎ立てた。

「てめ~!またやりやがったな!」

その声は明らかに優人に向かっていた。

「え?」

「え?じゃね~んだよ!くせ~んだよ!マジでくせ~んだよ!」

健は窓を全開にして右手を振り回し、本気で怒っていた。

窓を全開にしても特に寒くはなかった。逆に気持ちが良いくらいであった。

確かに優人は、ばれないようにすかしっ屁をしていた。

「てめえ!みんな腹減って参ってんだからよ!」

「車の中で屁こくんじゃね~よ!」

騒ぎを聞き、他の何人かも目を覚ましたが、あまりの臭さに皆すぐに納得した。

「今度やったら車から降ろすからな!」

健はそう叫ぶと、腕を組んで目を瞑った。

皆、切ない心境だったのかも知れない。

おとなしいカズが運転していたので、カズは何も言わなかった。

優人も特に何も言わなかった。

「屁くらいでそんなに怒るなよ」と思いながら。


帰りは一週間でロサンジェルスに着き、しばらくは、またヴィクトリアの家にお邪魔した。

もうそろそろ、ここアメリカからも離れる時が来ていた。

最後の一週間は、本当に金が無く、もうビールもやドラッグも買えなくなり、

ここに着いたときのように、日本製のインスタントラーメンを近くのスーパーで購入し、

なんとかしのいだ。

「サッポロ一番」などは、五袋で一ドルにも満たないという激安商品であり、

しかも懐かしい味で、一時でも満腹感と同時に日本人であるという満足感を味わえたので、

皆で分け合い、大満足であった。

タバコも分け合って吸った。

剛とカズは相変わらず将棋をしていた。


シンシアの手配で、もう帰りの飛行機は取ってあった。

最後の三日間、ロサンジェルスで自由時間があった。

いつも自由時間のようなものだったが、最後だからと、シンシアに金を借り、六人で中華料理店へ向かった。

ロサンジェルスでのアジア料理は高くつき、ラーメン一杯が十ドル、というノリであった。

まして、寿司屋などはべらぼうに高く、今の優人達にはとうてい手の出せる金額ではなかった。

しかし、ロサンジェルスにも回転寿司なるものがあり、寿司がくるくると回っていたが、

カリフォルニア巻きやアボガド巻きといった聞き慣れない寿司が主流で、

優人達日本人にとってはなんだか気持ちの悪い食べ物であった。

最後にロサンジェルスでたまたま見つけた中華料理店に入り、チャーハンやラーメン、ギョーザといった

六人には馴染みの深いメニューがあり、日本で食べるよりも倍くらい高く付いたが、もの凄くおいしく食べた。

しかし、食す最中、食欲旺盛な若者にはこんなものが何故こんな値段なのかよく分からず、

「たけーよな!たけーよな!」と叫びながら食っていた。

考えてみれば日本では居酒屋で鳥の唐揚げを頼んでも、五百円くらいだし、

まして打ち上げで一人三千円で食べ放題といえば、焼き鳥やら唐揚げやらがいくらでも出てきた。

それなのに、ここロサンジェルスではラーメン一杯が十ドル=千三百円もする。

ギョーザも倍近い値段である。

ビールも日本製なのでバドワイザーの三倍くらいした。

しかも、貝や魚といった気の利いた品は出てこない。

ここ一ヶ月ハンバーガーしか食べていなかった六人は、居酒屋ってなんて素晴らしいんだろう!と思い、

「居酒屋行きて~!」

「居酒屋って最高だよな!」

などと叫びながらチャーハンやラーメンをもりもり食べていた。

もうハンバーガーなんて冗談じゃない。

「居酒屋行きてえ!」という魂の叫びの曲が実際にできるほどであった。

この曲はビートパンク調の仕上がりであった為、日本でも演奏することは滅多になかったが。

結局、チャーハンやラーメンを残らず平らげ、六人は一時であったが、満足した。

が、お会計は六人全員で二百ドルを超えた。

あくる日、ヴィクトリアの家で、荷物の支度をし、いよいよ日本に帰る準備ができた。

六人とヴィクトリア、ジョンとアレックスとはそれぞれに抱擁し、再会を誓う挨拶を交わし、

ジョンの運転する車で空港へ向かった。

長い二ヶ月の終わりである。

六人はジョンに再びお礼を言い、空港のロビーに向かった。

シンシアはまだこちらに残るようだった。

「楽しかったな」

健が言うと

「まあ騙された感はいなめないけどな」

そういう浩二も満足気だった。

ロサンジェルスにてライブ、という夢は叶わなかったが、

西海岸の旅やヴィクトリアの家での出来事は六人にとって大きな財産になった。

アメリカの文化やスケールの大きさに触れられたし、裸族的な貧乏生活も結果的には楽しかった。

また、日本に戻ってライブを頑張ろう、そういう気になった。

剛やカズを含めた六人は一回りたくましくなっていた。

こうして二度目のアメリカの旅は幕を閉じたのである。

一九九一年の夏の終わりのことであった。


空港に六人が到着すると、それぞれの彼女や二人の女の子が迎えにきていた。

「おかえり~!」

皆、口々に二ヶ月ぶりの再会を喜んだ。

健と順子は人目もはばからずにアメリカ人のように抱き合った。

浩二は葵に「ちゅ~して~!」とキスをせがんだ。が、葵には断られていた。

越後とカーさんは意外に淡々と荷物を運び、歩き出した。

優人と由美は固い握手をし、無言で頷き、お互いの肩に手を当てポンポン、と二回叩きあった。

そうして、十二人と少しの荷物は三台の車に乗り込み、各々の家へと別れた。

六人がバラバラになれたのはおよそ二ヶ月ぶりである。


こうしてアメリカ旅行を終えたタンジェリンツリーのメンバーは帰国後早速ライブ活動を再開した。

全身にパワーがみなぎり、早くライブがやりたくて仕方なかったのである。


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