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十割る三は  作者: 小林 慶太
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第一話)バンドやろーぜ!

十割る三は


               作  小林 慶太


僕はいつから「俺」というようになり、それから時々「わたし」なんて言葉を使うようになったのか。



一九九二年の四月の午後、由美が市川という日本の千葉県と東京都の中間の駅の近くの「ムーンハイツ」というアパートの一〇一号室の畳の上、に寝頃がって5枚にわたる紙切れを読んでいるときだった。

ムーンハイツは広い駐車場の奥に建つ、木造のアパートで、玄関を開けると右にキッチン、

左に風呂とトイレ、そして正面に洋室と和室が右にあり、、そんなに綺麗でないながら、五万円という家賃から考えれば、そんなに悪い部屋でもなかった。

その日は二人共休日で、午前十時くらいに目を覚まし、腹が減った、と二人で近所の蕎麦屋に行ってから奥の和室でくつろいでいたところだった。

「ぶははははは!ユート!浩二ってほんとに馬鹿だね!」

由美はその紙切れに書いてある文字を読み終えると口を大きく開けて笑いながら優人に言った。

由美は当時、髪を腰のあたりまで長く伸ばし、パーマこそかけてはいなかったが、小奇麗とは言えない風体だった。

腰をおろし、壁に背をもたれ、アコースティックギターを爪弾いていた優人は由美の方を見て言った。

「まあ・・・馬鹿っていうか、しょうがないんじゃん?クスリのせいなんだから」

そう言って優人はギターを壁に立てかけた。

「クスリのせいって、こんなにたくさんバリコーヒー飲んじゃうあいつが馬鹿なのよ」

由美はまだ笑いながら言った。

「まあ・・・浩二はどこに行ってもそんな感じだからね」

優人はは特に笑わず、仕方ないよ、といった表情で答え、仰向けに寝転がり、両手をお腹の上で組んだ。

「まったく、おかしかった訳だ、こんな幻覚ばっかり見てたんじゃね」

由美が今度はあきれた様子で言うと

「ちょっと心配したけど」

優人は答えた。


優人は当時、音楽のレンタルスタジオでアルバイトをしながらタンジェリンツリーというロックバンドのボーカルを担当していた。

この頃の優人は確か、七十年代のミック・ジャガーのように少しウェーブがかかった茶髪の髪形で、

髪の毛の後ろには白や赤のヒモで髪の毛に編みつけたミサンガのようなものがぶら下がっていた。

二人が同棲を始めてから約一年経っていて、当時はこの先別れてしまうなどと想像もつかない程仲が良かった。


タンジェリンツリーは略して「タンツリ」と呼ばれ、渋谷や新宿のライブハウスで月に四回くらいのペースでプロを目指して精力的にライブを行っていた。

ライブの動員も毎回三十人くらいは呼ぶことが出来て、業界からもそこそこの評価も受け初めていた頃だった。

浩二とは、タンツリのドラマーで、この二人よりも二つ年上の二十三才だったのだが、性格がとてもファンキーで、行動も、馬鹿な行動を取ることが多かった。

由美が読んでいた紙切れとは、その浩二が書いたもので、当時みんなで一緒に行ったバリ島旅行での体験を記したものだった。

バリ島へはバンドのメンバー四人プラスその彼女達四人、それと共通の友達である男二人の、計十人で行った。

期間は一週間組と二週間組がいたが、由美達は一週間、浩二達は二週間だった。

バリに滞在している間は、浩二の行動があまりに不可解だったので、二週間後に帰ってきた浩二は皆の質問攻めにあったのである。

「どうして壁に話しかけていたの?」

「どうして一人で目を真ん丸くして空を凝視していたんだ?」

「あのあと、どうやって過ごしたの?」

等々、メンバーやその彼女達から矢継ぎ早に聞かれ「いちいち説明するのは面倒だから今度紙に書くよ」

という理由から浩二自ら筆を執ったのである。

その紙が今日の今さっき、同じムーンハイツの二階の一室に住む同じくタンツリのベーシスト、越後雄介の彼女、

カーさんというあだ名の女から回ってきたので、優人が先に目を通し「まったくしょーがねーなー」と言いながら由美に渡したところであった。


浩二達がバリから帰ってきて約五日経ち、皆、アルバイトの生活に戻っていた。

優人と由美はバリ島の旅行を、一週間だが心から楽しんできた。

というのも、優人と由美は四年前に付き合い出してから、ロマンチックな旅行という旅行はあまりしたことがなかった。

この旅に行くまでの過程でも、二人の間にはいろいろな軋轢や問題があった。

優人は旅行に行くのが大好きだったが、だいたい由美の他にバンドのメンバー達と一緒で、寝床は雑魚寝だったり、

また、メンバーだけでどこかへ行ってしまうことや、時には優人一人でふらふらとどこかへ行ってしまうことが多く、

由美とのデートはせいぜい近所の公園や、ディズニーランドに一度行ったことがあるくらいだった。

当時のバリ島旅行もバンドのメンバーは一緒だったのだが、部屋はきちんと分かれていて、二人だけの行動もたくさんできたし、

海や山、ショッピングなども堪能できた。二人だけで見る夜空や、波の音は優人と由美にとって充分「ロマンチック」だった。

それは凄くよく覚えている。とてもよく、覚えている。


由美は音楽と共に洋服が好きで、都内の洋服屋でアルバイトをしているほどだったが、

優人は洋服にもあまり興味が無かったし、人ごみの中を何時間もかけて洋服を買う、という行為がどうしても好きではなかった。

日ごろ由美が、渋谷に行こうと言うと、どうせ買い物だろう、と言って一〇〇%といって良いほど優人は断った。

しかしバリでは、外国で、珍しいものが売っているということと、物価が異常に安いということ、またそれだけではないだろうが、

人があまり多くなかったことも、ショッピングがそんなに苦にはならなかった原因でもあったのだろう。

ショッピングも大いに楽しめた由美はそんな点でも満足だったし、もともとは女性だけで行こうというツアーだったのだが、

タンツリのメンバー達も同行したことによって、結果的には楽しさが倍増したのである。もしかしたら彼女達にとっては迷惑だったかもしれない。


由美は浩二の手記を読み終わり、先ほどの他愛のない会話をしてから、いつものように二階に住むカーさんの友の所へ小一時間遊びに行き、戻ってきた。

バタン!と由美が「帰ってきたよ!」と言わんばかりにドアを閉めると

「さて、そろそろライブの準備をするかな」

うとうとしていた優人は起こされたように畳から立ち上がり、冷蔵庫を開けて缶ビールを飲みだした。

次のタンツリのライブは一週間後の渋谷パパスだった。

「な~にがライブの準備だ。酒ばっか飲んで」

由美が言うと

「立派な準備だ、心の」

そう言って、優人はプハーッ!と大きな声を出した。

「まったく!せっかくの休みも、いつもこうじゃんか!」

もうすぐ三時になろうという時だったが、由美はこのあと近くでもいいから買い物に出かけたいようであった。

「お前がプラプラ二階に行くからだろ。それにショッピングならバリでさんざん行ったじゃんか」

由美の行動を察していた優人は怒ったようにそう言うと、隣の洋室のテーブルの椅子の上に座り、缶ビールをテーブルに置いて、

プライマル・スクリームのCDをステレオに入れた。

「魂の叫びだよ」

バンド名の訳でもあったし、優人の当日の心境、両方をかけてそう言うと、踊りだしたくなるようなロックが鳴り始めた。

優人は腕をテーブルに置き、手の甲の上に顔を預け、ジッとスピーカーに耳を傾けた。

このアルバムを聞くのはおそらく百回目を越していただろうが、ドラムだけ、ベースだけ、ギターだけ、ボーカルだけ、そして歌詞や全体の音造りやアレンジを、アーティストがどのように考えて、何を想いながら造ったのか心がけて聞くと、いろんな楽しみ方ができる。

優人は好きなアルバムは今でもこうやって聞く。聴くたびに新たな発見があるのである。

まして音楽は、スピーカーや場所、そして心境といったものに凄く左右される。

今までなんとも思っていなかった曲がドライブの途中にラジオから流れると、急に心に飛び込んできて、

それからそのアーティストのCDを買い集めるようなことも多々あったし、好きな曲を家で聴くのとドライブしながら聴くのとでは

まったく違う印象を受けることもあった。

このプライマル・スクリームのアルバムにしても、バリ島に持っていって小さなCDプレーヤーで何回も聴いたが、

今日、この日の、この部屋のスピーカーで聴くのとはまったく違う意味あいを持っていたのである。

由美は「またこのアルバム~?」とふてくされて女の子用の雑誌やらを読み始めたが、優人は別に構わなかった。

同棲を始めてからは、よくある光景だったのである。


そんな一日の、夕方の六時をまわると、越後がバイトを終えて二階の部屋に帰ってきたようだった。

それは階段の音で分かった。部屋の真横に階段があったのである。

越後とカーさんも由美と優人と同じ頃、ムーンハイツの二〇一号室で同棲を始めた。

しばらくすると、カンカンとリズム良く階段を人が降りてくる音がして、一〇一号室にノックだけして越後が入ってきた。

「浩二の紙見せて」

越後が玄関でそう言うと、由美が「はい」と言って紙ではなく缶ビールを越後に投げて渡した。

越後が入ってくるということは、足音で分かっていた。

良い塩梅になって今度は椅子でギターをいじっていた優人は越後を歓迎し、由美がテーブルに置いた例の秘密文書を越後に渡すと

「おつかれ~」とお互いに言って俺はえらそうに座ったまま、越後は立ったまま缶ビールを乾杯した。

よいしょ、と勝手に椅子に腰かけた越後はニヤニヤしながら読みだしたが、ものの五分で読み終わると、

「なるほどね~」とだけ言い、肩の下まである真っ黒で真っ直ぐな、まだ半乾きの髪をおでこのあたりから掻き揚げた。

風呂上りのようだった。

「そういうことらしいよ」優人はギターを抱えたまま言った。

「健はもう読んだの?」越後はセブンスターに火を付け聞いた。

カタン、というライターを置く音はプライマルを聞き終わった後、スピーカーから流れていたレッド・ツェッペリンの曲によってかき消された。

「まだなんじゃん?昨日カーさんが葵から受け取ったみたいよ」

葵とは浩二の彼女である。

カーさんと葵は、前の日にに二人で軽く飲んだそうだ。何を話したのかは知らないが。

「まあ、健は二週間組だから分かってるか」

越後がフーと煙を吐きながら言うと

「健が仕掛けたみたいなもんだからね」

優人は答えた。

ふはははは、と越後は軽く笑った。

浩二はいつでもそう。何か吹っかけられると後先考えずに勝負してしまう。

「健もな~、いい加減浩二の性格を把握しろよなあ」

越後が言うと

「まあ、無理やり飲ませた訳じゃないんだろうけど、浩二も物好きだからねぇ」優人は答えた。

「ほんとだよな~、あいつ頭おかしくなっちまうぞ」

健とは「タンツリ」でギターを担当していた人物で、俺と、健、越後、浩二からなる四人で音楽活動をしていたのである。

二人はそういった会話を、バリでの思い出話を交えながら少ししてビールを飲み終えると「じゃ、おやすみ」

と越後はまたカンカンと、今度はゆっくりと二階へ上がっていった




優人はとても天気の良い真夏の、そうセミがミンミンとうるさい午後にパワーハウスに遊びに行った。

十八才という年齢で、暇だったからという理由が適切だろう。

勝手に玄関のドアを開けて入りこう言った。「浩二、いったいこんな汚いところで何をやっているんだ?」

浩二の部屋を訪れた俺は、フルチンのままあぐらをかいて眩しい日差しの中、何か絵画のようなモノを描いている彼を見て驚いたのだ。

「お?なんだ?ユートか!勝手に入ってくんなよ!」

浩二は俺を確認するとフルチンであぐらをかいたまま首だけ向けてそう言った。

お?ユートか?じゃね~よ!なんだ?その格好は?セミがいつまでもミンミンと鳴いているような日差しの中そう思った。

セミはどこに行っても夏の象徴である。

「うわあ!浩二!なんだ!?なんでお前は今フルチンであぐらをかいていやがる!?」

「それになんだこれ!?油絵か!?お前いつから油絵が趣味になったんだ!?」

浩二が油絵を描いているのを見たのはこの日が最初で最後だった。

「なんだ?ってなんだ!?この作品は宇宙のフィロソフィを表現してるんだ!」

「なんだって?宇宙のヒロソヒー?」初めて聞いた言葉だった。

「馬鹿野郎!フィロソフィだよフィロソフィ!」

「なんじゃそりゃ?ソフィー・マルソーのことか?」

「馬鹿野郎!フィロソフィだ!」

「ヒロソヒーってなんだよ!?」

沿う言うと浩二は落ち付いた様子で言った。

「いいか、ユート・・・大事なことなんだ。俺は今宇宙からのメッセージを受けている」

浩二はしばらくあぐらをかいたまま目を瞑っていた。

本当に何かを宇宙から貰っているんだろうか?

浩二はそういう「何か」を持っているのかもしれない。

真剣にそう思えるほど、浩二はマトモだったのだ。

その「絵画」は、なんだか地球のように見える球体の絵だった。



時代は変わるが、変わらないものもある、と誰かが言っていた。誰だったかは覚えていない。


パワーハウスは千葉県千葉市の花見川という小さな川のほとりにポツンと建つ掘っ立て小屋で、、優人達が十八才くらいの頃よくタムロしていたオンボロの貸家だ。とても汚いし、家全体が、臭い。なんの匂いだか分からないがなんとなく臭かった。いつも。優人の屁や足の匂いは相当臭かったから、お互い様なのであるかも知れないのだが。

二DKのそのボロ貸家は平屋で二部屋とも和室。玄関を入って奥に風呂も付いていたが誰も入る気になれないような汚い風呂だった。

それに便所は汲み取り式だ。当時でもそんな貸家に触れたことは・・・少なくとも育ちの良い優人には無かった。

千葉県だからってみんな馬鹿にしそうだが、当時でも汲み取り式が当たり前のような時代ではなかったのだ。

優人だって初て見たんだから。見て、触れたのである。

困ったもんだ。汲み取り式なんて。しかも便所は壊れていたというか・・・汲み取りに来なかった。役所がいけないのだろうか。

そりゃあ家中臭い。でも、タムロするみんながいい方法を思いついた。

「川にクソをすればいい」


・・・それは画期的な発明だった。もう嫌な臭いはしない。

パワーハウスは川のほとりだったからみんなが川に小便や大便をした。これで一つの問題は解決だったのである。

ロックバンド「タンジェリンツリー」は、関東は千葉県においてグレゴリオ暦一九八八年、

ヴォーカルに三浦優人、ギターに中村健、ベースに越後雄介 ドラムに宮本浩二、の四人によって結成された。

三浦優人は三浦優人として一九七一年の冬に生まれた。

この「タンツリ」の結成のいきさつはこうである。

まず始めにギターの健とドラムの浩二の二人が十九で同じ年の頃、

ロックバンドを結成して、世界を制覇してやろう、という大きな目標を掲げた。

制覇とは、要するに世界的に有名なバンドになってやろう、という若者らしい単純な発想、それだけである。

中村健は、細身で一八〇センチくらいと割合と背が高く、馬のようだが男らしい顔をしていて、何でも仕切りたがるような、ある意味ではおせっかいな男であった。また、甲高い声で、もの凄くおしゃべりで一方的だし、早口過ぎて時々何を言っているのか分からないこともある程だった。しかしながら、いわゆるリーダーシップというものも兼ね備えている、いい男であった。

というのも、健の母は健が十八の時に亡くなり、健には弟がいたが、いやおう無しに逞しくならざるを得なかったんだろう。

一方の宮本浩二は、顔立ちこそ鼻筋がキュッと通っていてそこそこの顔をしていたが、背が一六〇センチと低い上に足が異常に短く、

言ってみれば奇妙な体型をしていた。しかし、浩二にももちろん良い所はあって、性格はすごく穏やかで、行動はいつも馬鹿であったが、ものごとを大きな目で見れる、そんな父親のような一面も持ち合わせていた。

とにかく、このデコボココンビがこのストーリーの発端、いやいや、この文章に限って言えば、優人が発端か?

この対照的な二人は、レンタルビデオというビデオを貸してお金を貰うという、

当時としてもそんなに珍しくもない商売のお店でアルバイトをしていて、暇な時にはお店で二人で「男はつらいよ」シリーズを見て涙することもあったし、時々はアダルトビデオを盗み見て、この女のここが良いとか、いや、俺は気に食わない、などとお互いに評論しあう良い仲であった。この時点で馬鹿らしい関係だが、若者として、これは正しい友人の関係だ。女の趣味一つ語れない関係なんて友達とは呼べないであろう。

その頃この二人は、千葉県は西千葉の駅前にある楽器屋、戸田屋によく立ち寄り、楽器屋店長、遠藤武の意見など仰いで楽器を買ったりメンバー募集などをしていた。

遠藤武という人物は大きな魚眼レンズのような眼鏡をかけていて、腰まである長髪で、ぱっと見こそ気持ちの悪い人間の部類であったが、当時二十四という若さでも健や浩二にとっては「大人」で、また、音楽やバンド活動に関して、至極もっともな意見を言える人であった。

その楽器屋戸田屋は同じような年頃の、やはりロックが好きな連中がたむろする店で、店長の遠藤は「遠藤たけしミュージックショー」と謳いその若い連中を集めたライブイベントを月に一度ほど戸田屋の奥にある狭いスペースで開催していた。

そのイベントにたくさんのバンドが出演したがるのも遠藤の人望によるものだったのであろう。

当時は暴走族を卒業したらギターだよな、って感じの時代であったのである。

遠藤は、健や浩二だけでなく、たくさんの若いミュージシャン志望の学生の心をつかんでいた。

結果的に店は繁盛して、遠方の方まで噂は広がり、千葉県全土に戸田屋の名を、いや、遠藤たけしの名を轟かせたほどだった。

また、夏には戸田屋からほど近い、稲毛海岸にある野外ステージにおいて「遠藤たけしミュージックショー」が行われ、

特に規制があった訳ではないが、皆、水着のまま演奏できるという楽しい企画もあった。

優人も、高校が西千葉駅であったから、同級生とよく戸田屋に寄った。

そんでもって遠藤さんのアドバイスをいろいろと受け、狭い戸田屋のミュージックショーに出たり、店にたむろしたりしていた。


そんな毎日が、優人にとっては先輩に当たるロック好きの連中や、同世代の女達と友達になっていく絶好の時期だった。

一九八八年の夏、その「遠藤たけしミュージックショー」で俺と浩二が出会った。

俗に言う「ちんぽの出会い」である。

その日、俺は「遠藤たけしミュージックショー」に高校にいた頃のゴーやその他の同級生と結成したバンドにて初めて出演し、

浩二もまたクローバーという別のバンドで出演していた。

野外での「遠藤たけしミュージックショー」は稲毛野外ステージにおいて前年から二日間かけて行われ、入場無料ながら、観客は友人や家族、または通りすがった人達が面白がって見ていく程度の素人のイベントであった。

稲毛野外ステージの規模も大きくなく、五百人も入れば満員といった程度の大きさだったから、皆呑気にビールを飲みながら、

思い思いに夏の楽しい時間を過ごしていた。が、満員になるなどということは到底考えられず、皆、昔のパ・リーグの野球の試合のように横になって観賞していた。(そういえば、今ではパ・リーグも人気があるように感じますが)

ただ、出演バンドが多かった為、日陰になる部分には出演バンドの家族や友人といった連中が、大きな日傘を刺して陣取っていた。

その日は計十五バンド二曲づつの演奏予定で、真夏の雲一つない良い天気であった。

当然、待ち時間は長く、優人は待ちきれなくなってしまい、ビールなんか飲んじゃいけない年齢ながら

「うまいうまい、夏はいいな~」と何本も飲んでしまった。

稲毛の海岸は幕張、検見川と続く、人口浜としては世界最大規模の浜であったようだが、海とはいえ、汚れた東京湾の為、毎日遊泳禁止の赤い旗がハタハタとはためいていた。すぐ横には千葉市の汚水処理場がある。当然泳ぐ気にはなれない。普通はだが。

ステージでは決して上手とはいえないよく分からないバンドがロックを演奏している。

「ああもう!暑いしうるせ~よなあ!」

特に他のバンドに興味もなく、暇をもてあました優人は、入れないとはいえ暑いので「なあ、海行こうぜ」

と本田豪という同級生や仲間に声をかけ、海水パンツ一つで仲間達と海に向かった。

他のバンド仲間も同じような気分で同意して、張り切って海へと向かったのである。

海まで五百メートルくらいだったか、向こうから、背が低くて異常に足の短い、しかしながら遠めに見てもなかなかの顔立ちの男が、数人と笑いながら歩いてきた。

浩二である。

浩二と一緒にあるいてきた大久保と優人は、すでに戸田屋で知り合っていて友達同士だった。友達というかその頃は先輩という感じだったであろうか。

浩二も優人より二つ年上だったのであるが、すれ違わず、互いに自己紹介をした。

大久保アキラは「枕草子」という戸田屋の中では人気のバンドのボーカルで、この日も出演していた。

大久保も当時は金髪で短く切りそろえており、パンクロッカーらしく、いつも底が五センチくらいあるラバーソウルを履いていた。

当時の優人は、大久保からすれば、可愛い後輩のような感覚で付き合っていたのでだろう。

その頃のバンドマン達はそんな風にして仲間同士、どんどん友達を増やしていったのである。

「お、大久保ちゃん!海行ってきたの?」

優人は元気に声をかけた。

「おう!そうだよユート!俺ら、まだまだあとだからさ」

「そうだよね!枕草子は最後だっけ!」

「そう、最後までやることね~んだよ!」

「ビール飲んで海で遊ぶくらいしかないよ」

「そうなんだよな~」

という親しげな会話を交わしていると、横から

「紹介してよ」

と、浩二が大久保に言った。

浩二も、正面から来た真っ黒に日焼けしたすらっとした男、優人に何か感じていたらしい。

「あ、俺、ユート。はじめまして」

優人ははタメ口ながらも、案外と丁寧に挨拶をした。当時の彼らに年齢は関係なかった。

「クローバーってバンドでドラム叩いている浩二、よろしく」

そんな挨拶をかわし、二人は握手をした。

「まあ、クローバーはヘルプなんだけどさ」浩二は頭を掻きながら言った。

「今日は何番目?俺も今日は学園祭でやってたバンドなんだあ」

優人は人見知りをするタイプではなかったし、酒の勢いもあって、すらすらと言葉が出てきた。

「へ~、見に行くよ」

浩二が言うと大久保が

「こいつかっちょええぞ!なんだかわからんけど」

と優人をを推薦した。ちょっと嬉しかった気がする。

優人にも、自分はかっこいいボーカリストだ、という自負はあったのだが、特には言わなかったし、言えなかった。

ちょっと恥ずかしい。

「しかし、今日もあっちぃなぁ!」

「ほんとだよ、あちぃし、ステージはうるさいしさあ、待ってらんないよ」

そんな、他愛のない会話の中から「海、入っちゃう?」と

誰が言い出すともなく、青春の真っ只中である優人達にとっては魅力的な、しかし当り前のような発言を呈したのである。


それ行け!

再び海へと戻った大久保とゴーを含め四人の男が、真夏の太陽の下、汚水処理場のすぐそばの遊泳禁止の海の中に走っていく。

他の友人達は四人を、キョトンという感じで眺めていた。

優人は、海に入る予定ではなかったから、パンツは波によってずり落ちちゃったのだが、当然そんなことおかまいなしである。

大久保もブーツを放り投げ、負けじと海の中へと突入した。

なにしろ当時の彼達は「これが青春だ!」「これが夏なんだ!」という暴走族に匹敵するほどの、もの凄いエネルギーの塊である。

このくらいの年頃は、バイクに走るかロックに走るか、またマンガや何か、他のものに熱中するか、その程度の違いである。

気付くと、四人全員がフルチンだった。

海の色はいわゆるモスグリーンで、なんとなく、いや、確実にベトベトする汚い水なので、下半身は見えない。

浪打ち際では子供連れの家族などが楽しそうに遊んでいる。

四人は無邪気に水を掛け合い、わあわあきゃあきゃあ言いながらその汚い海で騒ぎ、潜ったり、逆立ちをして遊んでいた。

逆立ちをすると、ちんぽが見えるので、面白かった。

しかし五分も経たないうちに、オレンジのライフジャケットを着た警備員が拡声器を片手に笛を吹き、

「ピー!ピー!そこの四人!ここは遊泳禁止です!今すぐに揚がってください!」

「ピー!ピー!」と必死に叫びながら俺達の方へ走ってくる。

「まずい!捕まるぞ!」

浩二や大久保が危険を感じ、叫びながら上陸体制に入った。

優人も、それに続いて走って上陸した。「やばい!捕まるぞ!」

わあわあと叫びながら陸に上がっていく四人だったのだが、今まで汚れた海水に隠れていた下半身がみな露わになり、ぷるぷるとイチモツを揺らしながら逃げていくお尻姿は警備員を以ってしても、呆れるより仕方がなかったのであろう。

「ふう、危なかったぜ」

「危なかったな!」

「じゃあ、あとで!」

それ以上の会話は特に無かった。


これが、優人と浩二の「ちんぽの出会い」である。

優人はその後ステージを終え、マジマジとそれを見ていた浩二は、優人にますます魅力を感じたようである。

「何歌ってんだかわかんね~けど、かっちょえ~な、こいつ」

特にそれを優人には伝えなかったが、とにかく、そういう第一印象だったらしい。

優人のバンドは、へヴィメタルを卒業し、いわゆるロックンロールというジャンルの音楽に近かった。


優人は浩二のステージを見て、一生懸命ドラムを叩く姿に感心した。優人はまだ、ドラムに関して上手いとか下手とういうことはあまりよく分かっていなかった。

その後は枕草子の演奏で「遠藤たけしミュージックショー」全体が終わるのを待ち、オレンジ色に染まった空の下、出演者や関係者が集まり、一本締めをして近くの居酒屋へと移動した。その打ち上げの人数は約五十名を数えた。

ワイワイガヤガヤと居酒屋に入り、思い思いの感想や、今後について皆で話した。

勿論、先輩連中や、その奥さん達が主だったが、十七才の優人がいても不自然ではなかった。

この日の打ち上げの際、中村健と浩二、そして優人が出会い、酒を浴びるほど飲んで、意気投合するのである。

「おらあ!ユート!飲め!」

健は初めて会った優人に、甲高い声で叫びビールを瓶のまま渡した。

「よっしゃ~!もっと持ってこ~い!」

優人は調子に乗ってビールを瓶のまま一気飲みした。

「いいぞユート~!もう一本だ!」

浩二も調子に乗って続いた。

「望むところだ!かかってこい!」

健と浩二は俺優人の飲みっぷりに驚いたが、優人はまだ加減というものを知らなかった。

「よっしゃ~!もう一本!」

優人は飲むだけ飲んだが、その全てをその夜のうちに吐いてしまった。

しかし優人が勢いに任せて飲む姿をまじまじと見ていた健は浩二に「こいつ、酒つえ~な!」

と叫ぶと、自らも一気にビールを飲んだ。

中村健は当時、バンドを持っていなく浩二と共に新バンドの結成をもくろんでいたところであったが、

浩二を始め、大久保などの友達がたくさんいたので観客として遊びに来ていたのである。

バンド「タンジェリン・ツリー」結成まで程ないときであった。

しかし次の日、優人はひどい二日酔いに悩まされ、酒の「さ」の字も見たくなかった。

「うげ~・・・気持ちわり~・・・あんなに飲ませやがって・・・」

健と浩二を恨んだ。



かくして出会った三浦優人、中村健、宮本浩二の三人はバンド結成を決意する。

ロックバンドで世界制覇しようという健と浩二の計画に、俺は加担したのだ。

かくいう俺も「ロックで食っていく」という大前提があったのだから当然かも知れない。

中村健と宮本浩二は「ちんぽの出会い」の日に俺を思いっきりいじめた。

そして二人による話し合いの結果、歌唱力はともかく、馬鹿でなければ世界を制覇出来まい、後のことは成長させれば良い、

という結論に達しており、優人はきっと適任であろう、という合意の下、浩二の家から健が優人に電話をし、声をかけてきたらしい。

「お前、俺たちと一緒に世界制覇しようぜ!今から来い!」

この健の短く甲高い、勢いのある言葉に、一人でギターの練習をしていた優人は

「ちょ、ちょっと待ってよ、今から?」

と困惑したが、数秒も経たないうちに他にやることも無いし、と思い返事をする。

わずか一つ隣の駅へと電車に乗り、浩二の家、つまりパワーハウスに向かった。天気も良かったし、電車の中は気持ち良かった。


浩二と健は「ちんぽの出会い」の日に俺のステージを見て、

「何を歌ってんのかさっぱりわからんけど、いいな」

「なんで、あんなダンスすんのかなあ?」

と、優人のパワーに惹かれていたし、酒の強さにも感心していたそうである。

当初から、この二人の思想は馬鹿をやることがロックであり、真面目な大学生のような人間には不向きであると考えていた。

優人は二つ年上のこの二人の世界制覇の夢を、共に追いかけてみようと瞬時に感じた。

この二人の馬鹿な発想には大賛成だったし、おおいに魅力を感じた。その日、優人は、心を決めた。

ゴーや学園祭のメンバーには後日、新しくバンドを始めたいという意向を伝えて、お詫びをしたのだが、優人らしい発想だ、お前の夢を追いかけて、必ず叶えるんだ。

と快く受け入れてくれた。嬉しかった、単純にである。だって奴等も優人のことを認めてくれてた証拠じゃあないか。

優人はゴー達の好意に感謝をしたが、同時に申し訳ない気持ちで一杯だった。「必ず成功するから」と約束をした。

ゴー達もスタジオの爆音の中でも平気で爆睡してしまうような優人にはただならぬものを感じていた様で、笑顔で送ってくれた。

「頑張れよ、ユート、お前その為に学校辞めたんだろ」

ゴーは優人のことを理解してくれていたし、自分達は特に音楽の道を目指していく訳でもないと思っていたのでみたいだった。

「すまん、ありがとう」

と優人とゴー達は握手を交わした。

三浦優人、十七の夏の終わりの出来事である。


その後、一緒にやろうと返事をした優人は、健と浩二と仲間になった。よく暇を持て余し、パワーハウスで時間を潰した。

「ふはははは、世界制覇だ!」

「ロックで世界制覇だぜ!」

「金にも女にも困らないぜ!」

そう言って若い三人は意気投合し、くだらないヨモヤマ話をした。たいがいビールの缶が山ほど転がっていたが

その時のヨモヤマ話の話題には、主にローリング・ストーンズやビートルズの話が多かった。

思い思いの意見をぶつけあい、世界制覇への夢を語り合った。俺が歌を歌い、浩二がドラムを叩く。健がギターを弾いて・・・あとはベーシストだ。

特に、四人編成にする必要もなかったのだが、当時のセオリーからすれば、当然の流れだったのだろう。

まだ夏の余韻の残るある晩である。

虫の音が響く中、三人はパワーハウスでフェイセズというロックバンドのライブビデオを見ていた。

灰皿はいつも三人のタバコの吸殻でいっぱいだった。

よく昔の工務店の客室などにある、ガラスでできた丸い大きな灰皿である。

パワーハウスの門扉の前では何故かカーネルサンダース人形が花見川を見つめていた。

誰かが酔っ払って持ってきたものだろう。ガラスの灰皿もきっと同じような理由の土産物である。

「パワーハウス」という名の由来は川や海には宇宙のパワーを感じる、という浩二と健のアイデアから「パワー」という曲を既に健と浩二で作っており、そこから名付けた。

バンドマン達の行動の根源でもある「パワー」という言葉はさらに優人達を奮い立たせていたし、皆、顔を合わせれば

「パワー?」

「うん、パワー!」

と挨拶の言葉になっていた。

仲間達も賛成し、日頃遊ぶのに「浩二の家」と呼ぶよりは「パワーハウス」に集合、という方が仲間内での体裁も良かったのである。

浩二は当時、家賃二万円でパワーハウスに一人で住んでいたので、戸田屋で知り合ったロック好きな、ろくでもない若者の恰好の溜まり場になっていた。

一度、健がなんの気なしに天気が良いからと、ふらふらと昼間遊びに行き、勝手にドアを開けて入った時には、浩二がフルチンで畳の上にあぐらをかいて油絵を描いていた、という逸話も残っている。

浩二は当時から、そんなゲージツ家肌の人間だった。

ある日には玄関前にうんこが置かれていたという事件もあった。

犯人は分からなかったが、当然ロックバンドの仲間に違いない、という結論に達していた。

健と浩二と優人の三人はよく、そんなパワーハウスで、真面目に音楽について語り合うようになっていった。

三人に共通していたことは、ローリング・ストーンズやビートルズ、またレッド・ツェッペリンやドアーズ等、

六十年代・七〇年代のいわゆるクラッシックロックが好きだという事だったが、

日本人では優人はキヨシロー、健はチャー、浩二はザ・モッズなど、いろいろと分かれていた。


そしてパワーハウスでは、時にはジェームス・ブラウンの叫び声に魅了され、

ジャニス・ジョップリンの生き方に感銘し、ジミ・ヘンドリックスのギター奏法に陶酔した。

パワーハウスは、お互いに好きなアーティストを教えあう音楽学校になっていたのである。


リアルタイムに彼らの音楽を知っていた訳ではなかったが、エアロスミスやストーンズが再び注目される中、健と浩二がレンタルビデオ屋から無料で借りてきたウッドストックのビデオを見たり、ジェームス・ブラウンのCDやビデオはコミックというジャンルだと、悪い先輩から教えられながらも、熱心に見たり聞いたりして、手探りのように「古き良き音楽」に心底携行していった。

優人にとっても、六十~七十年代のシンガーのように、変な踊りだけどそんなことは関係なく、音楽に身を委ね、叫びながらも歌うようなシンガーになりたい、という具体的な想像ができて、三人と方向性を同じくするのに役に立った。

当然、これから活動するであろうバンドの音楽性についても語っていた。基本的には先にも述べたミュージシャン達を尊敬する音楽性を追及していこうという、まことにおぼろげであったが、確実な方向性ではあった。

時代はちょうど、ヘヴィメタルという流行を追いやった頃である。


しかし、戸田屋の中でもビートパンクというジャンルが多勢で、大久保の率いる枕草子もビートパンクよりだったし、

優人達のようなスタイルは珍しい方でもあった。


ビートパンクとはザ・ブルーハーツという日本のバンドに代表されるように、主に二ビートのリズムを主体にし、

メロディラインや歌詞というメッセージを重要視する音楽で、エネルギーに満ち溢れた音楽であったが、優人達が目指した、

ブルージーでリズムを探求し、また精神的な欲求に対する抽象的な音楽的研究心とは少し違うものだった。

要するに、優人にとってビートパンクという音楽は単純過ぎたし、演奏も簡単過ぎた。その辺は好みなのだろうが、

優人達は難解なほうを選んだのである。難解というと大袈裟であるが、もっともっと音楽を追求したかったのだ。

ちょうどブルーハーツが「リンダ・リンダ」を大ヒットさせた後だった。


「越後ってさあ、テツ山内みて~じゃねえか?」

ジージーという虫の音と、蚊との格闘の中、ビデオを見ていた健がなんとなく言い出した。

かのロッド・スチュワートと一緒にフェイセズのベーシストとして参加していた日本人、テツ山内である。

越後の存在もまた、戸田屋に集まる連中の中でも三人の目に留まっていたのだ。

確かに、越後の容姿はテツ山内に似て渋かったし、ベースの弦を指で弾くプレースタイルや、笑顔の中にもでしゃばらない、

無口で無骨な雰囲気も似ていた。しかしその姿はロッド・スチュワートと一緒に演奏している、その事実だけで存在感を物語っていたし、俺達三人も感じていた。

「テツ山内ってすげ~よな~」

「日本人じゃあ他にはいないよな~」

三人は素直に感心していた。


当時はまだ、ヘヴィメタルの影響でベースをピックで弾く人間の方が多かったのである。

ちなみにベースをピックで弾くという事は、リズムよりもパワーを重点に置くヘヴィメタルに都合の良い弾き方だったと思うが、

三人の目指す音楽はもっとリズムを重視していた。

越後の年齢も健と浩二と同じであった。もしも一緒にやってくれるのならば何の問題もない。

三人からすれば、むしろ喉から手が出るほど欲しい人材であったのである。

越後の顔は、丸書いてチョンというような、非常に絵に描きやすい単純な顔をしていたが、性格はおとなしく、何事にもそう簡単には動じない、というタイプの男だったので、その辺りもテツ山内と重なったのであろう。

三人は越後に注目していたが、一緒にやろう、という目では見ていなかったので、健のこの発言に他の二人は「はっ」とした。

「そういえば、そうだね」

優人はふむふむといった表情で言った。

「あいつのバンドも同級生のバンドだったよな?」

健が誇らしげに言うと、

「声掛けてみるだけ掛けてみよっか」と浩二は言い、三人の意見は、その晩一致した。

「あいつの電話番号知ってたっけ・・・」

すぐに健の黒い小さな薄っぺらい手帳から電話番号を調べ、浩二が越後に電話をかけた。

「あいつ家にいるかなあ」

プッシュホンを押したあと浩二が言った。二~三十秒待った。

「あ、出た」浩二のその言葉を聞くと、優人と健は顔を見合わせ、同時に頷いた。

「もしもし、浩二ですけど、、、その、なんつーの、、、バンド一緒にやんない?」

「・・・あ、そう。オッケ~、また電話するよ」

浩二は電話を切った。

この会話だけである。

たったの一分もたたない会話であった。

まだ、留守番電話の機能も付いていない、コード式のソニーの電話機。

優人と健はどういった返事だったのかワクワクドキドキして、顔を浩二に近づけた。

「なんて?」

健が聞いた。

「一緒にやるってよ」

「え~~~~~?」

健と優人は返事の早さに驚いて、思わず声を合わせて言った。

「あいつも変わってるよな~二言返事だもんな~本気なのかな~」

浩二も不思議そうな様子であった。

「マジで?」

「今返事したの?」

「だって・・・やるって・・・言ったよ?」

三人は同時に驚愕した。

優人にいたってはびっくりして「プウ~~」という高音のおならをしてしまった程である。

「おまえ、なんつ~タイミングで・・・」

浩二はあきれ、おならの臭さに対して優人に慎むように文句を言った。でも、こればっかりは生理現象であるし、子供の頃からの性分である。

越後は当時、やはり同級生と一緒に「遠藤たけしミュージックショー」に出演したりしていたが、

このバカ3人達のことは知っていたし、特に健と浩二という馬鹿な二人のことはよく知っていた。

同級生のバンドに対しては、物足りなさを感じていたし、そのバンド自体も格別な目標があった訳では無かったので、

越後がそのメンバーに辞めると言っても、「ああ、そう」という程度で誰も引きとめようとはしなかった。

越後は初め、浩二に対して返事を早まったかも知れないと思ったが、そのセリフを聞き、このようなバンドの中にいても面白くはない、こやつらとやってみよう、と思っての決断だった。


そうして越後も「パワー」と言いながら、よくパワーハウスに遊びに来るようになり、

たむろするメンバーは三人から四人になるのである。

三人だったときと同じように、ビデオを見たり、CDを聞かせあったりしたが、

よく、優人がおならをしたり、足が臭かったりしたので、ほかの三人は怒ったが、そんな時間も四人を仲良くしていった。

そうこうする日々のうちに、肝心なバンドの話をするようになった。

バンド「タンジェリンツリー」の誕生である。

バンド名は、四人でパワーハウスにて悩んだ結果、ビートルズ(ジョン・レノン)の

「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」の歌詞から取った。

その曲の歌詞については、曲名自体が頭文字を取るとLSDの略である、

という説があり、暗号のようで魅力的であったし、実際に歌詞の内容は、ジョンが見たであろう幻覚を表す

新聞紙で出来たタクシー、や、マーマレイド色の空といった不思議な単語がたくさん出てきた。

四人の間のバンド名についての話し合いにおいては、勿論パワーハウスにて四人で話し合ったのだが、

「そんな女の子みたいな名前は嫌だ」とか、

「もっと短い呼びやすい名前にしよう」

といった口論があったが、四人はロックの先人達に学び、ドラッグについて非常に興味を持っていたし、

英語圏の人間にとっては良かろうという、グローバルな考えと、

世界中に目立つような、大きな木を立てようという思いから決着が着いた。

一九八八年の初秋のことであった。



西暦一九七一年冬、大宇宙における、銀河太陽系第三惑星「地球」の上、

アジア大陸は東の果て、日本国の静岡県にその男は生を受けた。

(地球という名前やアジアという名前はただ単に、現在そう呼ばれているのでこの書ではそのまま使わせて頂く)

姓は三浦、名を優人ゆうと名づけられた。

父、洋二が優しい人であるように、と、もの凄く単純だが、そう名づけた。

優人は、比較的裕福な家庭に育ち、父がサラリーマンだった為静岡を移り、関東近辺、東京、千葉などを転々としながら育った。


優人は当然、たびたび転校生にならざるを得ないのだが、この男の調子の良さはその辺りに由来するのかも知れない。

優人は幼少から、勉学、体力とも平均的な能力を持ちながら、時々は能力以上の成績を残すこともあり、

またクラス中を笑いの渦に巻き込むような非常に明るい性格であった為、将来はまずまずであろうと両親である洋二と節子は思っていた。

しかし優人は赤ん坊の頃から、「おなら」をよくした。

両親にもよく笑われることがあり、

「この子はユートではなくヘートね!」

と、強烈な毒舌の持ち主である母節子に言われたこともあった。

また、小学生の頃先生に怒られている最中におならをし

「会話はお尻でするものではありません!」

とさらに叱られたことは、ある種のトラウマのように記憶の片隅に残っていた。

しかし、前述のように「おならぐせ」は二十才を過ぎても治らなかった。


そんな優人は、小学生あたりまでは純粋無垢に、また無邪気に勉強やスポーツなどに励んでいたが、

物心付くのと同じ頃、なんとなく社会に対して疑問を抱くようになった。

それは、静岡の親戚や近所のオバちゃんからよく言われた

「ユートくんはお勉強ができて偉いわねえ」とか「将来はお医者さんか、弁護士さんね」

などといった勝手な発言が原因かも知れないし、そうではないかも知れない。

どちらにしても、オバちゃん達のセリフには、いつもピンとこなかったし、何故そんなにお勉強のことばかり口にするのかよく分からなかった。

中学校に入る頃、都心から千葉県の幕張に引越し、中学校は幕張で過ごした。

中学校での成績は優秀な方で、塾にも通っていたが、小さな塾で、周りの生徒はあまり勉強の出来が良くなく、

塾の中では一番「勉強のできる」生徒だった。

個人面談では数学の先生に、

「千葉高に入って、東大行って、上場企業に勤めてってエリートコース歩んでみろよ」

「お前の親父さんだってそうだろ」

と言われたことがあるが、それもピンと来なかった。

ピンと来ないというよりも、逆にその言葉には嫌悪感を感じた。

「なんで大人はそんなにオレを型にはめたがるのか」

また「どうして父とおなじようなライフスタイルを進ませようとするのか」

理由が全く分からない。

また、高校に入るまで、というようりも辞めるまで、夢というものはこれといって無かったので、

それがまた優人を悶々とさせていた要因であったのかもしれない。

小学校の頃の夢は「楽そうだから」という理由でタクシーの運転手と書いた記憶があるが、中学校の卒業文集には、

サラリーマンにはなりたくない、だって俺は自由だから、とだけ書いた。

それは、仕事を理由に転校ばかりさせられ、禄に遊んでくれなかった父への反発だったのかも知れない。


優人は、小さな頃から歌謡曲が大好きで、「ザ・ベストテン」は毎週欠かさず見ていたし、アニメソングも大好きであった。

小学生の時、持ち運びができる五十センチ四方くらいのカセットテープレコーダーというものが家にやってきたときからは、

テレビの前にその不思議な機械を置き、家族全員に音を立てないように手や口、

また全身を使ってアピールし、好きな曲を録音して、それを再生して歌謡曲を覚え、家や学校で歌った。

が、どうしても足音や、ドアを開けたり閉めたりする音などが入ってしまうことが気に入らなかった。


そして中学二年生のころに「い・け・な・いルージュマジック」という、忌野清志郎と坂本龍一による男二人が奇妙なメイクをしキスをするという行為をテレビの歌番組により見て衝撃をうけ、それからRCサクセションという存在を知った。

RCサクセションというバンドの存在を知ってからは、レコードをいくつも買いあさった。

初めておこづかいで買ったレコードは、小学校四年生の時に買った久保田早紀の「異邦人」であったが、

それ以来はほとんどカセットテープで音楽を楽しんでいた。

カセットテープは、ステレオというこれまた斬新な機械を使い、レコードをコピーする「ダビング」という行為ができたし、

そのダビングにおいては雑音が入らなかったので、非常に気に入っていた。

RCサクセションの中でも「feel so bad」というアルバムは、中学生の優人にとっては過激な歌詞が多く、多感な優人に大きな影響を与えたのである。

卒業文集の「自由」という言葉は、そのアルバムの「自由」という曲に影響されてのものであった。

中学校の教室ではよく、忌野清志郎の真似をして、楽しんだ。

暗に先生に対する反抗であったのかも知れない。いや、心から楽しかったのだ。

それまでは、父親が好きだった影響でアリスばかりを聞いていて、中一の頃、父と一緒に日本武道館に谷村信司のコンサートに行ったことがあった。録音してはいけない、と言われてはいたが、持ち運びできるカセットデッキよりももっと進化した、

手のひらくらいの大きさのカセットテープデッキを持って行き、足元に置いて録音をしてしまったのである。

家に帰ってすぐ、そのカセットテープを物凄く楽しみにステレオにて聞いてみると、自分の手拍子と歓声しか録れていなく、

谷村信司の歌声がほとんど聞こえないので愕然としてしまった。


その約一年後、自分の部屋では清志郎のラブソングを聞いてたまらなくなり、枕を女性に見立てて抱きしめたりした。

「俺もセックスがしてえ!」

中学三年の卒業の前の時には級友と相談し、卒業前に大人のような行動をとろう、ということで、クリスマスの日に武道館にRCサクセションを見に行った。RCサクセションのコンサートは、一番後ろの席であったが、若い優人にとっては十分刺激的であり、また、物凄い影響力であった。


多感なこの頃、優人の高校に入ってからの馬鹿さ加減は凄まじく、二年の頃には中退を望むようになるのである。

理由は「ロックで食っていくから」というとてつもなくカッコイイ理由なので、両親は落胆を通り越して呆れ返り、この屁こきのアホは放っておこうと中退を認めた。早稲田大学卒業の父の洋二からすれば、真面目一本で来た自分には考えつかない発想で、

置き換えればとんでもない話であったが、その日ばかりは嫌いではない酒を一人で一晩中飲み、

今までしっかり勉強してきた優人を信じよう、と決意し非常に気性の激しい母、節子も説得したのである。

由美は高校の同級生で、優人が学校を辞めると言い出した時には反対をしたが、少なからずロックに理解のあった由美は夜な夜な考え、自分はキチンと勉強をしながら、優人の応援をしよう、と心に決めた。しかしながら、一抹の不安と、寂しさはぬぐえなかった。


優人は特に目標もなかったが、東千葉高校という県でも三番目くらいの進学校に入ることができた。

そこで同じクラスになったのが中田由美と本田豪である。

本田豪は通称「ゴー」というあだ名で、そこそこの頭の良さと、馬鹿さ加減を持っていたので、優人とは高校の中で一番仲が良くなった。

ゴーとは音楽の趣味こそ違えど、お互いに反体制主義のメッセージ色の強い音楽が好きで、学校帰りによく数人の仲間とゴーの家にたむろしていた。優人はRCサクセションやエアロスミスのような、ハードロック寄りのロックが好きだったが、

ゴーは頭脳警察やセックスピストルズといった、パンク寄りのロックが好きだった。

そやつらが酒やタバコや女、といった「大人」を覚えたのもこの頃のゴーの家においてである。

洋楽の歴史を探求し始めたのもこの頃で、ストーンズやビートルズ、またブルースミュージックなどもこの頃知る。


東千葉高校では、女子生徒は男子生徒の三分の一の割合しかおらず、割合と長くパーマのかかった髪型をしていた中田由美は、

クラスでも目立つ方だった。


ある日、優人がありったけの勇気を持って由美に話しかけた。

「ロック好きなの?」

し、心臓が・・・破裂する・・・

優人は由美に興味を持っていたので話しかける機会を常に覗っていたのだが、カバンにメタルバンドの代表であるモトリー・クルーの新作のCDを入れるのが見えたとき、今しかない、と思ったのである。

由美は優人のことをジッと上から下まで見つめ、三秒ほどの時間を置いてから

「うん」

と意外に素直に答えた。これが由美と優人の初めての会話だった。

「へ~、そうなんだ!オレもモトリーとか中学ん時から大好きだったんだよ」

眼を輝かせて優人が言うと

「あたしも中学生のころからメタルが好きで・・・」

由美もまんざらではない様子で言った。


その後、二人の音楽の趣味は驚くほど合い、お互いに持っているCDやレコードを貸したり借りたりした。

その行為は高校一年生の他のクラスメイトから見れば充分に冷やかしの対象になる行為で、

優人はゴーや他の男子から、また由美は仲の良い女子から随分と冷やかされた。

「お前、あんな派手な女が趣味なの?」

「ね~ね~三浦くんて、優しいの?」

二人は決まって、そんなんじゃない、と答えたが、ゴーや周囲は納得しなかった。

当然、実際にはお互いに気になる存在ではあったが、二人は距離を保ったまま、一年間をすごした。

その間に優人は他の高校の女子と念願の初体験も済ましたし、由美を思ってマスターベーションをしたりすることは多々あったが、

お互いに「恋人」ではない、という意識が何故だかあったのである。

この「意識」は、高校を卒業していれば違ったのであろうが、まったくこのくらいの年頃は不思議である。

初体験の女子とは「恋人」という感情を持っていたし、毎日のように会ってはお互いの家で犬のようにセックスをしていたのに、

次の日に学校へ行けば、由美と、なんとなくよそよそしく音楽の話をした。

もっとも、その「彼女」とは同じ女とのセックスに飽きると同時に他の女も知りたい、という理由から

約一年で別れてしまったが・・・

優人は高校に入ってセックスを覚えてからはクラブ活動もしなかったし、勉強もしなくなってしまった。

ゴーという新しい友達や「彼女」と遊ぶ方に一生懸命になってしまったのである。

そして一年生の日帰り旅行のバスの中で「氷雨」や「長い夜」を歌ったとき、歌唱力とエンターテイメント性を注目され、

ドラムを担当していた同年輩の仲間に文化祭で歌ってくれ、と誘われ、バンド活動というものを試みた。

エンタテイメント性というのは、踊ったり、仲間を一緒に歌わせるといった、いわゆる「楽しませる」行為のことで、

バスの中全員を笑わせ、一つにしたのである。


当時はマイケル・ジャクソンやプリンスと同時に、バン・ヘイレンやモトリー・クルーといったへヴィメタルという音楽が流行っていた。音楽が生き生きとしていた時代である。

そのへヴィメタルのバンドのコピーが発端であった。

近所のスタジオに入り、同級生と、つたない演奏を始めた。

その中に、ベーシストとしてゴーもいた。

優人はカラオケのように、英語の歌詞をカタカナに書き換えた紙を見ながら大声を出した。

そうして、つたない演奏ながらも、キチンと一曲演奏できると、

思いもよらぬ仲間の反響や、自分自身の高揚に対して驚き、

「自分にもバンドが出来るのか!」

そのようなことを十六年間思いも付かなかった優人は、そこで初めて、これで食っていけば良い。

なにもサラリーマンや医者になる必要などないではないか。

一気にそれまでモヤモヤとしていた感覚から開放されたのである。

そのような考え方はアナーキーな発想の一番の親友ゴーも同じであったようで、二人の間ではこんなつまらない学校は辞めてしまおう、という結論に達した。

若さゆえの選択とはいえ、二人ともが体制というものに反旗を振るがえした瞬間なのである。

そしていつもたむろしていた、ゴーの家で話し合い、スリルジャンキーでアナーキー主義であったゴーはバンドではなく軍隊、

それも世界的に有名なフランス外人部隊に挑戦する、と言い出した。

コマンドーになるのが幼少からの夢だったようである。

それならば、俺はバンドに命を掛ける。優人は言った。

そして、ロックスターになるのならば、学歴はいらない。

むしろ、学歴などない無い方がかっこいい、と思ったのである。

これが優人の音楽人生の始まりであった。

二人は夏休みの同じ日に、自ら退学届けを出しに高校へと向かった。とてもとても暑く、汗がとめどなく流れるような日であったが、二人でバスに乗って学校へ向かった。バスの中は涼しかった。

ジャック・ダニエルの一番小さな、タバコほどの大きさのビンを優人はゴーに薦めた。

「かー!」ゴーは叫んだ。

届出を出し、二通の退学願いに目を通すと、校長先生は難しい顔で「分りました」とだけ言って、部屋を去ってしまった。

校長室を出た二人はハイタッチを交わし、

「ひゃっほう!」と叫び、学校の外へとガクランを放り投げ、お互いの未来へと走っていったのである。


三浦優人は高校に入る頃、背の丈は一七五センチほどの、

当時としてのだいたいの平均身長であったが、顔立ちも悪くは無く、器量も良かったので、人に好かれることは多かった。

また優人はナルシストな一面も持ち合わせており、ロックスターに自分はピッタリだと思っていた。

元来、ロックスターを目指そうと思う輩にナルシストでない者などいないのかも知れない。

優人は、いろいろなアルバイトなどをしながら、実際にロックというものを探求した。

そして本田豪は実際にフランスに飛び、二週間のテストを受け、フランス外人部隊に入隊した、とフランスから手紙が届いた。

「おー!本当に行ったのか!」優人はゴーの行動力に驚き、「自分もがんばらなければ」と強く思ったのである。

後に再会するのであるが、任務期間である五年間は幾度かの手紙のやり取りがあるだけだった。

由美は優人達と行動しながらも、真面目に高校へ通い続けた。


好きな人といる五分間と、サウナに入っている五分間では好きな人といる時間の方が短く感じる。

それが相対性理論というものです。アインシュタインが言っていた。


一九八八年、優人が十七で、首まで隠れる程度の、長めの髪の毛を金髪に染めていた頃タンツリは活動を始めた。

優人達は懸命の練習を始めた。

まず、津田沼駅のそばのスタジオに入った。

優人は初め、歌うと言うよりは、ただ大声で、しかし本気で叫んでいるだけであった。

しかし、浩二や健にはそれが嬉しかったようである。ここまで、それぞれトントン拍子に来たわけではなく、色々な寄り道をして、

やっと心底分かり合えそうなメンバーに出会っただけで、またこの先、解散やらメンバー募集に戻る可能性が無い分けではない。

格好が悪いからこのバンドは辞める。音楽性が違うからこのバンドは辞める。そういった類いの話は健も浩二も越後も経験していた。


実際に集まったメンバー四人は、ある意味ではバンドを裏切ってきた経験があった。

だが、優人の馬鹿っぷりを見ていると、なんとなく、そう悪いメンバーではないかも知れない、と、健と浩二は思っていたようである。


越後はまたちょっと違い、この馬鹿な三人とバンドができることそのものが楽しかった。越後は少し自分の行動を客観的に見れる人間だったのであるが、スタジオの中での馬鹿な会話も面白かったし、今までの、ただ洋楽のコピーの演奏をするだけの同級生のバンドとは少し違う、と感じていたのだ。


タンジェリンツリーは週に二回三時間スタジオに入って練習をした。だいたい夜の八時から十一時。

オリジナルの曲を作ったり、ストーンズのコピーをしたり、はたまたバンドのグルーブを出す為カッチッカッチという音にあわせて、その隙間に音を出す、といういわゆる「裏」を意識するつまらない練習を延々と続けたりという行為をして。

やがてライブをやるようになった。千葉はもちろん埼玉や横浜、東京に。しかし、お客さんと呼べる人はだいたいどこでも三人くらいだった。

当時出演できるライブハウスは限られていたが、戸田屋であったり、遠藤さんが人脈を使って推薦してくれ、自ら出演料を払って出演していた。

演奏はまだ、ただ単にエネルギーを発散するだけのものであって、音楽と呼ぶには程遠かった。


が、ライブ前にはいつも四人は異常な程のエネルギーを抱えており、「今日こそやってやる」

なにをやってやるのか理解し難いが、そういう気合は誰にも負けなかった。

そうしてひとたびステージに上がるとメンバーはエネルギーの限りを出し尽くした。

まだ四人とも演奏と呼べるような演奏はできなかったが、優人は上半身裸で踊れるだけ踊り、首を振り、たかだか三十分の「演奏」でも、三十分間全力疾走をした後のように疲れ果てた。

しかし、それは心地良い疲れであり、終わった後四人はいつも近くの居酒屋で乾杯した。

そうして飲む酒は非常に美味であったが、頭の振りすぎで、次の日には、ひどい首の筋肉痛に悩まされる毎日。


そんな活動を続けているうちに、メンバーの気心は知れるようになり、自然とバンドは一体化していったのである。

そしてその頃のメンバーの彼女であったり、やはり戸田屋にたむろしていた女の子達が面白がって参加し、スタッフと名乗りライブの受付やチラシの作成などをやってくれるようになった。

由美も当初から学校に通いながら優人のライブ活動についてまわっていたので、自然とスタッフになっていたのである。


健には背も高く堀の深い、ハーフのような顔をした美人でやたらケラケラと笑う明るい順子、

浩二には小柄だが、性格も天然ボケのように、よくおかしな発言をする目がパッチリとして大きく可愛い顔をした葵という彼女がいた。


当時はまだ優人と越後には彼女はいなかった。

由美もまだ、あくまでも優人の彼女ではなかった。


高校生の由美は、顔立ちこそ美人ではないが、可愛らしく、スタイルも良かった。

性格は男勝りで、言葉遣いも乱暴であったし、全体的にぶっきらぼうな女であったが、反面、良く気の付く所もあった。

髪の毛を長く伸ばし、パーマをかけた由美はよく酒を飲むし、なにより音楽好きであった。

この頃が、優人と由美、そしてタンジェリンツリーのメンバーとその彼女達の出会いである。


優人は一九八九年二月、一八才となるのと同時に運転免許を取った。

学校を辞め、バンドの活動を始めるのとほぼ同時に約半年間、親元に住みCDレンタルの店でアルバイトをしながら教習所に通っていた。

健は「ユートの運転、怖そうだな~、ボーっとしてて」

もうすぐ免許が取れる、という頃、よくそういってからかった。

たしかに優人はおっとりというか、何事も結論を急ぐ健から見れば随分とタイム感が遅く感じられたようである。

他の三人は既に運転免許を取得しており、それまでのライブ活動は健や浩二の自家用車で移動していた。

アンプやドラムといった機材は、まだライブハウスで借りていた。


しかし優人は免許を取ると、水を得た魚のように親の車を勝手に乗り回し、横浜や箱根など、一日で行けそうなところには時間を見つけては一人でドライブをし、景色の良い所に立ち寄っては、意味もなくクレヨンでスケッチブックに絵を描いたりした。

一人きりの空間で、爆音で音楽を聞いたり歌ったりしながら高速道路を走れるなんて、たまらない快感であったのである。

優人にとってはまさに、思い描いていた「自由」な時間だった。

BGMに、時にストーンズを聞き、時にビートルズやジャニス・ジョップリンやらを聞いた。

ストーンズを聞いて走っている時には「やっぱストーンズが一番カッケ~な!」と思うのだが、

ビートルズの曲を一緒に歌ったりする時には「やっぱビートルズが一番だな!」と勝手気ままなドライブなのである。


そうして、優人も免許を取ると、バンドとその仲間は、さらによく分からない一体感を持つようになり、

機材や機材車という大きな買い物もした。

機材車はディーゼル車で、軽油で動く、今となっては非常に都合の良いワゴン車を手にした。

中古だが、浩二の名義で買って、みんなで月に一万円、計四万円を一年かけて払っていく、という買い物だった。

優人達はその車を「タンツリ号」と名づけた。実のところ、名づけた訳ではなく、自然にそう呼ばれ、親しまれていただけである。

機材も一式、実費でそろえた。

越後は大きなベースアンプをもともと持っていたが、浩二はドラムセット、健はギターアンプを戸田屋の遠藤さんに相談して買った。

演奏に見合った、手ごろなアンプとドラムセットだが、十分だった。それを車に押し込み、交代で運転してライブ活動へと。


タンジェリンツリーというバンド名も、省略して「タンツリ」と呼ばれるようになっていた。

タンツリ号を手に入れた際には、自分達のものなんだから、と、ここぞとばかりに落書きをした。

前を見ると「どけ」と書いてあり、後ろを見ると「UFO到来間近」横には「タンジェリンツリー」などと、黒や黄色やピンクのスプレイで、落書きという落書きをし放題であった。

「UFO到来間近」と書いたのは優人で、

優人はノストラダムスの大予言や、アメリカ政府はすでに宇宙人とコンタクトを取っている、というようなオカルトじみた話が大好きであり、実際に一九九九年には何かが起きると信じきっていた。


それは、おそらくUFOが黒船のように地球にやってくるといことに違いない、と心底考えていたのである。

しかしそれは優人だけでなく、他の三人も同じだった。

健などもそういった話が大好きで

「地球人は願えば必ず叶えられるって宇宙人が言っていたらしいよ。それが地球人の凄いところだって」

といった「宇宙の会話」がよくなされた。「じゃあ、俺たちも世界制覇を本気で願おう」

と他のメンバーが言うと、なんとなくではあるが、優人を初めとする、バンドをこれまた一体化させていった。

彼女連中の間では、そんな話は「迷信」だとか「噂話」にしか過ぎない、といった見解であったが、

浩二の彼女である葵だけは優人達の見方で、

「一九九九年か分かんないけど、絶対UFOとかはいると思うぅ!絶対にいるよね!」

といった話はよくタンツリのメンバー四人と話していた。浩二と同じようにファンキーである。


おおよそ一年間、タンツリ号と彼女等とのライブ生活が続き、

当時流行りの原宿の歩行者天国やイカすバンド天国などというテレビ番組、いわゆるバンドブームを経験するようになる。


ホコ天でのタンツリは、青空の下で心から楽しんで演奏していたので、時には時間をオーバーしてしまうこともあった。

そんな様子を見ていた昔ながらのホコ天族は

「ホコテンに俺らは命かけてんだよ!」

と、時としてホコ天のルールを守らない優人達に、革ジャンを着たロックンローラー達がホコ天のルールを守るようメンチを切ってきていた。


ホコ天には隣のバンドとの境界線や観客との境も何もなく、ただ単に早い者勝ちで場所を取り、車を停めて機材を広げたである。

ただ、ここは誰々、あそこは誰々という、ある程度の暗黙の了解はあった。


一度、歩行者天国で演奏している最中にどこぞの国と知れぬ白人が現れ、ここで是非演奏させて欲しい、という依頼を受けた。

見ると、ブライアンセッツァー率いるストレイ・キャッツというニューヨーク出身の大御所ロカビリーバンドの面々である。

タンツリの面々やその他の女子などは大ファンではなかったが、一時代を築いた彼らの存在を知らぬ訳が無い。

「ストレイ・キャッツ!?」

「マジかよ~」

「マジで?」

来日していたことさえ知らなかった四人にとってはビックリ仰天、いの一番という訳の分からない状態であった。

勿論ストレイ・キャッツは、日本でももの凄く有名で、革ジャンのロックンローラーの教祖様のような存在である彼らが、

特に原宿の歩行者天国に現れた日には、もう辺りは黒山の人だかりである。そりゃあそうだろう。

タンツリの四人は断る理由も無く、ストレイ・キャッツに演奏してもらうことにした。

ブライアン・セッツァーが演奏の準備をしている頃には、おおよそ百メートル四方に群集が群がり、なんだなんだとその人だかりは膨らんでいった。天下のストレイ・キャッツである。当然だ。

革ジャンのロンクンローラー達も集まってきた。

「なんだ!おい!本物のブライアンか!?」

ロックンローラーにとって、ストレイ・キャッツは神のような存在であったのは間違いない。

準備が出来た頃、優人は目立ちたがり精神で、スタッフらしき人物に中学生レベルの英語で声をかけた。

「プリーズ・・・え~、イントロデュース、ミー、

いや、アイ・・・イントロデュース、ストレイキャッツ・・・要するに僕に紹介させてくだい!」

そう言うと、なんとなくスタッフらしき人物には通じたようで、お好きにどうぞと言わんばかりに優人に無言でマイクを渡した。

もう、観衆はストレイ・キャッツだということに気付き、本当に演奏するのか?とざわざわしていた。

優人は人だかりに向かって

「レディースエンジェントルマン!」と叫んだ。

「ウォ~~~~~~~~~~~」

凄い反応である。

面白く、また、嬉しかったので、今度は

「フロ~ム・ニュ~ヨーク!」

と叫んでみた。

「ウォ~~~~~~~~~~~~」

さらに凄い歓声が起こった。


みなストレイ・キャッツの演奏を待ち望んでいた。

セキュリティと見られる大柄の外国人三人が興奮する観客を両腕を広げ制止している。

優人は自分がスターになったような気分で、いくらでも叫んで反応を感じたかったが、そろそろマズいかな、と思い、

フロムニューヨーク!を三回叫んだ後

「ストレ~イ・キャ~~ツ」と叫ぶと、

ズンゴ・ズンゴ・ズンゴ・ズンゴと演奏が始まった。

打ち合わせもしていないのに、ナイスタイミングである。

やはり、プロ中のプロであり、自分達の名前を呼ばれると、自然に反応してしまうのか。

もしくは、早く演奏させろよ、と思っていたのかも知れない。

人だかりは揺れている。

セキュリティらしき人物も止められない。次から次へと押しかけるファンもいた。

涙を流す革ジャンのロックンローラーもいた。なんとなくその気持ちも分かる。

しかし、皆節度を保ち、演奏の邪魔になるような事態にはならなかった。

三曲程だったが、彼らの演奏が終わっても、まだ騒ぎは収まらず、体格の良いセキュリティが群集に向かって帰るように追い払った。

タンツリのメンバーは握手を求め、ブライアン・セッツァーが意外に小さいことに驚いたし、

ドラマーの手からは血が流れていることにも驚いた。

その、溢れ出る血液は世界的バンドの一員でも、必死にやっていることの証しであるとかんじたのである。

集まったお群衆とも気軽に握手をしていた。

「なんていい奴らなんだ」

優人は心底感激した。

世界のどこへ行ってもスターである彼らが、僕らの機材を使って演奏した。

それは充分に自慢できる話であったし、どういう理由で原宿のホコ天に現れたのか分からなかったが、どちらにしても数あるバンドの中で、優人達の場所を選んでくれたことが本当に嬉しかった。

彼らのようにどこへ行っても演奏の出来る気さくな人気者になりたい。


そうやって毎週ライブを続けていく内に、早々と一年が過ぎ、優人の成長とともにバンド自体も知らず知らず成長していったのである。


越後と浩二はリズムのなんたるかを分かってきたし、健もギターがソロだけではなく、リズムを刻むことの重要さが分かってきていた。

が、英語のロックばかり聞いていた優人にボキャブラリーは少なく、

優人は、まだ、「おまえとやりたい!」とか「オレのパワーを見せてやる!」といった適当な歌詞を作り叫んでいるだけだった。

ただ、この頃はそれで良かったのである。


ホコ天は雨の日は中止になったが、ほぼ毎週、優人もいろいろな季節の太陽の下、その中の中心で踊り、歌うことに快感を覚えていた。

永遠にこのグルーブの中で踊っていたい、

こうして好きな音楽の中で踊って注目されるのは、六本木のクラブに行って踊るよりも心地いい。

高校を卒業した由美や、毎週見に来てくれる女の子や同じようなバンドマン達とも少しずつ仲良くなっていき、

友達が増え、四人にとってバンド活動はますます楽しくなっていった。

由美も大学や専門学校を志望せずに、アルバイトをしながらタンツリと一緒に行動したり、しばらくは自分の好きな時間を作ることに決めたようであった。


この頃の優人は十八で、まだあどけない表情が残っていたが、金髪で上半身裸の上に黒いジーンズを履き、無心に踊り歌う金髪の若者をいつも見にきていた三十くらいの女性が、演奏後に一度「ねえ、抱きしめてもいい?」と、突然優人に聞いてきた。

若かった優人は突然の申し出に困惑し、目をそらして「え・・・と」と何も言えなくなってしまったのである。

本心は「お願いしたく候!」といいたいところだったが、随分年上に見えたし、「そ・・・そう言われても・・・」と目を泳がせてしまった。

この頃はまだウブだったのである。

女性の方も一念発起して言ったのであろうが、優人の反応を見て、しばらくの間どうするか迷っていたようだったが、

結局残念そうに無言でその場を去っていった。

優人も「もったいないことをしたかも・・・」としばらくボーとしながら思った。

それを見ていた浩二は

「今の人誰?なんだって?」

と優人に聞いた

「いやあ、誰だかわかんないけど、抱きしめてもいいか?って・・・」

「まじで?で、お前なんて言ったの?」

「う~ん・・何も答えられなかった」

それを聞くと浩二は

「バカだな~~~!おまえ!なんつ~もったいないことするんだよ!

 オレなら抱きついてベロベロなめちゃうよ!ついでにおっぱいもんじゃったりしてな!」

と、自分のことのように悔しがった。

「俺も一瞬、そういう光景が頭をよぎったんだけど・・・」優人が言うと

「できなかったのか!ウブだなあ!そいういうときは迷わず行動するんだよ!」

突発的な行動を得意技とする浩二はまだ悔しそうだった。


その女性は次の週も、その次の週も見にきてくれた。

「また、声をかけてくれないかなあ」

と今度は優人の方が期待していたが、こちらから声をかける勇気は残念ながらまだ持っていなかった。

浩二には「抱きしめろ」とさんざんケツを指でつつかれたり、ウィンクをされたりしたが、どうしても恥ずかしかった。

その女性は「抱きしめて」とはいわなくなったが、当時の金髪の優人には誰から見てもそんな魅力があったのかも知れない。


そんなタンツリは、一度ホコ天で中東の人間にモミクチャにされたことがあった。

タンツリはローリング・ストーンズの「悪魔を哀れむ歌」を延々と演奏し続けていた。

いつも十分や二十分は平気で演奏した。ご存知であろうか。あの曲はサンバのようにずっと続けられる曲なのである。

そして、そのファンキーな演奏を続けることによって何らかの快感を得ることが出来ていたのである。

ランナーズ・ハイというものであろうか。うまく説明はできないが、とにかく快感なのである。


ある日、そのグルーブに引き寄せられてか、どこからともなく中東の人々と思われる集団がやってきた。

もの凄い人数である。

ギターアンプや、ベースアンプ、はたまたドラムセットといった機材にまで詰め寄ってきた。

やむなく演奏は中止に追い込まれた。

しかし、その中東の人々と思われる観客は踊っている。完全に占領されてしまった。

多分、薬やテレホンカードかなにかを売って暮らしている連中に思えたが、どこからともなく集まり、延々とその人影は続いた。

皆好き勝手に腰を振り、口々に何かを叫び勝手にリズムを作り、腰を振って踊っていた。

「帰れ帰れ!」とホコ天の客からも野次が飛んだが、それ以上に彼らのパワーが上回っていたので、

皆聞く耳など持たず好き勝手にやっていた。

やっとの思いと物凄い時間をかけ、その中東の人々を追い払ったが、

もしかすると、そんなことも革ジャンのロックンローラーには気に喰わなかったのかも知れない。

なんとも言い難いが、革ジャンのロックンローラーはタンツリと、その周辺を嫌っていた。

しかし、ストレイ・キャッツが演奏した「聖なる場所」として、

あまり文句を言ってこなくなったのは事実であるが、離れた場所からいぶかしげに眺めていた。


とにかく四人はどこでも演奏することを好み、ある日のホコ天の終了後、

これから渋谷のハチ公前に行って演奏しよう、という話が持ち上がった。

当時はよく、二人組みのギター弾きがハチ公前で歌ったりしていたので、バンド演奏をしたってそうは変わるまい、

という健の安易な発想からだった。


綺麗な夏の夕焼けのホコ天を五時に終え、タンツリ号で渋谷駅の前に路上駐車し、機材の準備を始めた。

そうして七時を周ったあたりから、なんとなく演奏を始めた。

そこには由美やホコ天からそのまま付いてきた女の子達五人くらいの姿もあった。

タンツリは初め、、様子を伺いながら演奏を始めた。

浩二のドラムの音も、いつもより小さかった。

女の子達は地べたに座り、マラカスを振ったり、タンバリンを叩いたりしていた。

やがて、越後も優しくベースを弾き、健は普通だが、音量は小さめにギターを弾いた。

五分もすると、十人程の見物人が集まってきた。

優人は歌いだした。

例によってビートルズの「ヤーブルース」やストーンズの「ジャンピン・ジャック・フラッシュ」等の主にカバー曲を演奏した。

三十分もすると、観衆は十人から五十人にふくれあがり、バンド全体を包むほどの人数になっっていった。

空はどんどんと暗くなり、ほろ酔い加減のオッサンや、仲むつまじいアベック等が集まり、拍手や手拍子を始め、なんの騒ぎだと、野次馬達も集まり出し、一時間たった八時くらいには百人ほどに膨れ上がって、拍手や歓声が起こるようになった。

夜になっても蒸し暑い、夏の夜である。

「いいぞ!」

「もっとやれ!」

優人やメンバーは嬉しくなり、場所も時間も忘れて思いっきりの演奏を始めた。


優人の前に置いておいたギターのハードケースには何枚ものコインや数枚のお札が入れられていった。

優人は調子に乗って、例のごとく踊り、歌った。

時には観衆に向かって拍手を求めた。観衆もそれに答えてくれ、拍手を惜しみなく送ってくれた。

たいして上手でもない演奏に合わせて踊りを踊り、ジャンプした優人は「イェー!」と何回も叫んだ。

少しくらいの「照れ」もあったが、怖いものなしの優人にとっては大したことではなかったのである。

四人にとっては、安易な発想ながら「なんでもやれば出来る」「やってみることだ」ということを実感した瞬間であった。

が、ちょうど夕闇が渋谷駅周辺を覆いまたもや延々と「悪魔を哀れむ歌」を演奏し優人が気持ちよく踊っているとき、

渋谷駅前派出所の警官が、ギターを無心で弾く健に声をかけてきた。

マイクを持って踊っていた優人ではなく、後ろでギターを弾いていた健にだ。


一旦、演奏はストップした。

メンバーもハチ公前を占領していた観衆も、大体の内容は瞬時に把握できた。通行人の迷惑になるから止めろ、というのである。

四人と警官はしばし話していたが、だんだんと言い争いになり、

負けん気の強い健は警官に「お前なんか机で鼻くそほじくってろ!バカヤロー!」と高い声で暴言を吐き、

警官も警官で興奮し「うるさい!いいから、止めろと言っているんだ!」と言いながら、

後ろを向き、これ以上こいつらに言っても分かるまい、といった面持ちで派出所へと戻って行った。

後ろの方で座りながらマラカスやタンバリンを振っていた由美や他の女の子達も、少し怯えているように見えた。

観衆からは、警官の背中に向けてブーイングが起こった。

「ブーーーーー!」

「すっこんでろよ!ケーサツ!」

演奏を楽しんでいたメンバーも観衆も同じ気持ちだったのである。


「これだから日本はよお・・・」

健の怒りは収まらなかった。

「ルール・ルールって縛り付けるから日本に文化が育たね~んだよ」

優人もブツブツと吐いた。

「は~あ、つまんね~の、ケーサツだからって、このブーイングは聞こえるだろうに」

浩二はドラムセットに戻っていった。

越後は無言だったが、多分怒られると思ったよ、というように口をへの字に曲げた。

「渋谷駅」という看板や電気屋やらデパートのネオンが、真っ暗な夜に煌々と光っていた。

そうして約一時間で演奏はストップさせられ、観衆もざわざわと、なにごともなかったように消えていった。

アイドルにキャーキャー騒ぎ、ブームが過ぎると見向きもしなくなるミーハーなファンによく似ている。

これは国民性なのだろうか?


しかし、ギターケースに集まったお金は三万円を超え、その金でメンバーと女の子達は共に居酒屋に行き

警察をあざ笑うかのように飲酒運転で帰ってきたのは言うまでもない。

当時はまだ、酒気帯び運転の罰則も今ほど厳しくはなかった。

厳しくないから良いと言うわけでは無いのだろうが・・・


ハチ公前での演奏はこの日限りになったが、雨の日曜以外、日曜日はいつもこんな風にホコ天で過ごし、月に三回はライブの為遠出をしていた。そう、雨の日曜日は、ホコ天は出来なかったのである。

そうこうしているうちに、ファンとも友達ともつかぬ仲間が入れ替わり立ち代りであるが

平均的に二十人程に増えていったのであるが、タンツリ号にはそれだけの負担をかけていた。


みな金が無いので、ほとんど軽油の入っていない状態で走るのは当り前だったし、

浩二のドラムセットや、健が遠藤さんに薦められて買ったヤマハのギターアンプ、

それに越後がもともと所有していたベースアンプなどは相当重かったに違いない。

常にその機材を降ろしては積んで、降ろしては積んだ。

そんなハードな活動を続けている間には、いろいろな珍事件も起こるべくして起こった。


「今日は新宿でライブだ!」と意気込み、

「今日も天気がいいな!頑張ろう!」

まさに天下泰平といった面持ちの太陽の下、メンバー四人を含めた、由美、五人は円陣を組んだ。

昼にパワーハウスに集合し、五人は手を重ねて「おーーー!」と叫んでから新宿へ出発した。


その日の昼は、優人がジャンケンに負けた。運転手は、ジャンケンで交代し、負けた者が運転手になるという掟であった。

「あ~っ!また俺かよ~」

仕方なく、優人はハンドルを握った。ジャンケンに強いも弱いもあるものか、と思いながら。

しかしもう、タンツリにとってライブはお手の物、日常茶飯事であって珍しくもなんともなかった。

千葉県から東京に向かう道中、京葉道路の市川インター付近を運転中、タンツリ号が突然怒ったのである!

一番右側の車線を走っていたタンツリ号は、運転中「ゴーーーーーーーーー」という音をたて、車体が震えだした。

運転手、優人はあまりの轟音にビックリし、右側のサイドミラーを見た。

すると、タンツリ号がお尻から真っ白なケムリをモクモクと吐いている。

後ろを走る車両にはもろに煙を浴びせかけられ、どの車も左へ左へと車線変更をしてよけていた。

優人は、慌ててアクセルを離し、マニュアルのギアをニュートラルに入れた。

しかしエンジンは野獣のように「ゴーーーーーーーーーー」といったまま震えも止まらない。

車自体が走りながらも揺れているし、もの凄い音がしていたので、中に乗っていた健や浩二や越後、そして由美も当然驚いた。

「どうした!?」と後部座席に乗っていた健が体を乗り出しいち早く聞く。健はイチイチうるさい。しかしうるさくない人間にだって一大事である。

「わからん!」と優人は答えたが、内心は心臓が爆発しそうなほどあせっていた。

優人はもちろんアクセルも踏んでいないし、ギアはニュートラルなので、

他に手立てはあるまい、と思い、思い切ってキーを回しエンジンを切った。

・・・しかし車は震えている。

健は物凄く高い声で「エンジン止めろよ!」と叫んだが、優人は「とっくに止めてる!」と答えるのが精一杯で、なにも出来ない。

「左!左寄れよ!」と健がさらに運転席に乗り出して言ったが「分かってるよ!」

と叫び優人はゆっくり落ち着け、落ち着け、と自分に言い聞かせながら車を左車線に寄せていた。


その間もタンツリ号は「ゴーーーーーーーーーー」といって怒っている。

おおよそ、一~二分の出来事であったが、優人は車を左に寄せ、なんとか車を止めた。

しかし、車を止めた瞬間、今まで前に走っていたので後ろに行っていたケムリが、瞬く間に車の中に入ってきて、車の中はケムリで真っ白になってしまい、前も見えない程だ。

しかもまだ車は「ゴーーーーーーーーーー」といったまま震えている。

車内はまさにパニックである。

冷静沈着な男、越後も、おおらかな浩二も、もちろん、せっかちな健も、そして普段はあまり動じない由美も大慌てである。

「降りろ!降りろ!」

皆、ケムリを両手で掻き分けるようにドアを開けて脱出する。

そして後部座席の一番奥に座っていた由美が凄まじい顔をし、黄色い声で叫んだ。

「バクハツするぅ~~~!」

その声は、断殺魔に襲われた時の女性の叫びであり、この世の終わりを表すようなものに聞こえ、

さすがの優人も焦りを隠さず、何か取り忘れたものはないか、

今まで思い残したことはないか、いろんなことが走馬灯のように頭を巡ったが、まずは逃げ出すのが先だと思い、

運転席を開けて必死の形相で真っ白なケムリの中を逃げ出した。

走るに走り、優人達が路肩へと逃げ出し、百メートル程離れた場所から怒れるタンツリ号を見ていると、

ケムリで京葉道路は渋滞し、みんなが、タンツリ号を見ている。


メチャクチャな落書きをした車が煙に包まれ停まっている。

現在であれば、テロ行為で捕まっている。

もしくは、事情聴取くらいは確実だろう。


メンバーは全員まだ心臓がバクバクしていた。

しばらく皆は不安げに車を見守った。

・・・・・爆発はしないようだ。

十分くらい経ったであろうか・・・・・ケムリも治まってきた。

皆、ある種の放心状態のような顔つきで遠くから車を見ている。

浩二が口を開いた。

「見に行く?」

「お前行けよ!」

健が、なんでオレなんだよ!と言わんばかりに浩二に反論した。

誰もが口論になるほど嫌がった。

当然だが・・・


しばらく責任転嫁の言い合いが続き、結局、運転をしていた優人が廻りの確認をしながら見に行くことになった。

路肩に停まっているタンツリ号は、エンジンは止まっていて、もう、あの野獣のような轟音も収まっていた。


「大丈夫・・・だと思う」

優人は心なしか急いでみんなの方へ戻ると、そう言った。


「これ、乗ってくの?」と当り前の質問を由美がした。

「高速降りてさ、ゆっくり行こうぜ」と浩二が言った。

「またエンジンかけるの?」由美は、ぶっきらぼうで男勝りといっても女性だったのである。

「お金ないしね」

若く勇ましい優人が、「お前が運転していたんだろ!」とメンバーに言われ、命をかけてエンジンをかけにいった。

恐る恐る近寄り、運転席のドアを開けた。

鍵は刺さったままで置いてある。

「うりゃ!」

・・・・ブルルン!

エンジンがかかった!

しかし爆発はしなかった・・・

まったくもって何が理由か分からないまま、タンツリ号はゆっくりと下道を通り、新宿に着いた。

「はあああ、良かった・・・」これは皆の素直な気持ちである。

こういったことを経験しながら、激しいライブ活動は続くのであった。


後でガソリンスタンドの店員に聞いた話では、ディーゼル車が軽油の少ない状態で走ることが多いと、

エンジン内に空気を吸ってしまい、不完全燃焼とういか、そういった現象もあり得るということだった。

それから「あんな怖い思いは二度とごめんだ!」と思った四人は、なるべく軽油を多めに入れるようにするのである。


そんな毎日がスタートし出してから、スタッフを名乗る女の子や、毎回ホコ天やライブハウスに来てくれる女の子達が増えた。

由美や彼女達を初めとする女の子達は、次のライブのチラシを作ってくれたり、ライブハウスでモギリの仕事を手伝ったりしてくれた。

だいたいタンツリ号にみんなで便乗し、ライブハウスに着き、まだ年齢相応のライブをやって、打ち上げで飲む。そんな日々が続いた。

そしてそのままタンツリ号で帰ってくるのだが、帰り道の高速道路では、よく小便がしたい、と言い出すメンバーがいた。

たいがい、酔っ払ったメンバーのとばっちりを食らうのは浩二だった。

路肩に車を止めて浩二の立小便を待っていると、健が

「ユート!出せ!出せ!」と物凄い勢いで言い、車を発進させるように命令した。

優人も面白がって車を進ませると、浩二は小便を撒き散らしながら、短い足を使って走って追いかけてきた。

健は「行っちゃえ!行っちゃえ!」と命令したが、ほとんどの場合は止まった。

ほとんどの場合というのは、止まらないで置いて帰ってきたこともあるということである。

女の子達の中には「大丈夫なの?」と心配する子もいたが、そのまま置いてきたこともあり、

二~三時間後くらいに浩二は歩いてパワーハウスまで帰ってきた。

「お~帰ってきた~!」とみんながわいわい叫んだり拍手をしたりすると、

「は~もう疲れたよ~~~」

とだけ浩二は言って倒れるように寝た。

普通は怒りそうなものだが・・・

そうこうして、健が命令し、優人が行動する、浩二は被害者、越後は傍観者という、

なんとなくの「イタズラの方程式」が出来上がっていった。

もちろん、この逆もあり、ライブハウスでリハーサルが終わり、時間を持て余すと、

浩二が「押さえつけろ!」と叫ぶと優人と越後が後ろから健を羽交い絞めにし、妙に抵抗する健を床に押さえつけ、

浩二が健の乳首を舐めるといった、屈辱的な「逆襲」もしばしば行われた。

大体のイタズラはたいていこの二人の対決であったが、四人で行動していれば、いろいろな図式があり、

優人が餌食になることもあったし、越後も例外ではなかった。


ある日、優人は車を運転していて、走行距離のメーターの数字が増えていくのを見て、ふ、と気になった。

「バックしたらこの数字は減るのかな?」

浩二に相談し、パワーハウスの近所のあまり車の走らない道路へ行って準備した。この日は二人きりだった。

「じゃあいくよ!」

浩二に走行距離メーターを見てもらうように準備をすると、左手を助手席に廻し、後ろを確認しながらブーンとタンツリ号をバックさせた。

百メートルくらい下がると、浩二が叫んだ

「増えたぞ!おい!増えた!」

「え?増えた?」

優人は車をさらにバックさせた。

「おい、ユート!また増えたぞ!」

「マジで?また増えた!?」

優人はそう言うと車を止めた。

「やっぱバックしても走行距離は増えるんだ」

優人は驚いたように言った。

「まあ、ギアをバックに入れてるだけだからね」

浩二が答えると

「う~ん、そうか~走ったことには変わりないってことか・・・」

優人の疑問はとりあえず解決された。

浩二もバックしても走行距離が上がる、ということをこの日初めて知った。

二人は後日、この驚愕の事実を他のメンバーに熱く語ると、越後や健は当たり前じゃないか、

といった様子で、この実験自体を馬鹿だと言って笑ったのである


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