05.触れる指の温度 前編
思い出の中の人は、すでに色褪せて――。
ディーンと専属の契約を交わすことになり、取りあえず現在引き受けている仕事を片付けなければならなくなった。
連日連夜、仕事を片付けつつ、筆跡に間違いがないかをナフムと二人で読み合わせて校正作業をしていく。
だから自ずと夜中にその作業を行うことになってしまうのだが、枚数が嵩張ると明け方近くまでかかることもある。
文章の抜けがないかを確認するには、読み上げることで見つけることが出来るが、綴りの間違いはやはり一文字ずつ調べなければならない。だからユーフェミアの作業はそれ以降も続く。
だが静まり返った夜は、目で文字を追いながら、ふと心の中が虚ろになることがある。手も止まってしまい、意識はとろりとしたものに包まれ、夢と現実の狭間をさまよう。そしていつもたどり着くのは、ディーンと出会ったあの日なのだ。
彼のことを考えると心の中はざわつき、常に不安がつきまとう。もちろん、恋情とかそういう感情からではない。そんなものがあれば、今すぐ川に流して来ても全く惜しくはない。
強いて言うなら、強い警戒心。
普通に考えれば、面倒見のいい人に見える。
家を失いそうになったユーフェミアの借金を肩代わりし、家賃の代わりに楽な労働の提供と、仕事を認める契約までしてくれている。その契約が本当にディーンに有利に働くものなのかどうか、あの後我に返って、自分の筆跡に対してそこまで自惚れてはいけないと考え直したが、すでにナフムが亡くなって五年。女性が後ろ盾もなく一人で暮らしていくには確かに現実は厳しい。
だから、愛人と言う噂を利用しようと思っていた。あえて否定もせず、肯定もせず、ただやり過ごす。
今までならば近所の人たちも、みな口を揃えて早く結婚しろと言っていたが、噂のおかげなのか誰も何も言わなくなった。愛人という立場が決して褒められるものではないことぐらい知っている。だが相手はバルフォアで一、二を争う金持ち、ディーン・ラムレイだ。むしろ羨望や妬み交じりの視線を向けられることの方が最近では多くなっている。
この生活を守っていく決心をしたからには、それも甘んじて受け入れる覚悟はしていた。
だが、心のどこかで常に何かを見落としているような不安もあったのだと思う。
それはあの日――開店日に、ディーンの身分を聞いた時から、心の奥底でじわりと何かが湧き出し、次第にそれは広がっていった。
ただの商人にしては、その身を包む雰囲気が明らかに違う。爵位をもつ貴族だと聞いて、納得せざるを得なかった。そして、どうしてもっと早くに気づかなかったのだろうと後悔もした。
一方、もしも気づいていたら、どうしていただろうとも考える。だが、結局は自らの考えを否定するしかなかった。
この家がディーンの手に渡った時、家を出ることを選んでいたとしても、きっと彼は契約の話を持ち出し、全く係わりのない生活にはなっていなかったと思う。
つまり、それが不安の元なのだ。
ディーンと出会ったことで、否が応でも彼が自分の生活に関わってきている。軋み始めている。それが怖い。
ただ普通の人生を歩みたい。それが自らの願いで、亡くなった母の願いでもあったというのに。
ユーフェミアは疲れて熱をもった目を閉じ、眉間を指で揉んだ。少し痛いが気持ちいい。
凝った肩を叩きながら、椅子から立ち上がる。
窓の外を見ると、空は白み始めていた。夜明けまでにはもう少し時間があるだろう。
ユーフェミアは静かに決心すると、彼らと話をするために一階に足を向けた。
『あら……まだ仕事をしてらっしゃったの? 睡眠不足はお肌の大敵ですわよ? ただでさえ、いい歳なのですから気をつけなさい』
気づかってくれつつも、ちゃっかりその中に棘を含ませることを忘れない人形に気のない返事をして、彼女の座るソファに腰を下ろした。その態度に、イヴァンジェリンの感情の揺れが伝わってくる。文句の一つでも言ってくるかと思ったが、彼女は口を閉ざしたままだった。
代わりに、カチャっと小さな音を立てて、リックが己の存在を主張する。
『お? 珍しいな、こんな時間に』
二人を近づけると喧嘩をするかな、と思ったが、かまわずリックを手に取ると膝の上に置いた。
『おいおい、どうしたんだ? そんな神妙な顔をして』
『そうですわよ。いつもの元気はどうしたのですの? 眠いのなら休んだ方が良くってよ?』
珍しく意気投合を見せる二人に苦笑する。
彼らと知り合って、まだわずかな期間しか経っていないが、こうして話をすることは嫌いではない。むしろ気に入っていた。彼らの目的を見て見ぬ振りをして、この曖昧な時間を楽しんでおけばいいのかもしれない。
だから、本当は話すべきではないのだろう。
彼らはディーンと話しをすることが出来る。ということは、今から話すこの不安は筒抜けになる可能性が高い。
だが、このままではディーンの思惑がどこにあるのか分からない。自らの秘密を打ち明けたなら、わずかでも代わりに何かを教えてくれるだろうか。
馬鹿な事をしている自覚は十分にあった。
「少しだけ、私のことを話してもいい?」
多分、彼はこの秘密さえ知っているような予感がする。もしかしたら目の前の二人も何か知っているのかもしれない。
だが、もう何もせずにじっとしていることは出来なかった。だからと言って、彼に直接何かを問う勇気はない。彼らがそういうものであるからこそ、打ち明けられることだってある。
彼らに否定の言葉はなかった。
ユーフェミアはソファにもたれ掛かると、天井を見つめながら口を開いた。
ユーフェミアの母親は、エヴァンス伯爵の娘だった。
つまり、貴族だった。
過去形であるのは、すでにエヴァンス家自体がなくなってしまっているからだ。
過去の詳細なことは分からない。ただ、王都にある屋敷にも領地にもいられない事態になったと聞いた。
家族は離散し、行く当てのなくなったクリスティアナを、当時王都にある大学で教授として勤めていたナフムが引き取ったという。すでにこの時、クリスティアナはユーフェミアを身ごもっていた。
ナフムはかつて、クリスティアナの父であるエヴァンス伯爵に世話になったことがあり、その縁で大学の教授になれたという恩がある。しかも、クリスティアナを幼いころから知るナフムには、彼女に勉強を教えていたこともあり、まるで我が子のような親しみを感じていた。
一方、クリスティアナの婚約者であったダルトン男爵は、身重のクリスティアナに手を差し伸べるどころか、関わりを否定し、さっさと他の女性と結婚してしまった。
当初お腹の子供の父親は多くの者がダルトン男爵だと思い、クリスティアナに哀憐の眼差しを向け、中には援助を申し出てくれる者もいたが、生まれた子供を見て、それが見当違いであることを知った。
ユーフェミアは瞳こそクリスティアナと同じ色だったが、髪色は母親とも、父親と言われていたダルトン男爵とも違う色。
つまり、彼女は婚約者を裏切り、他の男性と親密な関係になったことになる。
世間では不義を働いた女性に風当たりは強い。
ユーフェミアがまだ幼かった頃、どういう理由なのか母親の知り合いである貴族に何度か会ったことがある。その度に向けられる視線は、蔑み以外の何ものでもなく、それ以来貴族に対して苦手意識が植え付けられたと言ってもいい。
そのような扱いにも、クリスティアナは笑って耐えていたとナフムは教えてくれた。それはつまり、ユーフェミアはきちんと望まれて生まれた証拠であり、愛されていたということだ。だから胸を張って生きていいと。
もちろん本人のクリスティアナからも、たくさんの愛情をもらった記憶はある。
父親のいないユーフェミアは近所の子供たちから苛められたことも多々あった。泣く泣く帰ったユーフェミアに、やられたらやり返しなさいと、一緒に仕返しをしに行って、本当にやり返してしまったこともある。
子供の喧嘩に口出しするものじゃないと、後々ナフムに叱られていたクリスティアナの姿が今でも思い出せる。心配してこっそりと扉の影から覗いていると、こちらを見て悪戯っぽく笑ってみせ、それをまたナフムに見つかって叱られていた。
それは思い返せば本当に平凡で、どこにでもある小さな幸せだったのだろう。
差し伸べた手を握り返してくれる手も、抱きしめてくれる腕も、頬に落とされるキスも、何もかも、行動の一つ一つ全てに愛情が溢れ、思い出す日々全てが明るい日差しの中にあった。
思い出の中の、彼女の愛情を疑った日などなかった。
しかし、そのような生活も長くは続かなかった。
実際には慣れない生活にクリスティアナの身体の方が先に悲鳴を上げてしまったのだ。
床から出られなくなったクリスティアナは、よくユーフェミアに言っていた。
「ユーファ……。決して高望みをしてはいけないわ。今ある生活を守りなさい。そうすればきっと、あなたは幸せな一生を送れるわ」
何かを思い出しているのか、そう言った彼女の笑みはいつも泣き笑いのようだった。それは、まるでクリスティアナが高望みをしてしまったかのように聞こえ、ユーフェミアは幼いながらも頷くことしか出来なかった。
まして日に日に弱っていく彼女に何が言えよう。聞くことなど出来はしない。
結局、クリスティアナの口から父親に関する言葉を聞き出せることなく、彼女は永遠の眠りについた。