04.こんなものじゃ懐柔されないって言ったけど 後編
「そう怖い顔をしないで欲しいな。別に隠していた訳じゃない」
吐き気がしそうなほど膨れ上がる不快感を必死で押し留めていると、ディーンは未だ余裕のある態度を見せるかのように足を組みかえた。その行動だけでユーフェミアの心が拒否反応を示す。
そのことに気づいたのかどうか。
ディーンは息を落とすようにして微かに笑うと、視線をナフムに移動させた。
「確かに貴方の言う――子爵の位は持っていますよ。ですが、貴族と言っても全ての貴族が恵まれているわけじゃない」
バルフォアは自治権が与えられている為、領主ではなく市民によって街が動く。だが、街から一歩でも出ると、そこはレイヴンズクロフト侯爵の領地だ。しかし侯爵の采配がいいのか、その地は豊かで、貴族というのは皆そうなのだろうと多くの者は思っている。
だから、この街一番の金持ちだと言われている男の口から出た言葉を、素直に信じる気にはなれなかった。
ナフムも何か思うところがあったようで、しばらくは黙っていたが、ふいに立ち上がるとディーンを見下ろした。
『じゃが……。いや、何を言おうとおまえさんが貴族であることに変わりはないわい』
最後は切り捨てるように言い放つと、空気に溶けるようにすうっと姿を消した。
珍しく怒っているナフムを見たおかげか、少しだけユーフェミアは冷静になる。嫌悪感は拭えないが、言いたいことがあるなら聞いてやろうと視線を向ける。
しかし口はききたくはなかった。
黙っているとディーンは参ったなと呟いた。
「先程も言ったけど、別に隠していた訳じゃない。領地は本当に貧しくて、領民からの労力だけではとてもじゃないが維持が難しい。だから他からの収入を求めて商売を始めたんだ」
「……」
「王都では拠点とする地を確保するにも場所代が高い。だからバルフォアを拠点とすることにしたんだ。ここは王都にもほどよく近いしね」
「……」
「偶然、商売が当たった私は運が良かったんだろう。おかげで何とか先祖から受け継いできた領地を守ることが出来ているからね」
「……」
「――もうそろそろ何か言って欲しいな」
困ったように眉尻を下げるディーンに、わざとらしく深々と息を吐き出して見せた。
それは嘘ではないかもしれない。
だが頭の奥で警鐘が鳴っている。信用してはならないと。
「だったら、どうしてこの家を買ったりしたの」
今の話が真実だとすると、そのようなお金などないはずだ。
その質問にわずかに目を見開いたディーンは、きみを侮っていたよ、と呟いて、降参と言うように両手を上げた。そしてやっと本音を口にする。
「下心が全く無かったわけじゃない」
「それはどういう――」
意味と尋ねようとして、彼の瞳が不敵に輝いていることに気づく。
「きみの筆跡はきみが思っているよりも有名だ」
だから、ユーフェミアを知っていたと言った。それは分かる。だが、なぜここで彼は余裕を取り戻しているのか。
「それがどうだっていうの?」
見えない話に知らずうちに口調が強くなる。
「きみの筆跡を売るつもりだと言ったら?」
「売る?」
「つまり、私と専属の契約をしてもらおうと思ってね。きみに来る仕事はすべて私を通すことになる。家を買ったのは先行投資だ。まさか……嫌とは言わないよね?」
嫣然と、勝ち誇ったように笑むディーンを穴があくほど見つめた。
言わない、のではなく、言えない、の間違いだ。
これはどう考えても一種の強迫だろう。
だが、ユーフェミアの心に生まれた感情は、憤りではなかった。
そんなに世の中上手くいくはずないと思っていたが、結果的に自身を助けたのが自らの筆跡だったとは。偶然ディーンの目に止まっただけなのかもしれないが、この家で今も生活出来ているのはこの筆跡あってのこと。自分自身の力だったのか。
なるほど、と思う。
ここまで潔く下心があると言われたら妙に納得してしまう。胸の中の靄が晴れていくようだ。
ユーフェミアはふっと肩から力を抜くと、ディーンを見た。この男の人間性はかなり問題あると思うが、商売に関しての手腕は右に出るものはいないと聞いたことがある。ならば、彼の下で働くのも悪くないのかもしれない。
「わかったわ。あなたと契約する」
その夜色の瞳をしっかりと見つめると、ユーフェミアははっきりと告げた。
食器の片付けを済ますと、一階にいるディーンを放っておくわけにもいかないだろうと勝手に理由付け、ランプを手に取る。
すでに夜の帳は下りている。
足元に注意して階段を下りながら、考えに耽る。
契約のことは後日、詳しく決めることになり、勢いで了承したのは早計だったかと反省する。ナフムと相談してからでも遅くはなかったのでは、と思ったがあとの祭りだ。
それにしても、と小さく呟く。
ディーンは最初から迎えの時刻を決めていたらしく、やはり開店祝いに来るつもりだったのだ。
食事が終わり、片付けまで手伝ってくれようとするディーンをさすがに台所から追い出した。ただでさえ、料理では負けた気分でいるのに、このようなところまで手伝われたくない。丁重に断ると、一階にいると告げて引き下がってくれた。
日も暮れたので、イヴァンジェリンやリックも話し出す頃であったし、別に放っておいても問題なかったのかもしれないが、日頃、彼らがどのような会話をしているのか興味があったのも事実だ。
一階の奥のソファが置かれた場所に、明かりが灯っていた。
たまにカチャっという音が聞こえるのはリックだろう。それに対して、一々イヴァンジェリンの苛立った声が聞こえる。
「迎えはまだなの?」
ランプの明かりと足音で気付いたのだろう。ディーンはソファの背にもたれ掛かっていた身体を起こす。
『ちょっと、ユーフェミア。ディーン様を追い払うようなことを言うのは止めてくださらない?』
すかさず飛んでくる敵意に、近くのテーブルにランプを置くと、腰に手を当て、上から彼女を見下ろした。
「あのね、一人暮らしの女性の家に夜遅くまでいる男性の方がどうかしていると思わないの?」
『それは……そうですけど、でも!』
彼女としては少しでも長く一緒にいたいのだろうが、ユーフェミアの体裁も少しは考えて欲しい。ただでさえ、愛人という妙な噂が立ち始めているのだ。気にはしていないが。
わざとあきれた眼差しを向け、彼女の矜持を揺さぶってみる。
「淑女的にどうなの、そのあたりは」
『……』
完全な無言が返ってきて、心の中で勝利を噛みしめる。やみつきになりそうな満足感に浸っていると、リックがカチャカチャとシンバルを鳴らした。
『おお! すげぇな、おまえ! イヴァンジェリンをやり込めるなんて、ただ者じゃねぇな!』
日頃は逆にやり込められているのだろう。リックの素直な賞賛の声に、ユーフェミアは少しだけ得意気に胸を反らと、今まで黙っていたディーンが面白くなさそうに口元を歪めた。
「きみは私には反発するくせに、彼らとは上手くやってるんだね」
拗ねているとも取れる発言に、ユーフェミアは真顔で応える。彼のご機嫌を取るつもりは毛頭ない。
「だってあなたとの会話は遠回りすぎて、はっきり言って疲れるのよ。その点、イヴァンジェリンもリックも嘘はつかないし」
きっと、そのもって回った受け答えが、上流階級の会話なのだろう。本心をやんわりと誤魔化すような話し方は庶民のユーフェミアには無理だ。向かない。疲れる。
「私は嘘をついていないけどね」
「でも、まだ何か隠してるでしょう」
ジッと見つめて言うと、その紺色の瞳がスッと細くなる。口元もゆるく弧を描く。
長い脚を組んでソファに座るその姿さえ、分かってしまえば確かに貴族的だ。仕事で何人か貴族を客にしたことがあるが、身に纏う雰囲気が皆似通っている。
『ちょっと、何見つめあっているのよ!』
『おまえ、もう少し黙っとけよ! いいところで邪魔すんじゃねぇって』
何を勘違いしているのか、イヴァンジェリンとリックが騒ぎ立てはじめる。それと同時に、表に馬車が止まった気配を感じ、ユーフェミアは言い合いを始めた二人を放っておくと、ランプを持って扉へと向かった。
「ああ! ジュリア! ここにいたんだね!」
馬車から下りてきたロジャーを店内に案内したところ、ディーンの横にいるイヴァンジェリンに目を見張るや否や、彼はすぐに彼女の元に駆けつけた。
途端、イヴァンジェリンから悲鳴が上がる。
聞き覚えのない名前に首を傾げてディーンを見ると、彼は肩をすくめてイヴァンジェリンに視線を送る。どうやらジュリアと言うのはイヴァンジェリンのことらしい。
『嫌ったら嫌ですの! ディーン様! この人、どこかにやってちょうだい! ユーフェミア! お願いだからロジャーをわたくしから遠ざけて下さらない!?』
半狂乱状態のイヴァンジェリンに、ユーフェミアは目を丸くする。一体何事なのだろう。彼女がリックとは違う意味でロジャーが苦手であることは今の台詞から分かったが、ここまで取り乱すとは。
当然、彼女の声はロジャーに聞こえていないようで、彼は恭しくその小さな手を取る。途端、響く悲鳴――。
いくら精巧に出来ていても、イヴァンジェリンは人形だ。もしも彼女が実際に生きている人間ならば、かなり絵になる姿だが、同じくそれを見て囃し立てるリックを見下ろし小さく呟く。
「ロジャーって実は変態……」
『まぁ、否定はしないぞ』
カチャっと鳴るシンバルに合わせたように、ソファから立ち上がったディーンがユーフェミアの隣に立った。
そして砂を噛んだような顔をしているユーフェミアに苦笑しながら説明する。
「ジュリアは実際にいる女性だよ。ロジャーが想いを寄せる相手というか、その彼女にイヴァンジェリンがとてもよく似ていてね。まあ……なかなか会うことの出来ない女性だから」
つまり身分違いか、もしくは相手の女性は既婚者か。
イヴァンジェリンを代用にして報われない恋心を向けても、彼女にとっては迷惑でしかなく、しかも人形だ。やはりどちらにしても報われないのであれば、憐れとしか言いようがない。
見た目も良く、性格も良さそうな人だと思ったのだが、なるほど。残念な人だったとは。
「ロジャー。もう帰るよ」
身を翻してさっさと扉に向かうディーンに、ロジャーは泣く泣く立ち上がる。
「ああ、ジュリア。また来ます」
『もう来ないで!』
甲高い悲鳴が、ユーフェミアの耳に突き刺さる。
「ユーフェミアさん。どうか彼女を売らないで下さいね」
憔悴しきった子犬のような眼差しに、悪いと思いながらも乾いた笑みを向ける。
「え、ええ。大丈夫だと思うわよ。ディーンも売り物ではないって言ってたし」
「はい。では失礼します」
ペコリと頭を下げてディーンを追うロジャーの後を、呆れながらも、見送るために一歩遅れてついて行った。
外はすっかり雨が上がっていた。
ディーンはまだ馬車に乗っておらず、外に出てきたユーフェミアに夕食の礼を告げてきた。
「今日は一緒に開店を祝ってくれてありがとう」
あれが祝う雰囲気だったのかと言えば異存はあるが、ここは大人として反論するべき場所ではないだろう。わざわざ礼儀として言っているのだから、素直に返すべきだ。
だが内容的には不本意だった。ひどく敗北感を感じるのはなぜだろう。
だから視線が合わせられない。あさっての方を見ながら口調も無愛想になる。
「別に、私が料理したわけでもないし、ほとんどあなたが準備したことじゃない」
「それでも、しようと言ってくれたのはきみだろう?」
どうやっても言い返されてしまうことに、ユーフェミアは口を閉ざす。
だから深々と息を吐き出すと、正面からディーンを見上げた。今回ばかりは負けを認めるしかない。
「ええ、そうよ。こちらこそ開店を一緒に祝ってくれてありがとう。料理も、とても美味しかったわ」
半ば投げやりに告げると、ディーンは満足そうに頷いた。
言わされた形になってしまったが、今お礼を言っておかないと、きっと後々まで後味の悪い思いをすることになっただろう。このような失態を次回は犯さないようにしないと、と思っていると、ふと視界が陰る。
何、と思うのと、視界から影が遠ざかっていくのは同時だった。
頬に触れた柔らかく温かい感触に、思わず手を当てる。
「どういたしまして」
たとえそれが挨拶だろうと、ユーフェミアは目を丸くする。
この人は今、何をしたのだろう。
「おやすみ。ユーフェミア」
そう言って、馬車に乗り込んだディーンを見送り、しばらくの間、立ちつくしていた。
が――。
向かいの家の二階にいる人影を見て、ハッとする。
ケイトがリリーを抱いたまま、にんまりと笑っていた……。