04.こんなものじゃ懐柔されないって言ったけど 前編
どうして知っているの――。
夕飯を作るとは言ったものの、ここ数日シチューを温め直しては食べるという生活を送っていたので、実際のところ準備などない。
しかし薄暗くなりつつある台所で、じっとまな板を眺めながら考えていた。
落ち着いて考えれば別におかしなことを聞かれたわけではない。
それに蜂蜜色の髪などどこにでもある色だ。いや、蜂蜜色という綺麗な表現はおこがましい。単なる金髪でも色が抜けたような中途半端な髪色なのだから。
カタリと音がした。
ハッとして振り返るとディーンが台所の入口に立っていた。着替えは済んだようで、さすがにいつもの正装とまではいかなかったが、それなりに見られる姿になっていた。
「私のもあるのかな?」
気がつけば火にかけていた鍋の中味はふつふつと煮立っている。部屋の中はすでにシチューの香りが充満していた。
「……あなたの口に合うものなど、ここにはないわ」
不意に、先程肩に置かれた手の感触を思い出し、顔をそらす。決して力を込めて押さえられたわけではなかったが、逆らえない何かがあの場にはあった。それがひどく恐怖を煽る。
さっさと帰ってもらった方がいい。それでなくとも気分が悪い。あのことを考え出すと心の中はいつも燻り、暗澹となる。
だがディーンは遠慮もなく台所に入ってくると、鍋の中を見下ろして首を傾げた。
「今日は開店日だというのに、お祝いはしないのかい?」
言われ、口を閉ざす。
考えてもみなかった。もしかして、その為に彼は留まっていたのだろうか。確かに馬車の故障は急なことだったかもしれないが、どちらにしても来る予定だったと?
途端、いつも通りの食卓が恥ずかしくなる。いい歳をして、気が回らないにも程がある。
だが、口から出る言葉はどこまでも可愛げがなく――。
「だ、だって、あの店はあなたのお店よ。私は別に関係ないし……」
「それを言われると身も蓋もないが、少なくともきみも開店を楽しみにしていたと思っていたのは私の勘違いかな?」
それには、もう口を開くことはできなかった。
確かに楽しみにしていた。だが……。
胃の中で消化不良をおこしているような、胸の上に重い石が乗っているような、そんな心地がして気分が悪い。ぐるぐる、むかむかする。風邪のひき始めのように、体温まで下がった気がして指先を動かすことさえ億劫だった。
だが、行きつくところまで行くと、プツリと何かが切れたように浮上してきた。
考えても仕方がないことは、今は考えない。それにこういう時は、全く違う何かをするに限る。
どうにでもなれ、という気分で正面からディーンを見据えた。完全に塞ぐ気分が晴れたわけではなかったが。
「分かったわ。今からご馳走を作ってやろうじゃない。そのかわり、あなたも手伝いなさい。店主!」
そう指を突き付けて、宣言した。
とは言ったものの、ユーフェミアが実際にしたことと言えば、野菜を千切って皿に盛ったサラダぐらいで、後は食卓について台所で無駄なく動くディーンを目で追っていた。
その手際は誰と比べるまでもなく実際に見事なもので、手伝えと言ったものの手持無沙汰になったのはユーフェミアの方だった。
僅かな食材でいかにご馳走を作れるのか、という技を目の前で繰り広げられ、少なくとも敗北感を味わっていた。
小麦粉は常備してあるのでバターと混ぜてパイ生地を作り、生地を寝かしている間にスープを作っていく。出来たパイ生地には先程まで温めていたシチューを包み、こんがり焼き上げれば、その香ばしい匂いに胃袋がグッとつかまれる。
パンにオリーブオイルとガーリックを混ぜたものを塗って焼き上げれば、さらに食欲をそそり、完全に白旗を上げるしかない。
「あなたの職業は何だったかしら?」
少なくとも料理人ではなかったはず。
お金持ちであるため、料理人ぐらい雇っているはずだ。それとも給金をケチって毎日料理しているのだろうか。
食卓の上に並べられていく料理を睨んで、半ば不貞腐れているとナフムがやってきた。
『ほほう、これはこれは』
その口調は褒めているとしか聞こえない。
「……おじいちゃん」
苦虫を噛み潰したような声で訴えると、ナフムは優しく笑み、手をユーフェミアの頭へと乗せる。そして相反する眼差しをディーンに向けた。
『こんなものでわしやユーフェミアを手なずけようったってそうはいかんぞ!』
「おや、駄目ですか?」
しれっと答えるディーンに、さすがにユーフェミアも黙っているわけにはいかなかった。
「ちょっとばっかし料理が上手だからって、何だって言うのよ。見た目じゃなくて、要は味でしょう」
言いながら、立ち上ってくる香りに、お腹が鳴りそうになり、慌てて押さえる。
ディーンが向けてきた眼差しも、どこまでも余裕で余計に腹立たしい。
絶対に味も保証付きだということは、作る過程を見ていたら分かる。
食卓に用意された席はきちんと三人分。言わなくてもナフムの席も準備され、ユーフェミアは思わず沈黙する。
毎晩、夕食はナフムと取っており、きちんと皿を用意するようにしていた。実際にナフムが食べることはできないが、一人の食事は美味しくない。雰囲気だけでも二人で食事をした気分を味わいたかった。ちなみに、ナフムの分は翌日の昼に食べるようにしていたが。
ナフムも用意された席に、当然のような顔をして着く。
こんなことで懐柔されるほどユーフェミアもナフムも甘くはない。
「せめてお酒があったらもう少し雰囲気が出るんだけどね」
食事を進めながら、ディーンが呟く。
綺麗な食べ方――。
ぼんやりと眺めながら思う。
ナイフやフォークの使い方も、おそらくマナー通りなのだろう。庶民から見ればそれが正しいのかどうかは分からないが、控え目に言っても美しい所作だと思う。
「お酒なら料理酒があるわよ」
ユーフェミアは飲もうとは思わないが、多分料理酒でも飲めなくはないだろう。一応気を利かせて言ったつもりだったが、ディーンは苦笑しながら辞退の言葉を口にした。
「いや、いいよ」
その言葉を最後に、静寂が落ちる。
ナフムは食事を始めてから、じっとディーンを見て、何かを考え込んでいる。首を傾げているところを見ると、何かを思い出そうとしているようだ。
考えの邪魔をするのも悪いし、ユーフェミアもディーンを相手に話すこともなく、目の前の料理を攻略する。
思った通り味はいい。シチューも昨日とは味付けが変わっている。あのわずかな間に何か細工をしているようには見えなかったのだが。
眉間に皺を寄せると、目の前から楽しげな声が降ってきた。
「今、何を考えているか当ててみようか?」
「何よ、突然」
眉間に皺を寄せたまま見上げると、余裕ぶった表情で見下ろしてくる。
「シチューの味が違う。何をしたの、ってね」
「そ、それは、今食べてるから……」
当てるのとは違うだろう。単に推測しただけだ。
ムッとして黙ると、ディーンが自分の眉間を指で叩いた。
「それもあるけど、ここに皺が寄ってる。きみは私にヘンな対抗心を持ってるから分かりやすいね」
対抗心というよりはむしろ敵対心だ。しかもそう簡単に分析されてはたまらない。まだ出会ってからそんなに日数は経っていないのだ。一体何が分かると言うのだろう。
それに――。
ふと思い出す。
取り立て屋に追われていたあの日。ユーフェミアのことを知っているような口ぶりだった。
今まで聞く機会はなかったが、今が丁度いい機会なのかもしれない。
ナイフとフォークを一度皿に置くと、正面から黒髪の青年を見た。
やはり、あの日まで出会ったことはないはずだ。認めたくはないが、彼の夜のような紺色の瞳は印象的だ。たとえ忘れていても、見れば必ず思い出すだろう。
じっと見つめていると、ディーンは珍しく柔らかな笑みを浮かべた。それはとても魅力的に見えるはずなのに、やはり心の底が冷えていく。
「どうかしたのかい?」
ナイフとフォークを同じように皿に置いたディーンは、食卓に片肘をついて、その手の上に顎を乗せた。完全にくつろいだ姿勢で、じっとこちらを見る瞳が、話を促している気がする。
その余裕のある態度に確信する。
彼はやはり何かを知っている。ユーフェミアの知らない何かを。何を聞かれても答えるだけの――躱すだけの準備があるのだろう。
だが、彼が正直に話してくれるとは思えなかった。いつも肝心なことはぐらかすばかりで、こちらの苛立ちが募っていくばかりだ。だから慎重に聞かなければ、また誤魔化されてしまう。
どう攻めていってやろうかと考え、取りあえず無難な質問をすることにした。
「あの日……あなたに助けてもらった日、あなたは私を訪ねるつもりだったと言ったわ。どうして私を知っていたの?」
これはあの日の出来事でうやむやになっていた事だ。今更言い逃れのできる話ではない。
「ああ、そのことか。……そういえば、忘れていたな」
「忘れる程度のことだったの?」
その程度の用事で、ユーフェミアの家を買い戻してくれたというのだろうか。それでは割が合わないのではないだろうか。
訝しんで見つめると、彼は一つ溜息を落とした。
「どうしてきみはそう私に突っかかるかな。これでも結構きみを気に入ってるし、仲良くしていきたいと思っているんだけどね」
表情を曇らせて声音を落とすそのわざとらしい態度に、刺々しい眼差しを向ける。
「話をそらさないで」
同情を買おうったって、そうはいかない。
突っぱねると、ディーンはやれやれといつもの調子に戻って肩をすくめた。
「忘れる程度、というわけでもないよ」
「じゃあ、どうしてそんなにどうでもいいことのように言うのよ」
「別に急ぎではないから」
ゆったりと告げられた言葉に、またしても話の論点がずれていることに気づく。
食卓の下で手をぎゅっと握り締め、湧き上がってくる苛立ちをどうにか押さえこみ話を修正する。
「何の用があったの?」
どうしても詰問調になる口調に、彼はユーフェミアの感情を読み取ったのか、今度はすんなりと答えを口にした。
「きみに仕事の依頼をするつもりだったんだ」
「仕事?」
一瞬、骨董品店の店員のことが頭を過ったが、それは行き掛かり上なっただけで順番が違うと首を振る。どう考えても写字職人としての仕事の方だ。
「きみの筆跡は、きみが思っているよりかなり有名だよ。だからね、ある人への贈答品にと思ってね」
意外な返答に、目を瞬く。それで彼が自分を知っていたのか。納得できないこともない。しかし、それだともう一つの疑問に答えが出ない。
おそらくディーンは嘘をついていないが、まだ本当のことを言っていない。
気を緩めないまま、冷めた眼差しを向ける。
「そう。それで私を知っていたのね。でもそうすると、どうして私の感覚のことまで知っているのかしら?」
昨日からずっと不思議に思っていた。ユーフェミアのこの感覚は亡くなった母と、ナフムしか知らないことだ。しかも、昔はここまで感度が鋭くなかった。
警戒も露わにじっと見つめていると、ディーンは再び溜息を零した。
「きみはこの街で、死者と関わりを持ったことが全くないと言い切れるのかい?」
回りくどいその言い方に、おさまりかけていた苛立ちが再び膨れ上がる。
彼は答えを知っているくせに、どうしてそのような質問をするのか。
激高しそうになる感情を抑えると、自然と声が震える。
「……冗談じゃないわ。どうしてすき好んで彼らと関わりを持たなければならないのよ」
身にまとう雰囲気を怪しいと思いつつも、彼らがそのような者だと気づかずに話した事はある。周囲に誰もいなくて、気づいた時の恐怖を思い出し、思わず腕をさする。
イヴァンジェリンやリックとは明らかに性質が違う。もっと陰湿で未知のものだ。正体が分からないものほど恐ろしいものはない。だから「彼」も実のところ恐ろしい。
震える唇が言葉を紡げずにいると、ディーンがニヤリと笑った。
「つまり、彼らに聞いたんだよ」
「彼……ら?」
まさか、という思いで見つめると、彼はわずかに身を乗り出してきた。
「蛇の道は蛇ってね」
「あなた――彼らに近づいて平気なの?」
恐る恐る尋ねると、ディーンは食卓から腕を下ろし、椅子の背もたれにすがった。
「子供の頃からある感覚だからね。割と悪意のあるものとそうでないものの区別はつくかな」
「……そう」
言われてみれば、彼は幽霊屋敷と言われる家に住んでいるのだ。本当に幽霊が出るのか興味はあるが、彼が住んでいるぐらいだ。たとえ出たとしても今の話しからすると悪意のあるものではないのだろう。
だが、ここ数年、感覚の鋭くなったユーフェミアには恐怖の方がはるかに勝っている。
側にいるナフムにしても、ずっと暮らしてきた家族だからこそ怖くないのだ。当時、怖さよりも寂しさの方が勝っていたから、受け入れられたところもある。
イヴァンジェリンやリックもまだいい。彼らは喋るだけで何も出来ない。多分、人形に取りついてしまった何かなのだろう。しかも見た目が彼らの恐ろしさを半減させている。
どこでユーフェミアの話を聞いたのか、もう少し詳しく問い詰めようとした時、ふとナフムが動いた。
『……思い出したぞ』
今までずっと考え込んでいたナフムが、顔を上げてディーンを見た。
だが、一度ちらりとこちらに視線を送ると、わずかにためらいを見せる。
「どうしたの、おじいちゃん?」
ナフムは逡巡した後、再びディーンを見た。眉間には皺が寄っている。そしてもう一度気づかう様にこちらに視線を送ってから口を開いた。
『……どこかで聞いた事のある名じゃとずっと思っておったわい。……ラムレイは、この国――フェアクロウに領地を持つ貴族。……おまえさん、ラムレイ家の者か?』
その言葉に、ユーフェミアはナフムに向けていた笑みを消した。
貴族。
「――どういうこと?」
口から出た声はどこまでも低く抑揚がなかった。
商売で財を成したとばかり思っていたが、実は違っていたのか。
ナフムがどうしてこちらを気遣う様子を見せたのか、分かった。
ユーフェミアは自らの生い立ちから、どうしても貴族というものが――好きにはなれなかった。