03.濡れた髪の毛 後編
通りの向かいにあるユーフェミアの幼なじみの家は、どういうわけか仕立屋だ。
夜逃げしたバック家に一階を貸す時も、商売敵である古着屋だと言ったにも関わらず、反対するどころかいい競争相手だと快諾してくれたほど彼ら一家は気前がいい。
「なんだか面白いことになってるじゃない?」
ケイトはユーフェミアが渡したディーンの服を採寸しながら、ニヤニヤ笑っている。
コートを地下に干して戻ってきたあと気づいたのだが、男物の服などユーフェミアは当然持っていない。ナフムの物もほとんど処分してしまっていたのだが、幸いにも数着ある。が、どう見てもサイズ的に違いすぎる。だからと言って濡れたままの服を着せておくわけにはいかないだろう。
入れたくはなかったが仕方なく、ユーフェミアの生活空間である二階へと案内し、暖炉に火を入れ取りあえず毛布を渡す。
服はどうするかと問うと、仕立屋で――標準の体形に合わせて用意している簡易的な注文品で手直しをあまり必要としない――服を買ってきてくれと、それは全くもって不承不承といった感じで言ってくれたのだ。贅沢を言うなと言いたかったが、やはり彼は特注品にしか手を通さない人種なのかと、どこかで納得もしていた。
簡易的な品物とはいえ手足の長さに丈を合わす必要はある。ユーフェミアが採寸出来れば良かったのだが、生憎専門外だ。仕方なく着ていた服を持っていくしかなく、脱がして現在に至る……。
今、彼は暖炉の前で「彼」とチェスをしているはずだ。
商品の中にチェス盤があり、驚いたことに「彼」は二階にも移動可能らしく、ディーンは「彼」を相手にまったりと過ごしているというわけだ。
まったくこちらは雨の中、どれほどの被害を被っているのやら。
開店早々、昼過ぎには店を閉め、ユーフェミアはケイトを相手に愚痴っていた。
採寸が済んだケイトは針子たちに指示を出すために一度離れたが、すぐに戻ってきた。
それほど手間はかからないようなので、このまま待たせてもらうことにした。
「面白いことなんてないわよ。なんだか最近ついてないなぁ……」
待っている間、ケイトの娘で五カ月になるリリーを抱いてあやす。仕立屋の跡取り娘だったケイトは、十歳も年上の旦那さんが見習いとしてケイトの家に修業に来ていた頃から、見ているこちらが引いてしまうほど熱烈に追いかけまわし、落とした旦那さんをどのような方法でか婿養子に入れることに成功したのだ。現在一人娘にも恵まれて、これでもかと言うほど幸せを全身から醸し出している。
一方、ユーフェミアは最近疲れているのか、時々その輝きが目に痛い。だが、澄んだ瞳で見上げてくる赤ん坊は別だ。見ているだけで癒され、ちょっと高めの体温がまた心地いい。何を思ったのか、ほにゃりと笑う顔には思わずつられてこちらも笑顔になる。
「やだっ、かわいすぎる!」
「そうでしょう、そうでしょう。かわいいでしょう? だから早くユーファも結婚しなって」
幼なじみの親馬鹿ぶりには目を瞑り、後半部分に顔を上げる。
「いやよ。結婚はしない」
昔から言い続けている言葉を口にすると、困ったようにケイトはため息を吐く。
「まだそんなこと言ってる。それとも噂通り、このままディーン・ラムレイの愛人になっちゃうの?」
幼なじみの爆弾発言に、思わず目を剥いた。
「は? 愛人? 何それっ!?」
寝耳に水とはまさにこのことを言うのだろう。一体何がどうなってそんな話が出てきたのか。
吃驚してケイトをまじまじと見る。
「やだ、知らなかったの? うちに来るお客さんもかなり噂してるんだけどなぁ。まあ……私はユーファから事情を聞いてたから分かってるつもりだけど……。だって彼、最近よく来てたじゃない、開店準備で。あの人はそれなりに地位もある人でしょ? それにあの容姿! 女なら誰でもうっとりってところじゃない?」
染まった頬を隠すように手を当て、思い描いているのか視線が空中で止まっている。一児の母だというのにその顔はまるで夢見る少女だ。奥にいる旦那さんの視線が痛い。
「どこが!?」
思わず全力で否定すると、冷めた瞳で見返された。
「ユーファってば目が悪い? 顔はいいと思うわよ」
「……まあ、悪いとは思わないけど」
ケイトの反論に押されるように渋々認めると、彼女はにんまりと笑った。一方、旦那さんはあきれたように首を横に振っている。そんな顔で見ないで欲しい。
「ほら。そう言うことね。年頃――は過ぎてるけど、いい歳の娘のところに訪ねてくる地位も見た目もいい青年。出資した自分の店を愛人に任すってよくある話じゃない? 噂ってすぐに広まるものよ」
どこか納得できないまま、やはり納得できない肩書に首を傾げる。
「でも、なんで愛人?」
不思議に思って呟く。
ディーンは確か独身だったはず。愛人とは既婚者に使われる言葉ではなかっただろうか。
「さあ、その方が設定上面白いから?」
深く考えていない様子でケイトは愛娘の頬をつついている。なにが設定上よ、とあきれていると、チラリとこちらを見上げてきたケイトが身を乗り出してニヤリと笑った。その瞳は楽しげに輝いている。
「で、本当のところどうなのよ?」
噂の真相を確かめていることはすぐにわかった。
「馬鹿言わないで」
否定の言葉を口にすると、ケイトは頭を軽く横にふりながら、
「よねぇ……」
と、どこか諦めたように同意した。それを見て、ユーフェミアはリリーに話しかけた。
「困ったお母さんだねぇ」
「困ってるのはユーファでしょう? 愛人なんて噂が立ったら本当にお嫁にいけないわよ」
心配してくれているのは有り難いが、それに関しては別段気にしていない。嫁に行く気などさらさらないのだ。というより、むしろこの噂は利用できる。
「いかないから別に構わないわ。それに放っておけばそのうち消えるわよ」
噂なんて何日で消えるのだったかしらと呟く。
もうっ、と怒り気味に頬を膨らますケイトに、むずがりはじめたリリーを慌てて渡す。
そうこうしているうちに、針子さんたちの腕の良さなのか、一刻も経たないうちに服は仕立て上がっていた。
出来上がった服一式を、少しの間だからと皺になるのも構わずに、濡れないように別の布で包んでもらい、土砂降りの雨の中を通りを突っ切り、我が家に駆け込む。
肩が濡れて服の色は変わってしまったが、取りあえず胸に抱えていた包みは無事のようだ。
あとは皺にならないうちに早くディーンに渡して、着替えてもらわなければ落ち着かない。
居間に入ると、毛布にくるまったディーンは一人楽しげにチェスを打っていた。
それは不気味な光景に思えたが、「彼」がいると知っていればそれほどおかしなものには見えない。やはり、ディーンが変人の異名を持っているのも、その感覚のせいなのか。この光景など特に事情を知らない者が見たら、明らかに気味の悪い人に見えてしまう。
それはユーフェミアにも言えることで、この目に関しては細心の注意を払うようにしていた。
「着替えはここに置いておくわよ」
包みから取り出して、ソファの上に皺にならないよう置いていると、ふと近くに気配を感じて振り仰ぐ。
「なに?」
毛布にくるまったディーンが側に立っていて、その視線はユーフェミアの頭に向かっている。
「座って」
「え?」
毛布から手を出してソファを指差すが、彼の意図が何なのか分からず怪訝な顔をすると、有無を言わさず腕を取られ、座らされる。
「ちょっと、何なのよ?」
強引な扱いに文句を言おうとしたが、すぐに背後に回った彼が、結い上げていた髪を解きはじめてギョッとする。
「何するの!」
「悪かった。きみをこの雨の中に外出させるなんて配慮に欠けていた」
ゆるゆると解かれていく髪は濡れているため、ともすると指に引っかかる可能性もあるはずなのに、その手つきはどこまでも優しく丁寧だった。
髪から伝う滴が頬を流れる。
予め用意していたのか、布で包むように水気を取るディーンになされるがまま、無言で床を見つめる。
背中が強張るほど神経が髪に向かっている。
別に謝って欲しいわけではない。彼が横柄な人間であることは知っている。むしろそのままそこにいて、普通のことを口にしないでほしい。でないと自分がとても酷い人間に思える。家のことにしても助けてもらいながら、意識的に線を引いて出来るだけ関わり合いにならないようにしているのに……。
いたたまれなくなって目を閉じる。
そしてゆっくりと息を吐くと、目を開けた。
「もういいわ。あとは自分でするから、あなたも着替えて」
立ち上がろうとしたが、しかしそれは叶わなかった。軽く肩を抑えられ押し戻される。
「前から思っていたけど、きみの髪は蜂蜜色だね。母親も同じ髪色だった?」
それは不意打ちだった。
びくりと身体が震える。肩に置かれたままの手は、きっとそれに気づいたに違いない。
母のクリスティアナは見事な金色の――ロジャーと同じ色の髪だった。少し色の抜けたとも言えるようなユーフェミアの髪色とは明らかに違う。それはつまり――。
『誰じゃ、おまえさんは?』
突如思考を遮る声に、ハッと顔を上げた。
今日は一日中雨が降っていて、あまりにも暗くて日没の時刻だと気づかなかった。
ナフムがもの珍しそうにこちらを見ている。そして、肩に乗ったディーンの手の存在に気づいたのか、つかつかとやってくるとパシリとその手を叩く――ふりをした。
『気安くよそさまの娘に手を触れるんじゃないわい! まったく、今時の若いもんは……』
ディーンにもナフムが視えているらしく、肩にかかっていたかすかな重みが消えた。その隙を見逃さず、ソファから立ち上がる。
「おじいちゃん。彼も視える人だから、適当に相手してあげてて。私は夕飯の支度をしてくるわ」
背後にいるディーンを振り返らず、ユーフェミアは逃げるように居間を後にした。二人の間に流れる気まずい雰囲気など気づく余裕もなかった。
居間から出た扉の前で、ユーフェミアは身を竦めるように腕を抱えた。そして下ろした髪を手に取って眺める。
もしかして彼は知っているのだろうか。ユーフェミアが確信を持てないまま恐れている、口に出すこともできない秘密を――。