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黄昏時の溜息  作者: 薄明
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03.濡れた髪の毛 前編

 大体、謎ばかりなのよ――。


 削り終わったペン先に満足し、刃に付着した汚れを拭き取ってナイフを折りたたむと、今度こそ何処に片付けたのかをきちんと記憶し、出た塵を集めて屑入に捨てた。

 昨日のことを思い出すと仕事をする気も失せてしまい、仕方なく椅子の背もたれに寄りかかった。

 雨足がひどくなったのか、窓から見える通りは灰色に煙っている。もともと通りの石畳も灰色で、街全体が薄闇に閉ざされたようだった。

 イヴァンジェリンやリックは、ナフムと同様に日が暮れてからではないと話せないことは昨夜のうちに確認済だ。ただ、ユーフェミアには見えない「彼」についてはナイフの一件から察するに、日の出日の入りは関係ないようだ。確かに、ナイフを投げて寄こさないところを見ると、悪意があるようには思えないが。

 それにしても、と机に頬杖をつく。

「どうして私を知っていたのかしら」

 取り立て屋たちに追われて路地裏で助けてもらった時、じっと顔を見つめて尋ねてきたのだ。そこまで特徴的な顔をしているとは思えないが、あえて言うなら母譲りの緑の瞳が珍しいのだろうか。バルフォアの街でも、きっと数えるほどしかいないだろう。

 頬に手を当て、首を傾げる。しかし緑の瞳であるからと言ってユーフェミアだと限定してしまうには安直過ぎる気がする。やはり顔に特徴でもあるのだろうか。

 ふと、商品の中に鏡台があったことを思い出し、椅子から立ち上がった。

 異国情緒たっぷりのそれは、厚みのある板の表面を花や鳥の形に彫った中に、真珠のような光沢のある貝片を彫った形に合わせて埋め込まれていた。表面は平らに磨いて特殊な加工が施してあるらしい。木自体は黒く艶があり、白い貝と黒い木の相反する色合いが何とも美しく、当然、値段もそれなりのものだろう。それが蓋になっており裏面に鏡が貼り付けてあって、上に開いて使用するようになっている。

 木の表面を爪で傷つけないよう気をつけながら蓋を持ち上げ、ユーフェミアは鏡を覗き込んだ。

「っ!」

 思わず叫びそうになり、なんとか息を飲み込む。視線を下げ、とにかく鏡を視界に入れないようにした。

 今、見てはならないものを見なかっただろうか。

 背後に、何かがいた。あれがディーンの言う「彼」だろうか。

 悪意はないと言ったが、あれでは怖すぎる。見えなくて良かったというか見たくない。

 背後にいたそれはまだ若い青年で、金色の髪は雫が滴るほど濡れて顔の上半分は隠れ、水を吸った服もぐしょぐしょだった。しかもなぜか泥まみれで、まるで馬車に水を跳ねられたような有様だ。

 ゆっくりと視線を逸らせたまま鏡を閉じ、気づかないフリをする。

 見えなかった。見なかった。見ていない。

 偶然、鏡を通したから見えてしまっただけかもしれないし、骨董品の鏡には何か不思議なことが起こってもおかしくなさそうだ。

 ゆっくりと息を吸い、勇気をふりしぼって振り返る。

「ほら、誰もいない――って、あなた誰!?」

 髪から水を滴らせ、床に水たまりを作りつつあるその青年を見て、思わずあとずさる。

 だが、すぐに分かる。彼は生きている人間だ。生ものだ。間違いない。

 それが分かった途端、強気になれた。そしてあまりのひどい格好に思わず顔を顰める。泥まみれで店内に入ってくるなど非常識だ。

「あの――」

「ちょっと、あなた! そんな恰好でお店に入ってこないで!」

 用件を聞くよりも、まず先に彼の身を何とかしなければならない。たとえ客だろうと商品を汚されては堪らない。すでに彼が立っている場所は泥水まみれで、その後片付けも早急にしなければならない。

 内心舌打ちしながら扉を開ける。

 雨はやはりひどくなっている。まさかとは思うものの、どう考えてもこの中を歩いて来たとしか思えない。

 青年を振り返ると、少し慌てたように店の奥にあとずさっている。

「あの、僕は」

「追い出したりしないわよ。もうっ、あなたが歩き回ると床が汚れるじゃない。取りあえず、こっちに来て上着を脱いで!」

 店の奥はイヴァンジェリンや他の人形たちがいる。そんなところに泥水が撥ねようものなら……考えただけで頭が痛い。

 開店日早々、なんてついてない。

 黙って見つめていると、青年は渋々入口まで戻って来た。

 上質な布地であっただろうスーツは水気を含んでヨレヨレになり、生地には小さな砂が入りこんでいる。

 勿体ない――。

 内心浮かんだ言葉を口にしないよう唇を引き結び、戸惑いながらもたもたと上着を脱ぐ青年を手伝う。その下のベストにまで雨が滲んでいるのを見て、取りあえずその場で待てと告げる。

 二階へと駆け上がり、髪を拭く為の布と必要と思えるものを抱えて階段を降りると、階段下に移動してきた青年がいて、ユーフェミアは目を吊り上げた。

「あの――」

「だから、あの場所から動かないでっ」

 机に荷物を置き、布を頭からかけてやる。

「……それで、あなたはどちら様かしら?」

 自分のことぐらい自分でやってもらい、持って下りてきた雑巾とバケツで床にできた水たまりを拭いていく。

「僕はロジャーといいます。あの――ディーン様の秘書をしています」

 布の向こうからくぐもった声が聞こえる。

「そう。それで、ロジャーさんは何をしにいらっしゃったのかしら?」

 雇い主の名に胸に黒いものが込み上げ、ついロジャーと名乗った青年にあたってしまい、手を止めて彼を見上げた。

「ごめんなさい。こんな言い方失礼だったわね」

「いえ。ディーン様はよく誤解される方ですから」

 どうやらこういうことはよくあるらしい。

 その落ち着いた声音に、このような一方的な感情に気を悪くしなかった青年が気の毒になってしまった。つまり慣れているのだ。

 そんなロジャーに同情すると同時に好感も覚える。昨日から、まともな会話の出来ない人や人形、ぬいぐるみとしか話していなかった為、普通の会話が出来るなら、どれほどずぶ濡れだろうが歓迎だった。

「それで、用件は何かしら?」

 すっかり気分を良くし、床を綺麗に拭き終わってバケツを持って立ち上がると、ロジャーはそうでしたと言って、髪を拭っていた布から顔を出した。

 その容貌に思わず目を見張る。

 先ほどまで滴が垂れるほど濡れていた為、拭かれた髪はぼさぼさではあったが、それが彼の印象を悪くすることはなかった。むしろ無防備で庇護欲を誘うには十分な容色だった。ロジャーの穏やかな性格を表しているのか、女性的ともいえる美しさはその澄みきった瞳にも現れている。あまり認めたくはないが、ディーンもどちらかと言えば美形の部類に入るのだろう。だが彼の場合どこから見ても男性的で庇護欲など微塵も感じない。むしろ押しが強すぎて人の意見など聞く耳を持たない態度には反発を覚えるだけだ。

 開いた口が塞がらない体験を、こんなに短い期間に二度もするとは……。

 ちなみに一度目は路地裏で助けてくれた人物がバルフォアの有名人の名を告げた時だ。

「ユーフェミアさん?」

「あ、ええと、それで用件は?」

 きめが細かい肌をまじまじと見て、若い……、と内心羨ましく思いながら問う。

「実は――」

 ロジャーが口を開きかけたその時、濡れた上着の水気を叩くために開けていた扉から、黒い大きな影が入ってきて視界の隅をかすめた。思わず悲鳴を上げると、金髪の青年を腕に抱え込んでいた。本来なら逆の行動を取るべきなのだろうが、なぜか頼りなげなロジャーの風情に、母性本能が疼いたのだろう。

 持っていたバケツがひっくり返る音がする。それと同時にロジャーの慌てた声も。

 だが――。

 金色の濡れた頭を抱えていると、聞き覚えのある声が耳に届く。

「いつまで経っても迎えに来ないから何かあったのかと心配していたんだが……むしろ私は邪魔者だったかな?」

 こちらもずぶ濡れ状態で扉から悠然と入ってきたディーンを見て、安堵すると同時に彼の足もとに新たにできた水たまりに目を見張った。

「今、床を拭いたばかりなのに!」

 バケツをひっくり返した責任も、この際押しつけてやる!



 事情を聞くと、馬車が故障したらしい。

 御者が何とか修理を試みているが、雨も本格的になっており作業は思う様に進まないとのことだった。

 昔、祖父が使っていた傘があったので出してくると、ロジャーは濡れた上着を着て雨の中、馬車に戻って行ってしまった。

 あの時、ひっくり返したバケツの水は見事ロジャーの足にかかり、必死に謝るユーフェミアに大げさなほど手を振って気にしないで下さいと言ってくれた。本当にいい人なのだと思う。

 靴から不思議な音を立てながら店から出ていこうとしていたロジャーは、馬車が直ったら先に屋敷に戻って仕事を片付けるようディーンに言い渡されていた。

「あなたはどうするつもりなのよ?」

 当然、聞いてもおかしくない質問だろう。馬車を返してどうするつもりなのか。

 嫌な予感に、自然と眉間に皺が寄る。

「本当なら客先に出向く予定があったが……この格好では無理だね。仕方ないから予定を変更するしかないな」

 聞きながら、先ほどのロジャーと同様に扉の側でコートを脱がせ、水気を飛ばす。干すにしても、さすがに滴が垂れるまま室内に持ち込むと後が大変だ。そう言えば、まだ床も拭かないといけない。

 余計な仕事が増えたことに溜息をつきつつ、ディーンの返答に胡乱な視線を投げつける。

「……予定変更って?」

「まさか追い返すつもりじゃないよね?」

 そのまさかです、とは言えないまま無言でいると、濡れた髪をかき上げながらこちらに意味ありげな視線を向けてくる。

「先ほど、ロジャーにはいたく積極的だと思ったのだけど?」

 何をどう見てそういう考えになるのか理解不能だ。

「何か勘違いをしてるでしょう」

「私は積極的な女性は嫌いではないよ」

 一歩近づくディーンに、素知らぬ顔をして一歩下がる。

「生憎、私は興味がないの」

「それは私に対しての言葉かな? それとも恋愛に対して?」

 その質問に視線を上げる。

 これ以上、無駄な会話をする気はない。ふと胸に過った想いとともに、さっさと打ち切るためにもはっきりと告げる。

「どちらも」

 鬱陶しいとばかりに、ある程度水気を切っていたコートをディーンに渡し、机の上にロジャーの為に持ってきていた布を持って戻る。

「そうはっきり言われると傷つくな。これでも女性には評判がいい方なんだけどね」

 少なくともバルフォアの街では女性からも噂通りの評判しか聞いたことがない。

 布を渡し、代わりに再び濡れたコートを受け取って、階段脇にある扉へと向かう。そこは地下室への扉で、干し場は地下にあるのだ。

「だったら私なんかを相手にするより、他の女性でも口説きなさいよ。その方が余程建設的ね」

「なるほど。きみは建設的なのではなく、現実的なだけなのか」

 その言葉に含まれた棘に気づき、思わず足を止めた。頭の中で反芻したディーンの言葉に、ゆっくりと振り返る。

「……何が言いたいのかしら?」

 コートから落ちる滴が床に新たな水たまりを作りつつあったが、彼の口ぶりはどこか引っかかる。現実的で何が悪いというのか。

 ディーンは髪から滴が落ちるに任せ、振り返ったユーフェミアに得意気な笑みを浮かべた。

「こう言っては何だけど、きみと同年代の女性はすでに家庭を持っている者がほとんどだろう? そう言った女性はある意味建設的と言えるね。きちんと自分の将来を見据えて、身の丈に合った相手を選んでいるからね」

「それが何?」

 ユーフェミアも家庭を持つことを全く考えなかったわけではない。それこそ年頃には、真剣に考え、悩んだこともあったのだ。

 きっとこの後に続くのは、今の生き方を否定する言葉だろうと予測はついた。だがあえて、ディーンとの会話を打ち切らなかったのは、どうして現実的だといけないのか、彼の見解を参考程度に聞いてみようと思ったからだ。

「きみを現実的だと言ったのは、今を一人で生きていくためのことしか考えていない。恋愛やその他の楽しみも知ろうともしないで、常に目の前の利益を追うことしか見ていないだろう?」

「それの何が悪いっていうの?」

 女一人で生きていくには、まだまだ余裕などない。女だからだと軽んじる者の方が遥かに多いのだ。そして泣く目に会うのもいつも女ばかり。

「悪いとは言っていないよ。ただ、人生もっと楽しんだ方がいいと言っているんだよ」

 その言葉で、ようやく彼が本来言いたかったことを理解し、思わずフッと鼻で笑ってしまった。

「要するに――」

 向けた眼差しが侮蔑を含んだものになってしまったのは仕方ないだろう。

「あなたと恋愛ごっこをするべきだと言いたいのかしら?」

「まあ、そうなるかな」

 今までの言葉の応酬も、結果的にはこの男を喜ばせただけなのか。ユーフェミアが足を止めてしまった時点で、どうして得意気に微笑んだのかやっと分かった。

「却下よ。あなたも早く髪を拭いた方がいいわ」

 言い置くと、今度こそくるりと背を向け、足を止めることなく地下への扉を真っ直ぐに目指した。

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