22.目線だけで伝えてよ 後編
有無を言わさず引っ張っていかれ、咄嗟に背後を振り返ったその目が、ようやく夜色の瞳と合った。
その集団の横ではジュリアが笑顔で手を振っているところをみると、その場は彼女に任せておけば大丈夫だろうとも思え、もう一度ディーンに視線を向けると、険しい眼差しを浮かべてアシュレイを見つめる彼から、フイっと素っ気なく顔を背けてやった。
いつぞやはアシュレイと踊ったことで彼の気分を害してしまったが、今回は故意だ。少なくとも、このような場で放り出された身としては、多少は仕返しをしてやってもいいだろう。
振りかえることもなく広間の中央まで進むと、軽やかにリズムに乗った。
「多少は上達したようだな」
「おかげさまで」
あれから練習に練習を重ねたのだ。取りあえず、リズムに乗ってしまえば自然と足が出るようになった。
前回の恥ずかしさを思い出して顔を赤くすると、アシュレイがニヤリと笑う。
「早速、効果があったようだな」
言うや否や、くるりと回転した瞬間、先程の貴族令嬢たちが不満気な顔をしてディーンと距離を置いて向かい合っていた。
その側には冷ややかな表情を浮かべたジュリアが、令嬢たちを蔑みの視線で見つめていた。その迫力は、いつものジュリアらしからぬものがある。
しかしあれでは、傍から見ると完全にジュリアとユーフェミアの立場が逆だった。どちらが婚約者なのか。
「なんて顔をしている。もっと余裕を持て。心配する必要はない」
言われ、自分の顔が強張っているのに気づき、意味ありげなアシュレイの眼差しに、今度は頬に血がのぼる。
「な、何よ?」
「何も言ってないぞ。まだ」
明らかに含みを持たせているその顔は、ユーフェミアにとって、あまり嬉しくないことを考えているに違いない。
ムッとしながら、わざと足でも踏んでやろうかと企んだが、まだまだ転ぶ可能性の高さに睨むだけに止めておくことにした。
「結局おまえは、カーティスの手を取ることを選んだのか?」
ふと真顔で見下ろされ、ユーフェミアは口を噤んだ。
そう言えば、以前アシュレイにはジュリアとディーンの邪魔をするなと言われたことがある。だが、あれからこの人とは顔を合わせる機会が一度だけあったが、その時にはもう、何も言わず、ただ今と同じように確認の言葉を口にしただけだった。
ユーフェミアは預けた手を眺め、踊りながら不思議と感情が凪いでいく感覚を味わっていた。
以前は、自分の気持ちがはっきりと分からなかったからかもしれないし、この場に来て、改めて分かったこともある。
「……ジュリアは、本当にこれでいいのかしら?」
ぼんやりとしながら呟くと、近くで溜息が落とされた。
「おまえが、今更それを言うのか。あの時――べレスフォード邸で私が言った時には完全に無視したはずなのに、ここにきてそれを言うのか」
どこか冷めた眼差しを向けられ、そう言えばそうだったと、思わず淡褐色の瞳を見上げた。
「あ、そうだったわね」
「……おまえ」
預けた手に少しだけ力を込められ、思わず思い出したのは初めて顔を合わせた時のことだ。条件反射的に身体が竦み、その拍子に足を出すタイミングが外れて、結果、アシュレイが顔を顰めた。
「わ、わざとじゃないわよ?」
「わかっている。自分が撒いた種だ」
不機嫌に告げたアシュレイの意外な発言に、再度足を踏みそうになってしまった。
「本当に、わざとじゃないわよ」
「わざとだったら、今すぐ馬車を呼んでやろう」
言外に帰れと言われ、曖昧に笑って誤魔化すと、今一度音楽に耳を傾けダンスに集中する。心の中で、一、二、三と呟き、アシュレイのリードに任すと、自然と足が出るようになる。しばらくしてようやく喋るだけの余裕を取り戻すと、再度淡褐色の瞳を見上げた。
「ねぇ、王子様って大変じゃないの?」
ぶしつけな質問だと思ったが、ユーフェミア自身「もしも」を考えなかったわけではない。
もしも、子供の頃エドワーズに引き取られていたら――。
もしも、この先王宮で暮らすことになるなら――。
庶子であろうとも、きっと自分の人生は一変したに違いない。
しかし、どちらも空想の一端であって、どちらの仮定もあり得ないことが前提だ。なぜなら今現在自分が庶民という立場であるからこその幻だからだ。そんな自分が、王子の心境など分かろうはずもない。
ぶしつけだが純粋なユーフェミアの興味を、アシュレイは鼻先で笑い飛ばした。
「生まれた時から王子である私が、王子以外の苦労を知るはずがないだろう」
だから、大変かどうかなど分かるはずがないと続けた。
ユーフェミアは数度目を瞬き、そうか、と納得する。
「……そうよね」
庶民である自分が大変だとは思わない。オールドリッジ邸で生活したからこそ、上流社会というものがどれほど贅沢なものかを思い知っただけで、今までの倹しい暮らしがむしろ恋しいぐらいだった。
訝しげな眼差しを送ってくるアシュレイに、ユーフェミアは尋ねた。
「今日の私は、きちんと貴族の令嬢に見える?」
「気を抜かなければ大丈夫だろう。実際、今でも視線を集めているだろう?」
「どうして?」
尋ねた直後、不愉快に顰められた眉を見て、目の前の人物が王子である事実に気づく。
社交界で注目を集めるディーンが連れてきた見知らぬ女性が、王子と踊っている。それだけで注目を集めてもおかしくはない。
はたと現実に気づき、血の気が引いた。
腹いせにアシュレイと踊っていたが、もしかしてとんでもなく目立つことをしているのではないだろうか。
「…………もしかして、目立ってる?」
返ってきたのは、言葉ではなく、呆れかえった視線だけだった。
すみません、と小さく呟く。
だが、一度気になり出した視線は全身にまとわりつき、途端、先程までは軽かった足が水の中を歩いているような重みを増した。
自然と、それは身を添わせて踊っていたアシュレイにも伝わるというもの。
「おい、これぐらいまだ序盤だろう。一曲ぐらい完璧にこなせずしてどうする」
腹を立てていた時は、怒りがディーンに向いていた為まだ良かった。だが現実に立ち返ってしまった今は必死に集中しようとはするものの、くるりくるりと回れば回るほど、ますます身体の重みは増して行き、恐らくアシュレイのリードがなければ、曲が終わる頃には完全にリズムから外れていたに違いない。
向かいあったアシュレイに何とか一礼したものの、酷い躍りを晒した自覚と相まって顔を上げることが出来なかった。
が、しかし――。
「前回よりは上達したな。及第点をやろう」
思ってもみなかった言葉に顔を上げると、エスコートしてやっているぞとばかりに背を押される。それは決して力任せではなく、どこまでも紳士的で、側にいても安堵感を覚えるものだった。
それを意外に思う自分に驚く。以前はただただ恐怖と、不快な感情をむけられている自覚があったから、少なくともこんなふうに気持ちが凪ぐ日が来るとは考えてもいなかった。
無事に一曲踊りきった達成感に浸っていたのも一瞬、踊りの輪から連れだされるまでの時間はそう長くはない。
ジュリアによって見事、令嬢達を追い払われたディーンの元へと連れて行かれたが、顔を見た途端、胸の中にえもいわれぬざわりとした小波が打ち寄せる。
「ひどいな、アシュレイ。わたしよりも先にユーフェミアと踊るなんて」
そんなユーフェミアの心境に気づいてもいないのか、苦々しく夜色の瞳を持つ男は言い放つ。
ひどいのはどっちよ、と内心毒気付き、冷めた眼差しを送ってやる。
すると、不機嫌そうなユーフェミアに漸く気付いたのか、ディーンはそれはそれは蕩けるような笑みを向けてきた。
「……っ」
それがどうしたって言うのよ。そんな甘い顔をしたって、先程受けた扱いをなかったことにしようなど、それこそ甘い考えというもの。
どれほど機嫌を取ろうとも、ユーフェミアが受けた屈辱は消え去ることはない。
――屈辱。
それを認めてしまうことこそが屈辱なのだか、受けた仕打ちのことを思えば、認める屈辱感のなんと劣ることか。
歯痒さをどうにか押し込めると、視線を夜色の瞳にぴたりと合わせた。
「ひどいのはあなたでしょう。屋敷を出る前に……――私が言った事を忘れたの?」
――私だけのものになって。
意を決して告げた言葉を、思い出しても顔が赤くなりそうだったが、約束は約束だ。あの時、ディーンは何と返事を返したか。忘れたとは言わせない。
一方、ユーフェミアの言葉に、何を思い出したのか。ディーンは何故か上機嫌になる。
「もちろん、忘れてなどいないさ。……嬉しいね。少しは妬いてくれたのかな」
ノーリーンに言って、その口を二度と開けないように縫い付けてもらおうかしら、と思わず拳に力が籠る。
恥ずかしいやら情けないやら、気は抜けないし、目の前の男は相変わらずのこの調子で、様々な感情が不意に胸のあたりに迫り上がった。やり切れなさに知らず目頭が熱くる。――が、まだ始まったばかりだ。手のひらを握りしめ、自らに言い聞かすと、静かに息を吸い込み、胸に凝った苛立ちと共にゆっくりと深く吐きだした。
視線を上げると、そこには夜の色を湛えた瞳が自分だけをまっすぐに見ていた。その瞳は、夜というのに怖さを感じさせるものではなく、ただ静かにそっと寄り添ってくれているようなもので。
大丈夫。まだこんなところで折れるわけにはいかない。
当たり前のように右手を差し出すと、その手を当然のように取られる。そしてごく自然に、唇にその指先を運ぶのを目で追う。
周囲の喧騒が、嘘のように静かになったような気がした。否、さきほどまで乱れていた自らの感情が、静かに凪いでいくのが分かった。
「妬かないわ」
決して意固地になって言ったわけではない。ただ妬く必要はないと思ったのだ。明日からがどうであれ、今日だけは絶対に信用しようと決めたから。今日だけは自分だけのものだから。それを目の前の男は誓ってくれた。
右手を取られたまま、未だ遠巻きにこちらの様子を窺い、隙あらば近づいてこようとする令嬢たちを冷めた眼差しで一瞥し、何事もなかったかのように視線を逸らせると、再び彼の隣に並び立った。
「今日だけは、あなたを信用しているから」
正面を見据えて、国王たちへ挨拶をしている方を見据えた。
胸を張れと言ったノーリーンの言葉と、先程踊った王子の言葉は、ユーフェミアに自信をもたらすには十分な効果を与えてくれた。
そんなユーフェミアを見て、王女も王子も、どこか安堵したように頬を緩めた。
「その意気ですわ」
「もう帰る気なのかと思ったぞ」
戦意喪失するには早すぎるだろう、と相変わらずの憎まれ口で続けるアシュレイに、ユーフェミアは少しだけ自嘲的に笑った。
「気を抜かなければ、大丈夫なんでしょう?」
その質問に、アシュレイがニヤリとしたのはもちろんだった。
「気を抜かなければ、な」
意味深な二人の会話に、眉間に皺を寄せたのは当然、隣に立つ男で。
「ユーフェミア……」
苦々しい口調に、少しだけ意地悪な気分になる。
「妬いてくれるの? 嬉しいわね」
先ほどの意趣返しに、嫌みをたっぷりと含ませる。
もちろん、ユーフェミアの仕返しに気づかないディーンではない。信頼しているからと言って、面白くなかったのは変わりないのだ。
そんなやり取りを見て、ジュリアは楽しそうに笑うと、では、と一際人が集まっているところへと目を向け、告げた。
「そろそろ、行きましょう――」
行先はもちろん、ユーフェミアの目当てである国王のもとへ、だった。