22.目線だけで伝えてよ 前編
あなたはとても、遠い……。
広間に列席した各国の賓客や国内外の貴族を前に、泰然とした態度で言葉を述べる国王の声を、ユーフェミアをはじめ、会場にいる皆は静かに聞き入っていた。とは言っても、祭りの前のような奇妙な高揚感が場を包み、皆どこか落ち着かないのかそわそわとした雰囲気も漂っていた。
ただユーフェミアだけは、この場に響く声が果たして記憶の中のものと同一のものなのかどうか気を張り詰めつつも、結局は分からぬまま、その姿を遠くからぼんやりと眺めていた。
胸の奥に渦巻くのは漠然とした不安。一つはっきりしているのは、エドワーズとの血のつながりが実感として未だ湧かないということだけ。
静まり返った広間の隅々まで響き渡る朗々とした国王の言葉が終わると、歓声や拍手と同時に早速この場に集まった紳士淑女たちが、我先に祝辞を述べるためか国王の元へと向かって行った。
流れ出す楽曲。踊り出す男女。人々のざわめきがゆったりとした流れとなって広間に充ちていく――。
折角なのだから、夜会というものを楽しめばいいとディーンに言われ、国王への挨拶を後回しにし、会場内を連れられるまま、二人でゆったりと回っていた。
ディーンの顔見知りという男性や年配の女性に、取りあえず型どおりの挨拶を済ませ、何とか恥をかかずに済みそうだと思い始めていた頃だったろうか。
先程から、というよりも、この広間に入ってから感じていたことだが、時間が経つにつれ視線の刺々しさが増していく。最初は気のせいかと思っていたが、どうやらそうでもないらしい。
しばらくは口の端を持ち上げ、かすかな笑みを浮かべ我慢していたが、いたたまれなくなってディーンの腕に添えていた手をわずかに引いた。
「何だか視線を集めているような気がするんだけど……」
「うん。皆、きみが誰なのか、気になって仕方ないみたいだね」
それは違うんじゃないのだろうかと、目の前の男を見上げる。
会場のざわめきの中、交わす言葉を聞き取りやすいように、彼はかすかに屈むようにしてユーフェミアと視線を合わす。王宮へ来るまでの間、馬車内でも常に上機嫌だったディーンは、細心の気づかいを見せてエスコートする。それが初めてこのような場に立つユーフェミアを気づかってなのか、それとも通常からこうなのか、事実はユーフェミアが屋敷を出る前に言ったたった一言が原因だったなどとは知る由もなく、ちょっとした機微を敏感に察してくれる。
周囲から見れば当然、男性がどれほど女性を大切に扱っているのかが、うかがい知れるというもの。その後も、ディーンは会場内を回っている給仕係からユーフェミアの為にわざわざ飲みものを選んだり、当のユーフェミア自身は気づいていなかったが、彼女を目当てに近づいてきた貴族の青年たちを牽制したりと人目を憚らず甘やかした。
その甲斐甲斐しさは当然、更なる囁きを生むことになる。
――あのような子爵は見たことがない。
――もともと女性には甘い方だったけど、あの大事になさりようはどうでしょう?
――気づきまして? 子爵の視線は、常にお連れの女性に向けられていらっしゃるのよ。
自然と聞こえるひそひそ声に耳を傾けながら、恥ずかしい反面、逆にいつもの彼がどのような態度だったのか気になるというもの。
ユーフェミア自身、見せつけるとは言ったものの、勝手に想像を膨らませてくれる周囲に、ディーンやり過ぎ、と心の中で舌打ちした。
多少恨みがましく見上げたものの、逆にそこで待ち受けていた眼差しはどこまでも熱っぽくて、ふわりと動いた空気が強い香水の匂いを運んでこなければ、完全に喧騒が遠のくところだった。
「カーティス様! ようやくお会いできましたわ」
甘ったるい鼻にかかったような声がユーフェミアを現実に戻す。強い香りを放つ声の主が、友人らしき令嬢と押し寄せてくるや否や、隣にいたユーフェミアを押しのけるように彼の周りに群がった。
押された瞬間、その中の二、三人は、明らかに突き刺すような視線を向け、完全に彼との距離を取らそうとする。着ているドレスの広がりや裾の長さを考えると、自然と、ユーフェミアは後退るしかなかった。
「ディ――……」
背の高い彼が一瞬こちらに視線を向け、何かを言おうと口を開きかけたが、すぐに彼の首に回された手にそれを阻まれる。
貴族令嬢の直接的な――あまりにも節操のない必死さに、逆にユーフェミアは呆気に取られてしまった。
何よ、これ。
「どちらの夜会でも随分と長いことお見かけすることがなく心配しておりましたのよ」
「次の夜会では、わたくしと踊って下さる約束でしたわよね? 今夜はその約束を果たしていただきますわよ」
「わたくしが最初ですわよ」
きゃあきゃあと、会場の中でも一際賑やかな一群の外で、ユーフェミアが茫然と佇んでいると、背後から聞き覚えのある声がすぐ近くに落とされた。
「何だ。負けたのか?」
ざわりと、彼女たち以外の場所からどよめきが上る。
静かに頭を下げる周囲を手で制したのは、ユーフェミアと同じ蜂蜜色を頭上に持つこの国の第二王子だ。その側には、第一王女であるジュリアもおり、相変わらず見惚れるほどの美しい微笑を浮かべていた。
「お久しぶりですわ、姉さま。べレスフォード邸以来ですわね」
「ええ――」
普通に返事をしようとして、ハッとしたのは、ユーフェミアだった。
ここは王宮で、彼らは何者だ?
慌てて礼を取ろうとしたユーフェミアを止め、皮肉げな笑みを浮かべて一歩近づくと、手を差し伸べてきたのはもちろんアシュレイだった。
「相変わらずカーティスの周囲は賑やかなことだな。婚約者などいらぬということか?」
差し出された手に、もちろん拒否権など与えられるはずなどなく、恐る恐る差し出すと一層周囲のざわめきが大きくなった。
「そんなことを言ってはユーファ姉さまに失礼ですわ。姉さまもお気になさらないで。カーティスはここ最近、口を開けばあなたのことばかりだったのですもの。わたくしが姉さまを連れて来て下さるようお願いしても、一向に聞いてくれなくて……。独り占めしてずるいと何度も言ったにも関わらず、ですわよ?」
アシュレイに取られた逆側の手をギュッと握ってくる彼女は、ようやくお会いできましたわねとニコリと笑んだ。
両手を王子と王女に取られた状態に、ユーフェミアは背後の喧騒よりも、周囲の視線を一段と集めていることに気づき、返答に窮した。
それほど大きな声で話しているわけではないが、彼女たちの声を皆、耳を欹てているのが気配で分かる。おかげでこのような緊張を強いられることになるとは思いもしなかったが、何も話さないわけにもいかず、無難に挨拶の言葉を口にした。
「私も、ジュリア殿下に――」
「嫌ですわ。いつものように呼んで下さらないのですか?」
一応、この場がどういう場所か弁えているつもりだったが、王女の方がそれを渋った。困惑しつつも、では、とその名を呼ぶと、さらに一際周囲に小波がおきた。
もはや見せるつけるどころの話ではなく、渦中にいるのはユーフェミア一人だ。
「で? それはそうと、おまえはアレをどうするつもりなんだ?」
淡褐色の瞳が向かった視線の先に、ユーフェミアはため息を落とす
そう、本来の目的が何だったのか。思い出せば、この集団からディーンを取り戻さなければならないことになり、それを思うと気が重くなる。
ジュリアも気の毒そうな笑みを浮かべ、そして彼女たちには逆に感心してみせる。
「本当に彼女たちの目にはカーティスしか映ってないのですわね。わたくし達の姿さえ入らないなんて」
あきれ顔の王女は、軽く首を横に振っている。
たったそれだけの動作なのに赤みがかった金髪がふわふわと揺れ、彼女の可憐さが一層引き立った。
一方、ユーフェミアの手を取ったままの王子も、肩を竦めた。
「放っておけばいい。婚約者を放っておく男は、多少は痛い目を見てもいいだろう」
「それには賛成ですけど、それではユーファ姉さまの立場がございませんし、そもそも本来の目的から遠のきますわ?」
「多少の演出も必要だろう。ということで、私が相手をしてやる、こい」