21.かわいい君のかわいい我が侭 後編
「嬉しいことを言ってくれるね」
支度が終わったユーフェミアのいる部屋にちょうどやってきたのは、夜会用の装いをさらりと着こなしているディーンだった。彼はノーリーンに彼女自身の支度と馬車の用意をするよう告げると、完成したユーフェミアの姿を眩しげに見やった。
「とても綺麗だよ」
「……どうも」
照れ隠しに素っ気なく答えつつも、いつもとは違うディーンの姿に自然と目がいってしまう。
彼は衣装に着られるという心配はまったくないらしい。夜会自体にも慣れているのか、その顔に緊張とか憂慮とか、そういった不安要素を示す言葉は見当たらない。いつもながらの洗練された所作も、こういう恰好をすると余計にでも様になっており、嫌味なほど似合っているのが腹立たしくて、内心とは裏腹に冷めた眼差しを送った。
確かに数多の令嬢から秋波を送られるのも理解できる。まして、彼とジュリアが並んだ姿を想像しただけで気が滅入りそうになる。似合いすぎるだろう。それなのに、何故自分がこの人の隣に立たなければならないのか。
改めてあと数刻もしないうちに現実となって襲い来る自分の立場に、次第に早鐘を打ち始めた鼓動がさらに緊張を煽る。
動揺している胸の内を悟られたくなくて、ユーフェミアは見せかけだけの冷静さを見破られる前に早々に視線をそらした。
「さっきは確かに見せつけるって言ったけど、勘違いしないでよね。私は自分の目的の為にあなたたちに協力するだけなんだから」
過去何度もした言い訳を再度繰り返す。果たして、この言い訳をディーンが本心から信じているのかどうかはもはや疑問だが、ユーフェミアは性懲りもなく言い張った。
「でも、今日は私の為に着飾ってくれたのだろう?」
どこか甘さを含む声音に、怯むように口を噤んだ。
確かに彼らの思惑は、ユーフェミア・エヴァンスをディーン・ラムレイの婚約者として公の場に立たせることで、彼とジュリアの婚約の噂を消す為のものだ。
彼の横に立つには、王女であるジュリアに及ばずながらも、それなりに見栄えがする女性でならなければならない。そう、注目を浴びなければならないのだ。少なくとも夜会に招待されている貴族令嬢に勝らずとも劣ることはあってはならない。その為に着飾る必要があるならば、やらなければならない。それがディーンの為というならば、それは間違ったことではない。
だが、それは全て建前だ。
今、ユーフェミアの心を占めるのは、ひどく卑しくて単純な感情だ。
顔をそらしたまま軽く唇を噛み締めると、感情を押し隠すよう忌々しく言い放つ。
「仕方がないでしょう。少しは見られるようにならないと、ジュリアに申し訳ないわ」
言い訳に利用したジュリアに心の内で手を合わせながら、どこまでも可愛げのない言葉が口をついて出る。
「まったく、きみは……。嘘でもいいから私のためとは言ってくれないのかい?」
こちらの本心を知ってか知らずか、笑みを刷いた唇は相変わらず、どこまでも上滑りする言葉を紡ぎ出す。だがまったく緊張感の欠片も見せない人物に、心のどこかで安心もした。
勇気を出してゆっくりと視線を巡らし、彼の瞳を正面から捕らえると、夜色の瞳が何かを探るようにかすかに細められた。その眼差しに挑むように、少しだけ顎を上げると、イヴァンジェリンに教えられたとおりの言葉を選ぶ。
「嘘でいいならいくらでも言ってあげるわ。だけど、そんな文句で簡単に喜ぶような人なら、こちらから願い下げよ」
妙に遜ってはならないと教えられた。特にこれから行く場所は本音が通用しない場所だ、と。一度侮られたら、一生見下げられる人間関係が待っている。やんわりと遠まわしな会話こそが良しとされ、本音がどこに隠されているのか、見極めるのが大変だとも。
だけどいくら美辞麗句を連ねたところで、偽りの言葉は決して胸に響くものではない。お世辞で喜ぶ道化に成り下がるつもりはなかった。もちろん、嘘などいらない。飾った言葉など欲しくもない。無駄な媚びを売るつもりもない。それで相手にどう思われようとも、関係ない。これが、ユーフェミアの矜持だ。
「なるほど。そう簡単に靡くつもりはないと言うことか。――うん、上出来だよ。私も安心だ」
「別にあなたを安心させるつもりはないんだけど。でも、ここはお褒め預かり、とでも言うべきなのかしら?」
片眉を上げ、ディーンを見やると彼は肩を竦めた。どうやら嫌味を多分に込めたことが伝わったらしい。
まるで品定めをするかのような目で見ておいて、と言外に非難する。確かに俄仕立ての婚約者がどの程度のものなのかを見定める必要はあるのかもしれないが、品定めされる方としては決して気分のいいものではない。何かあった時に困るのは確かに彼だが、ユーフェミアを選んだのも彼だ。今更、知ったことではない。
まったく……。
どこかあきれつつも、残念なことに王宮で頼れるのは彼しかいないことに、不満を覚えながらも結局は仕方のないことだと許してしまう。
「そうだった。きみに渡すものがあったんだ」
まるで話を誤魔化すかのように、上着の隠しに手を入れたディーンは、手のひらに収まる程度の小さな箱を取りだしてみせた。
続いて手袋を外すように言われて怪訝な顔を向けると、箱の蓋を開いて見せられ、そこにあったものに思わず目を瞠ってしまった。
「準備はすべてノーリーンに任せてしまったけど、これだけは私の役目だからね」
箱の中にあったのは緑玉の指輪で、ユーフェミアの瞳の色と合わせたことが一目瞭然だった。
深い色の緑玉は中央に一石。両脇には金剛石と思しき石が配されている。決して豪奢すぎない意匠はほっそりとしたユーフェミアの指を考えてのことだろう。
「きみは私の婚約者なんだから、これは必需品だろう?」
「……ここまでしなくてもいいんじゃない? それに手袋してるからどうせ見えないし」
しり込みしながら告げると、彼は手袋を外すよう再度強く促してきた。
一歩も引く気のないディーンの様子に、渋々とあきらめて右手の手袋を外す。
取られた右手の薬指にするりと嵌められた指輪は、ぴたりとユーフェミアの指に納まった。
「これできみは私の婚約者だ」
「……今夜だけね」
至極満足げな目の前の男に、冷や水を浴びせてみたが、彼の機嫌は損なわれることはなかった。むしろ調子に乗ったように見えなくもない。指輪の嵌められたユーフェミアの手を持ち上げると、そのまま薬指に唇を寄せてきた。
「いずれこの指輪が左手の薬指に輝くことを願うよ」
「はいはい、もういいかしら。手袋を嵌めさせてもらっても」
軽くいなして手を取り戻すと、さっさと指輪を視界から閉め出す。
それに意外にも残念そうな顔をしたのは当の指輪を送った相手だった。
「こんな感動的な場面なのに、もう少し余韻に浸らせて欲しかったな」
「あなたを喜ばせて何の得があるの?」
抑え気味に言いながらも、指に嵌った指輪の感触は簡単に拭えるものではなかった。嵌めた当初はヒヤリとしていた指輪もすぐに体温に馴染み、たとえ今夜の小道具だとしても、どうしようもなく気分が高揚してしまったことを認めないわけにはいかなかった。
それに彼の本気は十分伝わっている。向けられる想いは素直に嬉しいと思う。でも、だからといって、はいそうですか、と簡単に受け入れるわけにはいかないのだ。
困惑と喜びが綯い交ぜになりながらも、頭を軽く横に振る。今、目を向けるべき現実は、今夜の夜会だ。気を引き締めなければならない。
ノーリーンが馬車の準備が出来たことを告げに来て、ディーンが促すようこちらに手を伸ばした。
その手に自らの手を重ね、ユーフェミアは緊張した面持ちで、夜色の瞳を見上げた。
覚悟は決まった。あとは一つだけ、自分に言い聞かす為にも言っておかなければならないことがある。とんでもなく傲慢で、我が侭な願いだけど。
物言いたげなユーフェミアに気づいたディーンは、手を取ったまま動きを止めた。緊張していると思ったのか、その眼差しが大丈夫だと告げてくる。だが、重ねた手にわずかに力を込めると、彼は再度向き直ってくれた。
「――一つだけ、お願いがあるの」
喉から搾り出した声は緊張のため、かすれていた。それでもこくりと息を飲み込むと、次の言葉を出すためにゆっくりと口を開く。
一度しか言わない。だから、聞き逃さないで。
「今夜一晩、どうか私だけのものでいて」