20.貴方がいなくなったら、きっとさみしい 後編
まるでこの場所だけ時間に取り残されたような錯覚を引き起こすレイヴンズクロフト侯爵家――養父サイモンの住む邸は広く、そして寒々しい。バルフォアから馬車を走らせ、到着したのはすでに日も落ちた時刻だったにもかかわらず、邸に灯った明かりは数えるほどだった。
玄関ホールの高い天井は闇に消え、仄かに灯るランプだけが出迎える。人の気配は遥か遠く、これでは不審者が忍び込んでも気づかないだろう。
足音を響かせても誰一人出て来る様子のない邸に、ディーンは冷ややかな笑みを浮かべると、背後に従う人物を振り返った。
「アドルフ。いくら反抗的な息子と言えど、これが人を呼び出した上での応対なのか?」
婚約者に見せる表情から一変、氷のような眼差しを、一歩遅れて入ってきた執事に向ける。
アドルフは厳しい顔をしたまま、無言で頭を下げた。
本来なら、この邸のすべての雑事を取り仕切るのは家令であるアドルフの仕事だ。しかし現在、サイモンの命によりディーンの監視の役目を負っている為、本邸にまで手が回らないのも事実。いくら招かざる客が来ようとも、主の面目を失わせず、いかにして相手に快く引き取ってもらうかが家令や執事の腕の見せ所であり、主からの信頼も上がるというもの。
だが、アドルフの代わりの者の仕事ぶりがこれでは、名目上現在も家令であるアドルフの落ち度であり、そしてサイモンの思いがそのまま対応に出ていることから、この邸の中の荒れようも窺えるというもの。
「この調子では、用が済んだらやはりバルフォアに帰った方がいいだろうな。休む部屋もあるかどうか疑問だな」
ユーフェミアの側に帰れるものならば、と半ば本気の呟きだったが、アドルフは辞去の言葉を告げると足早に立ち去った。あとは全て彼に任せればいい。
ディーンは、廊下の奥へと視線を向ける。
養父が何の用で呼び出したのか、想像はつく。昼間、アシュレイが届けた夜会の招待状は、レイヴンズクロフト侯爵であるサイモンの元へも当然届いているはずだ。
近いうちに呼び戻されることは予測していたが、まさかその日のうちとは。
唇の端に暗い笑みを浮かべると、重い息を一つ吐き、一歩、その暗がりへと足を踏み出した。
サイモンの部屋の扉をノックすると、あからさまに不機嫌な声が入室の許諾を告げた。
扉を開けた先、引き取られて初めてこの部屋を訪れた時からなんら変わらない室内は、時間の経過を一瞬忘れさす。だが、部屋のソファに座る人物の時間だけは確実に、彼の上を流れていた。
今では白くなった髪を後ろに撫でつけ、養父はガウンを羽織ってゆったりと椅子に座っていた。
時折、暖炉から火の爆ぜる音がする以外、物音一つしない室内はいつもながらに息苦しさを覚える。窓からの冷気を遮る為、掛けられた厚手のカーテンが、より一層部屋を圧迫する。
ランプに明かりを灯し、開いた本を膝の上に広げたまま、眉間に深い皺を刻んで物思いに耽っている様子のサイモンは、しばらく顔も上げずにムスリとした表情を浮かべていたが、ディーンが挨拶の言葉を告げた瞬間、目を吊り上げ、手にしていた本を投げ付けてきた。
「おまえは一体、どういう料簡をしておるのだっ」
ヒョイと飛んできた本をかわしつつ、ディーンは笑みを浮かべる。
何の件と聞くまでもない。
アドルフからも聞いていたが、無断でジュリアとの婚約を破棄したことを未だに尾を引き、顔を合わせれば必ず責めたててくる。
側のテーブルに、投げ出すように置かれた白い紙が、昼間、ユーフェミアが開けたものと同質のものであるのが見て取れた。
それを横眼で認めつつ、ディーンは肩を竦めた。
「どうもこうもありませんよ。何度も言ったはずです。ジュリア王女殿下とはもともと口約束。双方合意の上、婚約を破棄したと。しかしあなたが納得しないでしょうから、代わりに殿下の次なる序列をいく女性を娶ることで合意したはずでしたが?」
とは言っても、現在の女性王族の未婚者は限られている。
現在の国王は、下に王弟殿下であるフラムスティード公爵がいるが、その子供も男である。女性王族と言えば、国王の従兄弟の子供たちがそれに当たるが、彼女たちもその大半が既婚者である。
しかも政略結婚といえども、相手は王族。こちらが勝手にどうこうできるような簡単な話ではないことぐらいサイモンも分かっているだろう。合意、という言葉を使ったが、実際、口先だけならいくらでも言えることだ。
「王族と――だ。あの女は認めん」
今更なことに、ディーンは目を細めた。
そして宥めるように小さく笑った。
「彼女はエドワーズ国王の秘中の秘。そして王妃においてもそれは同じ。あなたにとっても彼女は有益となるはずですが?」
サイモンが知らぬはずがない。
約二十五年前。未だ王宮に踏み入ることの叶わなかった侯爵家は、その場所が遠くても虎視眈眈とその隙を狙っていたはずだ。ユーフェミアの母、クリスティアナと王太子エドワーズの噂は一時とはいえ、社交界で騒がれたのだから、この男の耳に入っていないことなどあり得ない。
「見ようによっては捨て置かれた存在だ」
一般論から言えば、そうなるだろう。しかしながら、クリスティアナが一女を産んだこと自体、意外と知られていない事実なのだ。
確かにサイモンが言うように、クリスティアナはその後市井の中でひっそりと息を引き取り、その娘であるユーフェミアも父親の元に引き取られることはなかった。
「ええ。しかし事実は違う」
王太子の遊び相手として王宮に上がったディーンは、当然ながら王妃とも面識を得、そこで権力だけが幸せを得る手段ではないことを、ユーフェミアを見本として見せつけられた。
そんな愛情の示し方もあるのだと教えられ、ならば必要な時が来るまでは国王たちの考え方に従おうと思ったのだ。
「今のおまえはあの女に溺れ切っていると報告が上がっておる。有益か無益かは、おまえが判断することではないわ」
言い捨てるように言われ、深々と息を吐く。
ディーンは床に転がった本を拾い、パタリと閉じると、それでも、と切り出した。
「私は、彼女以外を妻に迎える気はありませんよ」
「ならん!」
叩きつけられた言葉に、かすかに眉をしかめる。
「ですが、彼女もこちらの招待状を受け取りましたよ。アシュレイ殿下の手から、直接ね」
「――なんだと?」
予想外の言葉だったのか。細く開かれた瞼の下、瞳が険しくなった。
「王太子殿下も、アシュレイ殿下も、もちろんジュリア殿下も、すでに彼女と面識を持っています。少なくとも彼らは、私が彼女と夜会に出ることをなんら疑ってはいない」
養父を出し抜く為に、秘密裏に下準備を丹念に仕上げてきた。その一つが、彼女自身の王族との繋がりだ。べレスフォード邸への招待は、ジュリアとの面識だけのはずだったが、アシュレイのおかげで予想外にもブライアンまで引っ張り出すことができた。幸か不幸か、それが彼女の強みになった。
「まさか、陛下に謁見するつもりかっ?」
声を荒げたところを見ると、こちらの意図を悟ったらしい。今更、養父に知られようが、何も手を打つことはできない。
「もちろんです」
きっぱりとディーンは告げた。
「それがどういう意味か分かっておるのか?」
「……私は、彼女以外の女性を妻に迎える気はありませんよ」
たとえ彼女自身がそれを認めようとしなくても、そう簡単に諦められるものではない。
だからこそ、気づいてしまった。サイモンの執着が、侯爵家に何の得も生み出さないことを。
「あなたが望むジュリア殿下との婚姻が不可能な今、果たして正当な王族との婚姻が侯爵家にとって有益になるとは私には思えない。それならば、国王の宝とも言える彼女を迎えた方が余程いい。まして、それを抜きにしても、彼女は伯爵家の血を引くれっきとした貴族。決して侯爵家にとって不利益にはなりはしない」
そう、今は庶民に身をやつしているが、彼女は本来ならば社交界にも正式に胸を張って出られる身だ。彼女の父親が誰であれ、それは変わりはしない。
「本気で言っておるのか。まさか、知らんとは言わさんぞ!」
歳を取ってもなお、力漲る眼差しを向け、サイモンは言葉を強くした。椅子の肘置きを握りしめた指先が白く、震えている。
「……」
その様子を見て、ディーンは目を眇めた。が、一片たりとも動揺を出さなかった。まさか、養父が知るはずはないと、思っていた。
「――何をです?」
慎重に、声を波立たさぬよう尋ねた。
近くのテーブルに手の中の本を置くと、正面から養父と向き合った。
まるで互いの心中を窺うように、視線が交錯する。痛いほどの静寂が、周囲に落ちる。
どれぐらいの時間が経ったか。
鋭い眼差しのまま、その沈黙を破ったのはサイモンだった。
「――あの女が、エドワーズ陛下の娘ではないということだ」
告げられた言葉に、ディーンはゆっくりと……瞳を閉じた。