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黄昏時の溜息  作者: 薄明
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20.貴方がいなくなったら、きっとさみしい 前編

 おそらく、きっと――。


「え……、出かけたの?」

 昼間の出来事から、部屋に籠って悶々としていたユーフェミアだったが、夕食時、身構えて食堂に赴いたものの、いつも給仕してくれるはずのアドルフも、問題の人物も姿が見えないことに気づいて、問うた答えがこれだった。

「ええ。夕刻、本邸より突然の呼び出しがございまして、本日中には戻れないだろうとおっしゃっていました。ディーン様もユーフェミア様と久々にご一緒できる夕食を楽しみにしておられたようでしたし、とても残念がってらっしゃいましたよ」

 アドルフの代わりに、ノーリーンが給仕を務めることになったらしい。ユーフェミアの前に、スープ皿を静かに置きながら、さらりと不整脈を起す言葉も置いていく。

 他愛もない言葉に勝手に心臓が反応してしまう。昼間からぐるぐるとめぐる思いに、胸が(つか)えて食欲も減退しているというのに、どうしてこうも心臓ばかり活発になるのだろうか。

 その原因となった人物にしても、出かけるなら一言声をかけてくれても良かったのに、とつい零したくなる。毎朝、見送りができないことを、これでも少なからず気にしているのだ。

 そんな不満が顔に出ていたのだろか。側に立ったノーリーンが、グラスに水を注ぎながら苦笑した。

「ユーフェミア様のお顔を見てしまったら、名残惜しくていつまでたっても出かけられないともおっしゃっていましたよ?」

「っ……」

 柔らかい口調に反して、告げられた言葉ははっきりと誰かの声と重なった。

 反論できない反撃に言葉をなくしたユーフェミアを見て、ノーリーンは静かに、だが満足げに笑っただけだった。

 その美しい横顔からは、昼間みせた動揺の名残など露ほども見えず、今はもう完全にいつもの彼女に戻っていた。

 小さく息をつくと、部屋の灯りを受け銀色の輝きを放っているスプーンに手を伸ばす。

 おそらく、尋ねたところでノーリーンは何も話さないだろう。二人の間に何があったのか。相手が王族というだけで、興味本位に尋ねるのも躊躇われる。それに、ふと頭に過るのは自らの母のことで、それがなおいっそう口を重くした。

「ですから本日は、何もお気を煩わすことなく食事をなさってくださいね。たまには料理長が腕によりをかけた品々を思う存分味わってください。いくらマナーの勉強中だとは言え、食事を前に緊張した面持ちのユーフェミア様を見て、料理長はいつも寂しそうでしたから」

 料理人は、料理を褒められてこそ腕のふるいがいがあるというもの。ユーフェミアも同じ職人として、料理長の気持ちが理解できないわけではなかった。

「――そうね。確かに、今まで食べた気がしなかったわ」

 今までのアドルフとのやり取りを思い出し、本音をぼそりと漏らすと、ノーリーンと顔を見合わせてクスクスと笑った。

 きっと今頃、アドルフはくしゃみをしているに違いない。今日は食べ終わったら料理長にお礼を言おうと心に決め、香り高く立ちのぼるスープにスプーンをゆっくりと沈めた。



 十分満足のいく夕食を済ませた後、料理長に嘘いつわりのない賛辞を送ると、料理長は夜食にと、生地にたっぷりとドライフルーツを練り込んだシンプルだが十分に重みのあるケーキを出してきてくれた。

 いつも深夜にまで及ぶ特訓は、寝台に潜り込んだユーフェミアの胃を苛ます。正直これはありがたかった。

 茶器の準備を整え、二客分を運ぼうとしたところで、ノーリーンに笑いながら再度この屋敷の主が今夜は帰ってこない旨を告げられた。

 癖とは恐ろしいものである。

 婚約者らしく見せようと、夜のわずかな時間をディーンと過ごすようになって一カ月近くになる。つまりオールドリッジ邸にきてそれだけの時間が経ったのだが、彼が帰宅すると必ず自分の元にやってくるのが無意識のうちに当たり前になっており、知らずうちに起こした自らの行動に愕然とした。

 ほんのわずかなひととき――。

 イヴァンジェリンやリック、オールドリッジ卿夫妻と娘のドリー。少なくとも、彼らとディーンを出迎える時間は、ユーフェミアにとってそれほど厄介なものではなかった。

 あからさまに向けられる想いに戸惑うことや、イヴァンジェリンからの攻撃的な気配にビクつくことはあったが、オールドリッジ卿夫妻を交えての会話もなごやかで、ドリーのピアノも耳に優しくて、少なくともユーフェミアも楽しむ余裕はあった。

 いつもより軽い一人分だけの茶器を持ち、イヴァンジェリンやリックのいる部屋に向かう。それなのに、いつもより足取りが重く感じてしまうのはどうしてだろうか。

 深く息を吐き出し、気分を入れ替えて扉の前で止まる。今日の復習は絶対にダンスにしようと、アシュレイのあの勝ち誇った笑みを思い出しながら心に決めた。

 昼間は散々に言われてしまったが、教師であるアーネストやオールドリッジ卿夫妻からは、手放しとまではいかないまでも、それなりに褒められるぐらいにはなったのだ。ドリーのピアノに合わせても、どうにかついていけるし、と待ちかねていたイヴァンジェリンに向き直り、本日の特訓予定と、昼間に貰った招待状を開いて彼女に見せる。

「その、私も出席するんだけど――」

 言い終わる前に、途端、哄笑が空気を揺らした。

『あなたが夜会!? 今のあなたでは、恥をかきに行くようなものですわ』

「う……、そうだけど」

 多少はダンスも挨拶の仕方も上達したと思ったのだが、予想通りイヴァンジェリンの反応は芳しくない。

 項垂れたユーフェミアの耳に、カチャっとシンバルの音が届く。

『おいおい。もうちょっとオブラートに包む言い方ってぇのは出来ねえのかよ。淑女が聞いてあきれるぜ?』

 いつもながらユーフェミアの味方となってくれたのは、猿のぬいぐるみであるリックだ。ピアノの上に座って、イヴァンジェリンとはかなりの距離があるにも関わらず、二人はいつものように応酬を始めた。

『なんですって!』

『おぉ、こわっ。淑女っていうのはもっと可憐な……そう、ドリーのようなお嬢さんだろう?』

『ふふ、ありがとう。リック』

 ピアノの椅子に座ったドリーが、柔らかい笑みを浮かべる。

 そんな二人のいつものやり取りを、とにかく終わるのを待とうと思っていたユーフェミアだったが、何を思ったのかリックは一つシンバルをならすと、今にも爆発しそうなイヴァンジェリンをそのまま無視し、こちらにまで火の粉を撒き散らしてきた。

『アレだ。ユーフェミアもな。人形ごときに言われてすぐ黙るんじゃねぇぞ。その招待状――見たところ王宮からのだろう? 前にも言ったと思うけど、王宮はこんなのばかりだぞ? 一々言い負かされていたんじゃ身がもねぇからな』

 カチャっとシンバルをもう一度叩くと、フンとイヴァンジェリンに向かって鼻を鳴らす。当然、(つんざ)くような声が人形から(ほとばし)った。

『リック! あなたも淑女に対しての口にきき方がなってなくてよ! 誰がこんなのばかりですって!?』

 鼓膜に痛みさえ覚える金切り声に、片側の耳を押さえると、ユーフェミアはふと手を上げて人形を止めた。

 リックの言うことは確かに一理ある。

 王宮はディーンを狙う貴族令嬢が数多くいると、婚約者の役割を引き受けた時、ジュリアが言っていなかっただろうか。彼の婚約者として公の場で彼の隣に立つならば、確かにイヴァンジェリンと同じ感情を向けてくる女性はたくさんいるということなど容易に想像できる。

 通常なら考えるだけで疲れてしまいそうな現実だったが、招待状も受け取った今、来るべき事態が想定できるならば、アシュレイが言うように準備をしておけば憂いは一つでも減るだろう。

 ユーフェミアとしては貴族令嬢にかまうつもりは全くないが、魑魅魍魎を少しでもかわせるものなら、かわす術を身につけておけばいいだけのことだ。せめてコツぐらいつかみたい。そして、もしかすると目の前におあつらえ向けの人物がいるのかもしれない。

『……何よ?』

 突如割り込んだユーフェミアに、怪訝な気配を向けたイヴァンジェリンは、その不穏な笑みを見て声を潜めた。

「ねぇ、イヴァンジェリン」

 出した声は、思いのほかしっかりしていた。

 我ながら愚かなことをしているのかもしれないけど、これは決して彼のためではない。自分のためだ。

 言い聞かしながら、イヴァンジェリンの座るテーブルの前で、彼女の目線に合わすようユーフェミアは床に膝を付いた。

 彼女たちが今までしてくれた協力は、少なくともユーフェミアの為であったはず。ならば、もう少し欲張っても彼女は文句を言わないだろう。それには絶対的にイヴァンジェリンの協力が必要なのだ。その為にはどうすればいいのか。ユーフェミアは分かっている。言葉一つで事足りるのだから。

 イヴァンジェリンをしっかりと見つめると、ゆっくりと言葉を選ぶ。

「私、今までずっとディーンのことを勘違いしていたわ」

『……勘違い、ですって?』

 目の前の人形から届く震える声音は、怒りの為なのか、それとも今からユーフェミアが告げることを察してなのか。

 一つ頷くと、彼女は息を飲み込んだ。

 リックとドリーもなぜだか、いつものユーフェミアにはない何かを察しているのだろう。固唾をのみ込んでこちらの様子を窺っている。

 内心、本気にしないでよ、と思いつつ、ユーフェミアは視線を手元に落とした。

「ディーンは私を通して、母のことを見ているのだとずっと思っていたの。私は母の代わりだって……。だから、正直言って辛かったのよ、とても」

 いくら求められても、ユーフェミアはクリスティアナではないのだ。自分を見てもらえないのは、悲しいし、苦しい。その思いがどこに起因するのかは、おそらく――認めたくはないけれど、たとえそれを抜きにしても、誰にでも自分を認めてもらいたいという欲はあるはずだ。

 ユーフェミアは身体の前で両手を握りしめると、昼間彼が告げた言葉を何度か反芻し、ゆっくりと視線を彼女の空色の瞳に合わせた。

「でもね、違うって言われて、私――」

『わかったわ。もう十分よ』

 静かな、どこまでも低い声音が次の言葉を遮った。

『つまり、あなたはわたくしの好敵手(ライバル)として名乗りを上げるつもりなのね』

 それは確認ではなく、決定事項というように小さな呟きとなって人形の口から発せられた。

 狙ったのは、確かに彼女から嫉妬心を今以上に引き出すことだったのだが、与えられた肩書きはディーンに好意を寄せていることを前提としたものだ。そうである以上、簡単に頷くこともできず、ただ目を瞬くことしかできなかったが、ユーフェミアの視線は、イヴァンジェリンの小さな身体が震えているのを捉えてしまった。紛れもなくそれは武者震い。

『そう、やっと……ようやくディーン様の素晴らしさが分かったのね。本当に今更だけど、良くってよ。あなたを好敵手と認めて差し上げるわ。でも、そうであるからにはわたくしも容赦しなくてよ?』

 突き付けるような言葉と共に、彼女はなぜだか嬉しそうに笑いだした。

「……」

 呆気ないほど簡単に、思惑どおりになったと思ったが、ふと横から視線を感じ振り返ると、そこにドリーとリックの期待に満ち溢れた眼差しを目の当たりにした。嫌な予感に、逆を振りかえると、なぜだかオールドリッジ卿夫妻もうんうんと頷いている。

 もしかして――みんな、本気にした?

 完全に誤解しきっている死者たちを前に、ユーフェミアは特訓前だというのに、ひどく疲れた気分になり、がっくりと肩から力を抜いた。

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