閑話
カーティスに言われるまでもなく、アシュレイは早々と退却するつもりであった。
バルフォアくんだりまでわざわざ足を運んだのも、招待状を届けるという名目で実はジュリアたちの謀に無理矢理引き込まれたユーフェミアが、実際にどのような状況になっているのか様子を見るつもりだった。ブライアンからも彼女に心情の変化が起こっていないかを見定めるよう言われていたが、あいにく王太子が心配するような変化は見受けられなかった。だが、もう一つの懸念が確実なものとなりつつある。
それによってジュリアの思惑は大いに変わる。
オールドリッジ邸の薄暗い廊下を歩きながら、小さく溜息を落とす。
決して妹が可愛くないわけではない。だが、ジュリアの取っている行動は愚かとしか言いようがない。
カーティスが好きなら、相手に同じ想いを求めず、そのまま結婚してしまえば良かったのだ。所詮、政略結婚なのだ。好きな相手と結ばれることはない。まして王女であるジュリアに、釣り合う相手などそういるわけではない。それなのにむざむざと手放し、わざわざ相手の好きな女性を親切にも婚約者にまで据えてやるなど、正気の沙汰とは思えない愚行だ。
途中、見送りの為に出てきたアドルフを制すと、そのまま玄関へと向かう。
しかしふと思考を中断し、老執事を振りかえると、今しがた自分が来た方向を指さし、ニヤリと笑った。
「しばらくあの部屋には近づくな、とのことだ」
アドルフは、ただ無言で軽く頭を下げただけだった。
チラリと視線を彼の背後に投げたが、心の奥底に覗いた微かな期待は、あいにく叶わなかった。彼女がそこにいるはずがない。
心のどこかで残念に思う気持ちもあったが、彼女とのことはすでに決着が着いた事。
アシュレイは想いを振りきり、気持ちを切り替えると、玄関の扉を今度こそ開いた。
「何故、ここにいる」
陽光の降り注ぐ玄関ポーチに、彼女は静かに佇んでいた。
自分とは違う濃い金色の髪が、日射しを反射して目に眩しかった。だが顔色は、白を通り越して青ざめてみえた。
「――馬車を、呼びに行っておりました」
「そうか。ご苦労だった」
自らが発した硬質な声がそうさせているとは知らず、ノーリーンが思い詰めた眼差しを地面に向けたまま、同じく硬質な声で返事を返してきたことに、驚きよりも胸に突き刺さるような痛みに思わず顔を背けた。
王宮から乗りつけた馬車は、ずっとオールドリッジ邸の玄関先に停めていたわけではない。カーティスが帰ってくるまでかなりの時間があった為、当然、御者も屋敷のどこかで休憩をしていたはずだ。
それを彼女はアシュレイが帰る時間を見計らって、玄関先に馬車までまわして、見送りまでしようとしている。
手際が良いのか、さっさと追い返そうとしているのか。どちらにしても、気にくわない事には違いない。こんなことぐらいで苛々してしまうぐらいなら、いっそのこと早々にこの場から自分が立ち去ればいいだけのことだったが、思いに反して足は地面に縫いついたように動かない。
「……今はあの女の世話係か?」
ようやく絞り出した会話の糸口に、ユーフェミアを使ってしまったのは無意識で、意図的ではなかったはずだった。
「ユーフェミア様のことでございますか?」
馬鹿が付くほど丁寧な確認に、苛立ちながら視線を投げると、瞬きと同時に視線を外された。
どんな時、相手にでも、不興を買わず、ごく自然にそつのない行動が取れる。こういうところが王宮で生きていく上で必要なものなのだ。おそらくカーティスも、ノーリーンのこういうところを買ってあの女の側に置いているのだろう。
その考えが分かるだけに、腹立たしい。
分かってしまうことが、苛立ちを増す。
「ああ、その女だ」
不機嫌も顕わに言い置くと、ようやく濃い金髪を正面から見下ろしたが、視線を地面へと落とした彼女は、どこか縮こまるように立ちすくんでいた。
自分よりも年上で、最初こそ話に聞くユーフェミアの姿を彷彿とさせる年齢と容貌に、当初はノーリーンに当たるべきではない事でも、すべて彼女のせいにしていた時があった。しかしいついかなる時も、彼女は平然とした顔で謝罪の言葉を口にするのだ。
何をやっても堪える様子のない彼女に、降参したのはアシュレイの方だった。
鉄壁を誇る女官は、常に一歩引いた態度で、冷静な言葉でいつもアシュレイを諌めていた。口やかましいわけでもなく、澄んだ瞳でじっと見つめられると、自分のした行いの愚かさを思い知らされ、同時に恥ずかしさというものを覚えさせられる。
だが、いつだっただろう。ちょっとした冗談のつもりで発した言葉が、彼女のその鉄壁を揺るがしたのを見た時、ひどく心がざわついた。
「ノーリーン」
名を呼べば、すかさず返ってきていた答えは今はない。
身を固くする彼女に、小さな溜息をこぼすと、自らの感情を誤魔化すように目先の問題を無造作に言い放つ。
「……近いうちに王宮で夜会がある。あの女を見苦しくないよう仕立てあげろ。カーティスの婚約者として公の場に立つ初舞台だ。何があるかわからないからな。おまえも控えておけ」
もう女官ではない彼女が、王宮に立ち入ることは余程のことがない限り許されることではない。一介の庶民であるユーフェミアが、王宮に立ち入ることが困難であるように、彼女もそれは同じこと。
ノーリーンはハッとしたように顔を上げると、表情を改めた。
言わなくてもこちらの言いたいことが伝わる彼女の優秀さは、未だ失われていない。
いっそのこと庶民でなかったなら――その身体に流れる血に、それこそ誰かのように王族の血でも混ざっていたならと思ったことは一度や二度ではない。もちろん、血を分けていては困るが、一度向いた目はそう簡単に離れない。
だからこそ、ジュリアの愚かさに目が行ってしまう。折角、見合う相手が側にいるというのに――。
だが一方で、ユーフェミアの幸せを願う自分もいて、ノーリーンに重ねていたのか、ノーリーンを重ねていたのか分からなくなり、アシュレイは気づくと密かに笑っていた。
「アシュレイ殿下……?」
怪訝な顔をするノーリーンから顔をそらすと、なんでもないと呟いて、足を引き剥がすように、そのまま馬車に乗り込んだ。
扉に手を掛け、自分が座るのを見届けていたノーリーンをふと呼びとめると、硬い顔をした彼女を見つめた。
「おまえの主は誰だ?」
意地悪な質問をしていると思う。だが、ようやく立ち直りかけている彼女の瞳が揺らぎ、閉ざされた唇が戦慄くように震えたのを見て、瞬時にカーティスの名が出ないことに安堵した。
伸ばした手が、ノーリーンの扉を押さえる腕をつかむと、彼女の上体を馬車に引き込むように抱き寄せた。
「おまえが誰に仕えようとも、私を裏切ることだけはするな」
王族と庶民。所詮、互いの道は重なることはない。ノーリーンも分かっているから王宮から去り、アシュレイもそれを受け入れた。
そう遠くない将来、彼女が誰かを想うようになるかもしれないが、今はまだ、ユーフェミアの幸せを願うように、ノーリーンに同じ思いを向けることは到底できそうにない。
卑怯だと思いつつも、彼女の手首を引き寄せると、枷をはめるようにそっと唇を落とした。