19.捕えた手首に、キスひとつ
……――。
頭がクラクラした。
ひどく顔が熱いのも分かる。
しばらく視線を彷徨わせていたが、何を言うべきなのか、どうすればいいのか、頭は高速で回転しているにも関わらず、答えは何一つ出てこない。
二、三度口を開きかけたが結局は声にならず、手を預けたままそっと様子を窺ってみると、夜色の瞳はとても近くにあった。その視線は優しく、それでいて熱を帯びる光を瞳に宿しており、ユーフェミアと目があった瞬間、蕩けるような笑みを口元に浮かべた。
途端、胸にせり上がった奇妙な感覚に、慌ててユーフェミアは視線をそらした。
絡めとられてしまう。
これ以上踏み込まれては、自分の感情を理解する前に囚われてしまう。
向けられる想いに、応えてしまいたくなる。
「――分かったから、その……手を離してくれない?」
俯いたまま、感情が籠らない声を出そうとしたが失敗した。声がかすかに震え、かすれてしまう。
ユーフェミアは祈るような気持ちで、目を閉じた。
お願いだから心臓が、持ちそうにない。身体中の血流が聞こえそうなほど鼓動は早い。
しかし願いは虚しく、こめかみに再び唇が押し付けられ、息をのんだ。
「嫌だ」
囁くような低い声。
「い、意地悪、だわ」
何とか言い返したものの、出てきた声はどこまでも覇気がなく、振り払えないことを白状しているようなものだった。それさえディーンには見透かされているのか、先程のように腕に囲って逃げ出せないようにはしていない。
どこまでもユーフェミアに、逃げるだけの余地を残してくれている。
それはとてもずるくて、意地悪だ。
それなのに、なお、夜を湛えた瞳が、心の中まで射し込んで来る。
「きみがこれ以上誤解しないよう、私の気持ちを疑わずにすむためなら、喜んできみに罵られよう」
言うや否や、空いた片手が頬を辿るように動く。その指先は唇に触れ、首筋を撫でて、鎖骨のあたりで一度離れると、するりと首の後ろに回り込む。
逃げる機会はいつでもあった。ディーンが何をしようとしているのかも分かっている。でも、身体が動かない。じわりと視界が滲む。
「ユーフェミア……」
想いの全てを込めて呼ばれた名前に、胸の奥が震えた。
――流されるな。
――流されてしまえ。
感情と理性がせめぎ合う。
「……ディーン――」
止めるためなのか、受け入れるためなのか。声はどこまでも弱々しく――。
見上げた先。間近に迫る夜色の瞳の中に、潤む瞳で目の前の男に縋り付くように見つめている自分を見つけて、ユーフェミアは息を飲んだ。同時に、胸の奥で小さな音が鳴った。それは感情と理性の天秤が傾く音。
ありえない。
それだけで現実に立ち返るには十分だった。
ありったけの理性を総動員して、自由な片手を動かすと、唇が触れる一歩手前、自らとディーンの間にできたわずかな隙間に手を滑り込ませた。
「……――だから、なに勝手なことしようとしているのよ」
危なかった、と肩で息を吐く。
間近に迫った瞳を睨みつけたまま身をよじると、後頭部に回った手は思いのほか簡単に外れた。
「――まったくきみは……どこまで焦らしてくれるんだろうね」
自らの口に覆われた手を除けると、ディーンは深く深く息を吐き出し、天を仰いだ。
二人の間に流れていた奇妙な雰囲気は、跡形もなく消え去っていた。ユーフェミアはじりじりと距離を取りながら、一定の距離を取ってソファに座り直すと、それでも居心地が悪くてディーンから視線をそらした。
生憎、焦らしているつもりはないが、無駄な期待をさせてしまった自覚はある。うしろめたくて、だから気づくと言い訳がましく捲し立てていた。
「そうは言うけど、先に変な小技を使ったのはあなたの方でしょう。今までそうやってたくさんの女性を陥落させてきたのかもしれないけど、大体、女性の許可なく触れるのもどうかと思うのよ。……そうよ、いくら婚約者だからって、節度をもってよ。私は本当にあなたの奥さんになるわけじゃないんだから」
問題はここだ。ここに意識の違いにあるのだ。
じっと見つめていると、ディーンはちらりとこちらを見て、ソファにもたれかかった。
「いや、きみが私の妻になることは変わりないし、第一、触れるなと言うのも無理な相談だよ」
「どうしてよ?」
婚約したら皆、こんなにもベタベタとしているわけではないだろう。それに聞いた話では、貴族たちは結婚式までお互い顔も知らないということもあり得ると言うではないか。つまり、必要ではないことだ。
しかしながら、夜色の瞳が苦笑まじりに細められた。
「婚約者がきみだから」
言われた意味は、まったくもって理解できない。婚約者が誰であろうと、必要ないものは必要ないのだ。
「意味不明よ」
眉を顰めたユーフェミアに、ディーンは小さく首を傾げた。
「うん。じゃ、きみが好きだから」
「――いや、だからね……」
勘弁してほしい。意識の差がここまで激しいとは。
ディーンも当然、こちらの言いたいことには気づいているらしく、どこまでも落ち着いた口調で、さらりと心臓に悪いことを言い切った。
「以前も言ったと思うけど、好きな人に触れたいと思うのは自然なことじゃないのかな? きみを抱きしめたいと思うことも、キスをしたいと思うことも、できることなら今すぐにでもきみを抱いて自分のものにしてしまいたいと思う気持ち押さえ切れるものじゃない」
冗談とは思えない口調に、思わずギョッとして、再度じりじりとソファを後ずさる。生憎肘置きに遮られ、それ以上、下がることは出来なかったが。
「い、いや、それは」
「もちろん、きみの同意がなければしないけどね」
残念だけど、と肩をすくめる。
しかしながら、ユーフェミアが言っているのもまさに「同意がなければ」と言う点だ。ディーンも自ら口にしておきながら、気づいたのだろう。すかさずこれだけは譲れないと不敵な笑みを浮かべる。
「しかし、きみに触れることも許されないなら、私は発狂してしまうかもしれないな」
「大げさよ」
スッと延ばされた手が触れる前に叩き落とすと、ディーンはまたしても苦笑した。そしてふと、悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「……私は多くを望んでいるわけじゃない。今すぐきみをどうにかしたいという思いを押さえつけるだけの理性はまだ保てる自信はある。でもね、少しは確証が欲しいんだよ。きみがわたしのことをどう思っているか……ぐらいはね」
ささやかなものだろう? と尋ねられ、言葉に詰まる。
ささやかだろうか。だが、今のユーフェミアにとって一番難しい問題でもあるような気がする。
言葉に詰まって、ちらりと上目づかいに見上げると、期待のこもった眼差しとぶつかった。
「……今すぐ?」
躊躇いつつ尋ねると、もちろん、とその瞳は語っている。
ススッと視線をそらすと、まるでその隙を狙ったように手を捕らえられた。それは掴む、というより、つなぐ感覚に近い。
一瞬、振り払おうかと腕に力を入れたが、なぜだか振り払う気にはなれなかった。
ディーンのことをどう思っているのか。今まではクリスティアナのことがあったため考えないようにしていた。だがそれを抜きにしても、こうしてつないだ手は決して不快ではなく、この程度の触れ合いならばむしろ、心地良い。答えは言葉となっては出てこなかったが、手を振り払わなかった事でディーンがどう解釈したのか。彼はそのまま手を持ち上げると、ユーフェミアの手首に唇を落とした。
「ちょっ……」
先程話していた「同意」という言葉はどこに行ってしまったのか。慌てて引き抜こうとしたが力を込められ、それは叶わず、そして、ディーンは手首の間近で深々と息を吐き出すとポツリと漏らした。
「やっぱり我慢できないな」
その声は低く、ユーフェミアの手を握る力が強くなる。
「はいっ!?」
待て、と心の中で泡を食う。
「私以外の男がきみに触れるのは、我慢ならない」
「え、ちょっと!?」
ユーフェミアは取り返せない手に焦りながらも、それでも背後の肘置きに身を寄せる。
「第一、あの男は図々しい」
多少、苛立ちを含ませながらも、自らに向くディーンの視線が、ユーフェミアを突き抜け、背後に向いていることに気づく。
「はい? ……って誰のこと?」
肩に入っていた力を抜き、眉間に皺を寄せると、ディーンはようやく唇を寄せていたユーフェミアの手を下ろしてくれた。しかし、つないだ手は離さなかったが。
「まったく、ノーリーンもアドルフも、報告が遅すぎる。きみも、むやみやたらと挨拶と言えどもキスをさせてはいけないよ」
さらりとつないだ手の甲を親指で撫でられ、ようやくディーンの言う、あの男、が誰なのかを思い当たる。ダンスの教師であるアーネストだ。
しかしながら、ノーリーンやアドルフから、挨拶としては一般的なことだと習ったのだが。
「えっと、だってあれが普通って……」
「普通かもしれないが、私が嫌なだけだ。まったく『彼』がいなければ私も気づかなかったよ」
言われて思わず背後を振り返ったが、当然ユーフェミアの目には映らない。
「……いるの?」
じっと誰もいない空間を見つめながら、出てきた声は低かった。
「ん? ああ、『彼』なら……」
ディーンが肯定した時点で、ユーフェミアは手を振り払うと、ソファから立ち上がった。その頬は羞恥に赤く染まる。
確かに、ユーフェミアには『彼』は見えない。いることは知っているが、見えないからこそ大丈夫だということもある。だが――今回は別だった。
「『彼』がいるのを知っててっ、何しようとしてたのよ!」
人前で、いちゃつく恋人同士ほど見苦しいものはない。いや、恋人ではないが。
「いなければいいのかい?」
しゃあしゃあと言ってのけるディーンと、他人にあの場面を見られていたと思うと、頬に熱がともる。怒りと羞恥。当然ぶつける相手は目の前の男しかいなくて。
「もう、あなたなんて知らないっ。私の許可なく近づかないで頂戴!」
感情に任せて言うや否や、くるりと背を向けた。
しかしながら、ディーンには一向に堪えた様子もなく、部屋を飛び出した扉の向こうから聞こえたのはクスクス笑いだった。