02.その日は薄く紗を掛けた雨が降っていた 後編
太陽も西に傾き、ほんのりと残照に輝く空はすでに夜に近い。
明日は開店日だというのに、その空模様から雨が降りそうだと予測をつける。
ディーンはイヴァンジェリンを置くと、夕方にもう一度様子を見に来るとだけ言い残し、一度帰ってしまった。開店の準備といっても、別にすることはもうないので来る必要はないのでは、と思ったのだが。
夕闇の中、店内を見渡し、取りあえず戸締りだけはしっかりと確認する。高価なものばかりで、泥棒に入られたりしないだろうかと新たな仕事に対するユーフェミアの不安はそれが全てだ。弁償などするようなことになれば、一生働いても返せないだろう。
そろそろナフムが現れる頃だと思い、ディーンが来るまで夕食の準備でもしていようと、二階に上がる階段へと向かっている時だった。
『ちょっとあなた!』
可愛らしい少女の声が空気を揺らした。最初は空耳かと思い、一階を見渡したがもちろん人のいる気配はない。
首を傾げながら階段に一歩踏み出した時、再びその声は耳に届いた。
『あなたよっ、ユーフェミア』
高く澄んだ声音は可愛らしくあったが、そこに含まれるのは怒気だ。
錯覚ではない――。
振り返り、息と唾を飲み込む。
考えられるのは昼間、ディーンが持ってきたイヴァンジェリンというアンティーク人形だ。他の人形たちからも幽かな気配を感じたが、彼女の存在感は他の比ではない。
薄闇の中、ソファに座る人形たちを前にすると、かなり不気味だった。独特の雰囲気に気圧されそうになる。イヴァンジェリンは特にだが、他の人形たちの出来もかなり精巧なのだ。
しかしユーフェミアはイヴァンジェリンだけに視線を注ぐ。
見た目は人形そのものだ。昼間、抱えた時の感触からもそれは疑いようがなかった。
『な、なにを見てらっしゃるの?』
再び声がして、ユーフェミアは肩から力を抜いた。
「話す時に口が動くかと思ったのよ」
想像してみて欲しい。陶器の口が切れ目もなく動いたらどれほど恐ろしいか。生憎、彼女の口は動いていなかったが。
『……わたくしが怖くないの?』
先ほどまでの怒気がなりを潜め、意外そうな声が届いた。
その質問には腰に手を当てて胸を張った。
「昔から時々不思議なことは体験していたし、今は亡くなった祖父と暮らしているもの。少々のことでは驚かないわ」
二階を指差し答えると、イヴァンジェリンも同意した。
『あの気配は、あなたのおじいさまでしたの』
「血はつながってないけどね」
ナフムは昔、ユーフェミアの母の実家で世話になっていたと聞いている。ただその後、母の実家は没落し、当時、婚約をしていた母のお腹にはすでにユーフェミアがいたと聞いたことがある。婚約は破棄され、途方に暮れる母をナフムは引き取り、お嬢様であった母に庶民の生活を教えていたが、慣れない生活がたたり、結局ユーフェミアが十歳のころ他界してしまった。ナフムはそれからもユーフェミアが一人でも暮らしていけるよう様々なことを教えてくれたが、死んでからも側にいてくれるのは、きっと心配しているからだろう。
一瞬お互いの間に沈んだ空気が漂う。しかしそれを壊したのは、イヴァンジェリンだった。
『それは立ち入ったことを申しましたわ……って、違いましたわ! 話をそらさないでくださる?』
「何かしら」
言われてみれば、イヴァンジェリンがなぜ怒っているのかを聞く為にここに来たのだ。
ユーフェミアはイヴァンジェリンをそっと持ち上げた。
『な、何をなさるの!?』
「あなた、自分では動けないんでしょう? 上から見下ろされるのは嫌でしょうから、ちょっとこっちに来てもらうわ」
有無を言わさず自分の所定場所になる机にイヴァンジェリンを座らすと、ユーフェミアも側にあった椅子に腰かけた。
その間も、彼女は何か喚いていたが取りあえず無視をする。
「さあ、どうぞ」
やっと落ち着いて正面を向くと、イヴァンジェリンの声は一際高くなった。
『もっと丁寧に扱って下さらないっ? わたくし、繊細ですのよっ!」
「はいはい。で?」
所詮、表情のない人形だ。いや、あるにはあるのだが緩やかに口角が上がり、柔らかく笑んでいるのだ。声だけが怒っても、その声は可愛らしい少女のもので、ユーフェミアにとって害はない。見ている分には本当に可愛らしいのだ、彼女は。
それにこうして話し相手をしているのも彼女に興味があるからだ。
極めて冷静に促すと、一瞬彼女の高まった怒りを感じたが、すぐにイヴァンジェリンは声高にまくし立て始めた。
『あなた、ディーン様に馴れ馴れしすぎますわ。もっと離れて話しなさい。それに聞きましてよ。あなたは雇われている身でしょう? もっと立場をわきまえなさい! それに名前も呼び捨てなんて失礼ですわ!』
意外にも彼女のような存在から、まともな言葉が返ってくるとは思わなかった。だからつい感心してしまったのだが、彼女が誤解している幾つかの点を先に訂正させてもらう。
「雇われているのとは少し違うわね。立場云々はともかくとして、助けてもらったことに関しては頭が上がらないわ。それと、呼び捨ての件については彼がそれでいいと言ったのだけど?」
『ディーン様が? ……そ、そう』
肯定の返事が返ってきたが、すぐに、どうして、と小さな呟きが聞こえる。
戸惑いと共に少しだけ彼女の怒りが弱まったような気がして、ユーフェミアはにんまりと笑った。
彼女の台詞の裏を返せば、近づくなということに違いない。あまりにも直接的過ぎるイヴァンジェリンのディーンに対する好意を微笑ましく思うと同時に、ディーンの彼女を見る眼差しを思い出す。
もしかして、相思相愛だろうか。
だがユーフェミアの中に浮かぶ――どちらかというと正常な人間としての嫌悪に近い――感情は、すぐにそれを否定する。
確かにディーンは変わっているかもしれないが、娘を嫁に出す心境だと言っていた。出来ることなら、その言葉を信じたい。
とは言うものの、目の前で沈みがちな人形を見て、ついからかいたくなってしまったのは、彼女があまりにも愛らしかったからだ。
「あなた、彼の事が好きなのね?」
『っ!』
言葉にならない驚きが空気を伝わる。
『な、なんて無礼なの! いきなり人の心に踏み込むなんて! 淑女としてあるまじき言動よ!』
果たして、人、なのかどうなのかはさておき、少なくとも彼女が今までどのような所にいたのかだけは判明した。
彼女ほどの人形ならば、常に上流階級の家に置かれていただろう。紳士淑女の生活を目の当たりにしていたのなら、今の台詞も納得だ。
暗くなった室内に、ユーフェミアは立ち上がる。
『な、なんですの?』
びくつく彼女を見下ろし、くすりと笑ってみせた。
途端、彼女の恐怖が伝わってきて、ユーフェミアは耐え切れなくなって吹き出した。喋る人形に怖がられようとは思わなかった。
「明かりを点けようと思っただけよ」
夕方に来ると言ったディーンは未だ来ない。予定が変わったのかもしれないし、そうでないのなら来た時に室内に明かりが灯っていれば、遠慮なく入って来ることができるだろう。そう思って、入口の扉だけは鍵をかけていないのだ。
ランプに火を灯し、机の側に持ってくると、ふわりと明るくなった室内を見渡してからイヴァンジェリンを見つめる。
まさに陶器のような肌に空色をした瞳。金の髪はゆるく巻かれている。薄紅色のドレスは上質の布地でつくられ、ふんだんにレースが使ってある。顔立ちも美しく、優しい眼差しをしている。女の子なら一目で彼女の事を気に入るだろう。事実、ユーフェミアも子供だったなら、きっと欲しくてたまらない。
しかしディーンは彼女を売りものではないと言った。もしかして彼もイヴァンジェリンと話すことが出来るのだろうか。噂で言われているように、彼が変人と呼ばれるようになった経緯を信じるなら、有り得ないことではなのかもしれない。
そうすると、一体どういうつもりで彼女をここに持ってきたのだろうか。
ユーフェミアの特殊な感覚は、気づいた時にはすでにあったものだ。しかしそれは人より鋭い程度で、頻繁に不思議な出来事に出会うわけでもなかった。だから死んだナフムが当初気づいていないと思ったのも無理はない。
だがこの五年。幽霊となったナフムと暮らすようになってから、見える頻度が上がったような気がする。特に夜は絶対に出歩けない。それは防犯面だけのことを言っているのではない。今でも時々思い出しては、身の毛がよだつような経験をしたことがあるからだ。
『ちょっと、ユーフェミア。ディーン様がいらっしゃったようよ。出迎えなさい』
イヴァンジェリンからディーンのことをもう少し探りたかったのだが、時間切れのようだ。表に馬車の止まった音がした。
それにしても。
なぜ彼女に命令されなければならないのだろう。
釈然としないまま、ランプをもって扉へと向かった。
『な、なななぜ……、――どういうつもりですの!? ディーン様っ!』
ディーンが彼女と話せるのかどうかはすぐに知れた。
劈くような悲鳴が響き渡る。
机の上にはシンバルを持った猿のぬいぐるみ。気配はイヴァンジェリンと同等のもの。
つまり――。
『よう! あんたがユーフェミアか?』
カチャっとシンバルを鳴らし、楽しげな声を上げる。所詮おもちゃのシンバルだから大きな音は鳴らないが。
「彼はリックだ」
馬車から下りたディーンが手に持っていたものに嫌な予感はしていたが、当たって欲しくない予感ほど当たるもので……。
紹介をしてくれるのは有り難かったが、ちらりとイヴァンジェリンを見ると、どうやらかなりの衝撃を受けているらしい。言葉もなく震えているように思えるのは気のせいだろうか。
「ええっと……ディーン。ちょっと、いいかしら?」
机から離れ、彼らに話が聞こえない場所までディーンを引っ張っていく。その僅かな間に、彼らの会話から彼らの仲がどういうものかを察するには十分だった。
『やっと静かに過ごせると思っていましたのに!』
『うるせぇな。こっちだって清々してたんだぜ? やっと小姑がいなくなったと思ってな』
『なんですって!? 誰が小姑なのですっ?』
『ああ、ホントにうるせぇ』
辟易したリックの声音とイヴァンジェリンの怒りに、知らず眉間に皺が寄る。
彼らから十分離れて、素直に後ろをついてきたディーンを振り返り、思わず睨んでしまったのも仕方がないだろう。
イヴァンジェリンではないが、ユーフェミアも先ほど彼女がした問いと同じことを店主に投げかける。
「一体、どういうつもり?」
「何がかな?」
涼しげなその顔からユーフェミアの質問の意味を知っていて、あえて誤魔化しているのは目に見えている。
先ほどのイヴァンジェリンの言葉から、すでに彼にも人形たちの声が聞こえているのは分かっているのだ。しかも勝手にシンバルを鳴らす猿を見て説明もなしとは、考えられることは一つだ。
「あなたにも彼女たちの声が聞こえているんでしょう?」
あえて、あなたにも、の部分を強調してみた。
だが、こちらを見た紺色の瞳は興味深げに見返すだけだった。
「さてね。そう言うきみには聞こえるというのかい?」
質問に質問で返すディーンに、大人げなくもカッとする。
しらを切るつもりなら、ユーフェミアも出来るだけ隠そうと思っていたこの感覚のことを話すつもりはなかった。言いかけてしまったが、そういうつもりならこちらだってしらばっくれてやる。
「……さあ? どうかしら?」
「先ほど、あなたにも――と聞こえたのは私の聞き間違いかな?」
しっかり聞いているあたりに憎さを覚える。
「そうね。きっと聞き間違いで、私が聞いたのもきっと近所の子供の声だったのでしょう」
先程からのらりくらりとかわされ、イライラする。
両腕を組んで睨んでやると、ディーンは肩をすくめて苦笑した。
「機嫌を損ねてしまったかな。それに、きみの感覚が鋭いことはもう知ってるよ。もしかするとイヴァンジェリンやリックの声も聞こえるかもと思っていたんだが……どうやら当たりだったようだね」
知っていて、あえて自ら話させようという魂胆に、ユーフェミアは身体中の血が煮え滾るのが分かった。親しくもない他人に、自分の弱点となるかもしれないことを告白しろと言うのか!
「あなた、一体どういうつもりなのよ」
「どういうつもりもこういうつもりもないな。ただ骨董品店を開いただけだ。それに――きみにも見えないものはあるようだし」
意味深な言葉を口にすると、ユーフェミアの背後に視線を送る。その視線の意味に気づき、ぞわりと冷たい何かが背筋を上っていった。
背後を振り向く勇気はなかった。思わず一歩前に出かけ、目の前に忌々しい男がいたことを思い出し、何とか踏み止まる。
「おや、残念」
何が残念なものかと、勇気を出して一歩下がる。目の前の男より、背後の何かの方がまだましだ。
今更ながら、彼の心証はユーフェミアの中で最低なものになりつつあった。
「――背後の彼も含めてだが、ここにいるものたちは決して悪意はない。きみを傷つけるようなことはしないだろう」
どうやらディーンはユーフェミアを上回る感覚を持っているようだ。
だが悪意がないというのは納得いかない。いや悪意はないかもしれないが、敵意はあるように感じられる。特にあの薄紅色のドレスを着た人形から。
「雨が降ってきたみたいだね。リックも連れてきたことだし、きみの機嫌がこれ以上悪くならないうちに私は退散することにしよう」
耳を澄ますとかすかな雨音が聞こえる。
ディーンはイヴァンジェリンやリックにあまり喧嘩をしないよう注意だけすると、入口に向かった。
ユーフェミアは腕を組んだまま、それをだだ目で追うことしかしなかった。