17.その瞳の苛烈 後編
「合計八回だ」
「そんなに踏んでないわ」
ソファに座り、くつろいだ姿勢で優雅に紅茶を口にする仕草も、やはりと言うか、全く厭味なく無くさまになっているアシュレイを見て、ユーフェミアも自らのたどたどしい所作にすでに諦観を覚えながらもカップを口に運んだ。
足を踏んだ回数など実際に数えていたわけではないが、そこまで踏んだ記憶はない。仮に言われただけ踏んでいたとしても、それはアシュレイが前もって忠告をしてきた為、かなり緊張をしてしまったせいだ。その上、今までの練習よりもかなり早い動きでついていくのがやっとだったのだから。
カップの中の液体があまりにも熱くて、思わずふぅっと息を吹きかける。
乾いた喉に熱い紅茶は全くもって物足りない。いつもならグラスに水を用意してもらうのだが、さすがにノーリーンも王子に水を出す気にはならなかったらしい。
身体が要求する飲みものではなかったことに不満はあったが、彼女の入れる紅茶自体に不満はない。香りよし味よしで、いつも以上に美味しく感じる。これがもう少し熱くなければ良かったのに、と思いつつ横目でちらりとノーリーンの様子を探る。
なんだか、先程から様子がおかしいのだ。いつも冷静で的確に仕事をこなす彼女だが、どことなく表情が硬く、動きもぎこちない。アシュレイと足を踏んだ回数あれこれを言い合っていても、無表情に床を見つめ、息さえ潜めているかのようにつっ立っている。
「もう少し練習した方がいい。あれでは酷過ぎる」
「あなたに言われるまでもないわ」
「自覚があるのは結構だが、結果に結びつかなければ意味がない」
冷静に言われれば言われるほど、わかってるってば、と叫びたくなる。一応、血がつながっているとはいえ、相手は王族だ。しかも自分のことを良く思っていない人物で、以前より多少態度が柔らかくなったような気もするが、気がするだけであって、いつ手のひらを返されるとも分からない。初対面の時の恐怖が完全に抜けたわけではなく、まだ根強くユーフェミアの中に残っていた。
それでも先程一緒に踊ってからというもの、いつの間にかユーフェミアが砕けた口調になっているにもかかわらず、別に咎められるわけでもなく、アシュレイの態度は変わらない。もしかすると人をくったような、突き放したような言い方は、彼の生来のものなのかもしれない。
「それはそうと――」
チラリとアシュレイが視線をノーリーンに投げる。それだけで彼女が気まずげに視線を伏せる。
二人の間に流れる空気の悪さに、ユーフェミアは首を傾げた。
彼女の怯え方は、相手が王族だからという畏怖から来ているものではない。 ノーリーンが王宮から去ったのは、もしかしてアシュレイに何か関わりがあるのか、とふと思う。
あまりにも有り得そうで、逆に口にするのも憚られる。それはあくまでも想像の域を出ないことで、他に理由があるのかもしれない。しかしノーリーンの態度を見ると、少なくとも二人はただの顔見知りという関係には見えなかった。
ユーフェミアの疑問をよそに、アシュレイは盛大な溜息を落とすと、結局は何も話さないままユーフェミアに向き直った。
「ところで、おまえは実際のところ、カーティスのことをどう思っているんだ?」
「っ――はい!?」
ノーリーンの事を考えていた為、不意を突かれ、口に運んでいた紅茶を思わず吹きそうになってしまった。
やぶから棒に、というか、驚くよりも先に顔が熱くなる。動揺するあまり、カップ内の紅茶が揺れて、ユーフェミアは慌てて片手に持っていたソーサーに戻した。
「な、何、急に……」
「まあ、あいつのことだからさっさと行動に移していると思うが、先程おまえは言っただろう? 結婚はするつもりないと」
その言葉に狼狽しながらも、慌てて手に持っていたソーサーをテーブルに置いた。そして待って、と手のひらを向ける。
今その話は駄目だ。ノーリーンがいる。結婚するつもりがないという話を知っているのは、おそらくイヴァンジェリンやリック、そしてディーンぐらいだろう。
しかしノーリーンは慌てるユーフェミアに不思議そうな視線だけを向けると、すぐに納得したように苦笑した。まるでそれは分かっているとでも言いたげで、ユーフェミアをさらにあたふたさせた。
「何だ、この屋敷の者は事情を知らされていないのか。――だが、今更だな」
自らが暴露しておきながら、しゃあしゃあと言い切るアシュレイを軽く睨む。もちろんそれはアシュレイに素知らぬ顔で、平然と受け流された。
「だが、それはおまえが勝手に言っているだけだろう」
「勝手に言っているのはディーンもよ。私は結婚するつもりはないって何度も――」
力いっぱい否定の言葉を口にするが、逆に冷めた眼差しを向けられる。
「どうしてだ?」
「そんなの決まってるわ。身分が違う」
もちろん、それだけではない。理由など、上げればいくらでもある。
アシュレイもカップをテーブルに戻すと、足を組み替え、鼻先で笑った。
「ふん。それはいいわけだろう。身分などおまえが望めばいくらでも手に入れられることぐらい分かっているだろう? 覚悟さえ決まれば手段はあるはずだ。――それとも、他にまだ理由があるのか?」
まるで取るに足らない小さなもののように言われ、ついムキになる。
「あるわよ。あの人が何を考えているのか分からない。口先だけの言葉なんてどうやって信じればいいって言うのよ」
「……なるほど。それもまた、ごまかしだな」
馬鹿にしたように言われ、ムッとした。
こちらの苛立ちなどお見通しのように、アシュレイも嘲笑する。
束の間、視線だけでやり合ったが、アシュレイは瞬きと同時に一つ息を吐き出すと表情を改めた。淡褐色の瞳に強い光を浮かべ、今までの小馬鹿にしたような雰囲気を消し、威圧だけをユーフェミアに向けた。
知らず息が止まりそうになる。手にじわりと汗がにじんでくる。この雰囲気だけは未だに慣れなかったが、そこには初見した時のような蔑みは含まれていなかった。
「私が聞きたいのは、おまえがあいつのことをどう思っているかだ。カーティスは関係ない。おまえの本音だ」
「……」
握りしめた両手を見下ろし、アシュレイの言わんとしていることを理解しようとした。
関係ない、と言われて一瞬、頭の中が空白になったが、正直今まで切り離して考えたことがなかったことに気づいた。いつも前提にディーンの想いがあって、それを全力で否定していたに過ぎない。自分の根底にある感情から目を背け、楽をしようとしていただけだ。確かにアシュレイの言った通り、いいわけだ。認めた途端、ずしりと胃の辺りに重いものが圧し掛かる。
だがさらに、アシュレイは追い打ちをかけた。
「身分とか、あいつがどう思っているかなど考えるな。おまえの本音がどこにあるかそれだけを言え。嘘はつくなよ。おまえの本音一つで、私も取るべき行動を変える必要が出てくる」
まるで脅しのような台詞を吐き、そのままアシュレイは黙りこんだ。否、ユーフェミアを見据えたまま返事を待っている。
アシュレイの取るべき行動というものがどういうものなのか、まったくもって想像がつかない。自分の返事一つで、何かが――ディーンやジュリアたちに影響が及ぶかもしれないということだろうか。
それを考えると、混乱する。
答えてはいけないような気がする。
今ここで、答えなければならないのだろうか。
息苦しさに、喘ぐように声を出す。
「私――……」
アシュレイの言うように、何も考えずに自分の心に正直になるならば、おそらく答えはすぐ目の前にあるのだろう。手を伸ばせばすぐ届く場所にあって、箱にしまって厳重に鍵が掛けてあるのだ。ただ鍵を開けてしまえば、同時に気づきたくなかったことも認めてしまわなければならなくなる。だから開けられない。
組んだ手元に視線を落としたまま、言葉が出なかった。
時間だけが過ぎていく。
だが。
廊下を足早に歩く音がしたと思うと、扉が勢いよく開かれた。
現れた黒髪のその人物を見た途端、ユーフェミアは全身に張りつめていた緊張から解放され、深く息を吐いた。
「アシュレイ! まったくあなたと言う人は連絡もなしに、その上、一人で来るとはどういうつもりなんだ。少しは自覚した方がいいと何度も言ったはずだが」
どうやら客先から急いで戻って来たらしい。
低く抑えた声が怒りを含ませており、珍しいディーンの一面に一瞬、先程までの会話を忘れる。
手袋をようやく外したディーンは、後ろに控えていたアドルフに手渡すと深々と息を吐き、すっとこちらを見た途端、表情を和ませた。
「あぁ、きみにこんなに早く会えるなんて嬉しいよ」
一変したディーンにアシュレイは呆れたように肩をすくめた。ユーフェミアも渋々ソファから立ち上がると、嬉しそうに視線を自分に向けて待ち構えている彼の側に足取りも重く歩いて行った。
「おかえりなさい」
こちらに向けて伸ばされた手に手を重ね、半歩だけ彼に近づく。
「ただいま」
重ねた手とは逆の手でユーフェミアの肩に手を置いたディーンは、身を屈めて頬に唇を落とす。
最初、この挨拶をせがまれた時には驚いたが、親しい間柄ならごく普通の挨拶だし、とそこまで抵抗を感じなかったが、ふと先程のアシュレイとの会話を思い出し、急に恥ずかしくなった。
思わず身を固くすると、肩から手を離しかけていたその手が敏感に異変を感じて再び戻ってきた。
「どうしたんだい?」
間近に瞳を覗きこまれ、慌てて視線をそらす。重ねていた手をやや乱暴に振り払うと背を向けた。
「何でもないわよ」
愛想もなく言い放ったが、ふとこちらを見つめるアシュレイとバチリと視線が合ってしまった。
アシュレイは口の端を微かに持ち上げると、興味深げにただ一度、笑みを漏らした。それが何を意味しているのか。アシュレイが何を思ったのか。ユーフェミアはカッと体温が上る。
が、すぐにアシュレイは視線を外すと、ディーンを呼んだ。
「いちゃつくのは私が帰ってからにしろ。それよりも、いい加減待ちくたびれた。さっさと用件を言わせろ。私も暇ではない」
その台詞に思わず目をむく。
今までの時間は何だったのかという程くつろいでいながら、暇ではないなど、どの口が言うのか。
アシュレイの言い分に釈然としないまま、熱を帯びる頬を軽く片手で押さえて退室した方がいいのだろうかと迷っていると、いつの間にか隣に立っていたディーンが背中を押した。
「きみはいるといいよ。おそらく、あの件だろう」
どうやら用件は分かっているようで、アドルフとノーリーンを下げさせると、ディーンはソファに腰を下ろした。