17.その瞳の苛烈 前編
どうしてあなたがここにいるの――?
それは天気のいい昼下がりの出来事だった。
窓から差し込む冬の白い日射しがほどよく部屋を暖め、ダンスのレッスンを受けるにはかすかに汗ばむほど温かく、一、二、三とリズムを口ずさむ男女の声とスカートの裾が絨毯を擦る音だけが室内に響く。
そんな中、ノーリーンがアドルフに呼ばれて席を外し、そして間をあけず、すぐに血相を変えて戻って来た。
ようやくそれなりの形が身につき、教師であるアーネストと組んで互いに口で拍子を取りながら足を運んでいのだが、彼女は戻ってくるなり、離れてくださいと言わんばかりに間に割って入ってきた。
珍しく動揺を隠しきれていない彼女は、それでも詫びの言葉を口にし、すぐさまアーネストに頭を下げた。
「申し訳ございません。本日はこれまでにしてお引き取りください」
その声は硬い。
ユーフェミアもアーネストも、思わず視線を合わせて、頭を下げるノーリーンを見やった。
いつもは冷静な彼女の瞳が揺れている――ような気がする。長い付き合いではないが、朝から夜まで共に過ごす時間が多い為、彼女の人となりはそれなりに分かってきたつもりだった。
「どうかしたの?」
何かあったのだろうかと問うと、彼女は弱り切った眼差しをいったんは気まずげにそらしたが、それから一度だけアーネストに視線を投げると、ユーフェミアに近づき耳元に唇を寄せた。
囁かれた言葉に、ユーフェミアも目を瞠る。
それが本当なら、レッスンどころの話ではない。
「アーネスト様。申し訳ありません。この続きはまた後日お願いします」
告げた言葉は言外に帰れと言っているに他ならないし、もちろん失礼なことを言っている自覚もあった。が、アーネストは余程の事と理解したのか、気を悪くした様子もみせずに一つ頷くと、二人の間に立つノーリーンをよけ、ユーフェミアの右手を取った。
「分かりました。本日はこれまでと致しましょう。では、また」
そのままユーフェミアの手を持ち上げると、甲に唇を落とす。淑女への挨拶だと聞かされて頭では分かっているにもかかわらず、いつも落ち着かない気分になる。
いくら慣れなくても戸惑いを決して見せてはならない、当然のものとして受け入れてください、とノーリーンに言われていたが、すでにアーネストにはユーフェミアの動揺は見破られている。わずかに身を硬くするといつも唇の端に笑みを浮かべるのだ。それがまた居心地が悪くて、余計にでも手を取り戻すタイミングを外してしまう。
だが、その緊張も今日ばかりは長く続かなかった。
「おい。いつまで待たせる気だ」
突如、扉を開け放って姿を現した人物に驚いたユーフェミアは、おかげで強引に手を取り戻すことができた。
アーネストも驚いたように声のした方を振り向き、ノーリーンはその声に、見るからに身を固まらせた。
「アシュレイ――様」
苦々しい声は果たしてユーフェミアだったのかノーリーンだったのか。
淡い金髪――蜂蜜色の髪をした男は、ゆったりと近づいてきながら、遠慮もなくユーフェミアの側に立つ男に冷え冷えとした眼差しを向けた。
「さっさと席をはずせというのが分からないのか」
三十を少し越したばかりのアーネストよりも、明らかにアシュレイの方が若いはずだが、態度だけは相変わらず高圧的だった。
アーネストはアドルフが連れてきたダンスの教師だが、彼自身は上流階級の出ではない。だからアシュレイの顔を知らなくても当然だし、以前のユーフェミア同様気づかなくてもおかしくはない。
しかしアーネストは、尊大な言い方に怒るわけでもなく平然としたまま丁寧に一礼した。
「失礼しました。では、私はこれで」
どこまでも大人な態度で、さっと身を引くアーネストをノーリーンが慌てて見送りの為に同行する。
となると、当然部屋に残されるのはアシュレイと二人だけで。
静かに扉が閉ざされた途端、息苦しさを覚えた。
先程のアシュレイの取った態度が余計にでも彼の機嫌の悪さを伝えているようで、だからと言って人間として礼儀がなっていないのではないか、という苦言をジュリアのように言えるものでもない。
それに、アーネストの取った大人な態度も、ユーフェミアには理解できないわけではなかった。
見るからに上質の服に身を包み、身のこなしや所作である程度の身分は分かるというものだ。まして人を使う側独特の空気とでもいうのだろうか。こういう人間に一介の庶民が盾突いて特になることなど何一つない。
今もこうして見下ろされているし、その眼差しは以前と変わりなく決して好意的なものではない。
なんて厄介な人が来たのよ、と内心思う。
それに見送りのためとは言え、ノーリーンまでいなくなってしまったことに、早く帰って来て、と胸中で叫んでいると、すぐ側で嘲りを含んだ笑いが落とされた。
「おまえは媚びを売らないのではなかったのか?」
鼻で笑うような言い方に思わずムッとする。
確かに宣言した覚えはあるが、別に媚びなど売った覚えはない。
「何を見て媚びているとおっしゃるのですか?」
一応、笑顔を浮かべては見たものの頬はきっと引き攣っているに違いない。
「あの男に手を取られて嬉しそうだったではないか」
「……挨拶でしょう。それに、ああいう挨拶は慣れていないんです」
「それでカーティスの婚約者が務まるとは思えないな。大体、どうして受けた? 私の忠告を無視するぐらい肝が据わっているなら、あの程度の挨拶ぐらいでうろたえるなどおかしいだろう」
媚びでなければ何なのだ、と冷ややかに見つめられる事自体、ユーフェミアとしては納得がいかない。
だからつい口が滑ってしまった。
「婚約なんて一時的なものです。本当に結婚なんてできないことなど現実を見れば分かるし、お互いの目的が果たせればそこで終わりなんです。それにいくら努力したって急に淑女になれるわけないわ」
どんなに苦労しても、たかが一カ月程度で身につくことなど限られている。常に生活の中で無意識に洗練された動作をしている彼らとは違うのだ。どうしてもぎこちなさは出てしまうし、それでもイヴァンジェリンが言ったように、あの人に少しでも恥ずかしくない自分を見せたいという思いもあった。だから頑張っているのに。
悔しい。でもそれを目の前の人物に言っても、それこそこのような思いなど分からないだろう。
口を閉ざし、唇をかみしめた。
アシュレイアは再び呆れたように溜息を落とした。
「……カーティスも憐れだな。それに面白くない。おまえは以前より卑屈になった」
その言葉に頬に熱が集まる。
「ふん、自覚はあるのか。……だから、そのようなひどい顔をしているのか」
最後の方は呟きに近かったが、それでもユーフェミアの耳にその言葉は飛び込んできた。
思わず顔を上げる。
咄嗟に否定の言葉を口にしようとして、だが、ニヤリと笑ったアシュレイと視線が合った途端、続く言葉が出てこなかった。
「カーティスが戻ってくるまでまだ時間がかかるのだろう。ただ待っているのも暇だ。付き合ってやるから光栄に思え」
一瞬、何を言われたのか分からなかった。
付き合うって、何を?
怪訝な顔をするユーフェミアの前にやってきたアシュレイは、目の前で立ち止まると優雅な動作で綺麗な手をこちらに向けた。
「手を取れ。実際に踊った方が覚えやすいだろう」
言われた意味を理解するよりも先に、一歩近づき強引に手を取られ、引き寄せられる。
無意識のうちにユーフェミアの身体が動いていた。先程までアーネストと踊っていた形と同じに体勢を整える。
背中に回された手が身体を支える。アーネストのように遠慮をしていない分、上体が安定する。
「さて、おまえの努力がいかほどのものか見せてもらおうじゃないか。下手なのは承知の上だ――が、足だけは踏むなよ」
見上げた先にある淡褐色の瞳が意地悪く見下ろす。まるで挑発するかのように。
ユーフェミアがムッとして文句の一つでも言ってやろうかと口を開くよりも先に、アシュレイは口の端に笑みを浮かべると足を踏み出していた。