閑話
ユーフェミアがこの屋敷で暮らすようになってから、ディーンは帰宅時、玄関ホールで出迎えたアドルフと、彼の背後に控えるように立つノーリーンに必ず尋ねるようにしていることがあった。
「彼女は今日一日、どう過ごしていた?」
コートと手袋を外し、横から伸びた手に無造作に渡す。足はすでに彼女のいる部屋へと向かっている。背後をついてくる二人の返事も待たずに、気ばかりが急いた。
好きでやっている商売だが、全てが思い通りに行くわけではない。年若いと侮ってくる者もいれば、端から聞く耳を持たない客先もいる。そんな彼らの相手をすることはいずれの利益を見込めば苦痛ではなかったが、そうかと言って疲れないわけでもなかった。だからユーフェミアが屋敷で暮らすようになった初日、たとえ文句を言う為だったしても、誰かが待っていてくれることがこれほど癒されることになるとは想像もしていなかった。
「午前中はテーブルマナーを。午後からはダンスの練習をしておられました」
慣れた様子でアドルフが答えた。
一つ頷くと、彼は心得たように一礼して自分の仕事に戻っていった。
そのままノーリーンだけを連れ、詳細な報告を受ける。
彼女にはユーフェミアが勉強中も常に側にいるように言い付けておいたのだ。どのような状況なのか、聞きながら思ったよりも苦戦している様子に思わず笑みが漏れていた。
「お笑いになるなど酷いですわね。ユーフェミア様は頑張っていらっしゃるのに」
見咎められ、チラリと背後に視線を送る。
眉根をわずかに顰め、本心から不快な感情を見せていた。口先だけではないノーリーンの言葉に、珍しいと思う。
この屋敷に来てまだ日は浅いが、彼女とは王宮にいた時からの顔見知りである。人間関係も当たり障りなくこなす彼女の仕事ぶりも知っていたし、必要ならば口先だけの言葉をいくらでも言える。そんな世渡り上手な彼女が王宮を去らなければならなくなった理由も当然ながら知っていた。
今までならば仕事は仕事、と割り切っていた彼女が、抑え気味とはいえ感情的になるなど珍しい。それほどユーフェミアのことが気に入ったのか、それとも自らと重ねているのだろうか。
ユーフェミアの味方となる人物が一人でも多いのはいい事だと思う一方、有能な彼女にはこの婚約が偽装ではないかとすでに疑われている。
まったくもって女性の勘は厄介だ。
ユーフェミアとの婚約は、一応同意もあってのことだと理解はしてくれているが、彼女の感情がついて来ていないことなど、その態度を見ていれば誰だって分かる。おかげでこちらの苦労も隠しようがない。
最近では、あしらわれている姿を使用人及びかつての住人たちに見られては、密やかに嘲笑の的となっているのだ。まあ、憐れみの眼差しと共に声援ももれなく付いてくるのだが。
だから、思わず本音が漏れてしまう。
「うん。これが本当に私の為を思って頑張ってくれているのなら嬉しいことなんだけどね」
苦笑と共に呟くと、ノーリーンは異論もせず小さな溜息を落とした。
実際のところ、ユーフェミアの目的はエドワーズ国王に一目会いたいというささやかなものだ。
それだけを支えに頑張っているのだが、実を言うと国王に会うだけならば、このような手間など必要ないのだ。ジュリアやブライアンとの繋がりが出来た今、彼らに王宮に呼んでもらえばそれで事足りることなのだが、それを言わなかったのはその小さな願いさえも彼女との距離を縮める時間を得る為に利用しようと決めたからだ。
本当は、ユーフェミアにマナーや教養など強いる必要などない。現在の彼女の頑張りも無駄とは言わないが、今すぐどうにかしなければならないほどひどいものでもない。
彼女がこの婚約をどう思っているのか。彼女の様子を見る限り、ジュリアの為に受けたとしか思えないぐらいだ。
イヴァンジェリンやリックに聞けば、すべてが終わったら破棄する気が満々だということも知っている。さすがにそれには頭を抱えたくなったが、そう簡単に諦めるつもりもない。
少なくとも、嫌われている素振りを見せているわけではない。どちらかと言うと戸惑っている、と言った方がいい。
そんなちょっとした行動さえ愛しく思える。
だからこそ、彼女が予想外に真剣に取り組む姿に、口を挟むに挟めなくなってしまったのだ。それに、もしかしたら、という期待も大きくなる。先程はノーリーンに冗談のつもりで口にしたが、自分の為に頑張ってくれているのかもしれない――と。
もちろん、頑張る彼女を見て、自分もただ手をこまねいていたわけはない。養父との取引もすでに始まってしまった。後戻りはもうできない。
ユーフェミアが屋敷にやってきた翌日から始まった彼女の教育は、最初こそ順調に見えたものの、ここ数日は行き詰まっているらしい。彼女の顔色が次第に悪くなっていき、本当は今すぐにでも止めさせたいぐらいなのだ。しかもここ数日、目も合わせようともしない。挨拶程度ならば問題ないが、話をしようとすると逃げ腰か、逆に苛立ちを向けられ、アドルフに無理矢理止めさせるよう言うと非難の眼差しを向けてくる。
一体どうすればいいのやら、こうして彼女のいる部屋に向かっているが、早々と追い払われるのは分かっているのだ。
「下がってくれてかまわないよ」
目的の部屋から聞こえてきたピアノの音を耳にして、背後についてくるノーリーンに声をかけた。
誰が弾いているのか。ユーフェミアでないことは確かだ。それはノーリーンにも分かっているだろうに、さすが王宮で女官を務めたほどだ。これしきのことに怯まないとは感心するが、だからと言ってこの屋敷の住人たちと対面させる必要はない。
扉の前で立ち止まり、振り返ると、少しだけあきれた様な顔をされ、彼女は渋々といったようにその場で一礼した。
「ユーフェミア様を少しは労わってあげてくださいね」
その言葉を残し、彼女は背を向けた。
労われというのはつまり、彼女の嫌がること――怒るようなことするなという意味か。その遠回しな釘の刺し方に苦笑が漏れる。おそらく、何をしても怒らしてしまう現状、それは不可能な事。だからと言って、同じ屋敷にいるのに彼女と顔を会わさない事も不可能なことだった。
「わかっているよ」
無意味な返事だと思いつつも、去っていくノーリーンの背に声をかけ、ピアノの音が漏れる扉を開けた。
一瞬だけ訪れる、至福の時間を思いながら。