16.見せたくない過去も暴きたくて仕方がないくらい 後編
オールドリッジ邸でのユーフェミアの一日は、遅めの朝に始まる。
これはイヴァンジェリン他の指導によって就寝の時間が明け方近くになる為である。
一番の気鬱の元であった「ディーンと毎日顔を合わさなければならないこと」は無用の心配で、朝起きた時にはすでに彼は出かけていることがほとんどだった。
婚約者の立場として見送りもしないのはどうなのかと思うが、先日、彼に言われた言葉からすると、立場よりもやらなければならないことに専念すべき、という意味に取れた為、ならば、そうさせてもらおうと周囲の目を気にしないようにしていた。だが一方で、あの時生じたわだかまりはユーフェミアの中で確実にディーンに対する苛立ちとなっていた。
彼の婚約者を演じなければならないのは承知している。それは彼の養父を欺く為だ。だが欺くつもりが真っ向勝負になってしまい密かに案じたつもりだったが、一線を引かれてしまった。彼は容易にユーフェミアの生活に関わってきたのに、逆は駄目だと言う。関わるな、と言われたような気がして胸に湧き上がってきたのは意外にも惨然とした感情だった。
自分の生まれが役に立つと言われ、思い上がっていたのかもしれない。
どこまで本気か分からない好意を寄せられ、無意識に自惚れていたのかもしれない。
惨めで卑屈で、こんな思いを仮ではあるが婚約者に持ってはいけないと思う一方、考えれば考えるほど情けなくなってくる。
だから考えなくてもいいように、やるべきことに集中した。
食事の作法から身分の差による挨拶の違い、立ち振る舞い、会話、ダンスと目まぐるしいほどの分単位で夕刻までの日程を組んでもらい、そのおかげで日中は彼の存在自体を思い出さないほど時間が早く過ぎていく。
夕食も一人で取り、もちろんこの間もマナーをきっちりと教え込まれ、折角美味しい食事も味が分からないほどだ。厳しくお願いしますと言っているだけあって、アドルフも容赦がない。
食事の時間が終わると、本来なら勉強の時間からも解放される予定なのだが、ユーフェミアにとってここからが本番だ。
何度も言うようだが、オールドリッジ邸は噂に高い幽霊屋敷だ。
初日の夜は、はっきり言って睡眠を取るどころではなかった。
イヴァンジェリンやリックも久しぶりに仲間に会えたからだろう。調子にのってはしゃぎ、どこからともなくやってきた老人がオールドリッジ卿だと名乗った時には、さすがにユーフェミアも言葉を失った。
怖い、というわけではなく、あまりにも気さく過ぎて。その上、一家を紹介された時にはどう答えていいやら、戸惑いを隠せなかったほどだ。
確かに、害がないと言えばないのだろう。ユーフェミアの事情を知った彼らは、もともと上流階級であった為か、喜んで手を貸してくれているつもりらしい。いや、むしろ楽しんでいる節も見受けられる。
その日の復習をする為、夜はピアノのある部屋をいつでも使えるようにしてもらっている。もちろん、ユーフェミアがピアノを弾くわけではない。
昼間はいつも控えているノーリーンも、この時間だけは適当な理由で無理矢理席を外してもらっている。本音は彼らを相手にしている時は、死者の見えない彼女に自分がさぞ不気味に映るだろうことを懸念してなのだ。
こうやって一日の復習をみっちり彼らに見てもらう為、昼間の教師からは覚えのいい生徒と思われているらしいが、実際にはイヴァンジェリンの叱責が恐ろしいからに他ならない。
『だから違うでしょうっ! 何度言ったら分かりますのっ!?』
カチャカチャというシンバルの音にかぶせる様に、脳に直接響くようなキンキン声が響き渡る。
一人、ダンスの型を取らされ、シンバルのリズムに合わせて足運びの練習していたユーフェミアはその声にハッとして足を止めた。
『リック! あなたもリズミカルに叩いてくださらなくては、ユーフェミアが困るでしょう!』
『……――』
ダンスの拍子を無理矢理取らされているリックは、ずっと無言を貫いている。これ以上、イヴァンジェリンを激昂させては彼女の怒りが誰に飛び火するか分からないことを知っているのだ。
ユーフェミアもいつ彼女に怒られるかと終始気を張っている為、余計にでも身体が強張ってしまう。おかげで足を出す順番を何度も間違え、それが余計にでもイヴァンジェリンを苛つかせていることは分かっているのだが。
ピアノの前の椅子に腰かけていたオールドリッジ卿の娘であるドリーが、茶色の瞳をこちらにむけて困ったように笑った。
『間違えても、次のステップで足を直すつもりで踏み出してみた方がいいんじゃないかしら?』
今は一人で踊っているのだし、と助け船を出してくれる。
彼女はピアノが好きで、ダンスを練習しているユーフェミアの為に曲を弾いてくれるつもりでいるらしいのだが、今のところまだ曲に合わせて踊れるほどユーフェミアの技術が追いついていないのだ。
踊る為の場所を確保する為に壁に寄せたソファに腰をおろしていたオールドリッジ卿夫妻も、まるで娘を見るような温かい眼差しでドリーの言葉に頷いている。
『そう緊張などする必要はないぞ。貴女の様に身軽な女性に踏まれても、男は痛くも痒くもないのだからな』
『誰だって男性の足を踏んだ経験はありますのよ。ふふ、懐かしいですわね』
そう言って上品に笑ってみせたオールドリッジ卿の奥方であるシンシアは、夫と視線を合わせて思わせぶりな微笑みを浮かべる。この夫婦は本当に仲が良いらしく、時々ドリーのピアノに合わせて踊ったりするのだ。流れるような動きはまさに手本で、自分も本当にシンシアのように踊れるようになるのかその度に不安にもなるのだが。
しかしながら現在は、教師役のイヴァンジェリンから容赦ない言葉が飛んでくる。
『一体、何時間同じステップを踏めば満足ですの!? まだまだ覚えなくてはならないことが山積みですのよ!!』
分かっているが、さすがに生身のユーフェミアは疲れが隠せなかった。
「ごめんなさい。ちょっと休憩させて」
すでに足がむくんで、慣れないダンス用のヒールはつま先に体重がかかって、立っているのも辛い状況だ。出来れば今すぐ靴を脱いで素足になりたいぐらいだが、一度それをイヴァンジェリンに見咎められて怒られてしまったのだ。
淑女がそのような醜態を人前で晒してはならないと。
ソファ近くのテーブルに陣取った人形は、漲る緊張の糸をわずかばかり緩めた。
『――仕方ありませんわね。少しだけですわよ』
渋々といった返事が返ってきて、ようやくリックから疲れたような言葉が漏れた。
『もう、勘弁してくれよぉ』
「ごめんね、リック」
ピアノの上に置かれたリックを持ち上げ、ユーフェミアは素直に謝罪の言葉を口にした。
ユーフェミアとしても上達したい気持ちはあるのだ。何とかしなければならないという焦りばかりが生じて、身体が付いてこないことに苛立ちも感じている。覚えの悪さも自覚している。
だからと言って、何もしないでいると先日ディーンに言われたことが頭の中でぐるぐると回ってしまうのだ。それは何故だかユーフェミアを苛つかせる。だから考えたくないばかりに、寝台に横になったらすぐに眠れるよう、疲れ果てるまでイヴァンジェリンの指導にも逆らわずにいるのだが。
今もこうして立ち止まっていると、すぐに思い出してしまうほどだ。
『おい、どうした?』
リックを手の中に抱えたまま、ぼんやりとしてしまっていたらしい。
カチャっと鳴ったシンバルに意識が戻される。
ドリーはピアノの前の椅子に座り直すと、ユーフェミアを隣に座るよう促し、そして聞き覚えのある気分が明るくなるような曲を奏ではじめた。
それはダンス用の曲ではなかったが、こちらを見たドリーと視線が合い、彼女が自分の為に弾いてくれていることに気づいてしまった。演奏の邪魔にならないよう小さく礼を口にする。
最初こそ、この屋敷を幽霊屋敷と怖がっていたが、蓋を開けてみれば何と言うことはなかった。
オールドリッジ卿一家は皆親切だし、この屋敷で一番恐ろしいのがイヴァンジェリンだと知った時には何故だか気が抜けてしまった。
あの噂は何だったのだろうと思うほど、彼らは楽しいことが好きなのだ。陽気な幽霊というのもおかしな話だが、昔はまだいた彼らの仲間も、ディーンが住むようになってから一人二人といつの間にか、想いが昇華されたのか消えていったという。
現在残っているのはオールドリッジ卿一家と数えるほどの使用人だという話だ。
『また何かつまらないことで悩んでいるんじゃないだろうな?』
軽快な音楽を奏でる側で、ぼそりとリックが尋ねてくる。
違うと言いかけて、口を閉ざした。
現在、イヴァンジェリンはオールドリッジ卿夫妻との会話を楽しんでいる。あんなに和やかな雰囲気を出しているのに、なぜ自分と話す時は挑発的なのか。ユーフェミアとしては釈然としない。
じっと視線を彼女に送っていると、リックは溜息をついた。
『あいつのことか? それともディーンのやつか?』
小声で言うリックは、おそらく自分を気づかってくれてのことだろう。だが、ディーンの名前に知らず手に力が入る。
「関係ないわ」
冷たく否定しておきながら、反対に心の中がざわめく。熱をもつ。
短く軽快な曲が終わると、扱いづらい感情を置きざるようにリックをピアノの上に戻して、自らイヴァンジェリンに向き直った。
「再開しましょう」
痛む足を引きずるように、ユーフェミアは部屋の中央へと歩いて行った。
この感情がどこから来ているのか本当は気づいていながらも、囚われることに恐れ、気づきたくないと思っていることさえ認めたくないまま、その日も夜は更けていった。




