閑話
バルフォアには子供から大人まで知っている怪奇譚がある。
それは現在街一番の金持ちが住むというディーン・ラムレイの屋敷にまつわる話である。
イヴァンジェリンが提案したユーフェミアの今後の課題は、その噂の屋敷オールドリッジ邸で居候をしながら特訓を受けることとなったのだが、実はユーフェミアには一つだけ気がかりがあった。
「ねえ、本当に幽霊が出るの?」
先程までディーンが座っていたソファに腰を下ろし、膝の上にリックを置くと、ためらいつつ彼らに尋ねた。
ディーンはナフムをどうやって言いくるめたのか、晴れ晴れとした顔をして迎えの馬車に乗り込む直前、屋敷の準備が終わり次第すぐにでも迎えたいから、いつでも来られるように準備をしていてくれと言ってきた。
なんだかその言い方は、まるで花嫁を迎え入れる言葉のように聞こえなくもなかったが、人通りの少ないこんな時間に、隣近所の誰かが聞いているかもしれないと思うと、無駄に長く反論してはそれこそ人目を引くことになりかねないと、すぐさま了承の意を伝え、とにかくディーンを馬車に押し込むことを優先した。
結局のところ、オールドリッジ邸に居候することが決まってしまった今では、その件はすでに諦めの心境だが、この瞳を持つ限り気になるのはやはり幽霊が出るか否かだ。
『今更、何をおっしゃっているの?』
『俺らのこと何だと思ってるんだ?』
口々に言われ、その中に否定の言葉が一つも含まれていないことに気づき、がくりと頭を垂れた。
本当は分かっていたのだが。
ふと頭の片隅に、身の毛がよだつような過去が甦る。
完全に思い出す前に頭を横に振って記憶を隅に押しやると、調子よくシンバルを鳴らすぬいぐるみを見下ろした。
オールドリッジ邸の怪は、実はその背景に一つの事件が元となっていることも広く知られているのだ。
今から五十年ほど前。
街一番の金持ちとして名を馳せていたオールドリッジ卿は、その人望の厚さからも街の住民に広く慕われていた。
元来バルフォアは自治都市である。街は市制で動き、市議の一人でもあった彼は、顔も広く、オールドリッジ邸はいつも人の出入りが激しかった。
ある夜。
オールドリッジ邸から断末魔のごとき悲鳴が響き渡った。
それは一つではない。時を置き、二つ、三つと――また、ガラスの割れる音や何かを言い合う声、荒々しい物音が近隣の家では聞かれていた。
通報により慌ただしく夜警が駆けつけると、時すでに遅く、磨き上げられた床には一面に広がった血だまりと、壁や天井に飛び散った夥しい血のあとが乾く間もないほど生々しく、蝋燭の灯りを受け、壁を伝っていたという。
一家もろとも使用人一同。息をしている者はいなかった。
虚ろな瞳は何も映さず、犯人について語るものは誰一人としておらず。
後の調べで、金目のものを盗まれていたことから夜盗に入られたに違いないということで事件は幕を閉じた。
『ま、確かにいるな。ごちゃごちゃと』
だからどうしたとでも言いたげな声に、我に返る。
思わず眉間に皺が寄ってしまったのは言うまでもない。
「ごちゃごちゃって、何よ!? まさかオールドリッジ卿までいるとか言わないでよっ?」
リックを見下ろして、半ば冗談半分に言い放つ。オールドリッジ卿は五十年前に存在した人物とは言え、バルフォアでは口伝上の人物になりつつある。どれほど立派な人物であったか知らないが、そうは言っても手に力が入るのはやはり想像すると怖いからで。
噂では、オールドリッジ邸に入った夜盗は、かなりの悪行を働いたとのこと。
残されていた死体は、数を数えると人数分なのだが、どれがどの人物の部分であるのか判別が難しかったという。
それでもオールドリッジ卿は、頭と胴体が別れているだけで見つかったらしいのだが。
『当然いらっしゃるわよ。とても気のいい方ですわ』
イヴァンジェリンはうふふと笑い、しかし何を思ったのか、スッと身体全体に冷ややかな空気を纏わせると、まさか、と確認してきた。
『たかがあの屋敷の住人程度で、逃げ出すつもりではありませんわよね?』
逃げることなど許さないとでも言うような強い言葉に、ユーフェミアは言葉に詰まる。
『楽しい連中だぜ?』
リックが助け船を出してくれたが、幽霊が楽しいとはどうしても思えない。
「――あり得ない!」
そんなところで生活をしているディーンは、やはり変人だ。
彼があの屋敷に住むようになって、パーティでも開いているかのような賑わいもあったとか、なかったとか……。そう言えば、イヴァンジェリンは言っていなかったか。夜から朝までみっちり鍛えてあげる、と。つまりそれだと彼らの生活時間と当然重なるということではないか。
ひやりとしたものが背筋を駆け上る。
イヴァンジェリンはユーフェミアの言葉に憤慨した様子を見せた。
『あり得ないって、あなたね。わたくしたちの存在自体まで否定しないでくださらない?』
その言葉に、リックまでがシンバルを鳴らして同意した。
『見えるからには、仕方ないだろう? 諦めて、あいつのように仲良くやっていけばいいんだよ』
つまり、ディーンは仲良くやっているのか。
なんだか眩暈がしてくる。
ただでさえ、考えなければならないことが多いというのに、どうしてこう次から次へと問題が出てくるのか。
ユーフェミアは疲れた様に、ソファに突っ伏すと尽きることのない溜息を長々と吐き出したのだった。




