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黄昏時の溜息  作者: 薄明
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15.髪を撫でるその手を、愛しいと思ってしまった 後編

「だからってどうしてあなたがここで夕食を食べているのよ?」

 いつぞやの食卓同様、テーブルの向かい合わせに座る男にユーフェミアはすげなく尋ねた。

 本日の夕食もほとんどがディーンのお手製だ。しかも何故だかお酒持参なところに計画的なものを感じる。ユーフェミアも勧められるまま飲んでいるが、どうしてもこの成り行きに納得がいかなかった。

「婚約者と少しでも長く一緒に過ごしたいからじゃないか」

 さも当然という口ぶりで言ってのけるディーンは至極満足げだ。

『誰も認めとらんぞ!!』

 すかさず飛んだナフムの否定の声にも彼はどこ吹く風と言ったように人のいい笑みを浮かべ、その自信は一体どこから来ているのだろうと首を傾げたくなる台詞を吐き出す。

「彼女を幸せに出来るのは私だけですよ?」

『ユーフェミアが幸せかどうかを決めるのは、おまえさんじゃないわいっ。ユーフェミア自身じゃ!』

 いくらナフムが声高に正論をかざしても、ディーンには一向に堪えないらしく、軽くかわしている。

 当然と言うように大きく頷き、嘘くさい誠意をひけらかす。

「もちろん、私は彼女に対して努力を惜しむつもりはありませんよ」

『それはつまり、ユーフェミアが認めたわけじゃなく、おまえさんが勝手に言っているだけなのじゃな?』

 疑念たっぷりの応酬にも、ディーンは余裕で肩を竦めただけだ。

「いいえ? そんなことはありませんよ」

 そんな言い合いを先程から延々と続けているのだ。ユーフェミアの目の前で。当の本人を無視したまま。

 最初こそ、二人の言い合いに気を揉んでいたが、互いになんやかんやと言いながら、どこか会話を楽しんでいるように見えなくもない。二人とも頭と口の回転が早い分、その掛け合いも歯切れがいい。

次第に口を挟むのも馬鹿らしくなって、ユーフェミアは黙々と食事を済ますことにした。

 ナフムにはディーンとの婚約のことは人助けだと説明したのだが、詳しいことは話していない。ただ、全てが済んだら、いつもの生活に戻るつもりだと話してある。

 大人げなくも本気になって突っかかっているナフムにやれやれと思いつつ、食器を片づけにかかる。

 昨夜、イヴァンジェリンに二つのことを言われたのだ。

 一つは、ユーフェミアの心境をどのように解したのか、ナフムが出自を黙っていたことを決して責めない事。そして、正直に自分の生まれを知ったことを告げること。まだ、そのことは言えてもいないが、おそらく何かを感づいている。夕刻、ナフムが現れた時、どこか悲しげな顔をしていたが、ディーンの姿をみるとすぐに血相を変えて、いつもの祖父に戻ってしまったので確認できていないが。

 もう一つはディーンに直接話すから、彼が来たら引き止めろと言われたのだ。引き止めるまでもなく居座ったが。

 一体、彼女は何を企んでいるのやら。

 ぼんやりしながら冷たい流水で皿についた汚れを落としていた為、水の音でディーンが側に来たことに気づかなかった。

「手伝おう」

 横から伸びてきた手が、ユーフェミアの洗っていた皿を奪う。

 どうやら考えに耽り過ぎていたらしい。

 シャツの袖を捲り上げ、そこから伸びた意外と逞しい腕に心の奥が再びざわめく様な気がして、振り切るようにユーフェミアは視線を上げた。

「ここはいいわ。イヴァンジェリンがあなたに話があるそうよ。先に聞いてきたら?」

 台所は今まで一人で使っていた為、二人でいると意外と狭いことに気づく。その上、ディーンとの距離は思ったより近い。

 追い払う意図を持って告げた言葉は、どうやら彼にもお見通しのようだった。

「別に片付けてからでも構わないだろう。私は少しでもきみと一緒にいたいのに」

 どことなく拗ねたような口調に、消えたはずの胸の奥の熱がかすかにぶり返すような気がした。

 ――これは錯覚だ。

 言い聞かせながら視線をそらすと、素っ気なく告げる。

「はいはい。だったら、あなたは洗いものをお願いね」

 濡れた手を前掛けで拭いて、くるりと彼に背を向けた。

 背後で、小さな溜息が聞こえたような気がした。



 ユーフェミアは突っ立ったまま、二の句が告げなかった。

 絶句、とはこういうことを言うのだろう。息さえ飲み込み、瞬きも出来ずにただイヴァンジェリンを見つめることしか出来なかった。

 一方、ディーンはソファに座って長い脚を優雅に組み、肘掛に片肘を乗せた姿勢で、彼女の言葉を思案する素振りを見せながらも口の端を持ち上げた。

 近くでカチャカチャというシンバルの音がするが、今はそれどころではない。

「何言ってるのよっ。どうして私がディーンの家で暮らさなければならないのよ!」

 つまり、イヴァンジェリン曰く、貴族の令嬢に対抗するためにはまず見た目から見下されないようにしなければならないらしい。

 もちろん、服装、所作、その他話し方やマナー、当然会話をすればある程度の知識も求められるという。

 ついでに現在着ているくたびれた服についても、物言いたげに溜息を吐かれた。

 家に戻ってきて以来、ユーフェミアは以前から着ていた服に戻していた。汚れても気にならないし、むしろディーンに贈られたドレスは庶民が着るには実用的ではない。

 しかし。

『あのね、ユーフェミア。あなたもお父様に会いたいのなら、それなりの礼儀(マナー)を身につけるべきではなくって? もちろん、あなたの為でもあるのよ。社交界で恥をかいて合わせる顔がなくなるのは嫌でしょう?』

 至極まっとうな言葉に聞こえたが、裏を返せば彼女の意図は明白だ。

 ユーフェミアがディーンの家で世話になると言うことは、彼女たちの本来の目的であるユーフェミアの監視も移動するということだ。ディーンの側にいたい彼女は、それを口実に彼の元に戻るつもりなのだ。

「だからってディーンの家に行かなくても、ここで出来ることだってあるでしょう」

 自分の感情が不安定な今、できることならディーンと距離を置きたった。もっと冷静に、婚約者という立場を演じられるように。でなければどんな失敗を仕出かすか、その方が恐ろしい。

 王宮に行っても、出来るだけ目立たないようにしていれば、それでも何とかなるのではないだろうか。

 イヴァンジェリンはそれを一笑に付した。

『まさか、あなた。マナーが一朝一夕で身につくとでも思ってらっしゃるのではなくて?』

 馬鹿にしたように鼻で笑われ、そのまさかですとも言えずに、口を噤む。

『大体、手を荒らす水仕事など厳禁ですわ。当然、指にタコを作っている貴族令嬢なんてもってのほか。職人としての仕事もしばらくは控えなさい』

「ちょっと、待ってよ! それじゃ、どうやって生活しろって言うのよ」

 それは聞き捨てならなかった。

 収入が無くなってしまっては食べていくことも出来ないではないか。

『ですから、ディーン様のお屋敷に行くのでしょう? すべて使用人がやってくれますわ。あなたは朝から夜まで……いえ、夜から朝までみっちりわたくしが鍛えて差し上げますわ』

 ふふっと笑ったその笑みに、なぜだか背筋が凍る気がした。

 だが、これは決定事項ではない。イヴァンジェリンが勝手に言っているだけであって、おしかける先の家主の許可がなければ話にならない。それに雇用主でもあるディーンから仕事があればやらなければならないのだ。仕事をしないなんて契約違反だろう。

「ディーンも迷惑でしょう? だから反対――」

「いや、妙案だな」

 すかさず返された言葉に、ユーフェミアは思わず目を見開いてソファに座る男を凝視した。

「早くもきみと同じ屋敷で生活できるなんて夢のようだね」

「は?」

 思わず、何かの聞き間違いかと聞き返す。だが、向けられた眼差しは逸らされることなく、ユーフェミアと視線が合うと今まで見たこともないような甘さを含んだ。

 内心たじろぎながらも、彼は恥ずかしげもなく更に言葉を紡ぐ。

「もちろん、必要なものはこちらで手配するから心配はいらない」

「――あの?」

 何か勘違いしているような発言に、眉間に皺が寄る。

 ずっとお世話になるつもりはないのだ。ほんの一時的な話なのだから、余計なお金は使わないでくれないだろうか。

 妙な誤解を正そうと口を開こうとしたが、ディーンの方が一歩早かった。

「そうか。ナフム殿に話をしておかないといけないな」

「……ちょっと?」

 ソファから立ち上がったディーンは、ユーフェミアの問いかけを無視して早速二階へと向かっている。

 その行動の早さに、一瞬思考が追いつかない。

 一体ナフムに何を話すと言うのか。いや、それよりもユーフェミアは承諾した覚えはないのだ。

「待ってよ。勝手にそんなこと決められても困るのよ!」

 階段下でどうにか追いつくと、なんとか彼を引き止めた。

 勝手に人の生活を乱さないで欲しい。やっとべレスフォード邸から帰ってきたばかりだと言うのに、これでは落ち着く間がないではないか。

 不満を込めて見つめると、振り返ったディーンはいつも通りの余裕ある笑みを浮かべ、逆に問いかけてきた。

「なぜ?」

「え、なぜって……」

 問われ、その理由が思い浮かばないことに気づく。

 それこそ、疲れているとかでは理由にならない気がするし、一度協力すると言った以上、イヴァンジェリンの言っていることも理解できないわけではないのだ。せめてマナーぐらいは身につけておくべきなのかもしれないと、べレスフォード邸で食事をする度にいたたまれない思いをしたユーフェミアは、思い知ったばかりだった。

 言葉に詰まって視線を下げると、突然、目の前に垂れていた前髪を指ですくうようにして、耳にかけられた。

 ハッとする程近くにディーンがいて、思わず一歩下がる。

「……その警戒心も婚約者に対してどうかと思うけど……」

 不満そうな声に、キッと視線を上げる。

 傍から見れば確かに婚約者らしからぬ行動だろう。でも、仕方がないではないか。先日の温室での出来事がどうしても頭に過ってしまうのだから。警戒せずにいられない。

 それに勝手にディーンが婚約者だと言っているだけなのだ。おそらく公にも近いうちに婚約者という立場になるのだろうが、もとから破棄する予定なのだからディーンに対して心を許すつもりはない。

 だけど。

 再び伸ばされた手に、思わず竦んで肩に力が入った。その一方で心臓が勝手に跳ね上がる。

 しかし彼はユーフェミアの耳の――触れるか触れないかという体温だけを伝える距離でピタリと手を止めた。

「以前、きみの心を私に向けてみせると言ったが、その言葉でここまで怯えられるのはさすがに本意じゃないんだ」

「怯えてなんて――」

 いないと続けようとして、今も硬直したように肩に力が入っている事実に気づく。

 ディーンに想いを告げられる前と変わりなく接しているつもりだったが、無意識のうちに避けていたのだろうか。いや、精神的に落ち着きたかったから逃げていたことは認めるが。

「少なくとも私は傷つくし、きみに嫌われたとは思いたくない」

 だから必要以上に逃げないで欲しいし、一応婚約者という立場である以上信用して欲しいと静かな声音で告げられる。

 その声はいつもの戯言を言う時の響きはなく、確かにどこか気落ちしたように聞こえた。

 ユーフェミアは小さく息を吐き出すと共に、ゆっくりと肩に入っていた力を抜いた。

 信用、というのはともかくとして、本当にディーンが自分のことを想ってくれているのなら、自分の取った「避ける」という行動は確かに彼を傷つけるものだ。もしも自分が想いを告げた相手に避けるような行動を取られたら、同じく嫌われたと思うかもしれない。きっと酷く打ちのめされるだろう。

「……ごめんなさい」

 自分のことしか考えていなかった事に気づき、知らず謝罪の言葉が口をついて出ていた。自ずと視線も下がり、罪悪感まで込み上げてくる。

 確かにこのままではいけないのかもしれない。婚約者という役目を引き受けたからには、ディーンに対する意識を入れ変えなければならないのだろう。それは容易なことではないかもしれないが。

 反省を込めてまんじりと考えていた為、耳の横にあったはずの手が、いつの間にか移動したことに気づかなかった。ポンっと頭の上に置かれ、驚いてディーンを見上げる。

 どこか寂しげな表情を浮かべたディーンと目が合うと、彼はまるで子供をあやす様に頭を撫でる。先程耳に掛けたはずの前髪も再び眼前にぶら下がる。

「な、に?」

 あまりにもらしからぬ態度に、目を瞬く。

 しかし。

「きみが素直だと少し寂しいな」

 相変わらずなその返事に、どういう意味よ、と問おうとして、ふと髪をかき乱すその手が、ユーフェミアが落ち込んだ時によくナフムが取る行動である事に気づく。

 今彼の手は、ただ、その温もりだけをユーフェミアに伝えていた。いくら望んでも、今では決して感じることのできない温もり――。

 そのことにじわりと心の奥が疼く。

 ――つまり、彼は自らの感情を押しつけ、強要するつもりはないと言いたいのだろうか。……好きにさせてみせると言ったのに。

 黙り込んでその判断に悩んでいると、やはり意外なほど呆気なく彼の手は離れていった。

 不覚にもそれを寂しく思ってしまった。同時に、たったこれだけのことで無償に与えられる愛情に飢えていたのかと、自覚してしまった。

 だから背を向けて二階に向かうディーンをそれ以上引き止めることはできなくて。もの欲しげに見つめている自分に気づかなかった。

 だが後々になって考えると、やはりこの時完全に言いくるめられていたのだが、あとの祭りで。一人で勝手に話を進める男を前に当然なす術もなく――誰一人として味方となってくれなかったユーフェミアは数日後、ディーンの住む屋敷オールドリッジ邸での生活を開始することを余儀なくされてしまった。

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