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黄昏時の溜息  作者: 薄明
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15.髪を撫でるその手を、愛しいと思ってしまった 前編

 なんだか、違和感――。


 五日ぶりに帰ってきた自宅は、ユーフェミアをあっという間に非日常から日常の世界へと戻してくれた。

 夕暮れ時に現れた祖父のナフムもあまりにもいつも通りで、何故だか拍子抜けするほどだった。

「おじいちゃん……」

 赤い日差しが斜めに差し込む居間に、ひっそりと佇むその姿に思わず涙ぐむ。

 胸に湧き上がってくるのは確かに安堵感もあった。しかし、それとは明らかに違う感情も同時に湧き上がる。もっとどろどろとした、どちらかというと後ろめたいもので、唇を噛み締めないと思わずナフムを責めてしまいそうになる。

 年月と共に色濃くなった床の板目に視線を落とし、自らの影だけが長く横引いているのを見つめる。

 自分の生まれを知ってからずっと、考えずにはいられないことがあった。

 ――もしもディーンと出会う前に知っていたら、彼らを近づけることはなかったかもしれない。

 平穏な生活を望むのであれば、ディーンたちとの関わりはひどく心を乱されるものだ。

 だが、実際に彼らと関わってしまった今、もしも、はあり得ない現実だ。今更だと思いつつも、だからと言ってこのどうしようもない不安を消せるわけではない。

 しかしいくら不安だからと言っても、ナフムを責めることなど出来るわけがない。彼は死者だ。本来ならすでにこの場にいる者ではない。自分を心配してこの世に留まってくれているというのに、何故責めたてることなど出来よう。

 むしろナフムが生きている時に、自らの生まれを知ろうとしなかったのはユーフェミア自身だ。現実から目を背けて逃げていただけなのに、それでも教えてくれていたらと思ってしまうのは、やはりナフムに対する甘えがあるからだ。

 唇を噛み締めて床を見つめていると、透けた身体がふわりとユーフェミアの正面に回ってきた。

 小柄なナフムはユーフェミアよりも背が低い。少しだけ手を伸ばすようにしてその手は蜂蜜色の髪に触れる。視界の隅では、いつものようにナフムの手がふわふわと揺れていた。

『どうしたんじゃ? 楽しくなかったのか? 何か嫌なことでもされたんじゃなかろうの?』

 いつもと全く変わらないナフムに、内側に湧き出た負の感情を吐き出すように吐息した。

 そして疲れたように笑った。

「大丈夫。ちょっと疲れただけ……」

 ナフムは心配性だ。だからこうして自分の側にいて、いつまでも神の御許に行くこともできないのに。

 これ以上、心配をかけるわけにはいかない。こうして側にいてくれるだけで十分なのに。

『そうか?』

 尚も心配そうに見つめてくるナフムに笑顔を向けたが、幾分ぎこちなかったのかもしれない。誤魔化すようにソファに座ったが、あきらかに眉間に皺を寄せたナフムは何を思ったのか、ユーフェミアの少し上――背後に視線を向けた。その視線は鋭く、もの言いたげだったがすぐに首を横に振った。

『疲れたのじゃったら今日はもう休んだ方がいいぞ? わしの晩飯はいらんからな?』

 そう言って、再び頭を撫でてくれた。

 その手つきはどこまでも優しく、ユーフェミアを甘やかす。

 だから今まで気づくことはできなかったのだ。この皺だらけの手に、いつまでも縋りついて甘えていることは出来ないのだと――。



 深夜。

 疲れていたはずなのに目は冴える一方で、眠りは一向に訪れる気配もなくユーフェミアはランプを片手に一階へと向かった。

 いつの間にか習慣になってしまっているなんて。

 自らの行動に苦笑がこぼれる。

 彼らも変わることなく、悪態をつきながらもユーフェミアを迎えてくれ、なぜだかナフムと対峙した時とは違い、むしろ彼らの方にほっとしてしまった。

 だから思わずリックを力任せに抱きしめてしまい、あとで散々彼にシンバルが壊れるじゃないかと文句を言われたが。

 いつものようにソファに腰を下ろし、膝の上にリックを置いてイヴァンジェリンに問い質されるまま、べレスフォード邸での出来事を話していたのだが――。

『なんですって!? 婚約者っ!? ディーン様のっ!?』

 一言発する毎に震えながら高くなっていくイヴァンジェリンの声に、ユーフェミアはたまらずリックから手を離し、耳を押さえた。

 ある程度は想像していたが、久々のけたたましさに思わず目も閉じる。

『おいおいおいおい……一体、何の冗談なんだ?』

 流石のリックも呆れ半分、興味半分といったところだろうか。ユーフェミアの膝の上で横向きに転がりながらも、訝しむ声と同時にカチャっとシンバルを打ち鳴らす。

 視界の端で、おろした髪がランプの明かりを受け、鈍く輝く。

 一方、人形の瞳がユーフェミアの発言に険呑な輝きを点したような気がした。

『どういうことですのっ!? 説明なさいっ!!』

 ジュリアによく似た人形は、穏やかに微笑みながら声高に命じた。



 すべて話し終わる頃には、冬の深夜だからなのか、はたまた目の前の人形が発する何かなのか、さすがに寒さが身に凍み始めた。

 両腕をさすり、それでもぶるりと一つ身震いするとショールをぎゅっと身体に巻き付ける。足元はすでに冷え切っているのでどうしようもない。この状態で眠れるわけもなく、だからと言ってこの不安を彼らに話しても、どうにかなるわけではないことぐらい分かっていたが、それでも誰かに聞いて欲しかったのだ。

 無意識に彼らを選んだのも、おそらく適役だからだ。

 死者の声が聞こえる者はそういない。ユーフェミアが秘密の一つや二つ話しても漏れることはないだろうし、彼らが話す相手は所詮、ディーンぐらいだ。 ナフムのように親身になって自分と同じように心を痛める心配もなければ、むしろイヴァンジェリンのように怒鳴ってくれるぐらいの方が、いっそ清々しい。

 リックもきっと鼻で笑ってくれるだろう。

 そうやって笑い飛ばして、大したことではないのだと思いたかったのに、むしろ鼻白んだのは彼らの方だった。

『あなたが……王女――』

『お姫様だったのか……』

 二人して言葉を失い、ユーフェミアの方が慌てる。

「えっと、リック? イヴァンジェリン? そこでどうして黙っちゃうのよ?」

 驚きで声が出ないというより、ユーフェミアに流れる血に対して畏怖を感じている様子の二人に、ユーフェミアの方が愕然とする。

 死者に王族とか身分とか関係ないと思っていた。

『あ、ああ。いや、うん……』

 最初に立ち直ったのはリックだったが、なぜだか歯切れが悪い。

『小娘が、王女……』

 イヴァンジェリンの内心が垣間見えた気がしたが、未だ放心している彼女はさておき、手の中のぬいぐるみを見下ろす。

「でもね、だからと言って私が私であることに変わりはないし、何かを望んでいるわけじゃないのよ。ディーンの婚約者になったからと言っても、これはお互いに利害が一致したからで……」

 言いつつ、次第に頬に熱が集まり始める。

 身震いするほど寒いはずなのに、じんわりと身体の奥が熱くなる。

 ディーンがべレスフォード邸の温室で宣言した言葉は、思い出すたびに胸の奥に熱を灯す。ただ、自分でも舞い上がっているだけだと頭で理解していても、心の奥が勝手にざわめくのだ。

『そう、利害の一致……』

 ふふっと、ひそやかな笑い声が耳に届く。

 それは低く、イヴァンジェリンの全身から発せられ、空気が揺れて伝わってくる。

『そこにあなたの感情はないと断言できるのね?』

 冷ややかな問いに、咄嗟にリックを両手で握りしめると、迷うことなく頷いた。

 だって迷う筈はない。例え自分が何者であろうと庶民であることに変わりはないのだ。この場所で生きていくと決めているのだ。ただ一度、上流階級の婚約者になり、用が済めばこの茶番も終了だ。自分の目的を果たすために彼を利用するのだ。

 そう、利用するのだから――。

 すっと、胸の奥に灯った熱が消えていくのが分かった。

 どこからともなく入りこんだ風が、蝋燭に灯った明かりをかき消すように、それは本当に唐突だった。

 リックを握りしめていた手から力をぬくと、ふうっと長く息を吐き出す。

 思い出した。自分の立場を。

 自らに流れる血が何であれ、ナフムやクリスティアナが望んだのは、庶民としての自分。彼らはそこに、ユーフェミアの幸せがあると見定め、ユーフェミア自身もそうだと思った。

「……私の生きる場所はここでしかないのよ」

 たとえディーンが宣言したように彼のことをこの先好きになったとしても、彼の隣を歩けるわけではない。

 最初から、答えなど出ているのだ。

『ちょっと待てよ』

 ユーフェミアの気を引くように、膝の上でカチャっとシンバルが鳴る。

 リックから聞こえる声はどことなく不満気だ。

「リック?」

 首を傾げて問うと、リックはもう一度カチャっとシンバルを鳴らした。

『イヴァンジェリン。おまえが口を出すことじゃねぇだろ?』

『何ですって?』

 途端、人形から鋭い怒気が向かってくる。

 しかしリックはそれを軽くかわすと、今度はユーフェミアに意識を向けてきた。それはどこか怒っているようで、思わず身構えたユーフェミアは、コクリと息を飲み込んだ。

『おまえもな。こんな人形ごときに言われて何怖気づいてんだよ?』

「……べ、別にそんなことは――」

 決してイヴァンジェリンに言われたからではない。

 だが、何故だか反論する言葉が浮かばなかった。

『そんなんじゃ、あいつの婚約者なんてつとまらねぇぞ? ただでさえ王宮は魑魅魍魎の住処だって言われてんのに……。あ、ちなみに魑魅魍魎は俺たちのことじゃねぇぞ。生きた女だって話だからな。こいつに負けるようじゃ、おまえぐらい簡単に頭から喰われちまうぞ』

 カチャっとシンバルを鳴らすと、なぜだかリックは不機嫌そうに締めくくった。

 イヴァンジェリンも最初こそは金切り声を上げていたが、リックのシンバルと共に急に静かになる。

 彼の言った魑魅魍魎とは、想像したくなかったが誰のことを指しているのか。べレスフォード邸で王太子であるブライアンから聞いた話で容易に想像がついてしまった。

 彼の母親パメラ王妃は、婚約中にその座を狙う女性たちから嫌がらせを受けたと言う。

 つまり――。

 ユーフェミアはディーン自身の口から彼が優良物件だと聞かされていたのだ。彼の肩書はとても魅力的で、人当たりの良さも相まって――つまるところ、ジュリアの言葉を借りるなら、女性の扱いに慣れるほど女性に不自由はしていないと言うことだ。

 ユーフェミアの頭にはディーンが自ら率先して遊んでいたとばかり思っていたのだが、実情は違うのかもしれない。いずれ手に入る侯爵夫人の肩書を狙う女性がそれだけ多いと言うことではないだろか。

 もしかして王宮での第一関門は、身分云々もだが着いた瞬間、彼女たちに阻まれることもあり得ると言うことか?

 考えた途端、血の気が引いた。

 壁が高すぎる。

「はは……」

『笑ったって何にもなんねぇぞ』

 ぼそりと呟かれた言葉に、ユーフェミアは完全に頭を垂れた。

 簡単にリックに言い負かされた。

 だが。

『――なりませんわ。あなたが貴族の小娘に負けるなど、わたくしが許しませんわ!』

 ふいにイヴァンジェリンから今までにない闘志の滾りを感じ、ユーフェミアは顔を上げた。

 穏やかな表情の彼女からはとても想像できないほどの覇気を感じる。

「イヴァンジェリン?」

『わたくしに考えがありますわ。猿に口を出すなとは、もう二度と言わせませんことよ?』

 根本的に何かが違うと思いながらも、そう言った彼女は高らかに笑ったのだった。

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