02.その日は薄く紗を掛けた雨が降っていた 前編
絶対にお客なんて来ないわ――。
その骨董品店は、開店日から雨が降っていた。
大々的な開店を呼びかけたわけでもなく、ひっそりと開店したのだが、店に並ぶ商品を見てユーフェミアが呟いたのもあながち間違いではない。
もともと古着屋であった店内を改装し、残っていた古着や家具などはすべてディーンが処分してくれたが、それでも広いというほどの広さはなく、壁紙も張替え、しっとりと落ち着いた雰囲気に変わっていく様を見ていると、思った以上に素敵なお店で、こんな場所で働くのも悪くないかも、という気分にはなっていた。
しかし昨日から次々と運び込まれてくる商品にユーフェミアは目を疑った。
骨董品店と聞いて、店内の広さと雰囲気から小物類、もしくはちょっとした家具なのだろうと思っていたし、ディーンからも外国の珍しいものと聞いていたので期待もしていた。確かに家具類もあった。素敵な照明もあって、値段を聞き、即座に断念したものもあったのだ。
だが、店の奥まった一角に置かれた商品に、有り得ないと呟やかずにはいられなかった。
普通に見たら有り得ないことはないのだ。ソファにアンティーク人形が並べられ、見ている分には随分と可愛らしい。
だが、ユーフェミアには分かってしまったのだ。それらから祖父のナフムと同じ気配がする――。
「嘘でしょう……」
やはり彼の幽霊にまつわる噂は本当だったのかと、胸に密かに不安が生じたのは言うまでもない。
お客が来ない理由は、実はもう一つある。
それも現実的な理由である。
単純に高価すぎるのだ。値段を聞くまでもなく、デザイン的にも庶民の家にそぐわない。
このバルフォアの街の住民なら、約一年分の稼ぎを注ぎ込んでも買える代物ではないだろう。
つまり開店休業状態だ。しかも柔らかな雨が降り続けている。客足は遠のく一方だ。
果たして、この街の住民でこの店の骨董品を買える者はいるのだろうか。いるとしても、きっとディーンの同類だろう。買う必要はないが、買っておいてもいいか、という理由にもならないような理由で買い物ができる人種などそういて欲しくはない。
ユーフェミアは昼過ぎには早々と見切りをつけ、部屋から本来の仕事道具を持ってきた。
客なんてどうせ来ないのだ。店番も、仕事をしながらやって悪いことはないだろう。
近年、印刷という方法で紙に大量の文字を写すことができるようになったが、それでも流麗な写字を好む者もいる。ユーフェミアの筆跡は割と評判が良く、指名で注文を受けこともある。そういう時は大抵、期限が切られる為かなり忙しくなる。無理な注文は断るようにしていたが、せっかく気に入って注文をしてくれるのだ。できるだけ請け負うよう努力はしているが、最近は時代の波が確実に押し寄せてきているのを感じる。いつか写本は廃れていくのだろうが、それが遠い未来なのか近い未来なのか想像はつかない。ただ、必要とされる限りユーフェミアはこの仕事を続けるつもりだった。
写本を作るのは殆どが上流階級で、金銭に余裕のある者ばかりだ。印刷の技術が発達したからと言っても、やはり本は高価なものなので、庶民が手にできるような物ではない。
本はいくつかの工程を経て作られるのだが、ユーフェミアは決められた枠内に文章を書き記していく写字職人だ。その後、好みによって金箔などの装飾が施され、綴じられ、一冊の本ができ上がる。だから写本といえども何人もの職人の手を経るだけあって、その値段は庶民には馴染みのない可愛げのない金額となってしまうのだ。
仕事道具を抱え階段を降りながら、羽根ペンの先が少し痛んでいたことを思い出し、先にそちらの手入れをしようと決める。
綺麗な筆跡を作るには、やはり仕事道具の手入れも怠るわけにはいかないのだ。
「ナイフはどこだったかしら?」
確かどこかで見た覚えがあったのだが、どこに収納したのだったかしらと記憶を頼りに、いたるところの引き出しを開けていく。
壁に新たに設置した引き出し付きの戸棚を探していると、背後でコトリと音がした。
もしかしてお客さんが来たのかしら、と振り返る。
ディーンから店番をする上で言われた注意事項は一つのみ。その場で売るな、だ。
それを聞いた時は思わず笑ってしまった。値段が分からない物を売れるはずがない。どの商品にも値段は表示されていないのだ。ただ、素人目でも高いということが分かるだけ。
つまりユーフェミアが店員としてする仕事は、客の求める商品と客の名前を聞くこと。それのみだ。日を改めてディーンが交渉にあたるとのことだった。
楽な仕事だ。退屈なことを除けば。だがユーフェミアには本来の仕事がある。住処を得るために店番をし、食いつないでいくために写字職人として仕事をする。一石二鳥とはこういうことを言うのだろう。
時間の有効活用。
時は金なり。
世の中にはいい言葉があるものだ。
「いらっしゃい――ませ……」
音がした方に笑顔で振り返って、思わず首を傾げた。
声が尻すぼみになったのも仕方がないだろう。
なぜなら、そこには誰もいなかったのだ。
が――。
削る予定のペンを置いていた机の上には、探していたはずのナイフが置いてあった。
「……――」
ユーフェミアは数度目を瞬き、うふふと笑う。
「嫌だわ。出しておいて忘れるなんて」
独り言が多くなりつつあることは気にしない。肌が粟立っているのも気のせいだろう。
考え方を変えればとても便利ではないか。そうに違いない。
椅子に座ってペン先を削りながら、それにしても、と昨夕のことを思い出し、静まっていた怒りが再燃する。
昨日、朝一番にディーンは現れたのだが、馬車から下りてきた彼が腕に抱えていたものを見て思わず一歩下がってしまったのは仕方がないだろう。
濃灰色のフロックコートに鮮やか過ぎるそれは、ディーンの腕に収まり良く座っていた。
金色の髪に美しく澄み切った空色の瞳。薄紅色のドレスを身につけ、にこやかにほほ笑む彼女。
「彼女はイヴァンジェリンだ」
思わず釘づけになってしまった視線の先に気づいたのだろう。簡単に紹介された後、差し出された彼女を恐る恐る抱きかかえると、適度に重みがあり、まるで本当の子供を抱えているような気分になる。
しかも本来あるべき体温はなく、それでもかすかに温かいと感じるのは、馬車の中でずっとディーンに抱えられていたからだろうか。彼の体温が移ったと考えた方が、この先無難に過ごせるに違いない。
「彼女もその――商品なの?」
腕の中のアンティーク人形を見下ろし、思わず小声になる。彼女に聞かれるとあまり良くない気がしたのは直感だ。
「なぜそう思う?」
意外そうにこちらを見下ろし、それから視線を彼女に向ける。その眼差しは優しくて、思わずディーンから視線を外した。
見てはならないものを見た気がした。
「わざわざあなたが抱えてきたから、気に入っているのかと思って」
二十代後半の青年が人形を気に入っているという考えは、本来なら恐ろしく奇妙で奇抜な話だ。しかし個人の趣味は様々だ。もしかしたらそういう趣味を持っていてもおかしくはないかもしれない。実際、彼の視線は少し違和感がある。
視線の持って行き場に困り、仕方なく腕の中の人形を見下ろしていると、彼は小さく笑った。
「やはり女性の方が人形は似合うね」
「いえ、私が聞いているのはそんなことじゃなくて」
ユーフェミアの脇を通り抜け、店の中へと歩いて行く店主を追いかける。開店を明日に控えた店の中には当然客は一人もいない。
「イヴァンジェリンは特別だ。彼女は売り物ではないが、彼女が選んだ者なら私は喜んで送り出そう」
店内を眺めながら、商品を一つ一つ確認しつつ彼は言う。
「……まるで花嫁の父親みたいな言い方ね」
ぽつりと呟くと、ディーンは面白そうに口の端を持ち上げた。
「的を射た言い方だ」
ユーフェミアがイヴァンジェリンを渡すと、奥のソファに他の人形たちと共に丁寧に座らす。確かに周囲の人形たちとは違う存在感がある。これほど精巧な人形は滅多にお目にかかれる代物ではないだろうし、ディーンが特別だと言うのも分かる気がする。
しかし先ほどのディーンの言い方に引っかかりを覚える。
彼女が選ぶ、とは一体どういう意味だろう。
本当に生きているのだろうか。
まさかね、と思いながらその日の夕方。その意味を知ることとなった。