13.痛くもない腹の探り合い 後編
鈴の音を転がすような笑い声を上げたジュリアは、堪え切れないとばかりに一頻り笑っていたが、ようやく笑いをおさめると、姉さま……と腕に縋りついてきた。
その顔はとても穏やかで、ユーフェミアの憂慮を吹き飛ばす。
「心配は無用ですわ。過去のことですもの」
ふわりと甘い香りが、身を寄せた彼女から漂う。
人形のように可愛らしいジュリアは、こう見えて実はかなり潔いのかもしれない。
現在、温室にはジュリアと二人しかいない。
ディーンは今朝早く、仕事上のことで何やら問題が生じたらしく、ロジャーと居間に籠って話しあっていたので、そのまま一足先にジュリアと一緒に温室にやって来たのだ。
温室は太陽が出ていれば上着がいらないほど暖かいが、空はあいにく雪が降りそうな重く立ち込めた灰色の雲に覆われている。それでも空気の流れもなく、室内を一定温度で保つために焚かれたストーブのおかげで邸の中よりは格段と温かい。
朝一番にアシュレイと交わした会話のおかげで、ユーフェミアは無意識に浮かない顔でもしていたのだろう。原因をジュリアに問い詰められ、初めは誤魔化したもののどこからともなく彼女は嗅ぎつけたらしい。怒られたアシュレイは、やってられないと昼前にブライアンと共に王宮へと帰って行った。それでも帰り際にちらりとこちらに向けた眼差しで念押しすることを忘れなかったが。
結局、更に詳細を問い詰められ、ユーフェミア自身の口から話す結果となってしまった。
ジュリアは身を離してベンチに座り直すと、真剣な色を湛えた空色の瞳を向けてきた。
先程までの甘えた雰囲気を拭い去った彼女が、何を話そうとしているのかを察し、ユーフェミア自身も姿勢を正す。
「ユーファ姉さまでなければ無理なのです」
先日、この場で言った台詞とまったく同じ言葉を口にした。
「それは――」
今なら理由が分かる。
だが口に出すには憚られ、ためらうと、ジュリアが言を繋いだ。
「ええ。姉さまが、ひそかに王族の血を引いているからですわ」
きっぱりと言い切り、次の瞬間、瞳に影を落とす。
「そもそも、わたくしたちの婚約はすべてレイヴンズクロフト侯爵――カーティスの養父である侯爵が言い出したもの。たとえ口約束でも侯爵は、カーティス以上に計算高い方ですわ。まずは、というより、何をおいてもわたくしたちの婚約破棄を誰よりも納得させなければならない相手は侯爵ですの」
それはつまり、二人が婚約破棄を目的に動くことは王族側の反対はないと思っていいのだろうか。ディーンからも口約束と聞いていたから、そこまで固い約束事ではなかったのかもしれない。
促すように相槌を打つと、ジュリアは続けた。
「ですけど、それはかなり難しいのです。侯爵を納得させるには、生半可な理由では不可能です。ならば、わたくしが他の誰かと早々に婚約なり発表してしまえばいいのでしょうけど、王女という立場が相手を選ばすのです。一応、それでも候補を上げてはいますけど、わたくしの二十歳の誕生までには決まらないでしょう。そうなると、カーティスにわたくしの代わりとなり、侯爵の納得する女性と婚約してもらうしかないのです。今現在、王族でわたくしに準ずる女性は皆、既婚者ばかり。ですから――」
ジュリアの視線がユーフェミアに向けられる。
「つまり……私?」
まさかと思いつつ、次の瞬間、無理、と却下する。
名乗りを上げるつもりはないのだ。ジュリアの話からすると、王族にならなければならないだろう。それは出来ない。
小さく頭を振ると、ジュリアは困ったように、取りあえず続きを聞いて下さい、と告げた。
「結論から言うと姉さまがカーティスの婚約者となって、公式の場で国王に認めてもらえれば、もう侯爵は口を出せません。その後、何か理由を付ければ婚約の破棄をすることも出来るでしょう。ですが、ここで何よりも重要なのは、ひそかに姉さまが王族の血を引いているということ。きっと侯爵のことです。王族に恩を売ることができると考え、最終的には認めざるを得ないでしょう」
「……恩?」
引っかかりのある言葉に、眉を顰めて聞き返した。
ジュリアは言いづらそうに、だが、濁すことはしなかった。
「……こういう言い方はとても不本意なのですけど。見方を変えれば、姉さまは王族に迎え入れられなかった王族です。それは今まで隠されてきたことから、姉さまの存在をこれからも公にすることはないという王族側の意思表示とも取れます。つまり姉さまは、わたくしの姉といえども王族にとって――弱み、とも言える存在。そんな姉さまを王族としてではなく、侯爵家に迎え入れるということは、恩を売るに他ならないことですわ」
ですけど、とすかさずジュリアは続けた。
「決して姉さまはわたくしたちにとって弱みではありません。もしも姉さまがお嫌でないなら、王宮で一緒に暮らしたいと思っています」
じっとこちらを見つめてくる彼女の瞳は真剣だ。
そんなことをすればどれほど大変なことが起きるか、ユーフェミアも分かっている。
ジュリアが自分を傷つけないように言ってくれたことを察し、思わず頬が緩む。落ち着くように彼女の手をポンポンと叩いた。
「どうして私でないといけないのかは分かったわ。でも……」
言葉を続けようとして、温室の入り口に人影を見つけ口を閉じた。話が話だけに人払いはされており、ここも王弟殿下の邸で使用人も心得ているだろうが念の為だ。しかしユーフェミアの心配をよそに、扉を潜ってきたのはディーンだった。姿を目に止め、視線でジュリアに報せる。
彼女も気づき、取りあえず会話を止めた。
「ひどいな。抜け駆けは良くないよ」
近づきつつ、彼の視線はジュリアに向く。
ジュリアもそれを受けて、不敵に笑った。
「あら。抜け駆けを最初にしたのは、あなたでしょう? ユーファ姉さまの弱みにつけ込んで、理由を付けては毎日のように会いに行っていたではありませんか」
椅子に座ったまま、上目づかいに軽く睨むジュリアの言葉をしばし吟味する。
弱みが何を指しているのか。少し考え、すぐに借金の件だと思い当たる。
今まで、その件に関しては自分の弱みと思ったことはないし、骨董品店を開くと決めたことも理由を付けたとは考えもしなかったが、なるほど。言われてみれば最初から企んでいたのかもしれない。
やはり侮れない、と思わずじとりと見つめると、ディーンは肩を竦めた。
「否定はしないよ」
開き直った態度に、ジュリアはあきれたように首を横に振り、ユーフェミアも開いた口が塞がらなかった。
そんなユーフェミアを夜色の瞳が見下ろしてくる。
「それもこれも、きみに会いたいが為だと信じてくれないのかい?」
偽りの台詞に表面的な取り繕い。
どうして昨日は、こんな人に甘えてしまおうと思ったのか。それほど自分の心が弱っていたのか。
「ユーファ姉さま……。カーティスの言葉を信じてはなりませんわ」
どこから出しているのかというぐらい低い声を出したジュリアは、ベンチから勢いとつけて立ち上がると、ユーフェミアを背に庇うように二人の間に立つ。
腕には力が入っているのか、小刻みに震えている。
「まったくあなたという人は、いつも女性に対して調子のいいことばかり。もしも相手の女性が本気になってしまったらどうするつもりですの?」
あからさまに険を含ませるジュリアに対し、ディーンは心外だとばかりに両手を広げた。しかしその顔にはどこまでも余裕がある。
「何だかその言い方は、私が女性に対して見境ないように聞こえるけど?」
「違わないでしょう」
すかさず返したジュリアの言葉に、ふーん、違わないんだ、とユーフェミアは冷めた眼差しをディーンに向ける。
こちらを見たディーンは、何か言おうと口を開きかけたが、言い返しても結局は言い訳にしか聞こえないことに気づいたのか、大人しく引き下がった。
「――……ジュリア。取りあえずその件は後にしよう。ユーフェミアの協力が得られなくなるとお互いまずいだろう?」
それでもちゃっかりこの会話の責任を半分ジュリアに押し付けてしてしまうのは、ディーンの方が上手なのだろう。
ハッとしたように、くるりと身体の向きを変えたジュリアは、慌ててユーフェミアの顔色を窺う。
「姉さま! その、カーティスは……女性の扱いに慣れておりますの。伊達に場数をこなしていませんわ! 協力して下さっても、きっと不快な思いをさせるようなことはしないと思いますの!」
両手を握りしめて力説するジュリアを見ながら、彼女の必死さが窺えて苦笑が漏れる。
「……ジュリア。それではあまり説得力がないよ」
ここにきてようやくディーンは苦々しい顔をする。
参ったとばかりに天を仰ぎ、息を吐き出すと、困ったようにこちらを見る。
「少なくともきみに対して嘘は一つもついていないよ」
「へえ、そう」
言い訳などどうでもいいと顔を背けると、ディーンは眉尻を下げた。
「ユーフェミア……。いや、取りあえず、言いたいことは山ほどあるが、それもまた今度にしよう」
やけにあっさりと引き下がると、ディーンはジュリアに目くばせする。
それに頷き返したジュリアは、ユーフェミアの側から数歩離れた。代わりにディーンがユーフェミアの前に立ちふさがる。
「なに?」
ベンチに座っている為、背の高いディーンを見上げるには多少首が痛い。かすかに首を傾げるようにして見上げると、それに気づいたのか、彼は床に片膝をついて跪き、ユーフェミアに視線を合わせてくれた。
目が合うと、その瞳はいつになく真剣さを湛え、先程までの軽々しいものが取り払われる。
夜色の瞳はユーフェミアだけを見つめてくる。
何か、大切な話をしようとしていることだけは分かる。
息を詰めて、彼の言葉を待った。
「――きみに、正式に依頼したい」
それが何の話なのかなど、今さらだろう。
ユーフェミアは無言で続きを待つ。
「私たちの勝手な理由できみを巻きこもうとしているのはわかっているつもりだ。それでも、私たちに協力してくれないか」
声も真摯そのもので、ユーフェミアの胸の奥がかすかに軋む。
ディーンは視線を少しもそらすことなく、続けた。
「ジュリアの言うように不快な思いをさせるつもりはないし、きみの社会的地位を下げるようなことは絶対にしないと約束しよう。ただ、最初に言っておくが、多少のリスクがないわけではない。もしかすると、きみにある程度の無理を強いることも出てくる可能性もある。それも踏まえて、私たちの計画に協力してもらいたいと思っているんだ」
「……そんなこと言って、私が拒否するとは思わないの?」
答えなど分かっていたが聞いていた。
拒否など出来ないよう、最初から仕組まれていた。ユーフェミアの心がどこに傾いているのかを彼は知っている。多少のリスクなどものともしない意気込みがユーフェミアの中に生まれていることも。
ディーンは口の端を持ち上げた。その顔はどこまでも自信に溢れ、ユーフェミアの方が先に視線をそらしていた。
「きみは拒否しない」
耳に飛び込んできた言葉に、目を閉じる。
違うかい? と問われ、ユーフェミアは諦めて視線を戻した。
「違わないわ」
夜色の瞳を見てはっきりと告げると、ディーンは頬をゆるめた。
ただ、それだけ。
なぜ、とも、どうしても、とも聞かない。
彼はやはり分かっているのだ。
ユーフェミアは覚悟を決めると、ディーンの手を差し出す。そして、側に立つジュリアを見上げて、はっきりと告げた。
「わかったわ。あなたたちに――協力する」