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黄昏時の溜息  作者: 薄明
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12.きみのひかり、ぼくのくらやみ 後編

※引き続きディーン視点です。

 話し終わっても、彼女は自分の告げた言葉を上手く飲み込めていないようだった。

 数度瞬きを繰り返し、やがて深緑の瞳が信じられないと見開かれる。

「母が――王宮に、いる?」

 衝撃の強さに、すでに表情を取りつくろうことさえ出来ず、不安げに揺れる眼差しはただ自分しか見ていない。

 そのことに微かな愉悦を覚えてしまう。

 思わずユーフェミアの頬に手を伸ばし、そっと触れていた。

 わずかに赤みを帯びた頬は温かかった。はっきりと生をこの手に伝えてくる。

 今でこそこうして温もりが甦っているが、気を失った彼女を馬車で抱きかかえていた時、ただでさえ白い肌が氷のように冷え切り、二度とその体温が戻らないのではないだろうかと思えたほどだった。いくら名を呼んでもピクリとも反応せず、蜂蜜色の睫毛に縁取られた深緑の瞳は閉ざされたままで、まさに死と隣り合っていることに嫌でも気づかされた。

 だからこそ考えさせられたこともある。ゆっくりと時間をかけて彼女を手に入れる計略を立てていたが、この先何が起こるとも限らない。まさに不慮の事故がないとも言えないだろう。

 だから、あのようなことがあったばかりに気が急いてしまう。

 いっそのこと彼女の誇る尊厳を全て無視して捕らえてしまおうか。

 バルフォアに撒いた噂を真実のものとするのは簡単なことだ。しかし一方でジュリアとの計画を白紙に戻すという問題も生じる。

 彼女の不安げな眼差しが自分の邪な考えを押し止める。

 質問の答えを急かす。

 自らの下劣な欲望を悟られないよう、離れ難い手を彼女から遠ざけ、ディーンが再度告げた声は胸中とは違って至極素っ気ないものだった。

「そうだ。クリスティアナは今も王宮にいる」

 それがどういう意味なのか、死者が見えてしまうユーフェミアなら分かるだろう。

 緑の瞳が揺らぐ。瞬きをした瞬間、潤みを帯びていた瞳は水分を押し出し、睫毛を濡らすと雫となって頬を転げ落ちていった。顔を歪めることもなく、ただ呆然と目を見開いたまま涙を流す彼女の心はすでに許容量は一杯だろう。今日一日でどれほどの衝撃を受けたことか。

 残酷なことをしている自覚はあった。

 だがこれも、彼女に付け入る隙を作る為だった。

 まして死者を見る目がある以上、彼女とのつながりは他の誰よりもより強く、彼女と唯一の秘密を共有する立場にいる優越感はこの上なく心地良い。

 当然、クリスティアナの存在がユーフェミアの心をどれほど揺さぶるか。

 この世にとどまっているなら母に会いたいと思うのは必然だろう。しかも、彼女はクリスティアナとつながりのある自分を必要とせずにはいられなくなる。彼女の心を絡め取るには、彼女の母親の存在が間違いなく何よりの効果を発揮する。

 だが、筋書き通りに動く彼女を目の当たりにして、自らの心が疼くことは予想外だった。

「私がきみの存在を知ったのは、直接彼女に聞いたからだ」

 それでも、かすかな違和感に気づかない振りをして、ディーンは告げた。

 すべての始まりは、王宮でクリスティアナと出会ったことだ。彼女と出会わなければ、ユーフェミアの存在を知っても、ただ利用するだけの存在ぐらいにしか思わなかったかもしれない。用が済めば切り捨てることも厭わない養父のように。

 そこまで考え、ふとディーンは自嘲した。

 いや、それはないだろう。現に、クリスティアナを知っていても最初は利用するつもりだったのだから。

 では、どこで変わってしまったのか。

 ディーンは思いを馳せる。

 養父の考えと違う道を歩み始めたのは、あの夜。

 王宮で何かの夜会が開かれた庭でのことだった。



 王太子と懇意であるということが、どれほど社交界で注目を浴びることになるのか。

 まだ子供と言える年齢に近いディーンは、会場から逃げ出すように庭の片隅に隠れていた。

 草木の茂みに身を潜め、追いかけてきた女性をやりすごす。

 いずれ継ぐ爵位と王太子からの信頼。この二点において、ディーンはどうやら独身女性から優良物件と思われていることを、はじめてその夜会で実感した。

 話に聞いて何も知らないわけではなかったが、実際に女性たちに遠慮なく身体を触れられることに拒絶反応が起きたと言えばいいのだろうか。きつい香水の匂いにも気分が悪くなり、どのように逃げ出してきたのか記憶にはなかったが、とにかくディーンは夜会が終わるまでどこかに隠れていようと決めた。

 だが逃げる場所も選ばなければならないと、その直後学んだ。庭はその実、逢引現場だらけで、どこに行こうとも茂みには身を寄せ合う男女ばかりで、とにかく無我夢中で庭の奥を目指した。

 追って来る者がいないか背後を振り返りつつ、黒髪と黒い夜会服が闇夜にまぎれることに感謝する。

 一体どれほど奥まった場所に来たのだろうか。

 会場からの音楽は微かに聞こえる程度だが、辺りにはすでに人はいない。灯りもかすかに届く程度で、ぼんやりと木々の輪郭のみを目に映すだけだった。王宮は死者のたまり場のような場所だったが、さすがにここまではそういう者たちもいないようで、やっと落ち着くことが出来る。

 昼間でも、ここに人が来ることはないのだろうか。

 草が茂り、荒れた庭には人工池があった。水が張ってあり、その辺に一人の女性が立っていることに気づいた。

 暗闇であるにも関わらず、彼女の姿ははっきりと見て取れる。

 簡素な服は一瞬、王宮で働く下働きの者だろうかと思わせた。しかし、彼女の立ち姿は優美で、振り向いたその顔は化粧をしていなくても会場にいたどの女性よりも美しいことに気づき、身にまとう雰囲気から彼女が上流階級の者だと分かる。

 見事な金髪を背中に垂らし、その双眸にある深い緑色がとても印象的だった。

 ディーンと視線が合うと、彼女はにこりと人懐っこい笑みを浮かべた。

『あら、あなたには私が見えるのね? 娘と一緒だわ』

 その言葉に彼女が既婚者だと分かり、少なからず安堵する。彼女が会場にいた女性たちと同じ態度を取るような心配がないことぐらい分かっていたが。

「あなたは――」

 透けて見える彼女が何者なのか。

 悪意のあるものではないことぐらい分ったが、彼女がここに縛られていることも同時に知る。

『私はクリスティアナよ。そういうあなたは?』

 滑るように近づいてきた彼女だったが、近くに来ても恐怖を感じなかった。

 それどころか幽霊からまさか名前を聞かれるとは思わず、ディーンは言い淀んだ。

 こんな幽霊は初めてだった。たとえ悪意のないものでも、どちらかと言えば、死者とは強い思いの塊だ。彼らは大抵自らの意識に囚われて、他のことにまで気が回らない。

 だが彼女の深緑の瞳は興味津々と言ったように輝いている。

「ディーン、です」

 気づけば、養父に与えられた名前を避けていた。それは大切なものだからという理由からではなく、自分にとって馴染み深い本来の名前を――両親がくれた名前を、本来与えられるべき愛情と共に彼女の口から呼んで欲しかったからかもしれない。彼女が娘を持つ母親だと知ったばかりに。

『ディーンね……。それで、ディーンはどうしてここへ?』

 問われ、一瞬躊躇う。

 だが、彼女が死者であること。まして同じ目を持つ人間がそう多くいないことを知っているディーンは、どうせ誰に知られることでもないと夜会から逃げ出してきた経緯をぽつりぽつりと話した。

 すべて話し終わると、しばらくの間静寂が落ちた。

 だが、すぐに隣から小さな笑いをかみ殺す声がする。

 怪訝に思って顔を上げると、目が合った彼女は我慢ならないと声を上げて笑い出した。遠慮もなく、お腹を抱えて。上流階級の女性とは思えないほど気取ることもなく。

 真剣に話したのに、と頬を赤くすると、それでも彼女は首を横に振る。涙が出るはずもないのに、目元を拭う仕草を見せる。

 思う存分笑いとばすと気が済んだのか、今度は急に真面目な顔をして、ディーンに指を突き付けてきた。

『駄目よ。なってないわ。逃げると誰だって追いたくなるものよ。そういう場合は、あしらう(・・・・)のよ』

 そう言って、クリスティアナはいくつかの例を教えてくれた。

 つまり、逆に女性の方から遠慮してもらう例とか、女性の気分を害さない断り方とか、だ。

 それを聞いて、やはり彼女が上流階級の者であることを確信する。着ている服は簡素だが、何か事情があるに違いない。

「あなたはどうしてここに?」

 死者と深く関わりを持つべきではないと思いつつ、ディーンはそれでももう少し彼女と話していたいと思った。上品ぶらない彼女との会話は、昔を思い出し、久しぶりに清々しさを感じていた。

 クリスティアナは最初見ていた場所に視線を送ると、小さく笑う。

『大切な人の一生を見届ける為よ』

「あなたの娘さん?」

 近くにいるのだろうかと周囲を見渡すが、ここは王宮の庭の奥だ。こんな場所にいるとは思えない。

 その問いに、クリスティアナの表情はやっと死者のそれになる。瞳の奥に闇が広がる。

『……ユーファは強いわ。ナフムもいるし、大丈夫。でも――』

 軽く首を振って、ディーンを見た。

 その瞬間、その瞳はどこまでも穏やかな緑が広がり、ディーンの心をとらえる。

 死者の瞳がこんなにも穏やかなのは初めてだった。それなのに、なぜここに縛られているのか。

 大切な人が娘でないなら、それは一体――。

 尋ねようとして、彼女の視線が自分の背後に向く。

『もう帰る時間ね』

 そちらは会場の方だった。

 名を呼ばれる声に会場での出来事を思い出し、一瞬身を固くしたが声はあきらかに男のもので、探しに来たのはどうやら侯爵の使いの者らしいと気づく。

 ディーンはクリスティアナを見ると、思わず尋ねていた。

「あなたはいつもここにいるの?」

『ええ』

 肯定の言葉以外、彼女は何も言わなかった。

 それは決して、次を約束するものではなかった。

 だが、それから王宮で夜会がある度に、ディーンは彼女に会いに庭の奥を訪れることとなった。



 ディーンの手を握り、その手に願うように額を当てたユーフェミアは、震える声で嗚咽を漏らす。

「お母さん……」

 本来なら、彼女もクリスティアナを見る目を持っている。だが、母親であるクリスティアナが亡くなったあと、ユーフェミアは一度も母親を見ていないのだ。まさかまだこの世にとどまっているとは思ってもいなかったのだろう。

 いつも気丈に振る舞うユーフェミアが弱さをさらけ出す姿に、思わず抱きしめたくなる。もっと縋ってくれてもいいのにと、物足りなさをどこかに感じる。

 まさか自分がこのような感情を持つようになるとは未だに信じられなかった。

 まったく、いつからだろう。彼女をそういう対象としてみるようになったのは。

 最初こそ、クリスティアナの娘だというだけの興味半分だったのに。だから五年。同じ街に住み、傍観していた。

 情報は常に入るようにして、生活に苦しんでいるならば、少しぐらいの援助など容易いことだと考えていた。

 だが、実際に会った彼女は上流階級の女性とは違い、盤上の駒のように容易く動いてくれない。一手をより複雑にしなければ自分の思い通りにならないことに気づき、知らずそれを楽しんでいる自分がいた。実際に彼女を知れば知るほど、人に頼ることなく自分で選んだ道をまっすぐに歩く彼女を心底羨ましいと、手に入れたいと思った。

 しかし最初のうちは、ただ珍しい手駒として手に入れたいとしか考えていなかった。

 言い方は悪いが、所詮、彼女も貧しさが染み付いている。身分や金銭をちらつかせば、すぐに考えを翻すだろうと思っていた。

 同時に進んでいたジュリアとの共謀に彼女を巻きこむことにしたのは、彼女の身体に流れる血が最大の要因だが、そういう浅ましい考えもなくはなかったのだ。

 だが、いつまで経っても彼女は折れない。その強さがどこからきているのか。知ろうとした時はすでに遅く、捉えるつもりが逆に捉われていた。気づけば、手駒としてではなく、何よりも自分の身近にいて欲しい存在になっていた。

 こうしていつも手を伸ばせば届くところにいて、触れることがかなう距離――。

 だが理性でそれを押し留める。

 まずは心を捉えるために、隙だらけの彼女に今だとばかりに一歩踏み込む。

 今までの散々のやり取りで、彼女が嘘を見抜くことは知っている。

 だから本心からの言葉を、先に口に乗せた。

「きみは生まれに囚われず、自分の生きる道を自分で切り開いてきた。私はそんなきみを羨ましく思うと同時に、尊敬さえしているよ」

 だからこそ思う。養父のいいなりになどならず、きちんと自分の意思をもっていれば、ジュリアとの婚約を最初からしなくて済んだかもしれないし、彼女自身も傷つけなかったかもしれない。それこそもっと上手く立ち回って、もっと早くユーフェミアと出会えていれば――。

「きみはきみのままでいいんだ」

 濡れた瞳が見上げてくる。

 その瞳は先程までの、揺らぎはない。もう彼女の中では気持ちの整理がついている。これから成すべきことが、すでに決まっているに違いない。

「――本当に?」

 空気に溶けるほどの囁きさえ、ディーンの耳は拾ってしまう。

 確認を取るほど彼女の心は弱り、最後のひと押しが欲しいのだろう。その言葉を自分に望むということは、彼女の中で自分の地位が少しは上がっていると思っていいだろうか。

 そのことに小さく笑い、彼女の手を握り返す。

「変わる必要はない」

 ユーフェミアが望まないのであれば、今までの生活を続けることは可能だ。

 おそらく彼女の出生を知っている誰もが、彼女が望むようにと願っている。

 だが――。

「ユーフェミア」

 誰よりも、彼女の自由を望まないのはディーン自身だ。自らが自由になるためにも、是非にも彼女の協力が必要なのだ。

 その上でなお、彼女の自由を奪おうとする欲深さは、まったくもって養父と同じだ。それでも彼女が自らこの手をつかむよう、それが一番彼女にとって幸せなことなのだと思わせるよう、周囲を固めてしまう慎重さはもうどうしようもない。性分だ。

 その為に布石を一つ打つ。

「ジュリアとの婚約を破棄する為にも、私の婚約者になってくれ」

 告げた言葉に、ユーフェミアの涙は完全に止まった。

 まるで仕切られた壁の向こう側でディーンが話しているような気がした。

 聞こえてはいるが耳がその言葉を拾い切れない。切れ切れの単語を頭の中で繋いでいく作業を、わずかに遅れながらしていく。

 とても重大なことを話していることだけは分かる。だが、次第に組み上がっていく内容を、頭が理解し切れない。

 ――母が、なに?

 ――今もいるって、どういうこと?

 茫然と夜色の瞳を見つめる。

 彼の口が紡ぎ出す言葉は、いつもユーフェミアの心を上滑りする。なのに今、頭では理解できなくても、どうしてこれほどまでに心に突き刺さるのか。幾重にも厳重に鍵をかけ、守ってきた心の奥まで容易に進入し、一番弱いところを躊躇いなく突いてくる。

 母が亡くなって、どれほどの年月が過ぎたことか。

 その間、一度もユーフェミアの前に彼女は現れなかった。だからきっと心安らかに神のもとに召されたのだとずっと思っていた。

 それなのに……。

 沸き上がるのは、悲しみに(まみ)れた疑問。

 どうして一度でもいいから会いに来てくれなかったのか。

 母が死に切れないほど残した想いとは何だったのか。

 それがよりにもよって、王宮という場所なのは、娘の自分よりも気にかかる人がいたから?

 それほどまでにクリスティアナにとって自分は軽い存在だったのだろうか。

 ただ一度も、会いに来ることさえないほどに。

 胸が張り裂けてしまいそうだった。

 視界が霞む。

 答えを教えて欲しくて、目の前の夜色の瞳に問う。

 だがディーンは、真っ直ぐに自分を見ながら違う誰かを見ているように、その瞳に熱を込めた。

 ああ、そうなのか――と。

 ユーフェミアは溢れる涙を、目を閉じることによって押し込めた。それでも心の奥から溢れだす痛みは途切れることはなく。

 頬に延ばされた手を、咄嗟につかみ、逡巡した後、結局祈るように額に当てていた。

 この手は、クリスティアナに延ばされたもの。

 自分に与えられたものではない。

 答えは彼からは貰えない。欲しくない。

 だけど、母につながる唯一の(しるべ)

 だから、この手を離すことは出来ない。

 溢れる涙をこらえることなく、ユーフェミアはその手を握り続けた――。

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