11.零れて乾いてく涙は、見ない振りに決めて 後編
西の空へと向かう夕日が次第に赤みを増しながら、廊下に長い影を引きはじめていた。
「あの、ディーン……。一人で歩けるから離してくれないかしら」
時折すれ違う使用人たちの視線がはっきり言って痛い。見て見ぬ振りをしながら、ユーフェミアの肩にチラリと目をやり、口の端をかすかに持ち上げ、愛想良く笑む彼らのその眼差しは、あきらかに好奇の色が混ざっている。
離して、というよりも、離れて、と言いたいのだが。
図書室を出るまではジュリアやブライアンの手前、振り払うのもどうかと思い甘んじて肩を抱くことを許していたのだが、廊下に出てほっとしたのも束の間、いつまで経ってもその手は離れない。
片眉を上げてしばらくその手を睨んでみたが、その手の持ち主は視線に気づいているはずなのに肩を押して歩き始める。
反対側の身体の側面は、完全にディーンとくっついている。この距離は、傍から見れば仲睦ましい恋人同士に見えないだろうか。
立ち上がった時にふらついてしまった為、ディーンとしては支えてくれているつもりかもしれないが、必要以上にくっつくとかなり歩きづらい。
その上こんなに寄り添うと、馬車で暖を取る為に余儀なく抱きしめられていたことが頭に掠め、途端ディーンと顔を合わせるのが恥ずかしくなる。
「無理はしなくてもいい。何だったら馬車の時のように抱えてもいいんだけど?」
いつもより近い位置でディーンの声が響く。
今まさに思い出していたことを言われ、ユーフェミアはむしろ顔が見られない位置にいて良かった、と赤みを帯びた顔を何気なくそらした。
先程ブライアンから聞いた話はかなり衝撃的だったが、現在そちらにまで気が回らない。それもこれも隣を歩くこの男のせいだ。
馬車の中で必要以上に身体を密着せざるを得なかったあの状況は、今思い出してもひどく落ち着かない。
肩に回されたこの手が身体を支える為に、きついほど強く抱き締められた時、一瞬、何かを錯覚してしまいそうになった。
川で気を失ってしまったことを、もしかしたらディーンは心の底から心配してくれたのかもしれない、と。それはユーフェミアが彼の心を、少しでも占めているという意味で。
まさか、であるが。
「そう言えば、足は大丈夫なのかい?」
考え込んでいたため返事が遅れ、肩を抱かれた手に力を込められ、さらに彼の方に身体が寄る。そのまま顔を覗きこまれ、いつもより近くにある夜色の瞳にわずかにたじろぐ。
だが、すぐに視線をそらせてしまった。気恥かしさの方が先にくる。
「……大丈夫よ」
照れを隠そうとして、ついぶっきらぼうに言い放った。
足は、冷え切った身体を湯で温めていた時、つかまれた箇所を確認したが、かすかに赤くなる程度で誰にも気づかれなかった程だ。痛みもないし、すでに忘れ去っていたと言ってもいい。
「本当に?」
疑うように見つめられて、ますます素気無くする。一方、心臓はユーフェミアの感情とは逆に次第に早く脈打ってくる。
「ええ。問題ないし、歩けないわけじゃない。だから離してくれない?」
丁度いいとばかりに、再度願い出た。
だがディーンは、肩を抱く手に力を込めることで返事を返してきた。否、と。
不快とまではいかないが、無意識に身体が強張る。ここまでくっついていながら意識しないなど不可能だ。まして肩を抱くディーンに悟られないなどあり得ない話で、まったくもって忌々しい。
頭上から漏れた小さな笑い声に、込み上げる怒りを押さえつけ、悔しさにギリリと奥歯を噛んだ。
「あのね、ディーン」
誤解をして欲しくなくて、何か言わなければと口を開く。
しかし。
「ユーフェミア」
かぶせるように彼の強い声に遮られた。さっきまでの雰囲気とはうって変わって、その強さに彼が何を話そうとしているのか気づき、口を閉ざす。
ふと視線を上げると、そこは二階へと続く階段の手前で、数段上ると広めの踊り場があり、そこから左右へと別れ、先は二階へと向かっていた。壁には明かり取りの窓から差し込んだ傾きかけの陽光がますます赤みを増して、ユーフェミアの上に降り注ぐ。
ぼんやりとその赤を見上げて、家にいればもうすぐイヴァンジェリンやリックが目覚める頃だと気づく。彼らは何を話して夜を過ごしているだろうと、思いを馳せる。
ふいに頬を撫でられる感覚に、いつの間にか肩から手は外され、わずか手前――近すぎるほどの距離にディーンが立っていた。
「こんなことになって、私を恨んでいるかい?」
その顔がどこか悲しげに見えるのは、夕日が彫の深い彼の顔に影を落としているからだろうか。
頬に触れる手から逃れるよう顔を背けると、かすかに彼の瞳が暗く沈む。
いつもの余裕はどこに行ったのか、宙に止まったまま行き場を失ったその手は力なく落ちた。
目の端にディーンの存在を留めながら、視線を床に落とす。
先程から考えないように、触れないようにしていたのに、どうしてディーンはいつも人が油断したところを切りこんでくるのか。ユーフェミアが質問してもかわすくせに、ここぞという時は容赦ない。
「――今は、何も考えたくない」
知りたいと願ったのはユーフェミアだ。
自分がこの世に生まれてきたことが、人道にもとる行為の結果であるかもしれないことなど、とうの昔に覚悟をしていたつもりだった。だが、与えられた事実は予想以上にユーフェミアを打ちのめし、勝手に傷ついているだけであることは分かっている。ユーフェミア自身を否定されたわけではない以上、傷つくのは間違っている。
しかし、この心の中に湧き上がる感情は何なのか。
もしもエドが国王でなかったら?
おそらく話を聞いた時点で、すぐさま会いに行っていたかもしれない。娘だと認めて欲しくないと言えば嘘になる。いや、誰よりもエドに父親であって欲しかったのかもしれない。それがままならないから、こんなにも傷ついて、諦めて、悲しいのだ。
だから、ここでディーンに当たるのは八つ当たりでしかない。
いつものディーンのように軽口を叩いて、普段通りに接して欲しいのに。
「……分かった。では、少し昔話をしようか」
察してくれたのか、引いてくれたディーンにホッとする。
恨んでいるとかいないとか、考えたくないというよりも、実際には周りの人の事まで考えられなかったのだ。
くるりと身体の向きを変えたディーンは階段に足を掛け、手をユーフェミアに差し出すと無言で促す。
この邸に来るまで、馬車の乗り降りで何度も取ってきた行動なので、さすがにユーフェミアも学んでいる。素直に手を乗せると、安堵したように小さくディーンが息を落とした。
彼はどこに向かおうとしているのだろうか。
手を引かれるまま、ユーフェミアは夕日に赤く染まった階段をディーンに連れられるまま上って行った。
三階はべレスフォード邸の最上階らしく、現在旅行中のフラムスティード公爵――ブライアンの話からするとユーフェミアの叔父になるのだろう――の居住空間になっていた。
公爵の息子は現在留学中で、それをいいことに旅行好きの夫婦は留守がちらしい。邸の者は働き甲斐がないと言っているほど彼らは家を空けていることが多いと聞いた。
その三階の廊下には、ほぼ等身大と思えるほどの代々の公爵一家の肖像画が掛けられていた。
現在の公爵の前で足を止めたディーンは、肖像画を見つめていたユーフェミアを振り返るとそっと髪に触れてくる。
「王族の血を引く者は、大抵が蜂蜜色の髪をしている」
言われ、今通ってきた廊下に掛けられた代々の公爵の肖像画が皆、暗い髪色をしていたことを思い出す。現在のフラムスティード公爵は王弟になり、今は亡き王太后の生家である爵位を継いだのだ。
ジュリアにしても、赤みがかった金髪は、きっと王妃に似たのだろう。だが、自らのこの髪色は――。
沈みかけた心は、ディーンの声で現実に引き戻される。
「そんな暗い顔をしないでくれ。きみが私を責めていなくても、きみにそんな顔をさせてしまった自分を嬲り殺したくなるよ」
「でも、私は……」
この先、どうすればいいのか分からなかった。
正直、ブライアンがどうして素直にユーフェミアの出自を話してくれたのか分からなかった。たとえユーフェミアが王族の血を引いていようと、彼らに得になることはおそらく何一つないだろう。隠されても不思議ではなかったはず。
だから、真実を話してくれたことに余計にでも戸惑い、彼らが何を求めているのか底知れない恐ろしさを覚える。この先、自分が望むように生きていいのか悪いのか、それさえ今のユーフェミアには判断できなかった。
「ユーフェミア」
強く名を呼ぶその声に、かろうじて視線だけを上げる。
正面から見つめてくる夜色の瞳は、ユーフェミアの揺らぐ心を惹き付ける。
「私は、きみがたとえ誰の血を引いていようと、きみの生き方を尊敬しているよ」
思いがけないディーンの発言に、うつむきかけていた顔をディーンに向ける。
いつも彼は本音を語らない。だが、この言葉に含まれる音は決して嘘から出たものではなく、彼の純粋な本音に聞こえた。
「ジュリアから私がラムレイ家に養子に入ったことは聞いたね?」
確認を込めて聞かれ、素直に頷く。
「では私がいずれ養父の持っている爵位である侯爵を継ぐことは?」
初めて彼から聞く彼自身の話に、目を見開いて首を横に振る。
侯爵。
昔話とは彼自身の事なのだろうか。そう思うとにわかに心がざわつく。
それに不思議だ。最初はディーンが自分の知らない秘密を知っているかもしれないと思って彼の事を知りたいと思っていたはずなのに、父親を知った今でも、彼の事を知りたいと思っていることに気づく。
夕日に染まる廊下は、階下の物音一つ届かない。ただ、互いの呼吸が聞こえそうなほど、静寂に満ちていた。
ユーフェミアが黙っていると、ディーンは公爵の絵を見上げながら、珍しく険呑な光をその瞳に宿した。それは肖像画の中の公爵に向けられたものではなく、他の誰かに向けられたものだと話を聞くうちに知ることになった――。